4月中旬、藪から棒に「大変お世話になっている公明党の市議会議員さんから東京都在住の有権者を紹介して欲しいと頼まれたのだが、ついてはあなたを紹介させて欲しい」という電話が大阪からかかってきた。
このような場合、私は原則として意を尽くして断るか、快諾するかの二者択一に決めている。そして、今回は後者にした。いつもお世話になっている方からのとても頼みづらいと思われる事案に対するたっての頼みであるとシンパシーを感じたからだ。
すると翌日、くだんの市議会議員から私の携帯電話に連絡があり、「近々上京するので、ご都合がつくようであればお会いできませんか?」との打診があった。そこで私は、「ご用件は7月2日投票の都議選に際し、公明党公認候補に一票を投じて欲しいということだと思います。私はこれまでの選挙で公明党の候補に投じたことはありません。しかし、いつもお世話になっている方からのたっての頼みなので、今回に限り必ず投じます。約束は必ず守りますので、それでいいのではないですか?」と言って電話を切った。
堀利和先生が参議院議員になる前もなってからも当協会にお運びいただいたのでささやかな応援をしたことがある。また、以前当協会の理事長の実弟が旧日本社会党の衆議院議員でその後民主党に転じた方だったので、頼まれて社会党や民主党の候補者に投票したこともある。古くは当職の3代前が、「従兄弟が自民党から立候補するので一票入れてくれ」と頼まれて投じたこともあった。しかしだからといって、頼まれたら誰にでも入れるわけではない。障害者・弱者のためにと声張り上げておきながら、点字選挙公報への掲載拒否をやるようなリベラリストもいるので油断できないのだ。
あるいは天の邪鬼とか、無節操と思われるかも知れないが、その選挙区の最有力候補が虫酸が走るような傲慢タイプであったら、いまでも躊躇なく反対党に入れる。このため意外に思われるかも知れないが、私が共産党に一票を投じる可能性は案外高いのだ。もっとも落選する候補者ばかりを選んでの投票行動ではあるが。(福山)
視覚障害リハビリテーション協会(吉野由美子会長)の川崎・鶴見大会が、日本点字図書館及び川崎市視覚障害者情報センターを主管施設として、6月9日(金)から11日(日)の三日間、横浜市の鶴見大学をメイン会場として開催された。
この大会は、歩行訓練士や相談支援員だけでなく、眼科医や視能訓練士や研究者、当事者も加わっての視覚障害リハビリテーション協会が開催する年1回のイベントである。最近では、新潟、京都、福島、静岡と、いずれも毎回300人以上が参加して講演やシンポジウム、多数の発表などが活発に行われている。
今回の第26回大会は、全体会となる二日目の朝のスタート時こそ百数十人の参加者であったが、そのあとはどんどん増え、最後の高橋政代氏の講演は400人を超える盛況ぶりとなっていた。
今大会の特徴は、一つには、二人の80代の先駆者が、自分が駆け抜けてきた古い時代のリハ的背景を述べ、しっかりと共有しようという、最近にはめずらしい内容の講演が盛り込まれたことがある。二つ目には、「視覚障害者のニーズに対応した機能訓練事業所の運営の在り方調査研究事業」という、歩行訓練などの重要性が言われている今日、具体的な数値に基づくまとまった報告などのシンポジウムが開催されたことは視覚リハ関係者にとって非常に重要であった。三つ目には、「音声ナビを利用した自律歩行支援の実証実験」や「網膜再生医療とアイセンター構想」のような先端研究の講演もしっかりと行われていたことがある。そして四つ目には、眼科医から視覚障害者支援機関へ中途視覚障害者ととぎれなくつないで支援するための「スマートサイト」と呼ばれている連携が各地で進展している状況の発表や報告が充実してきたことも上げられる。
なお、第1日目には、「視覚リハ自分ごとプロジェクト・クローズアップ移動支援」という参加型ワークショップが、高田馬場をメイン会場として、川崎ともつないで開催され、活発な意見交換が行われて好評であった。
第2日目の最初は、今大会の特徴とも言える戦後の視覚障害者の職業や社会状況がどうであったかを知る、最近にはない取り組みであった。
最初に、「リハビリと無縁の85年 − 無謀と執念の人生」と題して、高橋實氏(85歳)の講演があった。1960年に念願の点字毎日に勤務し26年間、全盲の記者として活躍した。退職後は、1987年に、東京に打って出て、盲学生情報センター(現・視覚障害者支援総合センター)を開設し、視覚障害の若者を支える、大きな活動をしてこられた。
高橋氏は、1931年北海道生まれで、母が急逝し、旭川盲唖学校に入学した。その中等部では三療の実習が大の苦手で不登校にもなった。ラジオで1949年に札幌に新制盲学校中学部ができることを知り、転校したものの進路は見つからず、岩手盲学校の校長に手紙を書いて中学部に入って、普通科の教師か点毎記者へとの進路を決意することができた。でも、その実現のためには、「目」が必要であると、全盲大学生のルポでラジオに出たのを契機に、知り合った次子夫人と、日点館長だった本間一夫氏の媒酌で結婚した。
しかし、大学卒業時、点字毎日採用のワクはなく、就職浪人を2年していた1960年にようやく点字毎日の記者となることができた。当時の状況は今のような整った環境とは全く異なり、いわゆる新職業に就くこと自体が大変なことであった。さらに、すべて晴眼者の中で対等以上に仕事をしていかねばならないので、取材の同行からあらゆる「目」のサポートを妻に頼るのが当たり前の時代だった。そのような中で、歩行訓練はずっと受けていなかったのを始め、リハという考え方に接することもなかったため、リハとはずっと無縁だったことを話した。
なお、高橋氏は、1961年に盲大学生らとともに「日本盲人福祉研究会(文月会)」を結成して、大学の門戸開放や「新職業」と呼ばれた三療以外の就労の推進活動にも積極的に取り組まれてきた。文月会は40年間大きな力を発揮してきたが、2001年に解散し、『視覚障害』発行は視覚障害者支援総合センターに引き継がれている。
続いて、「基調講演」で、「視覚障害リハビリテーションとわたし」と題して、日本点字図書館理事長の田中徹二氏(82歳)が、東京都心身障害者福祉センターで20年、日本点字図書館で26年の経験を語った。
田中氏は19歳で視力を失い、1969年から20年間にわたって東京都心身障害者福祉センターで視覚障害者へのコミュニケーション訓練等に携わった。田中氏と時期を同じくして同センターの所長であった、視覚障害者のリハビリテーションの先駆者である原田政美氏の指導で、様々な取り組みがなされていたことが紹介された。特に、1975年から始まったオプタコン(墨字文字の形を触れる簡素な触図ピン)が、多くの先駆的な視覚障害者に恩恵をもたらして一時代を築いていたことを知らない福祉関係者が増える中、それらの重要性を確認することは必要であろう。
田中氏は自己流で歩き始め、ホームからの転落も経験していることも話した。日本で初めて日本ライトハウスでの歩行訓練士養成が始まったのは1970年からであり、それ以前の高橋氏や田中氏らの世代の視覚障害者にとっては、系統だった歩行訓練はまだなかったのである。
そのほか、1973年2月に上野孝司氏が高田馬場駅ホームから転落して亡くなられ、上野訴訟が起こっている。文月会では1973年に転落事故調査をし、視覚障害駅利用者の42%が駅ホームからの転落を経験していると、『新時代』で報告した。1970年に当時の異なる点字表記の状況を『新時代』に掲載して日本点字表記法の改定につながったり、1972年に全盲のコンピュータプログラマーが誕生したこと、1984年に触る美術館「ギャラリーTOM」が開館したことなど、興味深い歴史を話した。
シンポジウムとして、「視覚リハシステムのあり方について考える−機能訓練と相談支援」が開催され、名古屋市総合リハビリテーションセンターの田中雅之氏が「視覚障害者のニーズに対応した機能訓練事業所の効果的・効率的な運営の在り方に関する調査研究事業」について発表した。その中では、機能訓練事業所の視覚障害リハ施設は通所・入所型であるが施設の約45km圏内をカバーしているに過ぎず、数も少なく地域も大幅に限られており、まだまだ少ない視覚障害者の各地での自立訓練ではあるが、その2割程度しか担えていない実態が明らかになった。
これは、歩行訓練などはマンツーマンでないとできないことから、現在の職員基準の「利用者6人に一人の職員」では、必要な訪問指導がほとんど行えないことが最も重要な点で、「視覚障害者の訓練」への理解が乏しいこともあり、今後の大きな課題だ。なお、「看護師が必置」という条件も、視覚障害者の訓練には必要性が乏しく、外してほしいという要望も強く出されている。
他の8割の訓練は、中途失明者緊急生活訓練事業などで短時間訓練として行われているが、重要なはずの訪問中心の部分が、資金も不十分な中で大変な苦労とともになんとか続けられている実態が浮き彫りになった。
なお、理化学研究所の仲泊聡氏は「訓練施設等に紹介する眼科医の立場から」多くの眼科医にとっては「相談できる視覚障害リハ専門家」が周囲にいないこと、眼科から紹介できる「安くて、近く、すぐに」支援する専門機関が非常に乏しいことが指摘された。解決策の一つとして、仲泊氏は、各県に必ずある視覚障害者施設の点字図書館などの情報提供施設がその一端でも担えないか、と提唱した。
ところで、「実際に活動している歩行訓練士の数は200名以下」と推測されることが、日本ライトハウスの堀内恭子氏と日本盲導犬協会の吉川明氏からの報告で明らかになった。
世界的にもiPS細胞で著名な理化学研究所の高橋政代氏は、まもなく開設される神戸アイセンターのネクスト・ビジョンについて概要を説明した。iPS細胞の成功から 10年を経て、細胞に愛情を感じる、と言われる一方、「私は社会運動家」と言うほど、積極的な取り組みを続けており、一般人にはなかなかできない「未来像からさかのぼって考えるスタイル」で彼女自身の考え方を述べた。
特に強調されたのは、「再生医療が成功してもロービジョン者へと回復する」こと。つまり、患者の移植先の網膜などの状況によって結果は大きく異なるが、再生医療を受けて晴眼者になるのではないことを患者も周囲もしっかりと理解することが重要であることを昔から強調している。視力改善効果の期待が、晴眼者になると思われていることが少なくないことへの対応が必要である。このケアをしっかり行うことが、再生医療の効果を上げるためにも必要不可欠であり、そのためには、眼科医や福祉関係者、様々な団体なども連携して、正確な理解をしていくことが必要であること、そしてかならずくる未来を力強く語られた。
弁護士の大胡田誠氏の「わたしにとっての障害者差別解消法」では、白杖歩行中に相手にけがをさせた件について、「過失はなかった」と認められたことの報告があった。これは、白杖の長さが適切で歩行訓練を受けており歩行速度も想定どおりであったことが大きいことが説明された。それでも念のため、個人賠償保険に入っておくことは、必要なことであるようだ。大胡田氏は、見えないことは相手に不安を与えるので、依頼者から信頼されることが重要であり、まずは自分が相手をしっかりと信頼して対応することの重要性を述べた。
様々なテーマの発表では、14の口頭発表と65のポスター発表があり、今年度も幅広いテーマとなっているが、特に地域での取り組みが印象に残った。
「高橋實先生引退の花道も華やかに」の中で関さんが触れている『この道一筋 ―― 無謀・執念に生きた人生』を早速読みました。すると当協会が「日本盲大学生会の事務所が東京ヘレン・ケラー協会にあった」というように何カ所か登場しますが、中には「大手出版社(点毎に近い所)」という書き方で恨み言も書かれています。また、当職の3代前の井口淳さんの氏名は徹底して伏せられています。無神経な私は、「実名で書けばいいものを」と思いましたが、これなども「毎日新聞の先輩であり、故人でもあるから」との高橋先生一流のご配慮のように感じました。いずれにしても先生にとって当協会はアンビバレンツな(好意と嫌悪を同時に持つ)存在だったようです。(福山)
「巻頭コラム」に書いたように、義理がらみで生まれて初めて公明党に1票を投じました。すると、その後、驚くべきことが起こりました。
都議選の投票日は7月2日の日曜日だったのですが、2日後の火曜日(7月4日)には大阪の市議会議員から私の携帯電話に丁寧な連絡がありました。そこで、私は言わずもがなではあったが「約束通り公明党の候補者に入れましたよ」というと、「存じております。誠にありがとうございました」という返事で、私が実際に投票したことを確信しているような口ぶりでした。
翌日の水曜日(7月5日)には、神戸の叔父から季節の挨拶の後に、「このたびの都議選のご協力ありがとうございました」という暑中見舞い状が届きました。宛名は達筆な別人の字で、叔父の字は健康が疑われる震えた文字でした。投函した日付は7月4日で、私は背筋が凍るような衝撃を受けました。
この叔父は30数年前の選挙(都議選だったような気がする)の時、たった1回きりだが、私の自宅に公明党への投票依頼の電話をかけてきたことがありました。そのときは、「わかりました。わかりました」と逃げの一手で曖昧にやり過ごし、無論、公明党には投票しませんでした。そして、その時叔父が某宗教法人の会員であることがわかったのです。
このような叔父の行動は、東京に住む同叔父の兄の耳に入り、「親戚を選挙や宗教に巻き込むとはけしからん」と激怒。それ以来、神戸の叔父からの投票依頼はありません。
神戸の叔父とは20年ほど前の親戚の結婚式以来顔を合わせたこともなく、ただ、年賀状のやりとりがあるだけの極めて浅いつきあいです。それにしても齢80近くの叔父が、どうして私の投票行動を都議選の2日後に知ることができたのでしょうか?
おそらく公明党は選挙のために膨大なデータベースを持っており、個人情報も筒抜けで、票読みも誰が投票したのかわかるほど精緻に行っているに違いありません。なにやら21世紀の選挙戦に恐れいるばかりだが、問題は義理がらみではなく、心から投票したい立候補者がいないという不幸にあるように思えます。(福山)
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