どこの国であれ国際空港の搭乗ゲート前は、仕事であれ観光であれ、出国であれ帰国であれ、ある種の高揚感で顔をほてらせた旅客の華やぎが見られるものである。
ここ数年、私はネパールでの事業管理を行うと、料金の安い大晦日にカトマンズを出発して、もっぱら元日に帰国している。しかし、年末のカトマンズ空港では、華やぎとはまったく逆の異様な一団に出合う。中東に向かう飛行機を待つ100mにも及ぶ長蛇の列は、誰もが痩せて小柄な青年男子ばかりで、いずれも不安そうな顔をして押し黙っている。
そんなことを思い出したのは、中東の小国カタールが、突然、大国のサウジアラビアなどから国交断絶を受けたというニュースに接したからである。
秋田県とほぼ同じ面積のカタールの国民は28万人だが、その国では140万人の出稼ぎ外国人が働いており、そのうちの40万人はネパール人で、そして昨年だけでその多くが20代の184人のネパール人が「突発的な心臓病」で死亡した。在カタールネパール大使館によれば、2010年以降、同国では400人のネパール人が亡くなったという。
砂漠の国カタールは雨は非常に少ないが、三方を海に囲まれているため湿度は高く、夏には気温が45℃を越えることも珍しくないため、異常な暑さと劣悪な労働環境で命を落とすのである。しかも、現代の奴隷制度と言われる湾岸諸国の「カファラ」と呼ばれる労働契約制度で、パスポートを雇用主に取り上げられ逃げるに逃げられないのだ。
ただし、カタールは昨年末、形だけにせよカファラを廃止したので、戒律の厳しいサウジアラビアなどの他の湾岸諸国よりもまだましという声をネパールでは聞いたが、これにはある種の真実があるように思う。
今回の国交断絶も、カタールが外国人の飲酒を認め、女性による車の運転を認め、アルジャジーラによる自由な報道を認めているのが目障りだからだと聞くが、さもありなんと思う。(福山)
「これで祖国に大手を振って帰れる」と安堵し、頬が緩んだ。国際視覚障害者援護協会(IAVI)石渡博明理事長から、「シリンさんおめでとう。3試験とも合格したのはIAVIでは4年ぶり、よくがんばったね」とお祝いとねぎらいの言葉をかけてもらった。が、その喜びは一瞬であった。3試験とも合格したのは自分だけだったからだ。わずかに及ばなかった3人の留学仲間にはかける言葉もなかった。
今年(2017)3月28日は、東洋療法研修試験財団による国家試験の合格発表日であった。2月25日にあん摩マッサージ指圧師の国家試験、2月26日にはり師と灸師の国家試験が行われ、それからこの日まで、シリンさんは「もし、落ちたらどうしよう」と一時も心が安まることはなかった。3試験とも年々難しくなってきており、とくに留学生には狭き門になっていたのだ。
彼女は、毎日、盲学校で午後6時まで勉強し、寮に帰ってからも食事の後、また夜遅くまで勉強してきたものの、すべての国家試験に合格したとのしっかりした手応えは感じていなかった。そして、その合格発表をIAVIの事務所と宿舎がある東京・本蓮沼の舟橋会館で聞いたのだった。
ジョロベコヴァ・シリンさん(30歳)は1986年11月30日、キルギス共和国第二の都市であるオシュ郊外の農村で、6人兄弟の末っ子として生まれた。網膜色素変性症で生まれつきの弱視である。キルギスは中国、タジキスタン、ウズベキスタン、カザフスタンと国境を接する内陸国で、人口は約600万人。生まれ育った農村は周囲を岩山に囲まれており、夏は暑く冬は寒く、春先は気温が変わりやすく、9月頃が一番過ごしやすい。この地では多くの人々が綿花栽培などの農業を営んで生活している。
シリンさんが入学した小学校は、自宅から徒歩15分ほどのところにある一般校だった。当時、オシュの街に盲学校はなく、車で12時間ほどかかる首都ビシュケクまで行く必要があった。家族の「いざというときに頼れる人がいない場所で暮らすなんて」という心配からの判断であった。
キルギスの学校は、小学校4年・中学校5年・高校2年の11年制。シリンさんは、小学校入学から高校卒業まで、同じ校舎・同じクラスで過ごした。定期試験はあるが、進学に際しての試験はなかった。1クラス26人が上限だが、彼女のクラスは33人だった。
幼いころは友人たちが「弱視」を理解できず、いじめられることもあった。夜盲症のため、校舎に入ると見えなくなって、よく人とぶつかったのが原因だった。6、7年生くらいになると事情を理解し、手引きしてくれたり一緒に遊んだりしたが、それまではつらい思いをした。
けれど、教師によるサポートは特になく、黒板の近くに座らせてくれる程度だった。教科書は拡大文字や点字のものはなかったが、目に近づければ読めたのでなんとかなった。キルギスでは、盲学校にも点字のものがあるのみで、拡大文字の教科書はない。盲学校に通っていたシリンさんの友人は、「拡大文字の教科書があれば、点字ではなく墨字で勉強するのに」と話していたという。
ノートを取ってもらったり、手引きをしてもらうなどして周囲の友人たちに助けてもらいながら学校に通い続けたが、高校生になったころから急激に視力が低下。卒業するころには、入学時は読めていた教科書もまったく読めなくなってしまった。
彼女には、大学を卒業してジャーナリストになるという夢があった。しかし視力の低下により大学進学を断念。盲学校に通っていなかったため、当時は点字を読むことができなかった。「最初から盲学校に通っていれば状況は違ったかもしれない」とシリンさんは語る。
見えなくなったストレスから、外へ出ない、家族以外の誰とも話さないという引きこもり状態に陥る。それを見かねた母の勧めにより、オシュにある国立音楽大学へ入学するが、授業についていけず2年で中退。実技の授業は、先生が手を取って伝統的な弦楽器の「コムズ」やギターの弾き方を教えてくれたが、座学はノートが取れない上に録音器も持っていなかったので、ただ座って聞くことしかできなかった。大学側は視覚障害の学生の受け入れが初めてで教え方が分らず、また、彼女自身もそれまでほかの視覚障害者に会ったことがなく具体的な学習方法を知らなかったのだ。
首都ビシュケクの視覚聴覚障害者協会を訪問したのは、音楽大学を中退してからのことだった。姉が探してきてくれたこの協会を通じ、シリンさんは初めて、自分以外の視覚障害者と出会う。そして、同協会のカリック会長(全盲)の「あなたも勉強しなくちゃいけない」との勧めにより、国立医療大学附属マッサージ学校に入学。彼女はそれまで、キルギスに視覚障害者のためのマッサージ学校があることも知らなかった。
同校の入学試験は口頭試問だったが、カリック会長の紹介で、ビシュケクの盲学校でロシア語の点字を勉強した。キルギス語には医学用語や抽象語が少なく、高等教育はたいていロシア語で行われていたからだ。
2年間のマッサージ学校での学習には、同協会から借りた録音器を使用。授業後、寄宿舎に戻って、録音を何回も繰り返し聞いて講義内容を覚えた。
すでに点字を覚えたシリンさんが、なぜ点字でノートを取ることなく、録音器を使用していたのか。それは、講義がメモを取るには速すぎるスピードで行われていたからだ。クラスには点字に慣れている人もいたが、そういう人でも間に合わないほどだった。また、解剖学の授業では模型を使うが、手をとって教えるのは生徒のうち1人だけ。その生徒がほかの生徒にも教えるのだが、言われたことを一度で覚えられるわけもなく、間違えたり忘れてしまったりした。生徒が分っていようがいまいが関係がない教え方だった。教壇に立っていたのは医療大学の教授だったが、視覚障害者に教えた経験もなく、あってもどういう教え方が最良なのかを考えないため、改善されなかったのだ。また、授業がすべてロシア語だったことにも苦労した。ロシア語自体は小学生のときから勉強していたとはいえ、聞けばなんとか分かるという程度だったのだ。それでも、内容が分かろうが分かるまいが、とにかく必死で録音を聞き、覚えて、身に付けていった。
2013年9月末。シリンさんは、キルギスより来日した。日本への直行便はないためモスクワ経由となり、飛行機の移動だけで15時間、乗り換えの待ち時間なども含めると丸1日ほどかけての大移動だった。
日本への留学を決意した契機は、マッサージ学校1年生の終わりに、当時、JICAシニア海外ボランティアだった植草たか子先生と出会ったことだった。同校であん摩を教えていた植草先生は「任期が終わったら日本に帰国しなければならないが、後任者がいない。だから誰かが、日本で勉強して、ここであん摩を教えてほしい」と、同校に通う生徒の中から10人くらいを集めて日本語を教えた。そのうちのひとりがシリンさんだったのだ。
それから、植草先生による日本語指導が週に2、3回、彼女が日本に帰国したのちは、国際交流基金からビシュケクの国立人文大学に派遣されていた長谷川里子先生による指導が1年ほど続いた。日本語の点字は、聞くだけでは覚えられないのでまずは点字をと、植草先生からの日本語学習が始まったときに習った。
結局、IAVIの留学生選考試験に合格して来日となるのだが、実はシリンさんは、その試験に一度落ちている。二度目の挑戦で無事合格。一度目も二度目も7カ国8人が受験して、合格が2人という狭き門だった。
日本への留学目的を、「東洋医学を勉強したかったのもあるが、一番の理由は成長したかったからだ」と語る。
留学は、家族みんなに反対された。末っ子で、6人兄弟の中で唯一の視覚障害者で、「何かあったとき、家族が隣にいない環境でどうするのか」と心配され、IAVIの一度目の試験に落ちたときは家族みんなに大喜びされた。マッサージ学校に通っていたときですら、当初は「社会に出て勉強してきなさい」と応援してくれていたが、そのあと母はやはり心配だからと、ビシュケクから車で1時間ほどのところに家を買って、すぐ駆けつけられるように移り住んだが、留学となればそうもいかない。それでも、「勉強したい。成長したい」と強く言い切って家族を説得し、留学を実現させた。
IAVIの現在のシステムでは、留学生を年に2人呼ぶことができ、それと連動する形で筑波大学附属視覚特別支援学校(附属盲)は留学生枠を2人分設けている。シリンさんもその流れで試験を受け、附属盲へ入学した。
キルギス国民の多くがそうであるように、シリンさんもまた、イスラム教徒である。みんなと食事会をしようと出かけても、まず豚肉は食べられないし、他にも制限があり、食事は馴染むまでに苦労した。
だが食事よりも何よりも、一番困ったのは日本語、特に漢字の使い方だった。ひとつの漢字が持つ複数の読み方や同音異義語など、日本語には知っていなければ意味が分からないものが多くある。たとえば、「びこつ」という言葉には「鼻の骨」と「尾の骨」の二種類がある。どちらかしか知らなかったときは「なぜ、お尻に鼻の骨があるのか」と困惑した。
そうして頭を悩ませることも多かったが、附属盲の教育環境はとても良いものだった。まず、教科書や模型など、視覚障害者に必要なものは全部揃っていた。先生たちは、どうしたら生徒がしっかり理解できるだろうかと考えながら、一生懸命教えてくれた。教員が生徒の隣に来て、ひとりひとり丁寧に教えてくれる環境は、留学前の録音を聞くことでしか勉強できなかった環境とは大きく違って幸運であった。
附属盲を卒業したいま、シリンさんは「マッサージだけでなく、日本で学んだ全てをキルギスの視覚障害者に教えたい」と語る。彼女に日本語を指導した植草先生が教えていたのはあん摩のみだったが、鍼灸を勉強したからにはそれも教えたい。キルギスのマッサージ学校にはマッサージが好きではない人も多かったが、ほかにやることがないからと仕方なく学んでいた。そういう人たちに、鍼灸というマッサージ以外の道を示すことができれば、今はまだキルギスに視覚障害者の鍼灸師はいないが、普及させれば視覚障害者の職業の新しい選択肢となる。
また、日本の銀行などのATMやコンビニ店員の接客、鉄道駅員の介助サービスの様子などの動画を撮って帰るつもりだ。キルギスでは、視覚障害者は自分の家族や友人に手引きしてもらわなければ外に出られない。しかし、日本のようなサービスがあれば、視覚障害者も1人で外出できる。たとえばコンビニの責任者に「日本ではこういうサービスがあるが、ここでもやってくれませんか」と頼めば、実施してくれる店舗もあるかもしれない。そのときに、言葉で説明するだけでなく、サービスの様子を録画した動画があれば分かりやすい。
キルギスには、家に引きこもったままの視覚障害者がたくさんいる。幼いころに目が見えなくなった人たちは、「自分たちがいない場所で何かあったらどうするのだ」という家族の心配から、学校に通えないでいる人たちも多い。高校を卒業しなければ高等教育を受けることができないため、結果として就職することができなくなってしまう。シリンさんは弱視だが、自宅から遠いという理由から、ビシュケクの盲学校には通わせてもらえなかった。もし全盲として生まれていたら、教育を受けられなかったかもしれない。1人で自由に外出するためにはサービスの充実や人々の理解が必要だが、誰かが社会に働きかけなければ現状は変わらない。その「誰か」に、彼女はなろうとしている。
帰国後は国の病院で働きながら、マッサージ学校の講師として働きたいと語るシリンさん。鍼灸師として働くためには、大学相当レベルの教育を受けていなければならない。そのため、日本でいう厚生労働省のような機関で、大卒レベルの実力があることを証明する試験を受験する。IAVIの留学生選考、附属盲の入学選考、あはきの国家試験の全てに合格した彼女なら、その実力を十分に発揮し、キルギスで大いに活躍することだろう。(菊池惟菜)
ジョロベコヴァ・シリンさんのファミリー・ネームは「ジョロベコヴァ」なので、これは姓・名の順です。日本では学校でも、国家試験でも姓・名の順に登録するので、そのように名乗っていただいたようです。もちろんキルギス共和国では、シリン・ジョロベコヴァと名乗っておられます。
彼女は、国際視覚障害者援護協会(IAVI)の留学生試験に一度は落ちて、1年間日本語を猛勉強して翌年合格されました。その充電期間が、その後日本での好成績に繋がったものだと思われます。それまでのシリンさんの人生は七転び八起きだったようですが、今後はキルギスで順風満帆に活躍されることを願わざるを得ません。
シリンさんに限らずIAVI留学生が来日して一様に感激するのは、親兄弟・友人・知人を頼らなくても、視覚障害者が単独で自由に外出できる日本の社会制度のすばらしさです。とくに開発途上国では、単独で外出できないために、あまたの才能がそれを発揮するチャンスがないまま埋もれているのでなおさらなのでしょう。
ところが、日本の充実した障害者サポートシステムに水を差すような事件が5月に起こりました。石田由香理さんの「95%にもチャンスを」で、明らかにされた格安航空会社(LCC)のあまりにお粗末な実態は冷や汗ものです。
石田さんは6月末の沖縄出張もその航空会社の便が1番安かったが、800円の差だったので他の航空会社を予約されたそうですが、これは賢明な措置というしかありません。
もちろん、石田さんには今後ともぜひLCC等の不条理なサービスとは果敢に戦って欲しいものです。しかし一方では、あまりにスタッフが低水準なので、このLCCは本当に安全運行が担保されているのか、とても不安になります。800円どころか、数万円の差でも、命をかけるべきか、今後はきちんと吟味して利用する必要があるのではないでしょうか。(福山)
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