安倍首相はつくづく運がいい宰相だと思う。一時1ドル80円だった円を、1.5倍の120円に誘導できたのは、米国のシェール石油採掘業者を牽制するために、中東産油国が戦略的に石油安に動いたためである。石油が高かったらとても1ドル120円なんて無理である。
円安で東京も外国人観光客が急増した。昨年(2014年)日本を訪れた外国人旅行者は過去最高の1,341万人で、政府は成長戦略の要として2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでに2,000万人を呼び込む目標を掲げているが、あながち大風呂敷だとばかりも言えなくなった。
ダボス会議で知られるスイスのジュネーブに本部を、東京・ニューヨーク・北京に事務所を置く経済研究機関「世界経済フォーラム」は、ほぼ2年ごとに世界141の国や地域を対象に、「観光競争力」を調べている。これは、観光資源の豊富さやサービスに携わる人材の質、それに交通機関の便利さなど90余りの項目を比較して競争力の高さを順位付けするもので、5月6日に発表された今年の順位で日本は世界9位、アジアで1番となった。
「観光客へのサービス」いわゆる「おもてなし」や「テロの脅威のなさ」、「鉄道インフラの質」などで高い評価を受けた結果である。一方、空港使用料や燃料費の高さなどから算出された「価格競争力」は119位で、全体の順位を下げる要因になった。これだけの円安でもまだ高いのにはため息が出るが、円高のときは論外だっただろう。
この調査の1位はスペインで、以下2位フランス、3位ドイツ、4位米国、5位英国、6位スイス、7位オーストラリア、8位イタリアで、アジアでは11位シンガポール、13位香港、17位中国、29位韓国、35位タイ、75位ベトナム、96位ラオス、102位ネパールなどとなっており、観光が盛んな国でもインフラが整っていない国は順位がとても低くなる傾向が出ている。(福山)
去る4月25日(土)午前11時56分に発生したネパール大地震では、多くの被災者が出ていますが、その中には多数の視覚障害者も含まれています。
東京ヘレン・ケラー協会が1980年代から実施している支援事業(現在は、海外交流事業)のパートナーであるNAWB(ネパール盲人福祉協会)など関係者の調べでは、今回の大地震で、多くの視覚障害者が住むところを失うなど、困窮をきわめています。
そこで、日本盲人福祉委員会(日盲委・竹下義樹理事長)では、今回の大地震で被災したネパールの視覚障害者の生活の維持と今後の生活再建の支援のため、広く全国に募金活動を展開することとし、一口1,000円以上の募金を呼びかけています。この趣旨に賛同される方は、次の口座にご希望の口数をお振り込みください。
郵便振替口座:00100-8-729004
加入者名:社会福祉法人日本盲人福祉委員会
※通信欄に「ネパール地震」と明記してください。詳しくは、日盲委事務局(03-5291-7885)へお問い合わせください。
日盲委では、皆様から寄せられた募金をNAWBなど視覚障害関係団体に送金し、ネパールの視覚障害者の生活維持と生活再建に必要な物資を届ける計画を進めてまいります。
なお、東京ヘレン・ケラー協会は、ネパールの現地情報を逐次、日盲委へ提供しています。
ネパール中部で4月25日午前11時56分(日本時間午後3時11分)、マグニチュード(M)7.8の地震が発生した。
私はその時、会議で東京・早稲田の戸山サンライズにいた。すると午後4時過ぎ、「ネパールで地震があった模様」との連絡が届いたので、すぐに徒歩15分の職場に向かった。
同日は土曜日で、ネパールの公休日(日曜日は平日)のためNAWBも休みだ。そこで、当協会のボランティア・ホーム・ナット・アルヤール氏(前NAWB事務局長)に電話、次いでNAWB会長のクマール・タパ氏(全盲)と彼の夫人で以前八王子盲学校に留学していたジャヌカ・プラサイ・タパ氏にも電話したがまったくの無音で、通じる気配さえなかった。
この夜、ウェブサイトでのネパール地震に関する情報を捜したら、NAWBの隣にある大寺院・カルモチャン寺院が倒壊したことが速報されていた。白亜の美しい大寺院が、巨大なレンガの山になっており、背筋が寒くなった。
我々は1991年度事業として、郵政省(当時)国際ボランティア貯金の配分金を受けて、この倒壊した寺院の隣にあるゴパル寺境内に点字出版所を建設していたのだ。
翌4月26日(日)午前9時半頃(ネパール時間午前6時過ぎ)、アルヤール氏と、次いでタパ氏の携帯電話につながった。彼らの家族やNAWBの職員等は全員無事だった。
ただ、自宅が被災した理事が4人、職員が5人いること、国民の半数が住むインド国境沿いのタライ平野はほぼ無傷であること、カトマンズの市民は1日に20〜25回もある余震におびえ、少なくとも25・26の両日は誰もが空き地や公園にゴミ袋などをつないで作ったテントに住み、自分と家族の命を守ることに汲汲としていたことがわかった。カトマンズは高層ビルも含めてほぼすべての建物が地震に弱いレンガ造なので、余震が続く中、そんな危険な建物内で仕事などできるはずないのだ。
今回の地震報道で、「ネパールは地中にひずみがたまりやすい世界でも有数な地震多発地帯である」という地震学者の解説が聞かれた。これは事実だが、ネパールの一般国民の意識とはかなり乖離している。彼らは、「生まれてから地震を感じたことがないので、ネパールには地震はない」とついこの間まで言っていたのだ。というのは、M7以上の大地震に限ると1934年のM8.3地震以来のため今回の地震は81年ぶりであった。これは平均余命67歳のネパールにあっては無いも同然なのだ。
1990年に当協会は、外務省NGO補助金を受けて、インド国境沿いのバラ郡カレーヤ町に眼科診療所を附属した鉄筋レンガ造2階建のCBRセンターを建設した。そして当時、建設工事を視察すると、柱には垂直に細い鉄筋が4本入っているだけで、素人目にも明らかな強度不足であった。しかもレンガといっても近代的製法によるものではなく、野焼きで作られたもろいものなのである。
先に述べたように、我々は1991年度に国際ボランティア貯金の配分金を受けてカトマンズのゴパル寺境内に点字出版所を建設した。
この建物は1985年に、当時東京都心身障害者福祉センター勤務の田中徹二氏(現・日本点字図書館理事長)を団長に、当協会は盲人福祉調査団をネパールに派遣したが、そのときの提言により建設が決まった。このため、設計の段階から我々は、重量のある印刷機や製版機を入れるため補強するように強く要請したので、坪あたりの単価が相場の倍以上に跳ね上がった。
27日(月)の夕方からカトマンズでは電気も幹線道も復旧したので市民は少しずつ自宅に帰りはじめた。アルヤール氏もテント生活は4泊で切り上げた。余震が収まらないことには誰もが仕事に戻るのは難しかったが、28日(火)には、NAWB本部のカギが開けられた。点字出版所はスチール書棚が将棋倒しになってねじ曲がったものの、建物はビクともしていなかった。ただ、不気味な余震は震災後1週間を過ぎてもなお続いた。
先に述べたバラCBRセンターと国際ボランティア貯金の配分金を受けて建設した寄宿舎3棟は、いずれもタライ平野にあり、特別な補強をしていないので心配していたが、いずれも無事だった。
28日(火)になると、当協会宛にカトマンズ盆地内の視覚障害者の被災状況が次々と送られてきた。いずれも、障害者自助グループに問い合わせた速報(仮の報告)だ。ただ、「被災者とは何か」という定義がはっきりしないことには、その被災者の総数もよくわからない。カトマンズの建物は、高層ビルであっても地震に弱いレンガ造である。自宅が無事でもカトマンズ市民は2〜4泊は野宿を経験したのであるから全員被災者といえなくもない。また、住宅の破損状態についても、特に古い建物を一部損壊、半壊、全壊の区別など誰ができるのだろうか。レンガを粘土でつないだ古い建物は、もともといつ倒壊しても不思議ではない建物なのだ。
5月9日(土)現在で、視覚障害者の死亡者は3人、行方不明者1人という数字であるが、震源地に近い山岳部からの情報が来るようになれば、今後、さらに増えるだろう。
当協会が支援する統合教育校アマル・ジョティ・ジャンタ高校の校舎本館は全壊した。同校はネパール大地震の震源に近い中部ゴルカ郡の山の尾根にあり、小学校1年生から12年生が学ぶ公立の小・中・高校である。辺鄙な村にあるが、首相や高名な医師を輩出してきた伝統校であるため、近年、インド政府からの5千万円相当の財政支援を受け隣接した山を削り、同校を基に大学も設置された。大学の校舎と、視覚障害児用寄宿舎の壁には亀裂が入ったが、補修の上で使用可能だという。
日本の日曜日に相当するネパールの公休日は土曜日で、金曜日がいわゆる半ドンである。地震が起きた4月25日は土曜日だったので学校は休みで、寮生の視覚障害児は実家に帰っており、校舎の倒壊に誰も巻き込まれなかった。もし平日に起こったならば阿鼻叫喚の地獄だっただろう。視覚障害教育校は他に6校が被害を受けたと報告が来ているが、それだけは不幸中の幸いであった。
地震は正午頃起きたが、この時間は普通ネパールでは食事をしないので、多くの人々が戸外での活動中で、それが家屋倒壊の多さに比べれば死者が少ない理由だと思われる。ただ、視覚障害児童・生徒の安否確認はまだできていない。
NAWBは50万ルピー(約59万円)の「障害者災害救援基金」を作り、5月2日に、首都・カトマンズに隣接するラリトプル郡の山の尾根にある古いネワール族の村落で地震被災障害者へ緊急救援物資である防水シート(テント)の配布を行った。
4月28・29の両日、二つの村を調査し、被災者がもっとも切実に要望したのは丈夫なテントだった。雨漏りのために寝れないのはとてもつらいとの訴えがあったのだ。
ネパールは6月から本格的な雨期に入り、それは9月まで続く。そして、5月は雨期の前触れのような雨が降る季節で、これから6月いっぱいは、スコールという突風を伴う集中豪雨が多いのである。
ネパールは、地震前から毎日計画停電が行われ、カトマンズ盆地内の水道は、給水量の不足から朝夕の2回、各々2〜4時間の時間給水が恒常化していた。しかも、その水道水はそのまま飲むことはできない。つまり日本の感覚でいえば、普段の生活も被災地のようなものなのだ。
現地を調査した日本のNGO関係者によれば、防水シートが売り切れで購入できない以外は、カトマンズ市内では食料品でも衣類でもなんでもある。ネパールは基本的に農業国で、農家は自家消費の米は備蓄している。完全倒壊して、米が取り出せない被災農家には、取りあえず一戸あたり30kgの米が配られた。こうして交通が遮断されているところ以外は、取りあえず初期段階の緊急支援は行き渡りつつあるようだ。
しかし、これから視覚障害者の生活再建ということになれば、自宅を無くした人々が多いので、ネパール地震への関心が薄らぐとともに、問題が大きくなるものと思われる。
また、一部損壊した統合教育校の校舎は至急、補修が必要だろう。そして、「耐震補強工事」までは無理としても、それなりの補強工事を行う必要はあるだろう。
やっと1割ほどの視覚障害児が教育の機会を得られ、少しずつ視覚障害者の社会的地位もあがってきた。このよりよい循環がこの震災により途切れないことを祈るばかりである。
今年は戦後70年、そこで安倍晋三首相が発表する「戦後70年談話」で、「侵略」という言葉をどのように使うかが注目されている。というのは、安倍首相は「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない」(2013年4月23日参議院予算委員会)と言わずもがなの発言をして、格好の標的にされたことがあるからだ。それではどう言えばよかったのか、その「模範答弁」を以下に紹介する。
「我が国が植民地支配を行ったり、あるいは侵略を行ったりした事実、とりわけ多くの国々、アジアの国々の皆さんに大変な困難と被害を与えた、こういう事実については、率直にやはり認めざるを得ないと思うのですよ。ただ、侵略という言葉の定義については、これは例えば国際法なんかを検討してみましても、武力をもって他の国を侵したというような言葉の意味は解説してありますけれども、侵略というものがどういうものであるかという定義というものはなかなかないのですね」。
なにやら安倍首相の答弁と同工異曲のようにも思えるが、これは平成7年10月12日の衆議院予算委員会における村山富市首相の答弁である。もっともこれはすぐにも倒れかねない「過渡的内閣」の首班であったためにマスコミも遠慮があったのかも知れない。安倍首相がまったく同じことを言ったとしても「定義されていないといいながら、侵略という言葉を使うなんて無責任で矛盾している」とでも、これまた非難されるのがオチだろう。
ところで、社民党はこの村山首相(当時)の答弁を棚上げして、「(安倍)首相は『侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかで違う』論を全く撤回していない」(2013年7月17日付『社会新報』)と批判し、国連で侵略は定義されていると言っている。
たしかに、1974年の国連総会で決議された「国連決議3314」は通称「侵略の定義に関する決議」と呼ばれている。が、話はそんなに簡単ではない。だいたい、米国、ロシア、中国といった、すねに傷を持つ国々が、シンプルな侵略の定義などするわけがあるまい。
「国連決議3314」の第1条は(侵略の定義)で、「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、この定義に述べられているものをいう」と書かれている。しかし、第2条の(武力の最初の使用)では、「国家による国際連合憲章に違反する武力の最初の使用は、侵略行為の一応の証拠を構成する。ただし、安全保障理事会は、国際連合憲章に従い、侵略行為が行われたとの決定が他の関連状況(当該行為又はその結果が十分な重大性を有するものではないという事実を含む。)に照らして正当に評価されないとの結論を下すことができる」とも書いているのだ。
つまり、これは侵略かどうかは安全保障理事会が決めるということである。とくに常任理事国の米国、英国、フランス、ロシア、中国の5カ国は拒否権を持っているから、自国に都合の悪い侵略など認めるはずがない。
つまり中国が尖閣諸島どころか、沖縄本島を自国領だと主張して侵入・攻撃してきたとしても、それを「侵略」だと定義することはできない。
そんな荒唐無稽なと思われるかも知れないが、2013年5月8日付『人民日報』には、沖縄県の帰属は「歴史上の懸案であり、未解決の問題だ」とする論文が掲載されている。ご存じのとおり『人民日報』は中国共産党の機関紙であり、兵力228万余人の中国人民解放軍は中国共産党の軍隊なのである。そうして、インターネット上には、中国人民による「沖縄奪還」を求める意見が殺到している。
ここでことさらに中国脅威論を煽り立てるつもりはないが、自衛隊の海外派遣や集団的自衛権の行使などが議題に上がると「日本を戦争の出来る国にするな」などというスローガンが叫ばれる。しかし、実際には中国の脅威の方が桁違いに大きいのである。
日本国の借金である公債残高は、780兆円に達し、これは税収の16年分、対GDP比で約230%にも上る。戦争には莫大な費用がかかるので、こんな債務を抱えている国が戦争などできるはずがないのである。ちなみに、終戦直後(昭和20年)の債務の対GDP比は250%と言われている。
少なくとも日本は戦後70年間戦争を行っていないが、中国はチベット侵攻、中越戦争、西沙諸島の戦いなどの「侵略戦争」を次々と行ってきた。1974年の西沙諸島の戦いでは、米軍がベトナムから全面撤退した直後、西沙諸島を実効支配する南ベトナムを武力で制圧して、現在は完全に中国の実効支配下に置いている。
話を本題に戻すと、「国連決議3314」は、結局、「ある概念を他の概念と区別できるように明確に限定すること」という意味の定義ではないのである。
このように冒頭で紹介した安倍首相の説明は、それ程間違っているわけではない。しかし、学者じゃあるまいし、政治家としてもう少し踏み込んだ表現があってもいいとは思う。
その昔(平成3年11月15日)の参議院予算委員会で宮澤喜一首相が、共産党の国会質問に対して、「ヒトラーがやったことは侵略戦争ですか」と問われ、「そういう御質問に常識で答えることは易しいことでございますのですが、国会での問答でございますから、専門家からお答えをいたします」と言って逃げた。このため、欧米のメディアから「ヒトラーの戦争も侵略戦争だと断定できないのか」とあきれられたことがある。ドイツ政府自らが、「ポーランドなどに対して行った軍事侵攻は侵略」と言っているのだから、侵略と言うべきだったのである。定義にこだわるあまり、今後はこのような国辱ものの赤っ恥をさらさないようにお願いしたいものである。
そこで、安倍首相は「私は今まで日本が侵略しなかったと言ったことは一度もないわけでございます」(平成25年5月15日参議院予算委員会)と明言しているのだから、定義にこだわるのなら「過去に、我が国が中国を侵略したことを否定することはできないと考えております」くらいは言って欲しいものである。(福山)
「巻頭コラム」で紹介した外国人旅行者数1,341万人は「昨年」の年間推計値ですが、こちらは「昨年度」の数字で、55年ぶりに「旅行収支」が黒字になったと財務省が5月13日に発表しました。観光目的の渡航が自由化されたのは1964年4月ですから、これは日本が史上初観光で黒字になったということであり、慶賀に堪えません。
ネパールのカトマンズ盆地にはカトマンズ、ラリトプル、バクタプルの3つの郡があります。しかし、この郡(District)という行政区画は、日本のそれとは違い、例えばカトマンズ郡の中に郡庁所在地であるカトマンズ市(首都)とその他の町村があります。
カトマンズが4月25日に起きた大地震で震度いくらであったのか、気になっていました。それに対する答えが5月11日、札幌市内で開かれた報告会で明らかになりました。北海道大学とトリブバン大学は共同で、カトマンズとその近郊4カ所に地震計を設置しており、その観測結果によると、同地震によるラリトプル郡の震度は6弱で、その他の地域は震度5強〜5弱であったということです。
つまり、首都カトマンズは、東日本大震災のときの東京都内と同じくらいの震度だったのです。東日本大震災のとき東京は電車が動かず、私も2時間かけて自宅に歩いて帰りました。しかし、その後はいつものように寝ました。震度5強の地震がもう一度来ても、少なくとも普通の住宅や建物が倒壊するとは誰も思わなかったのです。
しかし、カトマンズでは違いました。政府高官・富裕層を含めて誰もがもう一度同じような地震が来たら、今度は自宅が、あるいは職場が倒壊するのではないかと心配したのです。
この暗い不安は、当分の間ネパールでは続くのではないかと思われます。(福山)
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