THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2016年7月号

第47巻7号(通巻第554号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:石原尚樹
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:バラク・オバマからいかに学ぶか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
お知らせ:ヘレン・ケラー記念音楽コンクール出場者募集 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5
第3次竹下丸の多難な船出 〜日盲連青森大会報告〜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
6
シャープな思い出 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
14
点字表記の道 ―― 3人のオーソリティが語る日点委の歴史 ・・・・・・・・・・・・・・
19
豊かな共生社会を子どもたちへ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
23
(訃報)点字と指導者を守った当山啓さんを送る ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
27
近代盲人業権史 (21)新職業開拓の議論と実践 その2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
31
続・ニカラグアにおける東洋医学教育 (6)マナグア地震 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
36
自分が変わること (85)また逢う日まで ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
40
リレーエッセイ:七十にして今が働きざかり ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
45
アフターセブン(16)百見は一触にしかず ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
50
大相撲、記録の裏側・ホントはどうなの!?
  (167)三十路最初の場所で綱取りに挑む稀勢の里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
54
95%にもチャンスを (4)台風被災地の障害者たち その3 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
58
時代の風:電子図書館システム開発、障害者雇用初の9万人超え、
  インフルエンザ流行を予測、高品質iPS細胞作製 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
62
伝言板:視覚障害音楽家名簿作成にご協力を!、NHK障害福祉賞、
  ビッグ・アイアートプロジェクト、とっておきのアイディアコンテスト ・・・・・・・・
66
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
70

巻頭コラム
バラク・オバマからいかに学ぶか

 オバマ米大統領は詐欺師みたいなものだ。2009年にプラハで「米国が先頭に立ち、核兵器のない世界の平和と安全を追求する」との決意表明をして、同年ノーベル賞を受賞。ところが、その舌の根も乾かない翌年、同政権は臨界前核実験を行った。しかも核軍縮の実効はほとんどあがらないばかりか、オバマ政権は向こう30年で1兆ドル(約110兆円)の巨費を投じて核兵器の近代化を進める。しかも5月27日に広島市を訪れ原爆死没者慰霊碑に献花し、黙祷は行ったものの一礼もしなかった。これを詐欺と言わずしてなんというのだと私は憎まれ口を叩いた。
 すると私の友人は、「同大統領の広島訪問で、日米が激しくやり合う歴史認識問題の罠に陥らず、『自分たちは悪くない』という米国の頑なな姿勢から1歩踏み出した。これは歴史的な一石である」と諫められ、なるほどと私はかしこまった次第である。
 つまり、米大統領はつねに核兵器の発射命令を出せるよう通称「核のフットボール」と呼ばれる「大統領非常用手提げカバン」を持った武官を太刀持ちよろしく、随行させている。実際に広島の原爆慰霊碑前でも核のフットボールを下げた武官が撮影されている。それはバラク・オバマという個人の意思を越えた、米大統領としての責務なのだから致し方ない。むしろ「大統領は広島を訪問すべきではない」という米国にある根強い声を説き伏せて、広島を訪問して、自らの言葉が原爆投下への謝罪と受け取られることを慎重に回避しながら、17分間のスピーチを行い、被爆者2人と立ち話をしてハグをしただけでも素晴らしい歴史的な成果であるという見方も成り立つだろう。かくして、一見二枚舌 ―― 矛盾と非難されるようなリスクを負いながら、バラク・オバマは果敢に新たなレジェンドを作り上げたのだが、それこそ政治家というものであろう。
 国益を無視して謝罪外交を行い、謝罪が足りないと非難されるどこかの国の政治家や外交官の大根ぶりと比較するならば、なるほどあっぱれな千両役者というべきである。(福山)

シャープな思い出

点字出版所長/福山博

 4月2日、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業は、シャープ株式会社を買収した。古くから視覚障害者に特段の配慮をしてきた大企業の身売りだけに、特別な感慨を持たれた方もあったのではないだろうか? 当協会も一方ならぬお世話になったことでもあり、少しセンチメンタルになるかも知れないが往事を振り返ってみようと思う。
 最近、東京都新宿区のグランドヒル市ヶ谷において、視覚障害関係の催しが頻繁に開かれる。JR市ヶ谷駅から市ヶ谷橋を渡るとすぐに外堀通に出るが、そこに面してひときわ堂々としたシャープ東京市ヶ谷ビルがあった。1974年にシャープの東京支社として建設され、1992年にシャープ幕張ビルに東京支社が移った後も営業・広報部門とショールームなどはここに置かれていた。ところが、2013年1月、突然TKP市ヶ谷カンファレンスセンターという名称に変わった。TKPとは、全国で1000室以上の貸し会議室を運営する会社で、全棟を一括借り上げたと報じられた。その頃にはシャープの経営危機は広く知られており、それが具体的な事実として突きつけられた気がした。
 というのは今から35年前、20台半ばの私は、シャープ・ヘレンケラー音声デジタル血圧計の開発と普及のためにこのビルに足繁く通っていたのである。
 1980年シャープから音声電卓CS-6500が、続いて1982年には音声デジタル時計CT662が発売された。胸のポケットにすっぽり収まるコンパクトタイプで、ボタンを押すと現在時刻を正確に音声で知らせてくれるばかりか、ストップウォッチ機能までついた画期的な製品であった。この時計には英語版もあり、米国の盲婦人が国際会議の場で、なにやら勘違いしてシャープを大げさに宣伝していたことが思い出される。
 ところで、これらはいわゆる視覚障害者用ではなかったが、結果的に視覚障害者も極めて便利に使うことができる、いわば今でいうユニバーサル・デザインの先駆けのような製品であった。
 これらの製品に触発されて、「音声血圧計を開発して欲しい」という声が澎湃として盲界から起こった。当事はあはき業界の中で視覚障害者が多数派を占めていた時期で、勢いがあったのである。
 当事の『点字ジャーナル』編集長で点字出版局長(現・所長)であった井口淳(1923〜2009)は失明する前、毎日新聞社発行の経済誌『エコノミスト』編集部にいた。現在の同誌編集部は東京本社内にあるが、その頃はまだ堂島の大阪本社内にあった。そして、取材の関係で、よく飲み歩いた仲間にシャープの前身である早川電機の社員がいた。そして、その頃知遇を得た人物が、時は巡り副社長に出世していたのである。
 井口は自分が失明し、毎日新聞から東京ヘレン・ケラー協会に出向したこと、現在、点字雑誌を編集していること、そして視覚障害者が自由に血圧を測ることができない現状などを切々と手紙で訴えた。すると、ほとんど間をおかず秘書を通じて、「詳しい話を聞きたい」という電話がかかってきた。井口は、約束の日に新幹線で、シャープの本社がある大阪市阿倍野区に向かった。
 シャープの創業者早川徳次翁は、幼少期に継養母から厳しく当たられ、尋常小学校も2年で中退させられ、朝から深夜までマッチ箱張りの内職を手伝わされた。それを不憫に思った近所の盲目の女性の世話で、金属細工の錺屋に丁稚奉公して金属加工に関する技術を身に着け、それを契機に一代で大企業を築き上げた。
 シャープが伝統的に障害者とりわけ視覚障害者に深い理解があるのは、このような早川氏の体験に基づいている。
 1943年ライトハウス(現・日本ライトハウス)が「愛盲会館」と改称して、翌1944年に軍人援護会に移管して「失明軍人会館」を名乗った頃、同施設内に早川電機分工場が設立され、戦傷失明者がプレス作業等を行って働いていた。今でこそ企業の社会貢献が喧伝されているが、そのような概念がまだなかった頃からシャープは実践していたのである。
 終戦と共に早川電機分工場はライトハウスから分離して解散するが、翌1946年に再建され、それを前身にして1950年には合資会社 特選金属工場が設立され、1977年にはシャープ株式会社の特例子会社として、「特例子会社日本第一号」に認定されたシャープ特選工業株式会社となり現在に至るが、その萌芽は、このように戦中にまでさかのぼることができるのだ。
 このような背景があり、旧交を温め合う言葉から始まった井口と副社長の会談は、とんとん拍子に進み、シャープが音声血圧計を製造し、普及・販売は東京ヘレン・ケラー協会が一手に行うということに決まった。
 こうして1982年当協会に盲人用具センターが開設され、同年4月1日、シャープ・ヘレンケラー音声デジタル血圧計MB-505(10万8,800円)が発売された。ちなみにこのときの医療用機器販売業者との契約書は、私が和文タイプライターを使って作成したもので、それを思うと隔世の感を覚える。

点字表記の道
―― 3人のオーソリティが語る日点委の歴史 ――

 6月5日(日)、東京・早稲田の戸山サンライズにおいて日本点字委員会(日点委)創立50年特別記念講演会が、約60名の参加者を集めて開催された。
 最初は日点委の阿佐博顧問が「中村京太郎と点字表記」と題し、次のように語った。
 点字ができた当初は50音と濁音のみで拗音はなかった。当時は歴史的仮名遣いが一般的だったので、それで事足りたのだ。しかし日本点字を翻案した石川倉次先生は、音をそのまま表現するのが最も正しい日本語表記であるとの信念から、表音的点字表記をするための研究を行い拗音を発表した。しかし歴史的仮名遣いに慣れた人たちから厳しく批判され、すぐには採用されなかった。
 そこで登場するのが中村京太郎先生で、表音的表記に賛成の彼は、東京盲学校の同窓会長になると点字出版部をつくり、そこで点字製作されたものはすべて表音的表記を用いた。そして、彼は1922年に創刊された『点字毎日』(点毎)で編集主任を務めると、表音的点字表記を使う。当時はほかに点字出版物は少なく、点毎が日本の点字表記の中心で、「点毎のように書いておけば間違いなかろう」という考えが通念としてあり、表音的点字表記の使用は広がった。このように中村先生の強い意志が、日本の点字表記を決定したのである。
 次に、日本点字図書館(日点)田中徹二理事長が「点字とわたし」と題して次のように講演した。ただし、海外出張のため事前録音とスライドでの参加であった。
 網膜はく離で入院していた頃、「絶対安静のときでもお腹の上で読めるから」と、同じ病院に入院していた目黒伸一さんに点字を教わった。点字が読めれば休学していた大学にも復学できると考えるようになり、自分のリハビリテーションに大きな影響を与えた出会いであった。
 点字と自分の関係を大きく変えたことといえば、東京都心身障害者福祉センターに就職したことである。同センターでは、職員に自分のことについて研究するという課題が課せられていたのだが、研究テーマには「点字」を選んだ。日点、点毎、東京点字出版所、日本点字研究会(日点研)で出版されたものについて仮名遣い・記号・分かち書きを比較。当時はそれぞれの施設がそれぞれの規則でもって表記していたため、統一がほとんどとれていなかった。日点委が1971年に『日本点字表記法(現代語編)』を出す頃には表記はほぼ統一されたが、分かち書きについてはなかなかきちんとした規則が定まらなかった。その後、これだけ議論があるのなら『点字表記辞典』を作ったらどうかと考え、初版を発行することになった。
 続いて、日点委木塚泰弘会長が「日点委50年のいろいろ」と題して、次のような講演を行った。
 日点委の前身である日点研の主な目的は点字教科書の表記を統一することであったが、なかなかうまくいかなかった。そこで当時の日点研鳥居篤治郎会長と相談し、この際、盲学校だけでなく福祉施設にも声をかけて統一しようという話になった。そして各施設にも呼びかけて原案をつくり、最初の委員会を決定。いわば日点委の産婆役として我々は働いたのである。
 1971年に岩手県で開かれた全日本盲学校教育研究会での点字部会で、議題にあがった点字の教え方は、1・2・3の点で構成される文字を先にという方法で、文部科学省から発行されている『点字学習指導の手引き』のなかで紹介されている。このときの議論が、点字の指導法のきっかけとなったのである。
現在、我々は公職選挙法に載っている点字一覧表が50音・促音・長音・撥音だけだったので、それを改訂する作業を行っている。また「点字は文字とみなす」という文言があるが、これは点字を文字とは別の物であるが認めようということである。それについても様子を見ながらきちんとした案として提出するつもりである。
 講演は時間ぎりぎりまで行われ、予定されていた質疑・応答の時間が大幅に削られるほどであった。最後には出演者に大きな拍手が送られ、講演会は終了した。(菊池惟菜)

編集ログ

協会本部より

 社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会は5月27日、理事会・評議員会を開催し、6月11日付で三浦拓也(71)が理事長を退任し、常務理事であった石原尚樹(69)が、6月12日付で新理事長に就任することを承認しました。
 なお、ヘレン・ケラー学院の学院長は7月31日まで三浦が引き続き務め、8月1日から石原が新学院長に就任致します。

執筆者より

 前月号の「WBUAPマッサージセミナーのすすめ」で紹介したフィリピンでのセミナーは、日本盲人福祉委員会(日盲委)が企画したツアーに参加する形で行いました。本セミナーや次回セミナーに興味を持たれた方は日盲委(03-5291-7885)にお問い合わせください。(附属盲 黒岩聡)

編集長より

 橋秀治大先輩に、ヘレンケラー・サリバン賞の受賞者でもある当山啓さんの訃報を書いていただきました。それに関連して、次のように日本点字図書館(日点)と日本点字委員会(日点委)合同の「お別れ会」が開催されます。参加を希望される方は6月末日までに下記にお申し込みください。なお、当日は平服でお越しください。香典等はご遺志により辞退されますとのことです。
 日時:7月9日(土)17〜19時
 場所:日点3階多目的室
 申込み先:日点総務課(電話03-3209-0241)内藤・石出さん
 当協会は「禁酒令」を出したわけではないのに、現在、職場でおよそ薫酒の香が漂うことは絶えてなくなりました。しかし、二昔前までは社会福祉法人らしからぬ飲みっぷりのよさから「ヘベレンケラー」の異名を頂戴しておりました。その頃、私たちは当山さんともよく杯を傾け、「日点入社5年目に希望していた点字製版係にやっと異動できたが、そうでなかったら橋秀治先輩同様、ヘベレンケラーに転職していたよ!」と幾度となく聞かされたものです。
 最初に紹介されたとき、「水道方式の数学者遠山啓先生と同じですね」というと、先生の名字は『遠い山』だから『トオヤマ』、私は『当たる山』だから『トーヤマ』。名前の『ヒラク』だけは漢字も読みも同じだけどね」と、その違いを一気呵成に説明されたことを、とても印象深く覚えています。
 訃報にあるように当山さんは文学青年で、詩人の中原中也が好きで、酔っ払ったついでに暗唱しておられました。その当時から我々に対してもていねいに接して、少しも偉ぶったところがありませんでした。「葬儀をしない」とか、「献体する」というのも、いかにも当山さんらしい遺言です。
 当山さんは日点委事務局の行く末を切実に心配しておられました。しかし、このたび日点の和田勉さん(図書製作部長)が日点委事務局長に就任されたので、大いに安心されたことでしょう。当山さんのご冥福を心からお祈りいたします。(福山)

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