3月5日発売の『週刊新潮』が川崎・中1殺害容疑少年の実名と写真を掲載し、少年法に真っ向から挑んでいることを、月刊誌『ウィル』編集長の花田紀凱氏が、3月7日付『産経新聞』誌上で取り上げている。そして、今回の事件ではネット上に初期の段階から、容疑者少年の実名、顔写真から、住所までが上げられており、「少年法61条は改正の時期だ」と結論づけている。
花田氏はかつて『週刊文春』編集長当時、1989年4月20日号で、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の加害者で当時16〜18歳であった少年4人の実名を公表した。そして「事件があまりに凶悪で、獣に人権は無い」と喝破して、犯罪の低年齢化に伴う少年法論議に火をつけた。
この残忍冷酷な事件で8年間服役していた副主犯格の男は、2004年に別の事件で男性を車のトランクに押し込んで連れ去り、監禁して、顔を殴って10日のケガを負わせた。結局、懲役4年の実刑判決が確定したのだが、この時も少年時の犯罪と実名公表をめぐってマスコミの対応が割れ、一悶着あった。
私は凶悪事件を犯し、刑事裁判の対象となった容疑者は、たとえ少年であろうと実名を公表すべきで、少年であるからと言って一律に減刑されるべきではないと考えているが、だからといって現行の少年法を無視してよいとは思っていない。
さらに大問題なのは、花田氏も指摘したようにネット上で真偽不明の実名等が無責任にアップされていることだ。
花田氏が当時獣と指弾した元少年達の実名が、その後養子縁組して変えた姓とともにネット上に拡散している。四半世紀前の事件で罪を償い、更生して定職に就いていればいるほど狙い撃ちされ、現住所や職業さえ推定できるようになっている。それが事実であればリンチ(私刑)であり、虚偽であれば冤罪だ。いずれにしても許されることではない。早急な対策を切望したい。(福山)
「ヘレンケラー・サリバン賞」は、視覚障害者の福祉・教育・文化・スポーツなど各分野において、視覚障害者を支援している「晴眼者」にお贈りする賞です。これは、「視覚障害者は、何らかの形で晴眼者のサポートを受けて生活している。その支援に視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が1993年に創設、今年で23回目となります。なお、同賞の名称は、ヘレン・ケラー女史と同女史を生涯支え続けたアン・サリバン女史の名に由来します。選考は、視覚障害者によって推薦された候補者の中から、当協会が委嘱する視覚障害者の選考委員によって行われます。受付は6月末日(必着)まで。発表は本誌10月号で行い、受賞者には本賞(賞状)と副賞(ヘレン・ケラー女史のサインを刻印したクリスタルトロフィー)をお贈りします。推薦書をご希望の方は、当協会(03-3200-1310)までご請求ください。多くの方からのご推薦をお待ちしております。
本誌2014年5月号の「私の仕事はけんかです」で紹介した、世界ろう連盟北朝鮮担当で、ドイツのNGOトゥギャザー咸興の元会長ロバート・グルント氏が、2月14日(土)東京都墨田区の曳舟文化センターで、北朝鮮の障害者についてなんと日本手話で講演した。私は読み取り通訳を介して聞いたのだが、130人余の参加者を前に、彼は「皆さんのおかげで、8,000ユーロ(100万円余)を北朝鮮のろう者に寄付することができ、彼らはとても喜んでいました」とまず謝意を表し、盛大な拍手を浴びていた。
フィンランド訪問
北朝鮮では、国内であっても日本でいう県単位の移動には当局の許可が必要で、外国への渡航はさらに厳しい。ところが昨年(2014)9月、ロバート氏は世界ろう連盟元会長のマック・ロキネン氏の住むフィンランドに、朝鮮ろう者協会会長と朝鮮障害者保護連盟職員を案内した。そして、北朝鮮一行はフィンランドでは聴覚障害当事者自身が問題意識を持ち、組織運営や活動に取り組んでいること、テレビ放送に手話が当たり前にあることなどに驚くと共に、両国の格差を実感した。2012年のロンドンパラリンピックに北朝鮮選手が初出場した例はあったが、一般の障害者としては北朝鮮初の外国訪問であった。
フィンランド視察を機に、それまで何をしたらいいのかわからなかった朝鮮ろう者協会は取り組むべき目標と課題を見つけ、現在は平壌のビルのワンフロアー10室のうち9室を事務室、会議室、相談室等として使って活動をしている。また、近々テレビニュースに手話が導入される計画もあるという。
北朝鮮にはろう学校が8校あり、授業は手話で行われており、職業課程は、被服、理容、美容、木工があり、生徒たちは卒業後それらの仕事に就くがこれは一握りで、ほとんどの障害児は義務教育も受けること無く自宅に閉ざされている。
スカイプでインタビュー
昨年3月、朝鮮盲人協会(BAK)が発足し、23歳の男性中途失明者が会長に就いた。WBUAP(世界盲人連合アジア太平洋地域協議会)の中期総会が昨年10月に香港で開かれたが、実は彼も参加する予定だった。ところが折からのエボラ熱感染対策で、北朝鮮は厳格な渡航制限を行ったためビザまでおりていたのに出国がキャンセルされた。
講演後、ロバート氏にインタビューを試みたが、「私は聴覚障害だから、視覚障害のことは当事者のファニーに聞いてくれ」と断られた。そこで、ドイツのトゥギャザー咸興ファニー・ブイ会長(全盲)にインターネット電話の「スカイプ」でインタビューした。
「今年の7月にモンゴルの首都ウランバートルでWBUAPの役員会が開かれるので、北朝鮮から盲人協会会長を招きたい」と彼女はまず抱負を述べた。そして、「香港のような先進国よりも、途上国で、しかも社会主義国だったモンゴルの方が彼らには参考になるだろう」と付け加えた。
ファニー会長は、昨年WBU(世界盲人連合)の職員とともに訪朝し、平壌近郊のテドン盲学校を見学した。北朝鮮には全寮制の盲学校が3校あるが、テドン盲学校は41人ともっとも児童・生徒数が多く、教育も比較的充実していた。しかし歩行訓練、日常生活動作訓練、家庭科は行われていなかったので、彼女は、自立を見据えてこれらの科目を授業に取り入れるべきだと指摘した。児童・生徒は学校と宿舎を往復するのみで、年に2回の休暇には、親が学校まで子どもを迎えにくるという。
盲学校を卒業した視覚障害者の職業は、全国60カ所ある作業所での軽作業で、「実際に会ったことはないが、何人かが病院でマッサージ師として勤務していると聞いた」と彼女は不思議そうに語った。というのも、北朝鮮の盲学校には、マッサージの職業課程がないからだ。
最後に「今年11月に視覚障害者を対象に北朝鮮ツアーをするから来ない?」と誘われたが、費用など詳細は後日のお楽しみということで、返事のしようがないまま取材を終えた。(戸塚辰永)
捕虜となり、終戦直後29歳のときに日本軍が占領する現在のインドネシアである蘭印(オランダ領東インド)の刑務所で餓死寸前に陥ったオランダ人の短い回想録を読んだ。
現在98歳であるウィレム・ユーケス著『よい旅を』、長山さき訳、新潮社刊、税込み1,728円は、いろいろな意味で考えさせられる。
自己憐憫も恨みもなく、必要最小限の言葉でアイロニカルに綴った理由を、著者は「あとがき」で次のように述べる。
「刑務所時代の過酷な体験にもかかわらず日本人に対する恨みが残らなかったのは、二年半にわたる日本での生活の中で日本と日本人についてよく知ることができたためだ。さらに、わたしが囚人として不快な目に遭ったのは、連合軍のジャワ島奪還のための抵抗運動参加に端を発していたのだから、仕方のないことでもあった」と。
彼は20歳代前半の1937年から2年半商社マンとして大阪に赴任して日本語を覚えた。1939年に蘭印第2の都市スラバヤに転勤になり、ここで神戸のスケートリンクで知り合った英国人女性と結婚し、1941年10月に娘が生まれる。
蘭印軍の予備役少尉でもあった著者は、1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の翌日、招集されて軍務に就く。スラバヤ沖海戦で完勝した日本軍に、蘭印軍が降伏すると、すぐに流暢な英語を話す日本軍の中尉が著者を探しにくる。
こうして日本語を話せる著者ウィレムと、妻ナンシーは日本軍の通訳になる。だが、彼は抵抗運動の科で「軍律会議」にかけられ懲役5年の判決を受け、3つの刑務所を転々として過酷な生活をおくる。
終戦の数日後、妻ナンシーが日本軍の運転手付の車で迎えにきた。彼女は「通訳として日本軍に大いに貢献していたため」早く迎えにくることが出来たのだ。ただ、彼女は骸骨のようになったウィレムとの再会のショックから立ち直れず、結局、離婚する。
戦争が終わっても苦難は続き、インドネシアは独立の熱気に包まれ、オランダ人は圧制者として命を狙われた。また、ドイツの占領から解放されて半年後の母国オランダに引き揚げると、政治家の父はナチスへの抵抗者として強制収容所から出てきたばかりで、衰弱しきっており、実際は60歳であったが80歳にもみえた。
ウィレムも結核に罹患しており、刑務所でのトラウマにも苦しみ、毎日涙にくれ、家庭医に注射で死なせて欲しいと頼むほど心身共に衰弱していた。両親のもとで静養した後、彼はスイスの療養所に入所する。
命を危ぶまれていた父は回復し、戦後、オランダの社会福祉大臣となる。ウィレムもオランダ経済省に勤務して再婚する。その後、米国のタイプライターメーカーオランダ支社、印刷会社、保険会社などに勤めたが、63歳で集中力の欠如から早期退職する。
本書は退職後書き進められ、日時や出来事など、事実確認は80歳になってからはじめられたという。彼が本書を書く動機には、蘭印の退役軍人であった彼らにオランダ政府が未払い給料の支払いを長い間拒んだことや、「従軍慰安婦」への日本政府への批判がある。
「何万人もの女性が従軍慰安婦として強制的に売春させられていたことについても特別に謝罪されねばならない。多くの慰安婦は朝鮮半島で強制的に徴募された」と今となっては事実誤認の一文であるが、これは著者の責任ではない。
本書が新潮社から発行されたのは昨年(2014)7月30日である。朝日新聞が慰安婦を巡る検証記事で「済州島で連行」という吉田清治氏の証言を虚偽と判断して記事を取り消したのは昨年8月5日付朝刊であったからだ。
とても公平に書かれている書に、ちょっと取り返しがつかない誤解を生むことが書かれているのは返す返すも残念である。
原題を直訳すると「針の穴を通って」となるらしいが、出版社の提案で邦題が変えられ著者も了承したようだ。が、私には「九死に一生を得る」という意味の原題の方がより適切であるように思われた。(福山)
本書の点字版は、サピエ図書館からダウンロードして読むことができます。
「巻頭コラム」で紹介した騒ぎにより『週刊新潮』3月12日号は、即日完売しました。すると通販サイト「アマゾン」に『週刊新潮』3月12日号の古本(ほぼ新品)が大量に出品されました。価格は新品が定価400円であるのに対して、999〜1,280円という稀少性のためのプレミアム価格。しかも、それに送料257円がかかるので、入手するには定価の3倍以上の対価が必要です。もっとも1週間たったら、本体価格が700円ほどに値下がりしましたが、それでも2倍以上の価格、もちろん私は手を出しませんでした。
今号の「近代盲人業権史」に出てくる中央盲人福祉協会と当協会は、曰く因縁がありますので、簡単に紹介します。
中央盲人福祉協会は、大正時代にそれまでバラバラに存在していた30余りの福祉関係事業体をとりまとめ、盲人福祉を目的に昭和4年(1929)に設立された機関です。
同協会は、昭和12年(1937)のヘレン・ケラー女史の初来日を記念すべく、天皇陛下からの御下賜金1万円と助成金・寄付金を合わせて6万7,400円69銭の建設資金を集め、盲人会館敷地と建物を基本財産として昭和15年(1940)に、中央盲人福祉協会から独立して財団法人東京盲人会館として設立されました。
同会館は、終戦後の混乱期に苦しい経営を強いられており、ヘレン・ケラー女史との縁から、解散してその財産を、毎日新聞社が中心となって組織したヘレン・ケラー・キャンペーン委員会に寄付し、同委員会はそれとキャンペーンによる寄付金を基に財団法人東日本ヘレン・ケラー財団が昭和25年(1950)に設立されました。そして社会福祉事業法の施行に伴って昭和27年(1952)に社会福祉法人となり、現在の東京ヘレン・ケラー協会に名称を改めました。(福山)
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