9月2日午後、筑波大学のラミチャネ准教授から電話があり、「今、ここにプラカシュ・ティミルシナ(26)という全盲の歌手がいる。彼はネパールではとても有名で、海外在住ネパール人協会(NRNA)の招きで、これまでに世界19カ国でコンサートを行っている。彼が、日本で音楽の勉強をしたがっているので、力になってもらえないか」というのである。
そこで、ちょうどネパールからNAWBの会長も来ているので、来日中のネパール人音楽プロデューサーなども含め、国際視覚障害者援護協会(IAVI)にも足を伸ばして、一堂に会して相談した。
その結果、日本で勉強するためには日本語の日常会話ができることが前提となり、それはネパールでも覚えることが可能で、そのためのテキストはIAVIで購入できる。しかし、点字楽譜をどのように学ぶかは、さっぱり我々にはわからなかった。
ネパールでは、学校教育の中で正規科目としての「音楽」は教えていない。音楽はあくまでもレクリエーションの範疇なのである。このためネパールで点字楽譜を知っているのは、晴盲合わせても、まったく誰もいない。
ネパールには数十人の視覚障害音楽家がいるが、まだ誰もその音楽家としての限界や問題点に気づいていない。それに気づいたところに、プラカシュ君の焦燥があるのだ。彼はネパールでは誰もがその名を知る流行歌手だが、「海外では無名のそれも楽譜も読めない小柄で小太りな歌手」なのである。
彼は鍵盤楽器も弾けるが、いわゆる見よう見まねで覚えたのだ。日本語は挨拶くらいしかできないが、英語はかなり堪能で、英会話も流暢だ。このような彼に点字楽譜を教える方法をご存じの方は、小誌編集部までお知らせ願いたい。
彼は映画の主題歌も歌っており、ウェブ上で「Prakash Timilsina」で検索すれば、ユーチューブで彼の甘い歌声を聞くことができる。ただし、フィルム上で口パクをしているイケメンは、彼ではないのでご注意を!(福山)
本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」受賞者は、世界盲人連合(WBU)や同連合アジア太平洋地域協議会(WBUAP)の総会、マッサージセミナーの主催や参加に当たり、視覚障害者が十全にその能力を発揮するために、業務の枠を超えて献身的に活動を支えてきた日本盲人福祉委員会(日盲委)事務局員の譜久島和美さん(64歳、横浜市在住)に決定した。
第23回を迎える本賞は、「視覚障害者は、何らかの形で晴眼者からサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害者の委員によって選考される。
贈賞式は、10月6日(火)に当協会で行われ、本賞(賞状)と副賞としてヘレン・ケラー女子直筆のサインを刻印したクリスタルトロフィーが贈られる。
譜久島和美さんは、1951年1月30日生まれ。当時の世相や、「女に学歴は無用」と父に言われ、高校は商業科に進んだ。卒業間近、「もっと勉強したい」と強く思った彼女は両親を説得し、学費の半分はアルバイトで賄うことを条件に立正大学に進み卒業。その後、2年間臨時任用教員、半年間の米国留学を経て、一般企業で働きながら、横浜市立盲学校でボランティアとして視覚障害児とかかわり、点字や視覚障害者に関心を抱くようになった。
日本盲人会連合(日盲連)に入職したきっかけは、1988年8月、新聞の3行広告の求人欄に目がとまったことだった。すぐに、日盲連に行き、面接を受けるとその場で、採用を告げられ、用具購買所、録音課、会計係と主に事務畑を歩んだ。
日本と世界を結ぶ日盲委は、日本盲人会連合、日本盲人社会福祉施設協議会、全国盲学校長会からなる社会福祉法人だが、日盲連内に間借りして、当時は元厚生省の多田威夫氏が事務局長として非常勤で勤務。譜久島さんがひとり日盲連から出向し、常勤の事務局員となり、日盲委の経済的基盤である愛盲シール委員会をまかされ、寄付金を集める担当者となり、ボランティアの協力を得て、仕事をしていた。ところが、村谷日盲連会長が2000年に会長職を突然降り、日盲委理事長に専念することとなり、事態が一変した。翌2001年1月末の金曜日午前、村谷理事長が、「神田に事務所が見つかったぞ! 今日の午後から引っ越しだ」と譜久島さん等に告げた。かくしてボランティアがトラックを運転し、7階建てビルの1室に理事長の机、事務員の机、椅子、パソコンと資料の入ったロッカーを運び入れ、日盲委が日盲連から独立。そして、譜久島さんは、2か月後の4月に東京で開かれるWBUAP役員会議の事務手続きと日盲委の決算処理に追われた。
WBUAP役員会議を無事終え、ゴールデンウィークが明けたころ、村谷理事長は体調をくずした。それでも、「わしも手伝うぞ!」と言って、一緒に愛盲シールの封緘作業を行った。
5月に参議院会館で日盲委の理事会と評議員会を開いた際、岩橋明子日本ライトハウス会長に、「日盲委を最初から知っているのは、とうとうわしと貴女だけになってしまったなあ」と村谷昌弘氏がしみじみ語り、夏を超えた9月8日に逝去した。享年80であった。
即断即決の村谷理事長が、「決断が遅かった。せめて5年早く来ていたなら、日盲委として、盲老人ホームを作ったりいろいろとやれたのに、少し遅すぎた」と悔やんだという。
村谷、笹川、竹下3氏の日盲委理事長に仕えた譜久島さん。その間、事務所も高田馬場から神田へ、神田から東京都盲人センター3階へ、そして、西早稲田の日本盲人福祉センター2階へと移った。
視覚障害者の国際会議やイベントを行うには、補助金申請やボランティアの手配等を日盲委が担う。普通は事務局長という責任者がいるのだが、村谷理事長の死去に伴い多田事務局長が退職され空席のままだったため、実務はその多くが、譜久島さんひとりの細腕にまかされた。
午後5時15分が就業終了だが、国際会議やイベントには期限がある。午後9時までの残業は普通。しかし上司に命じられたわけではないので、残業代はつけない。サービス残業でさえなかった。いわば、彼女は毎日、5時15分から日盲委のボランティアに変身していたのだ。
2年に1度開催されるWBUAPマッサージセミナーでは、第7回香港、第9回北京、第10回ソウル、第11回マレーシア、第12回バンコクと毎回20人近い日本代表団の付添いと事務手続きを引き受けた。特に、2006年9月22〜25日、茨城県つくば市国際会議場で14の国と2地域から約300人、国内からは265人の参加者を迎えて開催された第8回マッサージセミナーでは200人余りのボランティアのシフト作成と配置支持を行った。
また、2010年10月29日〜11月1日、ホテルグリーンタワー千葉で22の国と地域から140人の海外参加者、国内からスタッフボランティアをふくめ110人が参加し開催されたアジア太平洋盲人福祉会議では、実行委員会の事務局員として、参加者の対応等に昼夜を問わず当たった。
昼は、愛盲シールをはじめとする通常業務や国政選挙の選挙プロジェクト事務局の事務をこなし、助成金申請のため厚生労働省などを回った。夜は、途上国からのゲストを招聘する際、現地の日本大使館にビザを発給してもらうために必要書類を作成し、新宿中央郵便局に駆け込んだ。
午前0時の受け付け終了には間に合ったが、長蛇の列。郵便局員に書簡を手渡し、新宿駅から山手線に飛び乗り、品川駅経由で自宅に着くのは午前1時過ぎ。しかし、運が悪いと京浜東北線の最終電車に間に合わず、品川駅から横浜の自宅までタクシーで帰ったことも二度や三度ではない。それでも、翌朝は7時15分には自宅を出てバスに乗り、満員の京浜東北線、山手線を乗り継ぎ、始業時の8時45分には日盲委に出勤する毎日であった。
彼女の仕事ぶりに接した藤井亮輔理教連前会長は、「彼女の犠牲的精神には頭が下がります。彼女の支えがあって、はじめて沖縄プロジェクトもマッサージセミナーも成功することができました」と感謝する。
総会前日、参加申込のなかった人物が盲導犬と共に成田に到着して出迎えの要請があり、日盲連の協力で迎えたものの、ホテルに空き室は無く譜久島さんの部屋を明け渡し、彼女は「布団部屋」に泊まったこともあった。総会中はほとんど徹夜でネームプレートの作成や資料の仕分けにあたった。
「私は視覚障害者や多くのボランティアさんに助けてもらいながら、ここまでやってこられました。長年愛盲シールに協力してご寄付をくださる方々からの手紙を読むと『頑張らなくっちゃ』といつも励まされています」と語る。
来年(2016)1月30日、譜久島さんは定年退職を迎える。彼女の熱意とボランティア精神を引き継ぐ人はいるのだろうか? きっといますよ。それが彼女の答えだ。(戸塚辰永)
9月1日から8泊9日で、ネパール盲人福祉協会タパ会長と介助者が来日しました。この間、空港やホテルへの送り迎えもひとりでおこなったので、とても多忙で、疲労困憊の日々でした。ただ二人とも旅慣れており、過密スケジュールにも関わらず最後まで元気でした。
介助者のアルヤールさんは、今回が3度目の来日で、初来日した1994年には当時日本点字委員会の会長であった阿佐博先生の指導と、福井哲也さんの英文資料提供を受けて帰国。1995年に2級英語点字とネメス点字コードのガイドブック2冊をネパール語で上梓しました。
かくしてネパールにおける英語点字のオーソリティとなった彼は、各500部印刷した20年前のそれが無くなったので、改定版を発行したいと帰国直前に言い出しました。
そこで、私は「UEB(統一英語点字)を知っていますか?」と聞くと、「知りません」とのまさかの返事。彼の長女は、米国海軍航空隊の管制官をしているネパール人に嫁ぎ、その下の弟二人は彼女の手配で、奨学金を受けて米国の大学院に在籍しているのです。そして、数年前にはアルヤールさん自身、数カ月間米国に滞在しているのですが?
そこで、ウェブ上で紹介されているUEBをタブレット端末で示すと、彼はひとしきり食い入るように読み、メモを取りました。そして「勉強します!」と力強く日本語で宣言したので、それが反映された2級英語点字のガイドブックが、来年にはNAWBから発行されるのではないかと思われます。
「朋あり、遠方より来る、また楽しからずや」と気取りたいのは山々ですが、最後の二日間は台風の影響で雨にもたたられました。土砂降りの中、「筑波大学って、なぜ、こんなに無駄に広いんだ」と八つ当たりしたくもなりました。最終日には、濡れてすべったのか、羽田空港のエスカレーター上で、アルヤールさんは、まさかの転倒。でも大事に至らず胸をなで下ろしました。(福山)
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