オランダ・ハーグにある常設仲裁裁判所が出した国連海洋法条約に基づく7月12日の判決は、南シナ海のほぼ全域に主権が及ぶとする中国の主張を「一方的で国際法違反」と断定し、「中国が埋め立てた場所も島とは呼べず、排他的経済水域などにかかわる海洋権益を主張できない」と断じた。たしかに中国が滑走路やレーダーサイトを築いたところは岩礁とか、砂州としか呼べないようなところばかりだ。しかし南シナ海の南沙(スプラトリー)諸島で台湾が実効支配している太平島も岩だというのにはいささか違和感を覚えた。
中華民国(台湾)総統府は同日夜、声明を発表し、「今回の裁判の過程で台湾の意見は求められなかった」として手続きに不満を示すとともに、「絶対に受け入れられず、法的な拘束力はない」として強く反発する一方、「平等な協議を基礎に、関係国と共同で南シナ海の平和と安定を促進することを願う」として、対話を通じて平和的に問題を解決すべきだとの立場を示した。
片倉佳史著、祥伝社刊『古写真が語る台湾 日本統治時代の50年』(2015年)とネット情報によると、太平島は東西1,289.3m、南北365.7m、面積約0.51km2、最高標高5mの隆起サンゴ礁の島だ。日本による台湾統治時代には「長島」と呼ばれ1939年に大日本帝国は公示をもって領有を宣言して、台湾南部・高雄市の管轄下に編入した。そして台湾の会社が漁業と燐鉱石の採掘を行い、同島に製氷所、給油・給水所、通信所、医務室、淡水化池、電話線、水道などを整備し果物や野菜の栽培も行い、昭和14年の定住者は日本人22名、ベトナム人13名、フランス人2名の合計37名であった。
台湾は国連海洋法条約の交渉と署名に加わることを認められていないので無視されたようだが、戦前の写真を見ても、現在の航空写真を見ても太平島は岩と呼ぶにはいさかか巨大すぎるように思われる。(福山)
7月27日(水)、大分県のホルトホール大分において日本理療科教員連盟(理教連)の定期総会が行われた。総会冒頭の来賓祝辞では、日本盲人会連合(日盲連)の竹下義樹会長が「日盲連は盲人の団体として、盲学校の在籍者数の減少といった危機的な状況をどう克服するか皆さんと一緒に考えていく。あはきが抱えている問題を解決しようと思ったとき、教育・福祉・運動団体はひとつになって連携していかなければならない。本当の意味で運動がひとつになることを目指し、議論を重ねていきたい」と述べた。
理教連の栗原勝美会長は開会挨拶で「盲学校における理療教育事例集の発行など、先輩の先生方が長年取り組んできた課題について大きな成果が得られた。これらの成果を日頃の教育活動に活かし、よりよい理療教育をめざして精進していきたい。今後も、理療・理療教育をとりまく課題を解決すべく、ひとつひとつ好事例を重ねて粘り強く取り組むことで成果につなげていく」と述べた後、議案の審議が開始された。
第1号議案では平成27年度の事業報告が行われた。事務局運営から、重点施策に関する取り組みとして、危機意識の共有と理療教育の在り方に関する議論の推進のため、大阪と東京で研修会を開催し、各地域・学校レベルでの検討・活動が必要であることを強調した。また、厚生労働大臣免許保有証の事務手続きについて、平成27年度には理教連を通じて341枚を発行したなどの報告があった。国家試験対策部は、第24回国家試験について、東洋療法研修試験財団へ意見書を提出し、デイジー問題で起こった不備や幅の狭い点字用紙が配られたことなど、受験生が不利益を被らないよう要望したと報告した。
午前の後半から午後にかけて、第4号議案の組織改革に伴う理教連規約改正案についてが審議された。盲学校等がおかれている現状に対応し、将来の理教連活動の更なる活性化を目指したこの議案は、昨年の総会で「継続審議」が採決されており、賛否いずれとなっても今回で最終的な結論を出すこととなっていた。
栗原会長より組織改革の概要について、大阪と東京での研修会で受けた意見をもとに改革案を一部修正。会長選挙については、修正前は代議員総会の中で代議員による選挙を行うこととなっていたが、会員ひとりひとりの意志を確認すべきだとして、全会員の投票によって選出することとした。また、代議員総会への出席は各支部の支部長と支部代表者1名とされていたが、「支部代表者」という表現が分かりにくいとの指摘があったため、「各支部で推薦する代議員」に変更したことなどが説明された。出席者からは、理教連総会という学校単位で討議する場がなくなれば各校の意見が反映されにくくなるのではないか、本部で行っていた仕事を地方に分担するというが、負担が増えるのなら理教連を辞めると言う会員が出てきて、組織の弱体化につながるのではないかといった意見もあったが、最終的に藤井亮輔前理教連会長が「理教連の仕事をするのは生徒と理療教育の発展のためであり、それを支えるのは教員である我々の職業倫理である。それを、仕事が増えるならと辞めると言うのであれば辞めればよい。それで会員数が半分になるのなら、理教連がそれだけの組織だったということだ」と強い調子で発言し、採決の結果、組織改革案は可決された。
最後に筑波技術大学(技大)による理療科教員養成に関する件について審議された。現在、技大と文部科学省の間で同大学大学院修士課程での理療科教員養成について話が進められている。そのなかで技大から全国盲学校長会・日盲連・理教連等へ説明があり、各団体で支持を表明してほしいということだった。これについて、1年で1種免許、2年で専修免許を取得できるようにするためには省令の改正が必要であるなど、まだ議論が深まっていないとして、賛否どちらかを表明するのは難しいという結論が示された。(菊池惟菜)
今上天皇の御名明仁の「ヒト」は、仁徳天皇の「仁」という漢字と同じだが、それに魚を添えて、タイの華僑が「仁魚」と漢字を当て、タイ語で「プラー・ニン」と呼ぶ淡水魚がいる。和名はティラピアで、「プラー」とはタイ語で「魚」の意である。
ティラピアは雑食性で貪欲に口に入る動植物を生死問わず食べ、しかも繁殖力旺盛である。水温が10℃以下になる地域では生息できないが、淡水、汽水様々な環境に適応し、丈夫で餌の嗜好の気むずかしさも無く、飼育自体は容易で育てやすい。しかも非常に成長が早く1年で850gにまで育ち、成魚は体長30〜40cmほどになる。クロダイに似ているので、「チカダイ」や、「イズミダイ」と称して日本でも食糧難の時代には貴重な蛋白源とされた。しかし、日本では生産量や人件費の関係で安価にできなくなり、鯛の代用品という位置づけであったが鯛そのものが大量に養殖され、価格も下がったので現在はほとんど見かけなくなった。
今年はタイ国王陛下が下げ渡されたプラー・ニンことティラピア養殖50周年にあたることから、3月15日朝、プラユット首相は閣議前に展示会を見学し、閣議後の昼食では閣僚とともに、プラー・ニンを使ったフルコース料理を味わった。
国王プロジェクトを促進するピットーン・ランプラ財団は、国王の功績を顕彰するため、3月17日からこの8月にかけ全国で、有名レストランの参加を得てプラー・ニンと国王プロジェクトで生産されている食品を使った料理をプロモート。また会議・見本市振興機構と協力してプラー・ニンの由来などを国民に紹介する催し物「ニン・イム・スック(プラー・ニンで満足、幸せ)」も行った(3月21日付『週刊タイ経済』)。
今から51年前の1964年、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが行われた年の暮れに当時皇太子だった今上天皇陛下は美智子妃殿下とともにタイを訪問された。
当時のタイ国民は、戦後混乱期の日本同様蛋白質不足に陥っており、国王ラーマ9世(プミポン国王)は、食糧不足を解消するために淡水魚の普及に腐心されており、マレーシアからきたプラー・モー(キノボリウオ)という淡水魚に期待をかけておられた。
魚類学者でもある皇太子明仁親王はタイ各地の水産施設を精力的に見て回った後、王宮での夕食会で、プミポン国王からこの話しを聞かされた。しかし、明仁親王は「もっといい淡水魚がおります」と言って国王にティラピアの養殖が最適であるとの話をされた。
タイから戻られた皇太子は、赤坂御用池で育てていた体長約9cm、重さ約14gのティラピア50尾を、翌1965年の春にタイへ寄贈された。これらは、1962年に当時のアラブ連合共和国(エジプト)のアレクサンドリア水族館からわが国に寄贈されたティラピアの子孫である。
3月25日にバンコクに届いたこの50尾を、プミポン国王はドゥシット宮殿のチットラダー離宮の庭にある10m2の池に放たれた。
ティラピアは、水温が20℃を越えると2次性徴が明らかになり、25℃を越えると30〜45日おきに産卵を繰り返す。雄は川底などに深さ5〜10cmで、15〜50cmの円形の巣を作りここに雌を誘う。雌は巣の中心で体色を明るく変化させ、産卵を行う。産卵が終わると雌はすぐにそれらの卵を口腔内にくわえ、雄が放精したところの水を吸い込み、受精を口の中で行う。1回の産卵数は全長8cmの雌で80個、11cmの雌で300個との記録がある。受精卵は洋梨型で1.9〜3mm。3日から5日で孵化する。産卵から11〜14日目には雌の口から泳ぎ出るようになる。ただし22日目くらいまでは雌の周囲に留まり、危険が迫った場合には雌の口腔に逃げ込む。そして3カ月ほどで性的成熟に達し、成長は全長が1年で8〜15cm、2年で12〜26cm、3年で14〜32cm、4年で17〜35cmになる。
宮殿の池でのこのような驚くべき成長ぶりに国王は、ガーデンスタッフに平均面積70m2の6つの池を新たに掘るように命じた。そして養殖開始から早くも5カ月後の9月1日には古い池から新しい池にプラー・ニンを移したのであった。こうして国王陛下がご自身で育てられ、低コストで短期間に成長し、たんぱく質豊かなことを確認されたのであった。
そして翌年の3月17日に、国王はタイ政府漁業局に体長3〜5cmの稚魚1万尾を下賜された。
こうして、漁業局は現在でも年間20万尾の稚魚を1kgあたり50〜60バーツ(注)で供給しており、養殖業者が得ている収入は年間1,000億バーツにのぼるという。
プラー・ニンはその後、タイ全土で養殖されたり、河川に放たれ、現在では年間20万トン以上の漁獲量を誇るまでになり、米国向けを中心に切り身の輸出も盛んに行われている。
また、1973年にバングラデシュで大飢饉が起こった際、タイ王国政府は50万尾ものプラー・ニンを寄贈した。明仁親王が寄贈して10年も経たない内に、他国に寄贈するほどまでに、タイで好まれ大量に養殖されていたのである。
(注)1バーツは約3円。(福山)
本誌先月号(通巻第555号)に田畑美智子さんに寄稿していただいた「日本における国連障害者の権利条約実施を考える――オーストリア大使館にて」の本文中、武井徹<テツ>さんの名前を、当方の点訳・校正ミスにより「武井徹<トオル>」と記載してしまいました。ここにお詫びして訂正いたします。
武井さんには本誌2015年7月号(通巻第542号)の「リレーエッセイ」に寄稿していただいており、そのときに芳名の読みと肩書き(米国ニューヨーク州弁護士)もしっかり確認させていただいておりました。しかしながら東京都知事選でバタバタしていたとはいえ、当方の詰めが甘く、このたびは大変なご迷惑をおかけ致しました。また、著者の田畑さんにもお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。そして、ご指摘いただいた読者には感謝いたします。(編集部)
リオデジャネイロ(リオ)には、「ブラジル・スタディ・ツアー」でサンパウロを訪問した折、1995年5月3日に1泊しました。ブラジルはその前年のインフレ率45%をデノミネーションで克服し、1米ドルが0.88レアルで安定し、リオ沖に油田も発見され希望にあふれておりました。しかし一方では、ファヴェーラと呼ぶ貧民街には絶対足を踏み入れるなと添乗員から厳しく、しかも繰り返し注意されたものでした。
リオの旧市街には美しいコロニアル調の建物群があるのですが、一方、有名なリゾートホテルの裏山に貧民街が尾根に沿ってあり、人口600万人余のリオの市民の4人に1人はそこに住むと聞き驚きました。大西洋に面したコパカバーナ海岸の美しさと、そこからさほど離れていない悪臭漂う巨大な便器と形容されるグアナバラ湾の対比に彼の国の深刻な病理を思ったものでした。オリンピックの開会式にデモが起きたり、銃撃戦が起きるのは故なしとしないのです。(福山)
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