本誌の記事の多くは署名記事である。月刊であるから、日刊や週刊新聞のように、速報性のある事実関係だけを伝えるストレート記事を掲載するわけにはいかない。舞台裏の動きや解説、あるいは雑感などを含んだより詳しい内容で、掘り下げなければ、月刊誌の記事など誰も読んでくれないからだ。そこには当然、取材者や寄稿者の意見・視点が含まれるので署名記事にして、文責を明確にしているのである。本誌でも「時代の風」や「伝言板」は、事実関係を伝えるだけなので署名は付していない。
メディアは事実を伝えることが使命だが、同じ事実でも視点を変えればいろんな見方ができる。それに対して「私にはこう見えた」「このような視点から検証した」といった提示が署名記事の意味するところだ。だからといって、何の根拠もなしに独断と偏見だけで記事を書くことはできない。自分の視点を裏付けるべく、それが正しいことを客観的に証明するだけの材料を集めなければ説得力はない。そして自分の視点や観点を記事にすることに責任を持つために、自らの名前を記すのである。
また、署名記事を書くということは、それに対する反論や異論を受ける用意があるということでもある。本誌「編集ログ」の最後に、「投稿をお待ちしています」と読者に呼びかけているのは、口幅ったいことを言うようだが、そういう覚悟の表明でもあるのだ。
ところで、朝日新聞の2つの誤報問題で、署名記事を書いた当事者が現れて釈明しないのは、どうしたことだろうか? 朝日新聞の慰安婦検証記事では、退社した記者にも聞き取り調査をしているようだが、さらに釈明記事、もしくは釈明会見のような場を設けることはできなかったのだろうか?
また、「吉田証言」誤報問題では、記事を書いた当事者が今でも朝日新聞の社内にいるはずだ。連載「東京電力テレビ会議記録の公開キャンペーン報道」で、第13回(昨年度)石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞公共奉仕部門奨励賞を受賞した2人の記者である。(福山)
本年(2014)3月に長崎市内の専門学校が、あん摩マッサージ指圧師の養成課程新設の計画を長崎県に申請した。今回は、去る9月5日に開催された厚労省医道審議会のあはき師、柔整師分科会が「認定しないことが適当」という結論をまとめたため幸いであったが、視覚障害当事者として、その先行きに懸念を禁じ得ない。
ご存じのように、文部科学大臣と厚生労働大臣は、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律(あはき法)第19条で、視覚障害者の生計が困難とならないように、視覚障害者以外の学校・養成施設の認定をしないことができると規定しているが、「当分の間」とその条文には記してあり、いかにも心許ない。
あはき業(鍼按業)を通しての生活権擁護の取り組みについては、視覚障害当事者によって既に明治時代からその運動が脈々と続けられている。
そこで本稿では、明治期から上記第19条が規定された昭和39年(1964)までを中心に、視覚障害あはき業における生活権擁護の歴史的展開を整理してみた。視覚障害あはき業問題の現状や今後を考える上での基礎資料、あるいはよすがになれば幸いである。
なお、本稿では、原則的に戦前までの「あはき業」は時代に即して「鍼按業」、「視覚障害者」は「盲人」と記す。また、史料の中には、今日から見たら差別的で不適切な表現もみられるが、歴史的資料としての真正性を考慮して、あえてそのまま記述するのでご了承願いたい。
当道座の役割
中世以後、幕府の公認を得て、寺社奉行の管理下で、組織された盲人の自治的な互助組織に当道座があるが、その起こりは9世紀にさかのぼる。
仁明天皇の子で、平安時代前期の皇族である人康親王(831〜872)は、眼疾による中途失明で盲目であったが、山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦、詩歌を教えた。そして人康親王の死後、そばに仕えていた者に検校と勾当の官位を与えられた。この故事にならい、その後当道座の最高の官位は検校とされた。
鎌倉時代、『平家物語』が流行し、多くの場合盲人が琵琶の伴奏に合わせてそれを語った。その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護・管理下に入っていく。室町時代に明石覚一検校は『平家物語』のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開き、「久我家」が座の支配権者である「本所」となった。
その後、江戸時代には徳川幕府から公認され、寺社奉行の管理下におかれ、その本部は「職屋敷」と呼ばれ、京都の佛光寺近くにあり、長として惣検校が選ばれ、当道座を統括した。一時は江戸にも関東惣検校が置かれ、その本部は「惣禄屋敷」と呼ばれ、関八州を統括した。座中の「盲官」と呼ばれた官位は、最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれたが、それぞれは更に細分化され合計73の位があった。
当道座に入座して三絃や鍼按等で業績を挙げれば、それらの位は順次与えられたが、昇格には非常に長い年月を要し、実際にはそのままで検校まで進むことは極めて難しかった。このため、幕府は当道座がこれらの「盲官位」を金銀で売ることを公認し、最下位から検校まで73の階級を順次すべて金銀で購入するには、総額719両を要したという。大工の手間賃で換算すると1両は現在の30〜40万円に相当するので、これは2億5,000万円前後にあたる。
官位であるために、検校ともなれば社会的地位はかなり高く将軍への拝謁も許され、さらに、最高位である惣検校となれば大名と同様の権威と格式を誇った。
また、江戸時代の当道座は内部に対しては、盲人の職業訓練など互助的な性質を持っていたが、一方では、「座法」による独自の裁判権を持ち、盲人社会の秩序維持と支配を確立していた。位の上下による序列は非常に厳しく、外部に対しては、平曲(平家琵琶)及び三曲(箏、地歌三味線、胡弓)、あるいは鍼灸、按摩などの職種を独占していた。特に平曲は鎌倉時代以来、当道座の表芸であったが、江戸時代には次第に沈静化し、代わって地歌、箏曲を専門とする者が一般化した。
このような音楽家や鍼灸医の他、学者や棋士として身を立てる者もおり、また昇官に必要な金銀を得させやすくするために元禄以降、金銭貸付業としても高い金利が特別に許され、貧しい御家人や旗本をはじめ町人たちからも暴利を得ていた検校、勾当もおり、18世紀後半には社会問題化したこともある。しかし総じて、このような盲人への保護政策により三味線音楽や箏曲、胡弓楽の成立発展、管鍼法の確立など、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展は促進されたのであった。
ここで、当道座の役割をまとめると、おおむね次の三つに分けることができる。
第1は、「盲官」と呼ばれる座中の官位が与えられたことで、これは肩書きとしてかなり羽振りが効いた。例えば、検校になると紫の衣を着れるとか、外出する場合には、かごに乗って供侍を何人かつれて歩くとか、あるいは大名や幕府から武士と同じ待遇をしてもらえたのであった。
第2は、階級の任官料や冠婚葬祭などで入った資金を元に当道座では、共済制度をつくって、生活扶助を仲間の盲人達に与える役割を果たしたのである。
第3は、同業組合としての役割で、鍼按業者の営業の権利を守ったり、仲間のもめ事の調停などを行った。
このように当道座は、三つの機能を通して盲人の生活を守ってきたのである。
中世の盲人芸能者の座を源流とするこの当道座は、近世に入ると、鍼灸・按摩等の職業を占有化するとともに、生産社会から疎外されていた多くの盲人たちの生活要求を吸収する組織として、幕府・諸藩の保護下で厳格な身分秩序を形成しつつ発達していった。しかし、総検校を頂点として盲人を支配するこの制度は、封建的諸制度の解体と中央集権体制の確立を志向する明治新政府の政策とは相容れず、明治4年(1871)11月3日の太政官布告によって廃止された。太政官とは明治18年(1885)に内閣制度が設置されるまで存続したわが国行政の最高機関である。
この太政官布告の主な内容は、盲人の官職(盲官)の廃止、配当金取り集めの禁止、持ち場を区分し他の営業を妨げることの禁止などであった。
盲官廃止による生活困窮
この盲官廃止は、盲人の生活、特に階級の低い盲人の生活に大きな打撃を与えるものであった。加藤康昭著『日本盲人社会史研究』(未来社、1974)によると、明治4年(1871)の盲官廃止の直前に東京府が実施した盲人調査によると、盲人の鍼按業への依存度の高さと困窮の状況が端的に示されている。
具体的には、調査人員825人(「検校・勾当」138人、検校・勾当以下の盲人という意味の「以下盲人」687人)の職業種別については、「鍼治揉療治」が670人(81.2%)と圧倒的に多く、次いで「金子貸出」83人(10.8%)、「音曲指南」56人(6.8%)の順となっている。また、825人の生活状況をみると、「自活者」387人(46.9%)よりも「窮迫者」435人(52.7%)の方が多い。
この調査結果において特に注目すべきは、調査人員は825人の83.3%(687人)を占める大多数の「以下盲人」たちにあっては、その過半の60.6%(416人)が窮迫の状態にあったことだ。そして、「以下盲人」全体の89.2%は「鍼治・もみ療治」であり、下層盲人の生活を支えてきたのは、主として鍼治・按摩であったことがわかる。さらにその貧しい収入を補ったものが座による吉凶のときの組織的な徴収・配分であったから、鍼治・按摩の縄張りの独占を禁じ、配当金取り集めを禁止した盲官廃止令は、彼らにとって生活の一層の急迫化を意味するものであった。
当道座の厳しい諸規範は、盲人の生活を規制し束縛する桎梏であったが、同時にそれは盲人の生活や営業の防壁ともなって一定の生活保障の役割を果たしてきた。したがって、座の解散は、封建的制限の撤廃とともに、盲人から座のもつこの救済的機能をも奪ってしまったことになる。
封建社会の解体過程において、このような盲人の封建的存在形態は、明治4年(1871)の盲官廃止令により、いわば上から強力に促進されたため、盲人は封建的座から解放されるとともに、救済・授産などのそれに代わる何らの保障もないまま資本主義的諸関係の中に放り出されたのである。
つまり盲人は、当道座の解散によって職業(鍼按業等)の再編と貧困からの生活防衛を軸とする新たな問題に直面し、その意味で、盲官廃止令は、盲人にとって資本主義的近代社会への起点をなす重大事件であったといえよう。
医療制度の改革と鍼灸の規制
当道座の解散以後、盲人の再組織化を促進する契機となったのは、西洋医学の普及と医療制度の近代化に着手する明治政府の鍼灸・漢方医学に対する排除・規制政策、及びそれらがもたらした盲人の生活の危機であった。
明治7年(1874)発布の「医制」は、西洋医学の出題による医術開業試験制を定め、伝統的医療である鍼灸・漢方の衰退を図るものであった。
鍼灸業については、「医制」の第53条において「鍼治灸治ヲ業トスル者ハ内外科醫ノ指圖ヲ受ルニ非サレハ施術スヘカラス若シ私カニ其術ヲ行ヒ或ハ方藥ヲ與フル者ハ其業ヲ禁シ科ノ輕重ニ應シテ處分アルヘシ」と規定している。この規定は、鍼および灸の施術を医師の監督の下に行わせ、これらの業務を近代的医学の管理下におこうとしたものであり、西洋医学の積極的な採用という政府の方針の一つの現れとして注目される。
なお、厚生省健康政策局医事課編『逐条解説――あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律・柔道整復師法』(ぎょうせい、1990)は、この間の事情を次のように記す。
「按摩術については、医制では何らふれられていなかった。また、医制の規定の全てが直ちに実施されたわけではなく、この鍼および灸の施術に関する規定も現実には施行されずに終わった」。
鍼灸術規制の具体的政策として、明治政府は、明治18年(1885)に「鍼灸術営業取締方」(内務省達甲第10号)を定め、各府県に対して鍼灸術営業取締規則の制定を指令した。その「取締方」の内容は、「針灸術營業者之儀ハ従来開業ノ者並ニ新規開業セントスル者ハ自今出願セシメ其修業履歴ヲ検シ相當ト認ムルトキハ差許不苦(後略)」というものであった。したがって、この「鍼灸術営業取締方」により、全国各府県において鍼灸術に対する就業履歴の届け出制と施術・施薬の規制が実施されたのである。
盲人組合の結成とその要求
1880年代末の各府県における鍼灸術営業取締規則の制定は、同規則への対処策として、盲人による鍼按業者組合結成の契機となった。
例えば、東北地方では「仙臺市内ニ在リテ針治按療ヲ營業トスル盲人締盟シ業務ノ伸張ヲ計リ従來ノ弊害ヲ矯正スル」等を目的として仙台盲人組合が結成されている(『官報』第1782号、1889年6月10日)。また、東京府(1943年から東京都)では明治22年(1889)3月、府知事の勧告により、府下の業者200余人を集めて「鍼灸治会」を結成している。
これら1890年前後に結成された組合の中には、東京の鍼灸治会のように風俗弊風に対する自主規制を求める行政当局の干渉によって作られたものも多かったが、同時に、各府県における鍼灸術営業取締規則の制定を契機として、分散していた盲人の諸要求を吸い上げる役割をも担っていた。つまり組合に結集した盲人の要求とは、一つには盲官廃止令以後の盲人鍼按業者の窮乏化に対する生活防衛であり、一方では学術技能の学習であった。特に、医術開業試験によって医師への道を断たれ、また、鍼灸術営業取締方の通達によって自由な施術・施薬を規制された盲人たちは、西洋医学の学習によって自らを近代的に装備し、その危機に対抗しようとしたのである。
そのことを東京都盲人福祉協会編『東京都盲人福祉協会90年のあゆみ』(1994)は、「東京の鍼灸治会においても、検校・勾当などを講師として迎え、警視庁の承認を得て講習会を開き、新しい医学知識と技術の導入・錬磨に努めた」と伝えている。
しかしながら、治療技術においても経済的にも実力を持つ上層盲人が主導権を握る組合は、盲人の大多数を占める職人層の生活要求を十分組織化するには至らなかったようだ。当時の盲人鍼按業者の中には鍼を中心とする「学者派」と、按摩を主とする「職人派」の階層があり、両者の間には事態の認識と要求にくい違いがあったからである。
それはこの時期、先の内務省達による各府県の取締規則の対象が鍼灸業にとどまって按摩を含めておらず、また、就業許可の要件においても伝統的な師弟制度による履歴を認めていたため、組合を指導していた上層盲人の危機感と要求は、按摩を生業として生活問題に直面している大多数盲人の意識をとらえるには至らなかったのだ。
「学者派」の生活防衛要求は、明治26年(1893)に東京市日本橋区盲人鍼科医吉田弘道他8名によって衆議院に提出された「鍼科取締法ノ請願」に象徴されるように、盲人鍼医たちの身分法制定を目指す運動に結びついていった。
つまりこの「請願」は、「鍼灸術営業取締方」の達によって単に営業鑑札を認められたにすぎなかった鍼医たちが、西洋医にならい内務省試験によって鍼医の身分の確立を図ろうとしたものであったが、実現には至らなかった。
このように、1885年内務省達の「鍼灸術営業取締方」を契機に、明治20年代に結成された盲人の組合は、講習会の開催などによる資質向上策については一定の成果を上げたが、反面、生活防衛・身分法制定の要求については、広く盲人全体を組織化するに至らなかったのである。同時にそれは、組合の指導者である上層盲人にとって、本格的に近代資本主義が展開する明治後期における盲人問題の解決のために、その要求の再構築を迫るものでもあったのだ。
晴眼按摩業者の急増
明治30年代になると、先の内務省達による「鍼灸術営業取締方」を強化する府県が出始め、東京府のように鍼灸のみならず按摩業に対しても開業に際し簡易な試問を行う府県も現れてきた。しかし、それよりもさらに脅威となったのは、晴眼按摩業者の増加によって一層深刻化する大多数盲人の貧困問題であった。急速に発展した産業革命は、一方では失業貧民を産み出し、その一部は盲人の唯一の生活手段である鍼按業、特に按摩業に流入し、これら晴眼者の増加は盲人の生活をいっそう窮乏化させたのである。
盲人の按摩業への集中と貧困化の状況は、『内外盲人教育』第1巻春号(1912)に掲載された「1905年内務省調査」、及び加藤康昭著『盲教育史研究序説』(1972)に掲載された「1911年内務省調査」に端的に現れている。
それによると1905年には、盲人総数7万506人中按摩業従事者は1万8,201人でその割合は25.8%であったのに対し、1911年は6万9,167人中2万1,545人でその割合は31.1%に増加している。そして驚くべきは、1905年は盲人全体の実に46.2%が無職者であり、1911年には8%ほど減少してはいるものの、それでも4割近く(38.1%)の者が無職という実態である。
晴眼按摩業者増加の問題はすでに江戸後期においても発生しており、特に、幕末の文久年間(1860年代)には、盲人との争いが表面化した。
具体的には、江戸日本橋に門戸を張り晴眼の按摩業者を傘下におさめて大いに勢力を伸ばした「吉田流」と、盲人按摩業者の杉山流との縄張り争いである。盲人按摩師数10名が吉田流家元の家に押し掛け、「明眼の者盲目者の業をなしては盲目者は活計に苦しみにつき業を転ぜられたし、しからざれば我等を養い給え」と要求して座り込みを行った。これに対して吉田流は、幕府に対しこれは不当な行為であると訴え出た。
南町奉行は、「明眼の按摩業者は路上を流さずに客の招きに応じて治療に行くから盲人の業者の害にはならない」として、盲人の行為は不当であると評決を下した。
こうして盲人側の敗訴に終わったのだが、増加する都市貧民の一部は、盲人の有力な競争相手として按摩業に流入し、ほとんどそれ以外に収入の手段を持たない下層盲人達は、生活の脅威にさらされて、この集団的座り込み戦術に出たのである。
明治期になっても、都市部においてはこのような盲人と吉田流との縄張り争いはなお続くが、この競合は、いわば近代資本主義がもたらした社会現象の一つであると言ってよい。したがって、晴眼按摩業者の急増とそれに基づく貧困化の問題は、上記吉田流との縄張り争いという次元とは構造的にも規模的にも全く異質な問題であった。
盲人医学協会の設立
強まる按摩業規制への対抗と、窮乏化する盲人の生活要求を組織化するものとして、明治35年(1902)、東京に盲人医学協会(現・東京都盲人福祉協会)が設立された。同協会の設立の経緯を『東京都盲人福祉協会90年のあゆみ』は次のように記す。
明治32年(1899)頃内務省衛生局長が新聞紙上で盲人を無為徒食者と発言したことに憤激した盲人たちが、「我々も自ら読書によって新知識を広め、団結の力を持ってこのような暴論と闘わねばならぬ」と決意した。
そして、明治34年(1901)、協会設立の発起人でもあった一盲指導者が治療する患者を介して彼の板垣退助(1837〜1919)伯爵を紹介され、指導者数名が直接伯爵に面会して盲人会の現状を述べ後援を懇願した。
板垣伯爵は政界を引退後、風俗改良・社会改良事業に関心を寄せていた。彼は「既に盲人に按摩術を以て専業となすは社會成策上尤も當を得たるものなり、君子其の目的を貫徹せんと欲せば同業者互に團結し盲人自己の教育を啓發せしめ、社會に其の眞意の存する所知らせしめざるべからず」(『盲人保持協會三十年誌』)と後援を快く引き受け、同協会の総裁を受諾した。
こうして明治35年(1902)、総裁に板垣退助伯爵、顧問に全盲の高木正年(1857〜1934)衆議院議員を擁し、会員実に1,000余名を包容して設立された盲人医学協会は、鍼按業者の資質向上と生活の安定を図ることを目的に掲げ、東京築地本願寺の支持を得て、特に鍼按の講習、按摩営業者の保護に関して積極的に活動を開始した。
具体的な資質向上策としては、明治36年(1903)、本願寺より盲人教育助成金を給与されることとなり、これを各支部に割り当てそれぞれ講師を要して毎月講習会を開いた。また、同協会は、東京市内に鍼按講習所(築地盲人技術学校の前身で、後の都立文京盲学校)を設立するなど、盲人の教育要求を組織化するとともに、その向上のために活発な活動を展開した。
このように盲人医学協会は、近代医学の学習・治療技術の向上とともに、鍼按業を盲人の独占にすることを最重要課題とすることによって、明治20年代には十分組織し得なかった「職人派」の生活要求を受け止め、業権運動の活路を見いだそうとした。そして、この盲人運動は、急速に発達した近代資本主義下における社会改良事業を主唱する一部支配階級層の支持を得て、新たに政治運動として展開することになる。
本誌8月号の「読書人のおしゃべり」で、丸山旅人記者が藤原章生さんの著書、『世界はフラットにもの悲しくて ― 特派員ノート1992-2014』を紹介しました。
当協会点字図書館は7月から同書を点訳してきて、このほどサピエ図書館に点字版をアップしました。ルワンダの少年兵訓練や内戦中のリビアへの密入国からその昔アフリカや中米で出会った女性や知人、通りがかりの物乞いや奇人、首相が昼寝から目覚めず面会できなかったギニアビサウ共和国の呑気さまで、46編の藤原ワールドが展開されます。ぜひ、ご一読ください。
元長崎県立盲学校教頭の久松寅幸先生による新連載「近代盲人業権史」が、スタートしました。当初は、「近現代日本における視覚障害者の生活権擁護運動の歴史」というタイトルだったのですが、いかにも長すぎるので著者と相談して先のタイトルにしました。
リード文にあるとおり「明治期から昭和39年(1964)までを中心に、視覚障害あはき業における生活権擁護の歴史的展開を整理してみた」という内容だったので、原題にあるとおり「近現代」という近代と現代を総称する時代区分の方がより適切なのですが、ちょっと乱暴でしたが、あえて「近代」とひとくくりにしました。
というのは、従来、世界史・日本史によらず「現代」とは、一般に第二次世界大戦後を指すことが多いようです。しかし近年、ヨーロッパ史では、1989年の東欧革命を境にして「近代」と「現代」を分ける見方が増えてきています。そういう考えからすると、少々我田引水ではありますが、50年前を「近代」と呼ぶのもあながち無理ではないように思われました。
そこで、当方は「近代盲人生業史」というタイトルを提案したのですが、久松先生から「生業」より「業権」の方がより内容に適切であるとのご意見でタイトルが決まった次第でした。(福山)
日頃お感じになっていること、記事に関するご意見などを点字800字以内にまとめ、本誌編集部(tj@thka.jp)宛お送りください。