THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2014年4月号

第45巻4号(通巻第527号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:熊谷の陽だまりにて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
「ヘレンケラー・サリバン賞」候補者推薦のお願い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5
(特別寄稿)ミャンマーの視覚障害者と高等教育支援 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
6
(インタビュー)三上洋氏が偲ぶ楠敏雄氏の人となりとその業績 ・・・・・・・・・・・・・
16
仏眼協会盲学校へのレクイエム ― 空襲で消えた我が母校
  (3)「ゴンスパ」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
25
ラジオが告げたあの時・あの人
  「盲人の時間」から50年:ホアキン・ロドリーゴ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
30
自分が変わること:陣地を離れる悲しい春 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
34
大雪のおかげで、優しい声を聞く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
39
リレーエッセイ:中国進出にかける思い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
42
高まる期待、苦慮する現場
  パラリンピックにおける競技支援 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
47
外国語放浪記:タイのB級グルメ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
51
大相撲:1場所限りで廃止の相撲くじ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
55
フィリピン留学記:優れた福祉法ととても低い就学率 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
59
時代の風:パーキンソン病臨床手法確立、宮城県HP音声化急ぐ、
  滋賀県図書館「サピエ」加盟へ、神経再生誘導チューブ ・・・・・・・・・・・・・・
63
伝言板:日本ライトハウスチャリティコンサート、
  チャレンジ賞・サフラン賞募集、写真教室、音訳ボランティア養成講座  ・・・
67
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
熊谷の陽だまりにて

 社会福祉法人日本失明者協会(埼玉県深谷市)は、茂木幹央理事長が平成23年に第5回塙保己一賞大賞を受賞したことを記念して、埼玉県熊谷市郊外に同法人6番目の施設である熊谷ライトハウスと7番目の施設である熊谷ライトハウスリフレッシュセンターをこの2月に相次いで完成させた。
 その竣工式典と祝賀会が、3月10日(月)午後1時より熊谷市のホテルガーデンパレスにおいて、来賓や関係者184名を集めて盛大に挙行された。
 JR高崎線熊谷駅から車で15分の距離にある熊谷ライトハウスは、定員10名の重度の視覚障害者を対象としたグループホーム。居室はすべて個室で、2010年に立て替えられた養護盲老人ホームひとみ園(定員100名)と同じ構造にして、自分の部屋を畳敷きにするか、ベッドにするか選ぶことができる。
 あはきの免許を持つ入所者は、隣接するあはき施術所であるリフレッシュセンター(定員10名)で、働きながら生活することができる。これはひとみ園に隣接するウォーターベッドを揃え年間6,000人が受診する盲人ホームあさひ園の成功に裏付けられたもので、しかもさらに本格的な第6施術室まである視覚障害者の就労施設である。同一敷地内に生活施設と就労施設が併存することにより、入所者の働く喜びと経済力を強化するのが茂木さんの狙いである。
 熊谷ライトハウスの入所者はすでに決まっており30代と50〜80代の計10名で、その中には盲ろう者1名と週3回の透析治療が必要な人も含まれているという。
 式典のなかで、「学生時代からかれこれ60年のつきあい」という高橋實視覚障害者支援総合センター理事長は、「茂木さんの強い信念と行動力はよく知っているが、このように厳しい状況の中で、沢山の施設作りをされることは敬服あるのみ」と挨拶。すると、会場からは「寒風ふきすさぶ盲界にあって、まったくそのとおり」の声も聞かれ、参加者の強い共感を得ていた。(福山)

「ヘレンケラー・サリバン賞」候補者推薦のお願い

 「ヘレンケラー・サリバン賞」は、視覚障害者の福祉・教育・文化・スポーツなど各分野において、視覚障害者を支援している「晴眼者」にお贈りする賞です。これは、「視覚障害者は、何らかの形で晴眼者のサポートを受けて生活している。その支援に視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が1993年に創設、今年で22回目となります。なお、同賞の名称は、ヘレン・ケラー女史と同女史を生涯支え続けたアン・サリバン女史の名に由来します。選考は、視覚障害者によって推薦された候補者の中から、当協会が委嘱する視覚障害者の選考委員によって行われます。受付は6月末日(必着)まで。発表は本誌10月号で行い、受賞者には本賞(賞状)と副賞(ヘレン・ケラー女史のサインを刻印したクリスタルトロフィー)をお贈りします。推薦書をご希望の方は、当協会(03-3200-1310)までご請求ください。多くの方からのご推薦をお待ちしております。


(インタビュー)
三上洋氏が偲ぶ楠敏雄氏の人となりとその業績

 【楠敏雄障害者インターナショナル(DPI)日本会議副議長が2月16日、腎不全のため逝去された。享年69。
 1944年、北海道岩内町で生まれた楠氏は、2歳の時に医療過誤で失明。通算15年間盲学校で学び、龍谷大学に進学。府立高校の講師や社会福祉法人研究員のかたわら、障害者運動のリーダーとして活躍。全国障害者解放運動連絡会議(全障連)相談役、障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議議長、大阪障害者自立生活協会理事長なども務めるが、活動の場が大阪を中心にした障害者全般であったため、盲界での知名度は低い。
 そこで、同じ北海道生まれの2歳後輩にあたる三上洋氏(67歳、全国視覚障害児童・生徒用教科書点訳連絡会監事)に、盲学校での出会いから、楠氏の最晩年までを、自身の来し方を振り返りながら語っていただいた。編集部】

 お通夜と告別式は身内だけでということだったのですが、僕もお通夜に呼ばれました。車椅子の方は何人かおられましたが、視覚障害は僕1人でした。そして友人代表としてスピーチも頼まれました。20人という人数制限のところ、結局斎場に30人が押しかけました。障害者支援で大活躍されていましたから人望があったのです。
 彼は僕より2歳年上で共に北海道出身です。僕は札幌盲学校で、彼は小樽盲学校(1976年閉校)でした。就学猶予で1年遅れていたので彼が5年生で、僕が4年生の時に全道盲学校点字珠算競技会に共に出場して同点でした。その彼が僕が中学3年の時に、札幌盲学校の高等部(現・北海道高等盲学校)に入学してきました。
 僕が「楠さん」って言ったのは最初だけで、その後は「ノキ」と愛称で呼んでいました。同部屋になったことは1度もなかったのですが、寄宿舎生活でしたからすぐに親しくなりました。彼は札幌には本科3年までいて、専攻科の時に大阪の親戚を頼って大阪府立盲学校に転校しました。
 僕も将来、東京教育大学教育学部特設教員養成部(以下「特設」、現・筑波大学理療科教員養成施設)に進学する夢があり、それには札幌よりも京都がいいだろうと1965年に京都府立盲学校の専攻科理療科に転校しました。彼も大阪府盲経由で特設を目指したのですが不合格。あの頃は不合格になったら京盲の専攻科普通科に予備校感覚で入る人が多くて、彼も僕が専攻科2年の時に、京盲の専攻科普通科に入ってきました。
 その後、彼は1年浪人して1967年に龍谷大学文学部英米文学科に入学。同大大学院修士課程修了後の1973年に大阪府立天王寺高校定時制に週4時間の英語の非常勤講師として勤めました。全盲で高校の教壇に立ったのは、彼が全国で初めてでした。
 僕も特設を滑って専攻科普通科に入ったものの1学期が終わると、札幌の父親が糖尿病で入院したというので、それを機に実家に帰りました。
 悶々とした日々の中で、このままではいけないと1974年の28歳の時に、一念発起して、僕はリストアップした『点字毎日』の広告欄を手に全国放浪の旅に出ました。あの頃は景気が良くて、「マッサージの免許があります」と電話すると、親方が「それではまあちょっと来てみろ」ということで、おじゃますると肩を揉まされて、「じゃあ、今日からでも働くか」と言われて、一番長いところは愛媛県松山市の道後温泉で2カ月、一番短いところは東京・鶯谷の2日間でした。僕は1カ所に長くいようとは思わなくて、当時は日給制でしたから、明日辞めますと言えばそれでお仕舞いでした。
 この全国行脚で、僕は半年間に11の都市を巡り、沖縄を最後に1975年の3月放浪をやめて京盲の同級生を頼って、京都市の整形外科病院に午前中だけの職を見つけました。やがて大阪府豊中市で働く障害者と出会い、公務員の採用試験を受けようじゃないかと言われて、すっかり乗せられ、豊中市に試験を受けたいと要望書を出したんです。すると点字の試験は前例がないと断られ、そこから障害者の採用制度設立に向けた運動をはじめました。楠さんは高校に勤めていましたが、昼間は授業がないので、随分応援してくれました。
 彼はその頃からいろんな差別運動で戦っていたのですが、本当に面倒見がいい人で、非常勤ですから彼も金がなくて1つしかないパンを僕に半分くれたりしました。外部からはがちがちの運動家と見られるのですが、実はものすごく面倒見のいい優しい男だったのです。
 全障連が1976年に結成されると事務局長となり、1979年に養護学校義務化がありました。彼は障害者は地元の学校に入るべきだという運動の先頭に立っており、養護学校なんかいらないと反対運動を展開しました。僕も視覚障害者の統合教育を進めましたが、学校を問題にするのではなく教育内容が問題で、どっちを選ぼうと当事者を応援すべきだという意見でした。この考えは今でも変わりませんので、その点は彼とは違います。しかし、年齢が2歳違ったので、弟のようにいろいろと面倒を見てくれました。同志ではなくて兄弟ですから、彼は自分の運動を押しつけたり、分担しろとは言いませんでしたね。
 公務員の採用試験は結局9年かかりました。何故そんなにかかったかというと、僕の他に筋ジストロフィーの方もいて、行政は「筋ジス」は病気じゃないか、障害者は雇ってもいいけれど、病人を働かせるわけにはいかないと言うのです。しかし、僕らは「みんなで採用試験を受けられるようにして欲しい」という原則を掲げたので長期戦になったのです。
 1984年に初めて豊中市の障害者採用試験が実施され、市内在住の47人の障害者が一度に受験して、結局3人通ったんです。その中に僕もいて1985年に市町村で初の図書館職員となりました。
 長期戦の間、楠さんとは共同であはきの治療院を経営しました。整形外科に半日勤務していましたが、それだけでは食べて行けないので、彼もあはきの免許を持っていましたから、2人で交代で週3日ずつ仕事をしたのです。なるべく保険診療ができるように、医師に同意書を書いてくださいとお願いしましてね、大阪市平野区にあったので、平野解放治療院と名乗っていました。そうです、解き放つの「解放」です(笑い)。
 僕が豊中市に採用された1985年に、彼は社会福祉法人大阪府総合福祉協会で研究員として働くようになり、定年までそこに勤めました。
 1990年頃、楠さんは全障連の活動をバリバリやっていて、2000年にはNPO法人大阪障害者自立生活協会(大障協)を作りました。「運動に責任を持とう、地域に根を張ろう」を旗印に緩やかな会を組織して、行政との対話を重視したのです。ただ行政との交渉ではお互いに腹を立てて感情的になることもありますよね。しかし彼は、最後に今日の議論はこれこれで、次の課題はこれですねとちゃんとまとめるんです。だから行政も自然に一目置くようになりましたね。
 楠さんは他にもいろいろなことをやっています。弱視者がホームから転落して負傷した国鉄の賠償責任を求める大原訴訟の旗振り役をしました。1995年の阪神・淡路大震災では、すぐに障害者救援本部を立ち上げて、結局、1億2000万円もの義援金を集めて、被災地40数カ所の障害者グループに届けました。2000年には大障協を組織して、死ぬまでDPIの副議長でしたね。2007年には色々な方に書いてもらって、僕や楠さんそれに西尾元秀さんの3人の共同編集で、解放出版社から『知っていますか? 視覚障害者とともに一問一答』も出しました。一度改定して、お陰様で現在も好評発売中です(笑い)。
 僕は、2001年に市立図書館から豊中市教育センターに配置転換になりました。全盲の子供が地元の小学校に入学したので、そのお子さんの支援のための移動でした。
 豊中市を退職してからも、僕は今でも大阪府立今宮高校で週1回2時間非常勤講師として点字を教えています。それから、週2回豊中市立小学校に通う全盲の小学校3年生の子供支援員(ジュニア・メイト)をしています。豊中市はこの30年に6、7人の全盲の子供が普通小学校に入りましたが、40万規模の市としては異例です。
 楠さんは元々糖尿病でここ20年ほどは人工透析をしていました。そして昨年10月に胆石・胆嚢摘出手術を受けたのですが、予後が悪く一進一退の状態が続きました。彼は鳥がすごく好きで、鳥の世話で気分転換ができると言っていましたが、最期の入院で、手放さざるを得ず悲しい思いをしたと思います。
 そして、去年の暮れ、病院から透析をやったら命の保証ができないと告げられました。しかし、彼は1月10日に自分の意志で最後の透析を受けます。それから1カ月以上透析をしないで、何度も危篤だと言われては蘇りました。息子さんがお通夜会場で「父の最後の生き様は、それまでの人生をそのまま写したようだ」と言われたように楠さんは最期までかっこいい生き様を皆に見せてくれましたね。本当にありがとう!

編集ログ

 「フィリピン留学記」の石田さんはこのたびICU(国際基督教大学)を卒業されました。しかもみごと英国の名門サセックス大学の大学院にも合格されました。おめでとうございます。このため9月からは英国に留学されますが、それまではとりあえず肩書きなしになります。そこで、今月号からしばらくの間著者名は「東京都/石田由香理」となります。
 2月14日(金)夕刻、東京のホテルグランドヒル市ヶ谷において、埼玉県から第7回塙保己一賞大賞を贈られた高橋實視覚障害者支援総合センター理事長の祝賀会が開催されました。あいにくの大雪で、大阪からの新幹線が1時間遅れたほか、都内でも大幅にダイヤが乱れました。このため急遽出席を取り止めた人もおられましたが、それでも80余人の参加者で盛会でした。
 謝辞の挨拶に立ったとても82歳には見えないかくしゃくたる高橋氏は、「今日の私があるのは数限りない皆さんに支えられてのこと」とまず述べられました。そして、大勢の人が祝辞の中で「同氏の今日があるのは次子夫人の内助の功があってのこと」と述べたことを受けて、大学卒業目前に結婚した馴れ初めなどを披露されました。また、昨年大阪に引っ越したものの月の半分は東京に単身赴任して、ホテル住まいをしていると近況報告。最後に、「うちの奥さんいわく『あんた、ほんとうに最後まで迷惑のかけっぱなしじゃない。今日は雪でみんな大変な思いをしておられますよ』。いわれてみればそのとおりですが、雪はわたくしのせいではないんです」と言って、参列者の笑いを誘っておられました。
 なお、これは後日談ですが、同祝賀会を切り盛りしてくださった日本失明者協会茂木幹央理事長(「巻頭コラム」参照)と職員のみなさんは、通常はJR高崎線深谷駅まで1時間半で帰れるところ、大雪のためになんと28時間もかかったそうです。(福山)

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