10月22日に執行された衆議院議員総選挙は第48回であったが、これまでに任期満了で行われた総選挙は5回で、戦後に限ればたった1回しかない。
ということは衆院選は、いつも与党が野党の隙を突いて抜き打ちで行うものと考えなければならない。すると野党ばかりでなく、各行政単位にある選挙管理委員会をはじめ広報課、当方のような点字公報を印刷・作製する点字出版所などはてんてこ舞いする。このためにいつも悲喜劇が生じるが、今回はこんなことがあった。
遠距離通勤している職員には、点字選挙公報作成時に職場から徒歩10分ほどの東新宿にあるビジネスホテルに泊まってもらうことにしている。
公示日(10月10日)の深夜、当該ホテルにチェックインしようとした製版課職員1名が、「予約を受けていません」との返事に大ショックを受ける。同ホテルには別途2名の上司が2日前から投宿しており一緒にいたため、3人で同じ日に予約したはずだと猛抗議。幸い空き室があったので危機一髪宿泊できたが、深夜に宿無しになる恐怖といったらない。
このような事態に陥ったのは、10月1日〜8日が中国・国慶節の大連休であったため、10月7日まで都内のホテルは満室で、東新宿界隈も大混乱に陥っていたためらしい。
国慶節期間中、当出版所が同ホテルに宿泊の追加を申し出たところ送金のことで大もめした。振込期限内に送金したにもかかわらず、ホテル側がその確認が取れないと上から目線で「証拠を示してください」と言ったのだ。あわや予約キャンセルになりかかったので、預金通帳と送金した証拠書類を持って同ホテルに乗り込むと、さすがのホテルスタッフも自分たちのミスに気付いたようで途端に平身低頭となったが、日本のホテルとは思えない無防備ぶりであった。
かくしてその後、10月13日チェックインする印刷課職員分に関しては、宿泊前日にリコンファーム(再確認)を行い万全を期したのであった。(福山)
中国当局により軟禁されていた全盲の人権活動家陳光誠氏が、5年前に活劇を思わせる脱出劇の末、米国に亡命した事件を覚えておられるだろうか。
2012年4月、陳氏は軟禁されていた中国山東省臨沂市の寒村・東師古村の自宅から16時間かけて8カ所の塀を乗り越え、その途中、足を3カ所骨折したためその後は這って計20時間以上かけて壮絶な脱出を行う。しかもそれは、米中戦略・経済対話のためにヒラリー・クリントン国務長官が北京にやって来る直前であった。そして紆余曲折の末、陳氏は米国へ亡命することになるのだが、その間の奇跡の脱出は驚きとともに当時日本でも大きく報じられた。
アムネスティ・インターナショナル日本の招きで、陳光誠氏(45歳)は10月18日に来日し、26日には当協会を訪れ小誌のインタビューに応じた。
同氏は11月7日まで滞在し、北海道札幌市、岩手県盛岡市、神奈川県鎌倉市、東京都千代田区、徳島市、広島市、京都市、愛知県名古屋市の全国8カ所で講演したほか、盛岡市の桜井記念視覚障がい者のための手でみる博物館、アイメイト協会、日本点字図書館等も訪問し交流した。
インタビューに加え、10月29日に明治大学駿河台校舎で行われた講演も交えて以下に報告する。取材と構成は本誌編集長福山博。
陳光誠氏は、1971年11月12日に東師古村の貧農の家に生まれた。陳氏が失明したのは高熱を出した生後5カ月のとき、母親が人民公社の生産隊に病院の診療代2元の借金を申し込むが断られて、治療を受けられなかったためだ。また、教育が遅れたのは、村の誰もが盲学校の存在自体を知らなかったためである。当時の中国の農村部では盲人は占い師か講談師になるものと決まっていたが、それは物乞いの一種とみなされていたので、陳氏は家族から強く勧められても気が進まなかった。
1988年秋のある日、一つ上の兄が視覚障害児が学校で点字を習っているところをテレビで見たことから彼にも就学のチャンスが生まれる。彼は18歳の時に臨沂市盲学校に入学。高等部は青島盲学校に進み、その後、南京中医薬大学で鍼術と按摩を学び2001年に卒業する。
その間の1994年に、彼は障害者である自身は免除されているはずにも関わらず課税され、父が支払っている事実を知り、独学で法律を学んで不当課税を訴え、1997年に当局に認めさせた。
2000年には製紙工場の環境破壊により深さ2〜3mの井戸に頼る飲料水が汚染され、村人が病気になっていることを知る。そこで英国政府の資金を得て、深さ160mの井戸を掘り当て故郷の村の各家に水道を引くことに成功する。
南京中医薬大学では盲人ということで明らかな差別を受けた。盲大学生は解剖以外の授業は、教授が大学から教えに通う南京盲学校で受けさせられたのだ。そして事件が起こった。酔っ払った盲学校教師が、盲大学生に大ケガをさせたのだ。それを陳光誠氏は先頭にたって当局にかけあったが、学校側は問題をあやふやにさせようとした。そこで陳氏は、社会悪をテーマにしたラジオ番組に訴えることで社会問題化させ、加害者による治療費と賠償金の支払い、公の場での謝罪を勝ち取った。しかし、その報復として、盲大学生たちは1年間の研修を800kmも離れた按摩医院で受けさせられることになった。しかも研修生は手当なしで週に7日間働かされた。これに抗議して土曜日だけは休みになったが、陳氏はさらに学校当局に恨みを買った。
彼は国家安全部という情報機関にキャッシュカードや所持金まで取り上げられ、金銭の返還を求めないことに同意しなければ、大学に圧力をかけて卒業証書を出させないと脅迫され、それに同意せざるを得なかった。
こうして大学卒業後も彼は鍼灸師としてではなく、在野法律家の代表的な人物として活動する。2003年には北京の地下鉄が法律上は障害者無償を謳っているにもかかわらず料金を徴収したことを訴え勝訴、地下鉄は規定通り無償化された。
この年、彼はラジオ番組を通じて知り合った英語教師の晴眼女性と結婚するが、新婚旅行は米国だった。というのは『ニューズウィーク』の記事で、陳氏の活動を知った米国務省が1カ月のプログラムに陳氏夫妻を招聘してくれたのだ。
彼の運命を狂わせるのは2004年夏、地元の臨沂市当局が中国の人口抑制策「一人っ子政策」の徹底を決定して、すさまじいまでの強制堕胎、強制避妊手術を実行したことに始まる。陳氏夫妻はこの事件を2005年春から調査し、結果をメディアに公開して、それは大きな反響を呼ぶ。
臨沂市当局は、この報復として夫妻の自宅監視を開始し、2006年にはまったくの冤罪だが聚衆擾乱交通容疑(大衆を集め交通を妨げた容疑)で逮捕し、陳氏は4年3カ月という異例に重い判決で服役することになる。しかし国際社会での彼の知名度は上がり、2006年には米タイム誌が選ぶ「世界を形作る100人」に選ばれ、2007年にはアジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞も受賞し、その賞金が軟禁中の陳氏一家を支える。
2010年9月9日に刑期を終えて出所した後も、陳氏は自宅で軟禁状態におかれ、監視員らから激しい暴行・虐待・迫害をうける。
2011年2月には、この虐待の実態を訴える陳氏のビデオメッセージを対華援助協会の協力のもと公開したため、陳氏はさらに激しい虐待と監視を受けることになった。同年には、インターネット上で事情を知った市民やジャーナリストが多いときには50人ほども東師古村を訪れるが、村の入り口で暴力を受けて阻止される。彼の友人知人も「籠の鳥」の隠語で彼を呼び、救出を試みるがことごとく失敗。その一つに時事通信社の北京特派員も同行するが、早くも臨沂駅で彼を含めて拘束されてしまう。映画「バットマン・ビギンズ」でバットマン役を演じたハリウッドスターのクリスチャン・ベール氏はCNN記者とともに、やはり陳氏を訪問しようとしたが、村の入り口で監視員に暴行され阻止された。
奇跡の脱出は、陳氏に言わせれば、それまで何回も脱出を試みて失敗してきたが、たまたま偶然が重なって成功しただけだという。
陳光誠氏は中国を離れた5年前と比べても最近の中国の人権を巡る状況はますます悪く、息苦しくなっているという。2015年の7月9日に起こった「709事件」で200人以上の弁護士や人権活動家が一斉に取り調べを受け拘束された。このうち20人あまりは、28カ月も拘禁され、接見できないばかりか、友人で弁護士の高智晟氏のように居所もわからない状態だ。これには「居所を教えよ!」という国際的な圧力が効果的で、世界最大の国際人権団体であるアムネスティ・インターナショナル等が取り組んでいる。現在も文化大革命のときに行われたような人権侵害が起きており、服役中にノーベル平和賞を受賞した作家で人権活動家の劉暁波氏が肝臓がんで死亡したように事実上殺害されているケースもある。
近年の中国が破竹の勢いで発展しているのは、その前がひどかったからだ。勉強でいえば、100点満点で0点を取っていた人が50点を取ることはそれほど難しいことではない。しかも中国の統計数字は偽造されており、政府が成長率を6%と決めるなら、結果がどうあれ6%アップにするしかない。北京や上海では高級車が通り、豪華で綺麗な建物が見えるかも知れないが、一方では隠されている貧困やひどい建物がある。
日中友好を声高に言う人々は、人権等には触れない場合が多いが、障害者には自分の身の回りのことだけでなく広い視野で見て欲しい。中国の盲人協会や障害者連合会は、共産党の組織で、障害者を管理する組織であり、視覚障害者の権利を守り福祉向上を目指す日本や米国の盲人協会とは成り立ちがまったく違っており、障害者は軽んじられ役職には定年間際の共産党員や左遷された党員が就いている。
人権や言論状況の改善には、中国の民間に広がる庶民の力とインターネットの力に加え、国際社会の役割が重要。遠い場所で起きているように見える人権侵害に無関心でいれば、問題は拡大し続けて自分たちにも影響を及ぼす。アジア全体が民主化する過程で、日本はとても重要な役割を果たすだろう。民主的で自由な国家を建設できないまま中国が強国化すれば、全世界の災難になり、隣国の日本は悪影響を受けるだろう。
中国の人権状況は悪化しているが、共産党の激しい弾圧を受けながらも社会の変革を求める民間レベルの運動は着実に広がっている。すでに民主化の土台は整っており、将来間違いなく変革が起き、民主的な体制に変わるだろう。
札幌、盛岡と講演してきたが、学生だけでなく一般市民も熱心に聞いてくださった。関心をもち、少しでも支援の気持ちがあることを表明するだけでも大きな力になる。経済大国・日本には「人権大国」としての役割も担ってほしいと陳氏は強い期待を寄せた。
それまで流暢に翻訳していた通訳が黙り込んだので、会議室にはピリピリした緊張感が漂った。私はただ、「国政選挙の前は点字選挙公報を作製するために、職員の一部は泊まり込むほど忙しいんですよ」と言っただけだった。だが、中国の首都・北京から来た賓客一行は、互いに顔を見合わせ、聞いてはいけないことを聞いたかのような意味深長な顔をしてうなずき合った。この5年ほど前の気まずい空気が急に蘇ったのは、これから紹介する書を読んだためだった。
陳光誠著、河野淳治訳、白水社刊、税込み2,592円の標記タイトルの書の副題は「盲目の人権活動家陳光誠の戦い」で、原文は英語で書かれており、原題は『The Barefoot Lawyer』(裸足の弁護士)である。
私は1983年に上海と北京を訪れたが、本書を読むまで当時の中国農村の貧しさに気付かなかった。例えば1980年まで村人が利用できる公衆浴場がなかったので、冬の間は一度も入浴はおろか体を拭くこともできなかった。電気が通ったのが1984年で、最初のテレビが村にやってきたのは1986年だった。盲人でも勉強できることがわかったのは、1988年に兄がテレビで盲学校の様子を見たことだった。かくして陳氏は18歳で盲学校に入学し、苦学しながら2001年7月、29歳で南京中医薬大学の鍼灸マッサージ学科を卒業する。が、陳氏はそれからが本格的な苦闘の連続になる。
本書は、中国の障害者や農民の権利擁護に立ち上がった「裸足の弁護士」が当局による激しい弾圧を受け、奇跡的な逃避行の後、米国大使館に保護されるまでをつづった回想録である。1990年代の中国農村部における視覚障害者と中国による人権弾圧の実態を赤裸々に描いており、とても興味深い。
裸足の弁護士とは、毛沢東時代に最低限の医学教育を施されて農村で医療を担った医師を「裸足の医者」と呼んだが、それに倣い正規の弁護士資格を持たない著者が、弁護士のいない農村で法律相談に応じていたことからこう呼ばれた。
中国は共産党による一党独裁国家であるから、前述したようにエリートである共産党員も普通選挙がどういうものかピンとこないし、どれほど重要なものであるかもおそらく理解しようとせず、敬して遠ざかっている。
逆に我々は、中華人民共和国憲法にも、法律にも違反することを、中国の地方自治体が組織的に大がかりに行うことに強い違和感を感じる。そして、その不条理を司法当局に訴え出た者に対して、地方自治体が暴力をもちいて軟禁することもなかなか信じにくいが事実である。立法府も行政府も司法府もプロレタリア独裁の名の下にあるので、中国では共産党は超法規的に万能であり、間違いを犯すことはないとされる存在なのだ。
中国では逆の意味で信じにくい民主主義国の事実を本書ではこう記す。「アメリカでは大統領だって法律に従わなければならない。しかし中国では、そんなこと想像もできないだろう」というのは、博識の知人によって蒙を啓かれる若かりし著者の独白である。
わが国では為政者を声高に罵っても、それがために身の危険を感じることはない。しかし、中国で共産党に楯突くと見なされることは身を危険にさらすことと同じことで、共産党とは巨大な暴力装置と考えてまず間違いないのである。
中国に関する新聞等の報道では、どのように考えていいのか困惑するような記事に出くわすことがたびたびある。例えば2012年3月に『日本経済新聞』が報じた「国内の治安維持を主たる目的とする“公共安全費”が、軍事を目的とする“国防費”を上回る」という記事などはその最たるものだ。同紙は中国政府発表の資料を用いて数字をあげて解説していたので疑いようはなかったが私はピンとこなかった。何しろ中国の軍事力は米国、ロシアに次いで世界第3位なのだが、その軍事費より多い治安維持費とはべらぼうに思えたのだ。
しかし、本書を読んで納得した。陳光誠氏の軟禁のためだけに、毎日、数十人から数百人が24時間体制で監視しているのであれば、それだけで年間に莫大な予算が必要になるだろう。
逆に同書を読んで疑問に感じたこともあった。それは過酷な自宅軟禁状態から陳氏は奇跡的に脱出して、やっとの思いで米国大使館に逃げ込む。しかし、彼は大使館で「アメリカに渡りたいか、と何度も訊かれた。だが、今はまだ中国にとどまって、法の支配と人権の擁護を推進する活動を続けたい、と答えた」のである。
なぜ、基本的人権を踏みにじって、不当に抑圧する国に残らねばならないのか? 非常に不思議に思えた。
それに対する答えらしき答えは、10月30日の午後に、明治大学駿河台校舎で開催された同氏の講演会の最後に行われた質疑応答で明らかになった。
陳氏は中国を離れると影響力が低下するので、中国に残ることに固執したのである。つまり、ノーベル平和賞を受賞した作家で人権活動家の劉暁波氏のような生き方がある種の理想像であったのだろう。
しかし、陳氏が米国大使館に逃げ込んだ翌日に、自宅に残った家族がどのように悲惨な報復を受けたのか、そして子供たちの就学に対する不安を奥さんから聞いて、米国への亡命を決意したのである。
とても残念なことは、本書では盲学校のことを一律に「視覚障害者学校」と翻訳していることである。青島視覚障害者学校というのが、あの名門青島盲学校であることを確信するまでしばらく時間がかかった。また、琺瑯のことを「エナメル」と翻訳しているのにも大きな抵抗を覚えた。はたして「エナメル製の欠けたマグカップ」とか、「エナメルの洗面器」と書かれて読者はピンとくるだろうか。もちろん琺瑯のことを英語では「エナメル」というのではあるが。
本書は、宮城県視覚障害者情報センターが点字データを、日本ライトハウス情報文化センターが音声デイジーを現在制作中である。(福山博)
先月号のリレーエッセイで「1961年の文月会結成以来の67年間」というのは「57年間の間違いではないか」という読者からのご指摘がありました。まったくそのとおりなので、ここにお詫びして訂正いたします。編集部による校正の過程でちゃんと計算して修正しなければならないようなお恥ずかしい過誤でした。ご指摘いただいた読者には感謝いたします。(編集部)
陳光誠氏は米国に亡命してから、わざわざ日本政府にお礼の電話をかけていたことを明治大学での講演で聞き耳を疑いました。欧米の政府とくらべて、日本政府は人権に対して言及することが少ないという印象があったので、とても意外に思えたのです。そこで、なぜ、陳氏は日本政府へ謝辞を述べたのかその背景を探ってみたら、下記の新聞記事がヒットしました。
2012年5月4日付『朝日新聞』(朝刊)のタイトルは、「玄葉外相『しっかり注視』 人権家・陳氏めぐる問題」。本文は「玄葉光一郎外相は5月3日、訪問先のエジプトで記者団に対し、陳光誠氏をめぐる問題について『米中間の話に直接コメントするのはいかがかと思う』としながら、『人権は普遍的な価値なので、中国においても例外ではない。しっかりと注視していかなければいけないというのが日本政府の立場だ』と語った。(カイロ)」
2012年5月14日付『朝日新聞』(朝刊)のタイトルは、「日中首脳会談、尖閣問題で応酬 野田首相『国民を刺激』」。本文は「野田佳彦首相は5月13日、北京の人民大会堂で中国の温家宝首相と約1時間会談した。(尖閣問題で応酬の後)中国は、東京で5月14日から在外ウイグル人の国際会議が開かれることにも反発している。野田首相は中国の盲目の人権活動家・陳光誠氏の出国問題も念頭に『国際社会での基本的、普遍的な価値の追求が必要だ』と強調。両政府の局長級による『日中人権対話』の場を『活用し協力していきたい』と語った。だが、温首相はこたえなかった」
陳光誠氏の自宅での軟禁から脱出、米国大使館への避難、米国への亡命が起きた頃は、民主党による野田第1次改造内閣のときであった。
ちなみに先の10月22日に投票が行われた第48回衆議院議員総選挙で、野田佳彦氏(60歳)は、千葉県第4区から無所属で立候補し、選挙応援のため全国各地を駆けまわりながらも、次点の自民党候補に2倍以上の得票差をつけて悠々8選を果たした。
玄葉光一郎氏(53歳)は、第48回衆議院議員総選挙に福島県第3区からやはり無所属で出馬し次点の自民党候補に1.5倍以上の得票差をつけて危なげなく9選を果たした。
両代議士には改めて敬意を表したいと思います。(福山)
日頃お感じになっていること、記事に関するご意見などを点字800字以内にまとめ、本誌編集部(tj@thka.jp)宛お送りください。