1月31日付『読売新聞』と2月1日付『産経新聞』に腰の引けた奇妙な記事がある。わが国外務省がシリアへの渡航を見合わせるよう強く求めているのに、朝日新聞の記者がシリアに入国したというのだ。なにやら非難がましいが、客観報道の体裁をとっている。明確に批判すると外務省が退避を呼び掛けている地域から今後記事を出稿できなくなり、自らの手足を縛ることになるからだろうか?
外務省はちょっとでも危ないと判断したら、「待避勧告」を乱発する。このため、NAWB(ネパール盲人福祉協会)が絶対安全と太鼓判を押しているのにカトマンズにさえ行けなかった苦い経験が私にはある。
ジャーナリストの後藤健二さんがイスラム過激派に虐殺された事件の教訓を渡航・取材自粛に求めるとすれば、泉下の硬骨のジャーナリストは浮かばれまい。
ところで先の記事を読むと、本誌連載の藤原章生さんが、かつて世界中のメディアに先駆けて内戦中のリビアに単独で密入国したように、「あの朝日新聞が、自前の記者を危険地帯に突撃取材でもさせたのか」とあやうく誤解しそうになった。
そこで2月1日付『朝日新聞』1・2面の「『イスラム国』震える街」と題した、イスタンブール支局長によるシリア北部にある第2の都市アレッポからのルポルタージュやその後の関連記事を熟読した。するとこの記者は、あの悪名高いシリアのアサド政権からビザをもらいAP通信、ロイター通信やトルコ国営放送などとともに入国。しかも、取材にあたってはシリア政府情報省職員の立会のもとにおこない、アレッポの約40km北東のバーブからアレッポに逃げてきた市長への取材はなんと情報省の肝いりである。ご丁寧にも「(情報省の)検閲は受けていない」と書いてあったが、「語るに落ちる」とは、このことかと思う。
残虐行為が行われていたら、多少危険でも誰かが現地に行って報道しなければ悲惨な状況は続く。それなのに新聞が誤報に近い記事を書き、政府のお先棒を担ぐとは天に唾する行為ではなかろうか。(福山)
1月15〜18日の日程で、韓国視覚障害教師の会(KBTU、キム・ホンヨップ会長)が来日し、全国視覚障害教師の会(JVT、重田雅俊代表)と交流を深めた。15日には、JVT会員が羽田空港でKBTU会員を出迎えた。16日には、KBTU一行は都立葛飾盲を訪問し、JVT会員の同校英語教師の櫻井昌子氏の授業を参観した後、日本点字図書館を見学した。
17日(土)、両会は横浜あゆみ荘において、韓国から12人、日本から49人の会員が参加し、通訳者を含め70人余りで第2回日韓視覚障害教師の会親善交流大会を開催した。
交流大会
JVTは1981年に関西の普通学校に勤務する視覚障害教師と教員を目指す視覚障害学生によって結成され、全国各地に散らばる仲間が集まり、交流と情報交換、研修会、職場環境の改善、中途失明教師の復職支援などを行ってきた。会員は小・中・高と特別支援学校で普通科目を指導する教員と元教員、大学の教員等、合わせて100人余。
一方、KBTUは2009年に設立された若い会だが、すでに120人の会員がおり、インターネットを活用した情報交換・教材資料の公開、各支部での交流、職場環境の改善に取り組んでいる。
今回の交流会は、2013年に指田忠司氏らと韓国按摩修練院教師オ・テミン氏のコーディネートで実現したソウルでの第1回日韓視覚障害教師の会親善交流大会に次ぐものである。
歓迎式典の冒頭、JVT重田代表は、KBTU会員の訪問と通訳者に感謝し、「これからは会員がいつでも互いの行事に自由に参加して行きましょう」と挨拶。KBTUキム・ホンヨップ会長は、「私達は言葉も文化も違うが、同じ視覚障害というハンディキャップを負っていながら、立派に後進を指導しています。日本と韓国の視覚障害教師の会が発展的な関係になればいいと思います」と応えた。
来賓の指田忠司日本盲人福祉委員会評議員は、この間の両国の視覚障害教師の交流について、理療科の垣根を越えて普通科の教員が交流することは意義深い。アジア太平洋地域では、高等教育を受けた視覚障害者の職業として教職が注目されている。「今日は活発な意見交換と両国の交流、今後の交流のために、共通課題を見つけていただきたい」と祝辞を述べた。
韓国クァンジュ(光州広域市)の4年制大学チョソン大学校のキム・ヨンイル教授が、「私達は新たな道を切り開いてきました。とくに、日本の視覚障害教師は30年以上前から荒れ野を歩んできました。困難にめげず、勇気と信念を持って先に歩んできた日本の教師の会に敬意を表します」と挨拶。主にアジアから、日本の盲学校で理療を学び、按摩マッサージを普及させたいという視覚障害者の受け入れ、支援を長年続けているIAVI(国際視覚障害者援護協会)新井愛一郎理事は、「視覚障害者には国境は無い。これは私達のポリシーです」と述べた。
記念講演
式典後、生井良一嘉悦大学教授が、「私の授業づくり」という題で記念講演を行った。同氏は、東京工業大学で物理学を研究していた大学院修士課程1年時にベーチェット病に罹り失明。その後、療養を経て復学し、日本初の全盲理学博士となる。
嘉悦短期大学(現・嘉悦大学)に就職し、教養科目の「生活と科学」を担当すると「物の流れ」をテーマに据え、生活に入り生活から出る水を取り上げ、河川の汚染について教えた。テーマは、大気汚染、熱帯樹林の減少、オゾンホール、地球温暖化などその時々のトピックへと広がり、環境問題が専門となり科目名も「環境」と変わった。初年度10人だった受講生が、翌年には100人、その内講義室では足りず、ホールで講義をするようになった。
環境問題では教科書は役立たない。出版されるまでに話題が古くなるからだ。そこで生井氏は教科書を使わず、多くの対面朗読ボランティアの協力を得て全て手作りの教材で講義にのぞんだ。
年度初めの科目紹介では、白杖をついて教壇に上がり、それを折りたたみポケットに入れるといった様子を見せ、視覚障害について話し、学生の不安を取り除いた。講義では、しらっとした空気を感じると、質問やクイズを出して感心を引きつけるよう工夫した。だが、私語をする学生には、厳しく注意し、講義にめりはりを付けた。
ゼミでは、学生と共に多摩川の上流から河口まで130kmの水質を橋ごとに調査。彼は、重りを付けたペットボトルを川に投げ入れ水を採取し、検査方法を学生に説明。レポートには、「先生といっしょにやってよかった」「水質を調査して、河川の汚染の問題がよく分かりました」という感想が多く書かれていた。
また、学生にとって身近な問題としてエイズについても講義。反対する教員もいたが、生井氏はエイズについて論文を書き、同僚の理解を得た。エイズに対する偏見を払拭するとともに、正しい理解と予防について分かってもらいたいと思ったからだ。学園祭でも、エイズについて発表。もしエイズウイルスに感染していると分かったら、恋人との関係をどうするか、別れるか、受け止めるか両方の立場のビデオを見せた。「これは人としてどう生きるかを問うものです」と彼は語る。
ある日、保健室の先生からこんなことを言われた。「具合の悪い学生はたいてい講義が終わるまでベッドに寝ているのですが、『生井先生が一生懸命頑張っているから、私も頑張ります。教室へ戻ります』というんですよ」。生井氏もこれには感激したという。
ゼミには目が見えないということに親近感を感じて自閉症、対面不安症、パニック障害などの学生も参加する。彼は自閉症の学生が来れば、自閉症に関する本を読み、学んで備えた。そして、こういう「私は目が見えませんが、一生懸命頑張り、真剣に付き合うことで、30年間教員をやってこられました。人間関係をしっかり見つめることが大切であり、見えなくなったことはけしてマイナスではありません」と語った。
全体会
午後からは全体会が開かれ、両会の活動報告、日韓2人ずつの教師による事例報告がなされた。発表の1番目は、長尾博宮城教育大学教授で、「日本における盲人教師の役割」と題するもの。日本の大半の盲学校は、後進のために盲人自身によって私財を投じて創立された。だが1948年に視覚障害教育が義務化され、盲学校は公立校となった。以来、盲学校で普通科目を教える盲人教師が減少し続けた。だが現在、理療科の教師はもちろん、教員採用試験に合格し、盲学校だけでなく、地域の学校で盲人教師が教えるケースが増えつつある。長尾氏は、誰からも邪魔されず、労働権を勝ち取るだけが、私達の存在意義なのか。そして「私達は晴眼教師に雇われているわけではなく、公務員として職場にいるのです」と語りかけた。晴眼の教師から、「私がやりますからここにいてください」と行事の準備で言われて黙っているようではいけない。それは真の優しさではなく、全盲の教師の仕事を奪う偽の優しさに過ぎない。共に働くとはどういうことかと考えて欲しいと訴えた。また、私達は晴眼管理職の下で働いているが、管理職は3年で入れ替わるため、盲学校運営、盲教育をとうてい理解できない。ならば、私達盲人教師が、ランプの灯火を高く掲げ、後進のために歩んで行くことこそが、盲人教師の存在意義だと強調した。
次に韓国から、キム・チャンス氏が「視覚・知的併設の総合特別支援学校の現状と課題」と題して発表。韓国には盲学校が12校あるが、日本同様、盲学校の児童・生徒が減少し、盲学校を新設することは難しい。そこで、視覚・知的特別支援学校が韓国第7の都市ウルサンに新設された。
同校には、同じ敷地内に視覚障害と知的障害各々の校舎があり、食堂、保健室、運動場は共有。視覚障害は9クラス、22人が学んでいるが、その内訳は単一障害8人、視覚以外の障害を併せ持つ児童・生徒が14人。同校の長所は自宅から通えることで、短所は多数者である知的障害教育が優先され、少数者である視覚障害教育が後回しにされることと指摘。
次いで都立葛飾盲学校の授業について、同校英語教師の櫻井昌子氏は、文法や単語を歌にするなど楽しく英語を学ぶ授業を心がけている。弱視の生徒への文字指導にはレイズライターを、文字確認にはオプタコンを使用し、同僚の手を煩わせない工夫をしていると述べた。
教員3年目のキム・ウニョン氏は、教員生活について報告。彼女は、初年度特別支援教育センターで障害児童への巡回教育を担当。2年目から全校児童43人という地方の小学校へ転任し、特別支援学級で教えている。見学者の来る日には、障害児を登校させないといった学校の差別待遇を批判する一方、同僚、保護者から慕われている様子も元気よく語った。
休憩をはさみ、第1分科会「視覚障害教師の存在意義と展望」、第2分科会「視覚障害教師ならではの授業作りと教材作りの実例」、第3分科会「視覚障害に由来するトラブル発生の経緯と対処の実例」の3分科会と全体会が行われた。
第1分科会では、韓国では視覚障害教師は授業をするのみで、担任に就けないことが話題にのぼった。成果給が導入されている同国では、担任に就けないことで低い査定を受けているというのだ。日本では、どうやって担任をしているかという質問に、担任経験者が、保護者に授業を見てもらい、不安を払拭した。副担任も合わせて「2人もいていいでしょう」と入学式の後で保護者に話して理解を求めるなどのアドバイスをした。第3分科会では日本側から、給与を払うものの、教壇に立つことを認めてもらえない中途失明教師の事例が報告された。
交流大会終了後、参加者達は夕食を囲み、日韓の絆をいっそう強めた。18日には、両会の会員は再会を誓い、KBTU一行はJVT会員に見送られ羽田空港から帰国した。(戸塚辰永)
地元の図書館にリクエストして、藤原章生さんの『世界はフラットにもの悲しくて ― 特派員ノート1992-2014』をサピエから借りて、読むことができました。エアコンの部屋でのんきに読んでいては、満足な読後感を書くのは無理ですが、世界は激しく多様化、流動化している、その波の中で自分の立ち位置を失わずに生きて考えて、行動する時代なのかなと。イスラム国(?)が、日本に向けているメッセージを、我々はどのように消化すべきでしょうか。テロは認められませんが、私たちは世界の多様性に、どこまで寛容であり続けられるのでしょうか。(埼玉県春日部市/品田武)
いつもずばっと辛口な記事に読み応えを感じております。大変遅くなりましたが、2014年9月号の感想を書かせていただきます。「鳥の目、虫の目」のコーナーで、集団的自衛権のことを題材に、新聞のコラムについて書いておられました。普段新聞をなかなか読めないので、新聞社の社論とは違う意見のコラムが載っていることもあるのを知ることができました。各新聞社ごとの漠然としたイメージは持っていますが、各紙読み比べられたらおもしろいだろうと思います。今後も活字メディアについて取り上げ、それについてのご意見などを書いていただきたいです。
一昨年に私の所属するスキーサークルについて、「リレーエッセイ」に書かせていただきましたが、最近、登場する方々は国際的ですね。ただただ関心するばかりです。と同時に勉強になります。それから文京盲出身なので、渡辺勇喜三先生の記事も楽しみに読ませていただいております。(東京都狛江市/伊藤聡子)
品田さま、伊藤さま、示唆に富んだご意見と励まし、ありがとうございました。
ご愛読いただきました田畑美智子さんの「外国語放浪記」が、今月号の第83回をもって完結致しました。7年もの長い間ご苦労様でした。そして、ありがとうございました。(福山)
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