仏週刊紙『シャルリー・エブド』本社の襲撃など一連の事件で犠牲になった17人を追悼する100万人を超えるデモ行進が、仏大統領、英・独両首相ら50カ国以上の首脳を先頭に1月11日パリで行われた。同日、これに呼応するイベントが東京・新宿のフランス語学校でも開催され、発起人の1人、仏日刊紙『リベラシオン』の駐日特派員は、「襲撃された新聞の方向性を擁護するのではなく、報道の自由、表現の自由を守るという思いを皆で共有したい」と述べた(『毎日新聞』1月12日付朝刊)。
この意味深なコメントは、『シャルリー・エブド』がいわく付きの新聞であることを示唆している。「言論表現の自由の名の下に、侮辱的な表現を許していいのか」という問題が、一方には厳然としてあるのだ。
たとえば、ヘイトスピーチを行っている団体の暴言をそのまま報道することは、少なくともわが国では許容されない。そのような良識的自主規制は、言論表現の自由と矛盾するものではなく、かえって補完するものである。
私は不信心な仏教徒だが、『シャルリー・エブド』に掲載された素っ裸で性的放縦をにおわせる預言者ムハンマド(マホメット)の風刺画には気分が悪くなった。これは言論の自由をはき違えた、明らかに行き過ぎのムスリムを侮辱した表現であり、ヘイト画像である。
仏政府も手をこまねいていたばかりではない。同紙の前身である1960年発行の月刊『ハラキリ』は1961年に仏政府により発禁処分を受けている。その後復刊し、さらに2回の発禁と改称、休刊などを挟んで、1992年に週刊紙として復刊したのが『シャルリー・エブド』である。その後も、フランス当局の警告を無視する形で、ムハンマドのヌードを複数回掲載して物議を醸してきた。
いうまでもなく、新聞社襲撃テロ殺人事件は許されることではない。しかし、えげつない侮辱画が、はたして守るべき表現の自由といえるのか? 疑問は依然として残る。(福山)
【昨年(2014)11月27日18時半から、当点字出版所会議室において、つくし総合法律事務所大胡田誠弁護士、筑波技術大学長岡英司教授(障害者高等教育研究支援センター障害者支援研究部長)、東京大学大学院教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センター星加良司専任講師の点字使用者お三方をお招きして、「障害者権利条約と視覚障害教育における合理的配慮について」をテーマに座談会を行った。司会・構成は本誌編集部戸塚辰永】
趣旨説明と自己紹介
司会:本日はお忙しい中、お越しくださりありがとうございます。まず、本座談会の趣旨を少し説明させてください。平成25年(2013)に行った文部科学省による調査では、全国には視覚特別支援学校(以下、盲学校)が65校あります。近年、盲学校の児童・生徒数は減少し続け、3,000人を割り込み、歯止めがかかりません。こうした中、小学1年の算数の点字教科書が40セットしか売れていません。もちろん視覚障害児には点字教科書は行き渡っていますが、おそらく半数以上の盲学校では、たとえば小学部1年「算数」の点字教科書が無い状態にあるのではないかと推測されます。これは由々しき状況ではないでしょうか?一般の小学校に小学1年算数の教科書が教師用にないということはあり得ません。しかし、特別支援教育においてセンター機能を果たす盲学校(視覚特別支援学校)には教師用点字教科書がないということが、どうも常態化しているようなのです。また、児童・生徒の障害の重度化が進み、先生方はそうした児童・生徒の世話に追われ、視覚障害単一の児童・生徒の教育が疎かになっているとも聞きます。結果的に、ネグレクトされているケースもあるようで、高等部卒業後、進学や就職で苦労しており、家に引きこもってしまう要因になっているとも聞きます。こうした現状も踏まえた上で、議論を進めていただければと思います。その前に自己紹介とどんな仕事をされているかお話しください。それでは長岡先生からお願いします。
長岡:勤務先は筑波技術大学です。障害者高等教育研究支援センターで、学内の学生、他大学に通う視覚障害学生の修学支援を行っています。具体的な仕事は、点訳資料製作、進路開拓、情報アクセス技術の指導、部長ということで管理・運営の仕事もしています。またここ数年文部科学省から特別経費をいただき、視覚障害学生の学習資料を整備するプロジェクトも実施しておりまして、それに関連するツールやマニュアルなどの開発を行うほか、点訳書などの教材作製にたずさわる方のスキルアップの支援も担当しています。
星加:東京大学教育学部で教員をしています。5年ほど前からバリアフリー教育開発研究センターで、教育とバリアフリーに関わる研究と活動を進めています。バリアフリー教育と言うと、障害学生に対する教育や支援というイメージが強いと思いますが、どちらかと言えば、多数者に対してバリアフリーを自分達の問題として考えてもらうための教育に力点を置いています。今、東大では学部の垣根を越えてバリアフリーに関わる科目を履修できるプログラムを開設しているのですが、その企画・運営も行っています。また、初等・中等教育においては、道徳やその他の教科の授業で障害について扱う際に、自分達の生きている社会のあり方との関係で障害問題を捉えなおすことができるような新しい理解を促す方法について研究しています。さらに、学校教育にとどまらず、企業向けの研修プログラムの開発なども行っていまして、合理的配慮が法的に義務化された後、企業にはどんな体制やスキル、心構えが求められることになるのかを学習する教材を作ったりしています。
大胡田:私は弁護士になって7年目で、中堅に差し掛かったところで、いわゆる「町弁」と言われている弁護士です。町弁とは、町医者から来た言葉で、街角に法律事務所をかまえ、市民の皆さんが駆け込んで来るような弁護士事務所であり、弁護士のことです。仕事内容は、離婚、相続、借金トラブル、交通事故といった身近な問題から、国選弁護まで多岐にわたります。私自身、障害者なので、障害者からの依頼で弁護を多くやっています。
司会:私は、東京ヘレン・ケラー協会点字出版所に勤めて11年になります。『点字ジャーナル』の記者・デスクですが、それ以外にも点字広報などの触読校正もしています。
学習支援の落とし穴
司会:私は1985年に大学に入学しました。まず、最初にクラスメートに呼びかけて点訳サークルを作り、対面朗読をしてくれる学生を募りました。そうした人的サポートがないかぎり、当時は、学業を進めていくことはままなりませんでした。なにしろ、パソコンも視覚障害者用としては黎明期にあり、一般にはあまり普及していませんでした。ドイツ語の点字辞典も貧弱なものしかなく、西洋史を専攻していたので、専門分野の原書を読むには辞書を引いてもらうことが必要でした。それに比べ、長岡先生今の教育環境はいかがですか?
長岡:今はだいぶ変わりまして、大学が責任を持って障害学生を支援するようになってきました。大学間で、障害学生を支援するネットワークもでき、年に何回か障害学生の支援についてのセミナーやシンポジウムも開かれています。例えば、点字資料が欲しいと学生が申し出ると、大学が点字資料を用意してくれます。ただし、その依頼先はボランティアの方々で、人材の確保が課題になってきています。点訳や音訳をするボランティアが減少していますから、制度が整っても人材が不足するのです。以前の学生は、点訳者や音訳者と交渉する中で、鍛えられて社会人として育っていったわけですが、今の学生は主体的にそうしたことをしなくてもいい場合も多くそうした経験をしないで卒業してしまうと、いずれ就職した段階で問題が起きてしまうのではないかと心配しています。
司会:星加さんはいつ大学に入学したのですか?
星加:私が大学に入学したのは1994年で、自分自身で教材を用意しなければいけない時代と、大学が教材を用意してくれる時代の過渡期でした。ちょうど2014年が東大のバリアフリー支援室の開設10周年だったのですが、その記念シンポジウムでも、先ほど長岡先生からもお話のあったバリアフリーの予期せぬ副作用の話題が出ました。そのうちの1つは、支援を受ける当事者が与えられたメニューだけで満足してしまい、自分が必要としていることを主体的に要望・交渉して行くスキルが失われてしまうという副作用です。それとは別に、私が重要だと思うのは、バリアフリー支援室の存在が、かえって周囲の一般学生や教員との間にバリアを作ってしまう側面があるということです。大学組織として支援体制を整備し、責任を持って障害学生の学習権を保障しようということになると、どうしても専門の部署が前面に出てくることになります。これ自体は大切なことではあるのですが、それは裏を返せば、周りが特に何もしなくても支援がきちんと回って行くということでもありますので、そういう意味で、周囲の人達を遠ざけてしまう恐れがあるということです。
司会:大胡田さん法律家としてのご意見は、どうですか?
大胡田:長岡先生の話を聞いていて、制度が整うことで、学生の発信能力が若干衰えてしまうのではと危惧しました。差別解消推進法でいう「合理的配慮」とは、障害者が求めた場合、過重な配慮でないかぎり、保障しなければならないという法律の構成なので、まずは、障害者自身が自分の言葉で相手に伝えるという能力が前提になっています。ですから、黙っていても自動的にサービスが出て来るわけではありません。自分から積極的に言って行かなければ、何も変わりません。したがって、教育の分野でも、障害のある子供達に、「君たちは自分の障害というものがちゃんと分かって、自分のやりたいことは何であって、そのためには何が必要なんだ」とコミュニケーション能力をフルに活用できるように教えて行かなければならないと強く感じました。
点字の立ち位置
司会:私はドイツで2年ほど暮らしていました。ドイツの視覚障害者は制度的には恵まれていますが、支援者が圧倒的に少ないことにとても驚きました。それはドイツ語の点字にあるのではと感じました。ドイツ語は1単語が非常に長いため、ドイツ語点字の略字、縮字は400もあり、これは2級英語点字の倍です。30文字で表すドイツ語を使用している晴眼者がこんなに複雑な点字を憶えて、点訳者になる人はまずいません。全て点訳は、コンピュータにより自動変換で完璧に行われています。ということは、日本のような点訳者や音訳者といった、いわば理解者が周囲にほとんどいないということです。これから日本でも、ドイツと同じようなことが起きないかと心配しています。また、ドイツの点字使用者の中には、略字や縮字を憶えるのは大変だから、パソコンを使えばいいという人も多くいます。
星加:日本でも点字使用者は視覚障害者の1割ほどですね。もちろん、点字は文化でもあると思います。ただ、第一義的に点字を情報を取得する手段と考えるなら、手段は別のものであってもいい。だとすれば、電子データが情報アクセスの手段として便利だという場合は、必ずしも点字に拘る必要はないように思います。
司会:でも、点字で勉強しているのに、点字が先細りになっている状況では、なかなか保障できませんね。盲学校がどれだけ学習権を保障していけるかがカギですよね。
長岡:点字のことについてですが、合理性とは常に変化して行くものなのですね。私は点字を学び、点字を活用してきた世代で、点字の有用性を感じています。今の若い人達にとっては、いろいろなアクセス手段が出て来たので、相対的に点字の存在感が低下しています。私達は、点字で学習資料などを整えてもらうことが合理的配慮だと考えていましたが、今の人達は必ずしもそうではありませんね。また、点字が本来有用であることを教えてもらっていない若い人達もいるのではないでしょうか。
星加:長岡先生の話に共感します。合理的配慮というのは、障害者が求めることを実現するに当たって、障害者側の必要性と提供者側の非過重性とのバランスの中で折り合いを付けて行こうという考え方なので、バランスの取り方次第で内容や水準が変わってきます。その際、配慮のコストの方に注意が偏ってしまって、障害者にとっての必要性が過小評価されてしまうことがないよう、警戒しておく必要があります。たとえば、点字という配慮と電子データという配慮があったときに、それらは本当に同じだけの情報を伝える手段になっているのか。これは人によって異なりますが、たとえば私にとってはやはり電子データよりも点字の方が便利だし、同じ点字でも、ピンディスプレーに出力した点字よりも紙の点字の方が使いやすい。ということは、情報を得る手段としての有効性に差があるということですね。一方で、提供する側にとっては、紙の点字よりも電子データを提供する方が圧倒的に楽なわけです。こういった両方の都合がある中で折り合いをつけようとするときに、最低限情報は得られるんだから電子データがあればまあいいじゃない、という結論に安易に流れてしまう恐れがあるので、この点は重要です。
司会:大胡田さんは、点字とパソコンで司法試験を受けたんですよね。
大胡田:はい、そうです。自分のパソコンを持ち込み、並行して点字の試験問題を用意してもらいました。司法試験では非常に問題量が多く、点字だけではできません。その点で、データを提供してもらって助かりました。ただ、地図を読み取り、解答するという問題もあり、これは点図を読み取らないとなりませんから、点字が役立ちました。ですから、視覚障害者は点字も、パソコンもしっかりできるという教育の場が必要ですね。私の経験ですが、点字を習得するには、最低6カ月点字漬けにならないと身につかないと思います。もし、盲学校が無くなってしまったら、点字を集中して教える機関が無くなってしまうのではないでしょうか。私はインクルーシブ教育を支持しますが、同時に視覚障害者の教育を保障する専門的な機関がなければならないと考えます。
司会:私は10歳で失明し、点字を習いました。読む速度は先天盲の人の半分ほどです。そのため、大学受験で苦労しました。そうしたこともあり、なるべく早い時期から点字を憶えることも大事だと感じています。
大胡田:大学受験でパソコンを使ってもよいという大学はまだまだ少ないですし、公務員採用試験や資格試験では、点字受験がほとんどです。今後、どうなるかは分かりませんが、現時点では点字に習熟することも必要です。
長岡:点字が合理的配慮に当たるかといっても、人によっても、状況によっても変わってくると思うのです。ある面では、合理的配慮として点字が十分満たしていると思います。しかしながら、点字を使う人の習熟度も含めて、点字の限界も考慮した上で、合理的配慮かどうかをきちっと判断する仕組みがないといけないのではないでしょうか。ただ、やみくもに点字にすればいいというわけではありません。
大胡田:点字を習得する機会と機関を保障するのも、合理的配慮としてあるべきだと、私は考えます。
長岡:その通りですね。
司会:星加さんは、点字をどのように習得したのですか?
星加:私は5歳で失明し、母親と一緒に点字をゼロから習いはじめました。当時は地方で統合教育をやっているのは非常に稀でしたし、点字を習う環境は全く整っていませんでした。そういう状況ですから、点字のスキルは、盲学校出身者に比べて低いです。その意味で、おそらく、自分が育った環境は十分ではなかったと思います。障害の有無にかかわらず、社会参加に必要なスキルを身につけることは、義務教育の重要な役割ですから、確かにこれは大きな問題です。ただし、合理的配慮という考え方で、こうした問題を一挙に解決できるかというと、それは難しいと思います。合理的配慮というのは、今まさに困っている人がいるときにその場でできる対応を考えること、言わば、対症療法です。つまり、必ずしも十分なことはできないかもしれないけれど、だからといって何もしないのは駄目ですよ、何か知恵を出すのが提供する側の義務ですよ、というのが合理的配慮なんです。
大胡田:合理的配慮を考えるとき、やはり、キーワードは、対話だと思いますね。お互いに対話して行く中で、星加さんが言っていたように、必要性と非過重性のバランスを見いだして行く過程が、まさに合理的配慮ですね。もちろん、それには、障害者でない側も障害者の声に耳を傾ける、障害者の側からもしっかり訴えかける能力が必要ですね。
長岡:本来、点字は合理的配慮の有力な一手段です。ところが、その合理性が低下してしまいました。何故ならば、一つには、使い手が熱心でなくなってしまったからです。それから、ボランティアが減少しているということも一因ですね。点字の合理性を維持し、社会的に努力しようとする意識がもっと必要なのではないでしょうか。そこで先頭に立つのが、盲学校であってほしいのです。その盲学校が、点字教科書を使わなくなってしまったということは、まさに大きな問題ですよね。ここは盲学校に頑張ってもらい、点字の合理性を高める役割を果たしてほしいものです。
司会:今は、何でもコンピュータがやってくれるので、視覚障害を理解してくれる人が少ないのではないかと思います。以前は、大学に入っても、就職しても点訳サークルがあって、そうした人達は視覚障害者の仲間であり、良き理解者でもありました。この点訳者や朗読者といった理解者がいなくなっています。その一方、ICT(情報コミュニケーション技術)の恩恵を受け、視覚障害者は情報に独力でアクセスできるようになりましたが、裏返して見ると視覚障害者が孤立し、問題を1人で抱えていないかと懸念しています。話し合える人が少なくなっていることに、私は危機感を感じています。
長岡:合理的配慮に基づいたインクルーシブ社会がバラ色一色に見えてしまうようですが、私は必ずしもそうだとは思いません。権利と義務は一体ですからね。権利を主張すると、義務が課されます。義務を果たすということは、けっこう厳しいものです。自己責任も問われます。大胡田さんや星加さん、本当によく頑張っていると感心します。
星加:そういう意味では、いくら支援技術が発展しても、1日24時間というのは変わりませんからね。手を抜けるところは抜いて行かないと、全てこなすことはできませんよね。
大胡田:日本の司法試験は、視覚障害者も晴眼者も4日間で受験しますが、アメリカでは晴眼者が1日なら視覚障害者は2日かけてするのですね。
長岡:合理性が、できるだけニーズに即して判断されるようになるために、制度的な改革とか、技術開発を続けて行かなければなりませんね。
星加:実は、合理的配慮には職務の変更、免除という側面もあります。もちろん、主たる職務に関して免除は適用されませんが、周辺的な職務については、時間の制約もある中で全てを晴眼者と同じようにやって行くのが難しい場合もあります。そうしたときに、職務の割り振りを変えたりその一部を免除してもらうことも、合理的配慮になりえます。なぜ、それが必要なのか説明することも含めて、コミュニケーションの重要性がますます高まってくると思います。
長岡:「単にサボりたいだけなのでは」と言われないようにするためにも、その点きちんとやって行かなければなりませんね。
司会:今日は長時間にわたり、合理的配慮についてとても興味深い話をうかがうことができ、本当にありがとうございました。合理的配慮とは対話から生まれることだと、話をうかがいよくわかりました。パソコンも情報アクセス手段としてとても便利で有用です。同時に、点字の良さ、有用性を若い視覚障害者や盲学校の先生にアピールして行くことも、今後取り組むべき課題だと思いました。
12月20日、都立文京盲学校にて、日本理療科教員連盟(理教連)理療教育研究協議会が、「各種調査等からみる理療教育の現状と課題」をテーマに開催された。
30人ほどが集まった協議会の冒頭で、藤井亮輔会長は「これからの理療教育をどうしていったらよいか、議論していく一日になれば良い」と挨拶した。
午前中は、田中秀樹理教連事務局次長を座長に、各専門部が行ってきた研究・調査について発表・報告があった。
まず、文京盲学校の尾崎匡見氏が入学相談と現状の課題について、同校の例を、(1)入学相談の流れ、(2)入学相談日の実施内容、(3)生徒募集に向けての内容、(4)今後の課題の4点にまとめて発表した。特に問題とされたのは、糖尿病や心の病といった複数の基礎疾患保持者の病気の向き合い方と学習との両立方法や、年齢の高い人をどのように学校生活に慣れさせるかといった課題への対応であった。
また、東京都眼科医会を通じての募集や、病院・福祉事務所などにポスターを貼ってもらうといった活動をしているが、それでも入学相談者数は少なくなっており、今後もPR活動に力を入れていく必要があると述べた。
次に音村一之理教連調査部長から、盲学校実態調査からみる理療科および保健理療科の現状と課題について発表があった。調査の結果から、生徒数が減少傾向や、欠学級の割合が調査に回答した59校の専攻科理療科・専攻科保健理療科・本科保健理療科合わせて141学科のうち69学科に及んでいること、留年する生徒が一定の割合でいることなど深刻な実態を報告。これらは、今後の学校・学科の廃止につながりかねないことだが、すぐに対策の効果が出るものではなく、いま以上に何ができるのか、考えたいと述べた。
つづいて理教連あん摩マッサージ指圧調査研究班の近藤宏氏が、視覚障害者のあん摩マッサージ指圧師養成過程の国家試験合格状況と卒業後の進路実態について発表。国試合格率は75.8%で、卒業過程別では、本科保健理療科の69.1%に対し、専攻科保健理療科は80.6%で有意差がみられた。国試受験断念者の現状についても触れ、約半数が家族や年金、生活保護費による収入に依存し、約2割がマッサージ業以外で就職し自立していると話した。調査した学校54校で200人を超える累積不合格者がおり、再受験の際のアフターケアをどうするかが課題として提起された。
安田英俊理教連進路対策部長は、全国進路実態調査からみるあはき教育の現状と課題について発表。卒業生347人のうち、三療関係に就いているのは46.7%。給与の面では完全月給制の割合が高く、安定した給与形態ではあるが、不況のあおりを受けて、その額が低く押さえられるなど、就労者のモチベーションアップにつながる環境とはいいがたい現状が語られた。
午前の部の最後は藤井会長が「実態調査からみるあはき教育の課題と展望」について発表。
収入の面で、年収300万円以下の割合が高く、晴眼者と視覚障害者で比べても前者は全体の41.1%が低額年収層だったのに対し、後者は76.4%であると述べた。しかし、調査をした1,561人のうち約71.5%が収入に満足していないと答えている反面、仕事へのやりがいを感じている人の割合は88.4%と非常に高い。経営状況が苦しかったり将来に不安を感じていたりしても、やりがいを感じるのは、それだけ社会貢献度が高く、人の役に立てる素晴らしい仕事だからだろうと述べた。
午後は、午前中に発表・報告をした5名をパネリストに、栗原勝美理教連事務局長の司会で「盲学校におけるあはき教育の現状と課題 ― トータルビジョンに向けた検討」をテーマにパネルディスカッションが行われた。
入学関係は、東京都では都立学校教育部と募集要項の改訂作業を進めていて、「学習内容に耐えうる者」などの具体的な表現は差別になってしまうと指摘されるので、柔らかい表現に妥協せざるをえないこと。入学試験を行っても、入学希望者の定員割れで不合格者が出しづらい現状が議論の俎上に上った。
入学試験は、入学後に十分やっていけるかを見るためのものだが、「定員割れしているのだから全員合格にしなさい」と教育委員会に言われてしまっては、試験の意味がない。かといって先に述べたように、募集内容に生徒を選抜するような文言を入れるのは難しいと、苦渋の選択を強いられていることが語られた。
また、生徒数の減少については、盲学校の存在の周知のために何ができるか、一般大学へ進学した生徒で理療教育に戻ってくる人たちの確保をどうするかについても話し合われた。
入学相談にくる生徒に「何でこの学校を知ったか」と尋ねると、ホームページで知ったとの答えが増えており、ネットでのPRは有効であると考えられる。日本学生支援機構のホームページに盲学校の情報を記載してもらう、また、一般大学を出て就職先が見つからない視覚障害者に、ハローワークなどで盲学校の紹介をしてもらうなどの案がでた。
在学中の生徒に関しては、指導方法についての話題が多かった。録音版の教科書の普及などにより、点字を使える生徒が減っていることに対し、入学試験の口頭受験を認めなければいいのでは、という意見も出た。もしくは補講を行うなどして点字の読み書きができるようにし、文字で学習できるようにすることが大事であるというのだ。また、視覚障害以外の疾患を抱える生徒も多く、どのような指導が適切かという課題も提起された。
1クラスあたりの在籍人数が極端に少ないことも話題になった。集団行動が基本である学校生活においてクラスメイトが、本科保健理療科でいえば約1.8人となっている。また本科保健理療科は、高等学校の普通科目を勉強しながらあん摩マッサージ指圧師国家試験の合格を目指す学科であり、それゆえか、国試合格率も専攻科理療科や専攻科保健理療科に比べて低い。彼らを今後どのように合格させていくかが課題だ。
卒業後の進路については、国試合格率の低下や年収の低さなどの問題がある。賃金低下の背景には、無免許業者の存在がある。違法性の高いこれを排除しないかぎり、収入の改善はみられない。就職先の選択肢にヘルスキーパーがある。業務の能率向上と従業員の健康増進を目的として採用されるこの職業は、東京や大阪などの都市部では一般的になってきているが、地方ではそう多くはない。ここに開拓の余地があるとし、企業へのPRが就職率アップにつながるといった意見も出た。魅力ある進路先をつくっていくことが、国家資格取得に向けて努力を続ける生徒への励みになり、ひいては理療の仕事に興味を持たれて、入学希望者の増加にも繋がるのではないかというのだ。
休憩を挟んで、藤井会長による理教連の組織改革に向けてのスピーチがあった。生徒減少による学校・学科の廃止が現実味を帯びてきたが、各校が単独で教育委員会と渡り合っては、力の差は歴然で、言い分を飲まざるをえなくなる。しかし、地方やブロックごとに対応すれば違う結果へ導けるのではないか、そのときのために組織編制を見直して備えておくことが必要。どのように変わるのか。まず規約に権能や運営・機能などが明記されていないため、名ばかりの存在となってしまっているブロックと全国理事。これをしっかり機能させること。そして、理教連の8部局の中から広報部・調査部・会計部・進路対策部・教科書委員会の5部局を減らし、教育研究部・国家試験対策部・法制部、新たにつくる組織部の4部局にし、組織のスリム化をはかることであった。新たに地方が負担する仕事としては、新しい教科書の文言や文法チェックがあるようだ。ブロックは、情報交換の場としても利用してもらいたいと藤井会長は語った。(菊池惟菜)
「巻頭コラム」で紹介した『シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)』の「エブド」は「週刊の」という意味のフランス語で、「シャルリー」は米漫画『ピーナッツ』に登場するビーグル犬スヌーピーの飼い主である「チャーリー」・ブラウンのことです。したがって『シャルリー・エブド』とは、「週刊チャーリー」という意味です。
『シャルリー・エブド』の前身は、『ハラキリ』と書きましたが、これはお察しのとおり日本語で、「切腹」のことです。フランス語ではHを発音しないので、「アラキリ(Hara-Kiri)」と読みますが、本誌ではわかりやすいよう、語源に忠実に「ハラキリ」と書きました。
「国境を越えて学ぶ」の著者・石田由香理さんが、1月13日当編集部を訪れました。先月号と今月号で「入学前から嫌な予感」と、英国での苦心惨憺ぶりを書いています。しかし、実際に入学してみたら、あれはまだ序の口で、実際はもっと凄かった、ひどかったということです。石田さんには気の毒ですが、期待できそうです(笑い)。
本誌12月号(通巻535号)で、英国ケンブリッジ大学出版局から専門書を上梓した全盲のネパール人カマル・ラミチャネ博士(33歳)が、今年の1月1日付で筑波大学准教授に就任しました。おめでとうございます。
彼は、昨年12月3日の「国際障害者デー」に、ニューヨークの国連本部で開かれた障害者支援イベントで、「途上国には障害者に教育は不要との偏見が強く、障害児を受け入れる学校も少ないので、障害を持つ子供の大半が教育を受けられない。しかし、障害者は教育がなければ、就職できないということもあって、障害者の教育収益率は実は非常に高い。障害者に教育を受けさせないことは社会的損失である」ということを強く訴えました。(福山)
日頃お感じになっていること、記事に関するご意見などを点字800字以内にまとめ、本誌編集部(tj@thka.jp)宛お送りください。