THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2014年6月号

第45巻6号(通巻第529号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:脱原発という妄想を暴く映画 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
バンコク訪問記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5
(インタビュー)澤田理絵さんの声楽レッスンとコンサート ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
11
仏眼協会盲学校へのレクイエム ― 空襲で消えた我が母校
  (5)学校給食と先生方 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
26
人間の幸せとは? ― ブータン訪問記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
31
自分が変わること:赤瀬川さんの文体 その1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
37
鳥の目、虫の目:この夏、クロールで1km泳ぐ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
42
リレーエッセイ:視覚障害リハを理解した相談支援者の育成を切望して ・・・・・・
46
外国語放浪記:ヨーロッパ人とリゾート ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
51
大相撲:親方衆対現役幕内力士 全面対抗戦! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
55
フィリピン留学記:点訳は違法? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
59
時代の風:第7回太陽福祉文化賞、『さわるめいろ』児童出版文化賞受賞、
  ハンセン病「重監房資料館」オープン、がん転移の仕組み解析、
  日本アルコン「スポ育」事業パートナーへ、新聞見出し検知アプリ ・・・・・・・
63
伝言板:ロゴス文化教室、専門点訳者実践養成講座、「読む権利」企画展 ・・・・
67
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
脱原発という妄想を暴く映画

 昨秋から首を長くして待っていたドキュメンタリー映画「パンドラの約束」を見た。本作品では、英米の高名な5人の作家、ジャーナリスト、環境保護活動家がなぜ反原発から原発推進へ舵を切ったのかを、反原発運動の主張も交えながら映像化している。観客の75%が原子力反対派だったが、上映後は約80%が原発推進派に変わったと米紙が報じた曰く付きの映画である。
 反原子力映画「ラジオ・ビキニ」を1987年にリリースして以来、強硬な原子力反対派であったロバート・ストーン監督は、環境破壊の歴史を描いた前作「アースデイズ」(2009)を制作する中で、これまでの誤解と原発の必要性を痛感したという。
 現在、世界では440基の原子炉が稼働しているが、原発50年の歴史の中で発生した深刻な事故は、スリーマイル島、チェルノブイリ、福島の3件だけで、意外にも死者はチェルノブイリの事故だけで、しかも収束作業にあたった作業員を含めたその数は56人に過ぎない。
 一方、WHOの調査によると化石燃料による大気汚染では、300万人にのぼる人々が毎年亡くなっている。
 この映画のハイライトは、米国アルゴンヌ研究所で一体型高速炉(IFR)が全電源停止したときの実験だ。原子炉が最高出力で稼働し、停止装置を無効にして原子炉が停止できない状態でどうなるか? 福島の津波による全電源喪失とうり二つの状況だが結果はまるで違った。自動的に制御装置が働き温度を下げ、原子炉は見事に自動停止したのである。原発の安全技術は、実はそこまで高度化しているのである。
 先ほど脱原発を目指す「自然エネルギー推進会議」を小泉純一郎(72)、細川護熙(76)の両元首相等が立ち上げたが、無知故のトンチンカンな行動以外のなにものでもないことを、この映画は完膚なきまでに示している。だまされないためにも「パンドラの約束」は必見の映画である。(福山)

(インタビュー)
澤田理絵さんの声楽レッスンとコンサート

 【ソプラノ歌手澤田理絵さん(40歳)は、コンサート活動のかたわらカルチャースクールや合唱団、自宅で声楽を教えている。そのお弟子さんの1人がウィーン少年合唱団のオーディションに合格して、この冬ウィーンに旅立った。日本人では7人目の快挙だ。澤田さんはコンサート活動と声楽レッスンを自身の音楽活動の2本柱としているが、外部からはとくに声楽教授の活動はうかがい知れない。そこで澤田さんの知られざる音楽活動の来し方を振り返りながら語っていただいた。取材・構成は本誌編集長福山博】

修行時代

 昭和49年(1974)4月、澤田理絵さんは福岡県北九州市で生まれた。両親とも全盲で、2人で鍼灸院を開業していた。
 小学部は北九州盲学校に通い、中学部から筑波大附属盲学校に進んだのは、友だちが欲しい一心からであった。
 北九州盲でも小学部を通じて同級生は3人いたが、彼女以外は重複障害児で、学齢の勉強をするのは彼女たった1人。しかもなにかにつけて他の児童の面倒をみなければならず、子供なりにとても大変だった。そこで、単純に友だちが欲しかったので、両親にそう言うと「しっかり勉強して、入学試験に受かればいいよ」と言ってくれた。
 中学部に入学すると同級生は一挙に12人に増え、とても嬉しかった。小学部でエレクトーンを習っていたが、その頃、将来音楽家になろうとはつゆほども思わなかった。バレーボールが好きで小学3年からなじんでおり、中学部入学と共にフロア・バレーボール部に入り、高校3年まで続けた。
 いわゆる普通の中学生であった彼女の将来の夢は、実は理学療法士だった。しかし、全盲では難しいと、あはき鍼灸手技療法への道を進められた。他にやりたいこともなかったが、反抗期でもあり鍼灸院の跡継ぎだけにはなりたくなかった。
 中学3年の時に音楽の教科書に「帰れソレントへ」というナポリ民謡(カンツォーネ)が載っており、クラス全員が音楽のテストで1人ずつ原語で独唱しなければならなかった。当時バンドを組んだり、カラオケで歌っていたが、マイクを通さない音楽にはじめて触れていたく感動した。それで全日本盲学生音楽コンクール(現・ヘレン・ケラー記念音楽コンクール)に出場して3位入賞した。
 そのときに「声楽を教えて下さった附属盲の音楽の先生が、声楽家は自分の声を楽器と言うんですけど、いい楽器を持っているので、真剣にそちらの道を進むことを考えてみたらと言ってくださって、それもいいかなと思った」と当時を振り返る。
 しかし、母親の猛反対に遭う。附属盲には年に4回以上帰郷しなければならないという規則があり、新幹線に乗って帰った。すると「音楽家で食べていくのは至難の業。鍼灸師という安定した職業があるのに、いばらの道をわざわざ歩むことはない」と叱責されたのだ。しかし、彼女はやはり音楽をやりたいと、母を説得にかかったが、とどのつまりは激しいバトルになった。ところがケンカする中で、娘のなみなみならぬ決意を知り、母も折れて、「音楽科に行くのなら死んだ気でやりなさい」と、音楽大学への進学までも既定路線として、支援することを約束してくれた。
 附属盲高等部音楽科に進むと同級生が3人おり彼女は声楽を専攻した。「小野山幸夏先生に本当に厳しく指導していただきました。その過程では私には向いていないのではないかと弱気になったこともありましたが、本気で辞めようとか、後悔したことはなかったですね」と言う。イタリアものが好きで、彼女は高等部2年のときに全日本盲学生音楽コンクールの独唱2部で、イタリア歌曲を歌って今度は1位になる。
 大学ではイタリア歌曲とドイツ歌曲に分かれるが、彼女は武蔵野音楽大学声楽科に進んでからもイタリア歌曲を専攻する。声楽ではイタリア歌曲はピアノでいう初心者向けの教則本「バイエル」みたいなもので、まず最初に通らなければならない関門だ。というのはイタリア語は発声に向いている言語なので、基礎を作るときには最適なのである。音楽家は誰に師事するかが重要だが、大学ではイタリア歌曲の大家三池三郎教授に師事して順風満帆だった。
 イタリアへは在学中に3カ月程度、休学を免れる短期留学で通った。最初のイタリア行きは、その後声楽集団「ヴォーチェ・アプリート」を主宰する和出野充洪先生(ヘレン・ケラー学院理療科教師)に連れて行ってもらった。「声楽をやっていてイタリアを知らないなんて何ごとだ」と誘われたのだ。アルバイトをしてお金を貯め、それでも旅費が足りないので親に懇願すると、「先々の糧になるなら」と快く援助してくれた。
 大学在学中に思い出深いのは、和出野先生らと一緒にウィーンの老人ホームに慰問演奏に行ったことだが、これは仕事だった。和出野先生の知り合いがカルチャースクールで合唱を教えていて、ウィーンに慰問に行くのだがソロを歌い、合唱もエキストラとして手伝って欲しいと頼まれたのだ。
 こうして大学時代はイタリアに都合7、8回行った。当時はバブル期だったので、レストランの生演奏や、演歌のバックコーラスのレコーディングを一晩徹夜で行うというアルバイトもそれなりにあった。ただ、遊び目的で行ったのは初回だけで、その後は勉強か仕事で行ったのだが、卒業して、結婚して、子供が生まれてからもイタリア詣では続いた。
 自分が習ってみたい先生の情報を大使館に訪ねるなど、八方手を尽くして調べたり、手紙を書いてレッスンをお願いしたりもした。世界を股にかけて活躍する声楽家の受講料は高かったが、1レッスン100ユーロ以上を提示する先生は人間的にはどうか、疑えという説もあった。日本人価格というものがあり、欧米人よりも2、3割高めに提示されることがあるからだ。世界的に活躍している先生にも何人も習ったが1時間100ユーロは当たり前で、良心的な先生はその半額だった。
 ローマには有名なサンタチェチェーリア音楽院があり、当時は学科長だったが、その後学長になる方に、週2回、100ユーロでお願いした。しかし演奏会に出演することになり、そうなると週に2回では足りなくなった。苦しい懐具合だったが、こんな機会はもう2度と無いかも知れないと清水の舞台から飛び降りるつもりでお願いした。ところが先生は「週に2回の契約だから、後は僕からのスカラーシップ(奨学金)」と言って、週2回の月謝で2週間毎日教えてくれた。そういう人間的に素晴らしい先生にも恵まれたことは幸運だった。
 このエピソードは2006年の話だが、すでに結婚しており、子供は手のかかる4歳と2歳だったのでまわりに多大な迷惑をかけた。附属盲の先輩であるヘルスキーパーの夫も少し見てくれたが仕事があるので、後は彼女の福岡の実家と、夫の福井の実家にお願いして、越境して保育園に入れてもらって面倒をみてもらった。音楽はゴールのない研究と練習の日々なので、まわりの理解がないととてもつとまらないのだ。

声楽レッスン

 カルチャーセンターや合唱団で教えたり、自宅で個人教授すると経済的には安定する。華やかな業界で、きれいな服を着て歌っているだけでは、トップクラスのソリストでも食べていけないのが日本の現実なのだ。
 フリーだと何の保証もなく、産休も育休もないので、音楽大学を出て学校の音楽教師になる人も多いが、彼女は教職課程を一応とったものの教師になろうとは思わなかった。とにかく20代は演奏の仕事がしたかったのだ。もっとも大学出たてだと晴眼者でも生徒はあまり集まらないので、ましてや視覚障害者だと大きなハンディがある。
 本格的に教えるようになったのは、コンサート活動で次第に認められるようになってからだ。「素人なんかには教えませんよね」とか言われて、「いえいえそんなことありませんよ」と言って、合唱団を教えて、合唱に飽きたらずちょっとソロの勉強もしようかという人に教え始めたのだ。口コミだったり、紹介だったり、演奏を聴いて習いたいという方もいて着々と少しずつ増えていった。
 ウィーンに行った少年は次女の同級生で、「澤田さんのお母さんが声楽のレッスンをされているそうよ」という口づてで、「息子がウィーン少年合唱団に入りたいと言い出したのですが、ちょっと見てやっていただけませんか?」と頼まれて、彼が8歳のときから教え始めた。
 この少年はウィーン少年合唱団の東京公演を聴いて以来、「僕はあそこに行くんだ」と言い出した。それまで、自分でなにか欲しいとか、なにかをしたいと言ったことのないおとなしい男の子だったので、両親はびっくりしたらしい。そこで、戸惑いながら澤田さんへの依頼となったのだ。
 そしてレッスン1年目の去年、彼はオーディションにパスした。
 9歳以上の少年約100名による同合唱団はウィーンのアウガルテン宮殿内にある学校、練習場、寄宿舎による私立の全寮制学校の形をとっている。寮生活なので毎週末家に帰らなければならない。このため家族がウィーンにいる子でなければ9歳から入ることはできないのだ。しかし10歳になると附属盲ではないが、家に帰るのは年に数回でいいと緩和されるので、それを待って彼は入ったのだ。
 澤田さんは結局足掛け2年彼に教えた。まずイタリア歌曲を教え、次いで初心者向けのドイツ歌曲を教えた。合唱団の発声はソロの発声とは違うので、彼がウィーンへ行って戸惑わないように留意して週1ペースで教えた。ただしオーディションの前とか、ウィーンに行く前とかは週に2、3回集中して特訓した。
 彼はドイツ語も勉強していたが、アルファベットもちょっとあやしいほどの決して神童みたいな子ではなかった。どちらかというと普通のおとなしい男の子だが、意志がとても強かった。父親が医師なので、将来は音楽家ではなく医師になると言っていた。医師ならばドイツ語は無駄にならないし、いずれにしろ少年の声は変声期でリセットされるので、下手に音楽家を目指されるよりいいと思われた。
 彼女はプロを目指している人と、アマチュアの両方を教えている。これからコンクールを受けるとか、音楽大学に行くという人に対しては自然に厳しくなる。一方、アマチュアには、楽しく続けられることを一番に考える。しかし、それでも結果を出せるようにしないとスランプに陥る。去年は歌えなかった曲を今年もう1回やって、「音が出るようになったじゃないの」というように目に見える結果が必要なのだ。

ソリストの厳しさ

 「わたしの子供は中学1年と小学校5年生の2人娘で、最近は楽になりましたね。2歳と4歳のときは子供を置いて、よくイタリアに行くねと言われました」。しかし、遊びに行くのではなく、勉強して、キャリアアップを目指していたので、雑音はあまり気にならなかった。ただ、仕事につなげるための時間なので、お金になるのか、名誉になるのかはわからないが、「ちゃんと形にして絶対返せるようにしよう」と思って精進した。
 上の娘は視覚障害なので附属盲へ行き、ピアノを習っている。が、「音楽家には絶対ならないって言っていますので、よかったと思っています」(笑い)。音楽の道は険しく、お金もかかる。「本人がどうしてもやりたいと言ったら考えますが、両親たちがしてくれただけのサポートを私たちがはたしてできるかという問題もありますね」と言う。「父は亡くなりましたが母は元気で、いまだに家が1軒建ったと言われますからね」。そういう意味では本当に田舎の治療院をやっている全盲夫婦がよくぞ音楽大学に行かせてくれたなと感謝する。音楽大学はお金持ちのお嬢さんが多いので、服装にもお金がかかり、チャラチャラした学生がいっぱいいたのだ。
 しかも、大枚をはたいても音楽一本で食べていくのは至難の業。「母が言ったように、鍼灸のほうが経済的には恵まれたかもしれませんが、幸いにも音楽以外の仕事をせずに生活ができており、それはもうとんでもなく幸せなことだと思っています」とも言う。
 その幸運を呼び寄せたのは自らの努力であった。仕事だって誰かが持ってきてくれるわけではない。自主コンサートは自分で営業し、プロデュースからマネージメントまで全部引き受ける。クラシックコンサートは、人を集めるのが大変だ。以前よりクラシックファンは減ってきており、昔はクラシック・コンサートではトークはなかったが、今は「私はしゃべりません」とお高くとまっている場合ではないのだ。歌えてしゃべれて、歌もマニアックな歌もあれば、1曲2曲は親しみやすい日本の曲だったり、最近はやっている映画音楽をクラシック音楽風に歌ってみるとかの工夫もしないと、継続的な仕事にはならない。
 健常者の中で仕事をするには、「点字楽譜が無いから延期して」ということは通用しない。今日曲が決まって、「あさってリハーサルをする」と言われたら、誰かに楽譜を読んでもらうか、CDを聴きながら楽譜に起こすしかない。
 また、芸術家には変人が多いので、そういう中でどうやって身を処していくかは難しい。何百回も人前に立っているベテランが出番直前にはパニックを起こして当たり散らしたり、暴言を吐いたり、徘徊したりする。駆け出しのぺいぺい時代は、本当に動揺して酷い演奏になったが、「今は残念ながら海千山千」と笑う。
 盲導犬は大学を卒業してからずっと一緒。仕事仲間や共演者でも親切な人はもちろんいるが、基本的に手引きはお願いしない。本番前にそういうことがあったら、演奏に差し障るという人がたくさんいるのだ。また、「どこそこに集合!」と、行ったことがない所を言われても、盲導犬と一緒だと安心できる。このため手続きは大変だが、イタリアにも連れて行く。
 6月は福岡で、毎年10年以上やっている自主コンサートを行う。今年の共演者はピアノとフルート。CDアルバムは一番新しいものは2年前にデビュー15周年記念にリリースしたが、もうダウンロードの時代なので「CDも終わりでしょうね」と少し悲しげにささやいた。

武久ショック

 2011年1月23日に東京ヘレン・ケラー協会は、創立60周年記念チャリティー「ハッピー60thコンサート」を開催した。出演はヴァイオリンの和波孝禧さん、チェンバロの武久源造さんという大御所2人に、ソプラノの澤田理絵さん、フルートの綱川泰典さん、ピアノのイ・ジェヒョクさん(韓国)という若手3人であった。
 このコンサートを通じて、彼女はものすごく価値観が変わった。15年くらい音楽業界で生きてきたが、大人になって怒られたのは久々のこと。武久先生にこっぴどく怒られたのは、ものすごく新鮮だった。「和波先生は、やさしく励ましてくださったのですが、武久先生は私の至らないところを的確に指摘してくださいました。武久先生のお宅にお邪魔して音合わせをしたのですが、ぴんと背筋が伸びる、充実したありがたい経験でした」。
 個性あふれる音楽業界の中でも武久先生はとても情熱的な方であり、尊敬されている。このため、彼の周りには固いコミュニティがあり、バッハの研究者で彼のことを知らなければもぐりだと言われるほどである。
 「すごいんですよ。目が見えるとか、見えないとかはまったく関係ないですからね。和波先生は温厚ですばらしいジェントルマンですが、武久先生もまた違った意味で魅力的な方で、私はお二方をとても尊敬しているのです」と言う。
 「しかもコンサートの後、『またいっしょに演奏会しようね』とメールをくださって、本当にうれしかったです。ヘレン・ケラー協会の70周年にはまた私を使ってやってください」といって、澤田さんはいたずらっぽく笑った。
 筆者(福山)は、「ハッピー60thコンサート」の後、音楽評論家梅津時比古先生(現・桐朋学園大学学長)にインタビューして、「音楽とは『耳で奏でるもの』ハッピー60thコンサートを聴いて」を本誌の2011年3月号に記事としてまとめた。その中で梅津先生は、「実は、私は彼女の歌をはじめて聴いたのですが、驚きました。こんなにリリカルで、力強い要素もあり、明るい美しい声があるのかと感嘆したのです。その発声法がとても自然で、しかも高度な技術をもっておられて見事でした」と激賞されておられたが、それには武久先生の愛の鞭も一役買っていたのかも知れない。

編集ログ

 好評連載中の「仏眼協会盲学校」の会長は、読売新聞社のオーナー社長である正力松太郎氏でした。正力氏は初代科学技術庁長官として、原子力発電を強力に推し進めたため「日本原発の父」とも呼ばれています。
 私はつい最近まで、「原発は必要悪」と考えていました。しかし今号の「巻頭コラム」で紹介したようにドキュメンタリー映画「パンドラの約束」(Pandora's Promise)を見て、「原発は新技術を導入して積極的に推進すべし」と、その考えを根本的に改めました。しかし、だからといって、それは「原発の父」の業績を高く評価するものではありません。
 昭和31年(1956)1月に、原子力委員会初代委員長に就任すると正力氏は、原子力発電所を5年後に建設する構想をぶちあげます。これに対して、原子力委員会の委員であった湯川秀樹博士は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴えますが、聞き入れられないため抗議の辞任をしています。
 福島の事故につながる問題の種子は、正力氏が中曽根康弘氏と組んで強引に原発の推進に奔走した過程で作られ、原発安全神話という虚構と共にばらまかれました。
 原発は強力に推進しなければなりませんが、だからといって「パンドラの約束」は東京電力の免罪符ではありません。日本航空のように一度倒産させて、会社更生手続を経て、新会社でも設立しない限り、過去のしがらみを引きずったままの東京電力による原発再稼働は、誰もが容認できないでしょう。(福山)

 お詫びと訂正

 先月号の「仏眼協会盲学校へのレクイエム」で、“毎月4日の「大詔奉戴日」”とあるのは、正しくは“毎月8日”です。原稿を転記する過程で生じた過誤のため、著者と読者のみなさまにご迷惑をおかけしました。お詫びして訂正します。(編集部)

投稿をお待ちしています

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