東電福島第1原発事故を調べた「政府事故調」による吉田昌郎元所長(故人)の聴取結果書(吉田調書)を巡り、朝日新聞が5月20日朝刊で「所員の9割が所長の待機命令に違反し、福島第2原発に撤退した」と報じた問題で、同社の木村伊量社長は9月11日、東京・築地の同社で記者会見し、誤報を認め、記事を取り消して謝罪した。
また、過去の報道について「慰安婦狩り」をしたとする吉田清治氏(故人)の証言を取り消すなどした検証記事で謝罪がなかったことなどに批判が出ていることについても、誤った記事で訂正は遅きに失したと謝罪した。
政府は9月11日、「吉田調書」を公開したが、どこをどう読めば「所長命令に違反し撤退した」ことになるのか、恣意的な記事と指弾されても仕方がないだろう。それにも関わらず、朝日新聞は、誤報だと批判した新聞・雑誌と執筆者に抗議書を送りつけた。もっとも今回の謝罪で、「抗議の前提となる事実が覆ったと認識しており、誤った事実に基づいた抗議ということで、撤回、お詫びしたい」と述べるのだが「法的措置を検討する」と抗議する前に、事実関係をしっかり調べなかったのだろうか。
朝日新聞は、「慰安婦問題を考える」と題した過去の同社報道を検証した記事を、上下にわけ、8月5日・6日の朝刊に掲載した。そこでは、「お詫びして訂正します」とでも書くべきところを、「慰安婦問題の本質 直視を」と上から目線で書き、「被害者を『売春婦』などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調が・・・問題をこじらせる原因をつくっている」と批判した。
ところで『朝日新聞』1997年3月31日付朝刊は、「連合国軍がビルマで捕虜にした経営者、朝鮮人慰安婦に尋問してまとめた報告(1944年)では、1カ月300〜1,500円の稼ぎを得て、50〜60%は経営者の取り分だった。『都会では買い物も許された』」と書いている。(「編集ログ」に続く)
本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」受賞者は、視覚障害情報機器アクセスサポート協会(アイダス協会)の前身である日本オプタコンティーチャズ協会で、発足当時から中心メンバーとして活動し、オプタコンの指導法確立とその普及に努め、アイダス協会への改組後も情報機器の指導者養成や普及に尽力。また、医療・教育・福祉の有機的な連携を組織化し、手弁当で視覚障害リハビリの発展に貢献されたアイダス協会理事の渡辺文治氏(神奈川県伊勢原市・63歳)に決定した。
第22回を迎える本賞は、「視覚障害者は、何らかの形で晴眼者からサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害の委員によって選考される。
贈賞式は、10月1日(水)に当協会で行われ、本賞(賞状)と副賞として、ヘレン・ケラー女史の直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。
オプタコンとの出会い
渡辺文治さんは、昭和25年(1950)宮城県仙台市郊外で生まれたが、ふる里は9歳から高校まで過ごした秋田県能代市だと思っている。
昭和45年(1970)東北大学教育学部教育心理学科に進学。ときは全共闘運動・大学紛争のまっただなかであった。
アイダス協会やロービジョンセミナーで司会や報告者として活躍する渡辺さんの活動の原点は、昭和48年(1973)に初めて日本にオプタコンが導入されたことだった。日本盲人職能開発センターを中心に、米国から発明者を招聘して国際セミナーや、1週間のオプタコン指導者(オプタコンティーチャ)養成講習会が開催された。草創期の受講生であった彼らは、早々に日本オプタコンティーチャズ協会を結成し、指導者向け講習会を10年以上にわたって行ったが、彼の卒業論文もオプタコンに関する研究だった。
しかし、ITの普及と共に、高価で操作が難しいオプタコンは淘汰された。
触察力をつける指導
修士課程修了後渡辺さんは、昭和52年(1977)に神奈川県総合リハビリテーション事業団に就職した。同事業団は肢体障害と視覚障害の医療と福祉の有機的な結合のために昭和48年(1973)に神奈川県が設立した社会福祉法人で、当時は東洋一の規模を誇り全職員は1,300人もいた。渡辺さんが配属された七沢ライトホームは、視覚障害者に点字指導、歩行訓練、日常生活動作訓練などを行う施設だが、平成22年(2010)に身体障害部門の更生ホームと統合され、「七沢更生ライトホーム」と改称した。
彼は視覚障害者生活支援員として、点字指導や感覚訓練をはじめ歩行訓練以外はなんでも取り組んだ。とくに視覚障害者は、物を触ることで空間認知力や想像力が育まれるので感覚訓練に力をいれたが、最近は盲学校でも、点字や触察を軽んじる傾向にあると嘆く。
彼が就職した頃は、利用者と職員でフロアバレーボールや、神奈川の名峰大山への日帰り登山も行った。だが、最近の利用者は高齢化し、他障害を併せ持つ者も増えた。また、以前は利用者の7割は障害者手帳1級であったが、今は2級以上のロービジョンが7割を占める。
多様で複雑なロービジョン
視覚障害者の多様化を受け止めるには、各専門分野別に団体があり、相互の情報交換がほとんどなされていない現状を変え、その壁を無くして学際的な統合をはかる必要がある。そこで彼も深く関与して、日本視覚障害リハビリテーション協会、視覚障害日常生活訓練研究会、日本視覚障害歩行訓練士協会、ロービジョン研究会を統合して、平成4年(1992)に「視覚障害リハビリテーション協会」が設立された。
以上のような全国的な活動と共に渡辺さんは、地元でも神奈川県視覚障害者球技審判協会の設立にも一肌脱ぐ。そして、ボランティアとしてサウンド・テーブル・テニスやフロアバレーボールの審判としても活躍している。
最近、渡辺さんがもっとも力を入れているのは、ロービジョンの勉強会である。ロービジョンの障害は多様で複雑だが、眼科医でさえ、ロービジョンのリハビリに関心がない人も多く、従来は医療と福祉と教育で情報を共有できていなかった。そこで彼も呼びかけ人の1人となり、平成12年(2000)に神奈川ロービジョンネットワークが設立され、今では、県下のすべての大学医学部、特総研や盲学校、リハビリ施設の関係者や多数の眼科医が参加して、年に2回の研修会と毎月の勉強会を続けており、8月に行われた勉強会は77回目を迎え、10月の研修会は31回目となる。
60歳で定年退職した渡辺さんは再雇用され、視覚障害者リハビリ一筋37年、平成28年(2016)3月を持って七沢更生ライトホームを去る。目下、眼科医と対等な立場で話ができるスタッフを育てあげるのが喫緊の課題だという。(福山・戸塚)
(「巻頭コラム」の続き)
当時の巡査の初任給は45円、大卒初任給は80円。陸軍2等兵の月給は6円、上等兵10円、軍曹30円、少尉70円、中佐310円、大将550円である。これから慰安婦は、かなりの高給取りであったことがわかる。
この記事の元になったのは、米軍が太平洋戦争中、ビルマ(現ミャンマー)で捕らえた朝鮮人慰安婦20人らに尋問した内容をまとめた米国戦争情報局資料「心理戦チーム報告書」(1944年10月1日)だが、そこには英文でこう書いてある。
「慰安婦は、兵士へのサービスのために日本軍に付属した売春婦、または『プロの軍隊随行者』以外の何ものでもない」。以上は拙訳だが、「売春婦(a prostitute)」は、いくら私でも誤訳のしようがない。
ところで、吉田清治氏の証言を嘘だと最初に指摘したのは、現代史家の秦郁彦氏で、1992年4月30日付『産経新聞』が報じた。それを受けて朝日新聞の記者が、吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという。それにもかかわらず、朝日新聞はその後もこの誤報を流し続けたのだ。
朝日新聞が、1992年に誤報を訂正していたら、吉田証言が国連クマラスワミ報告(1996年)やアメリカ合衆国下院121号決議(2007年)などの事実認定で有力な証拠として採用されることはなかっただろう。きれいごとをいう前に、問題をこじらせる原因をつくったのは、どこであるか自覚すべきではないか。(福山)
本誌8月号、「追悼 塩谷治先生」の記事中、早稲田大学4年の夏に自殺する沖縄出身の盲大学生「真喜屋仁(まきや・じん)」が出てくるが、「真喜屋実蔵(まきや・じつぞう)」の間違いではないかとの読者の指摘がありました。京都府立盲学校岸博実先生の御教示で『沖縄タイムス』の記事によると、真喜屋仁はペンネームで、本名は真喜屋実蔵であることがわかりましたのでお知らせします。(編集部)
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