昨年末、南米・エクアドルの最大都市グアヤキルで新婚旅行中の日本人夫婦が銃で襲われ死傷するという痛ましい事件があった。
滞在する高級ホテルから、すぐ近くにある別の高級ホテルのレストランに移動する際、タクシーで初乗り運賃(2ドル)の距離にもかかわらず、ホテル専属のリムジン・キャブ(ハイヤー)から20ドルも請求された。そこで、帰りはレストラン手配の車を断って、流しのタクシーに乗ったすえに巻き込まれた事件である。
惨劇を知っている立場から「たった20ドル(約2,000円)をケチって」と、生前の行動をあざ笑うのはたやすい。実際にそのような書き込みがネット上にある。しかし、殺された彼の行動ははたして非常識だったのだろうか?
「タクシーで2ドルなのにハイヤーだからといって10倍はひどい」と憤慨して、ホテルの車を敬遠するのは、むしろ一般的な日本人の態度ではないだろうか。治安の悪さを念頭に「10倍でも実は適正価格」という論理を、われわれがスムースに理解することは実に難しい。
事件に遭遇した夫婦が、歩いて行ける距離であるにもかかわらず車を使ったのは、夜のグアヤキルが危険だということをよく知っていたからだろう。しかし、タクシーの一部に悪質業者がいることは知らなかったようだ。もしかしたら昼間さんざんタクシーを利用していて慣れていたのかも知れない。ただ、白昼は安全でも、夜はまた別である。
開発途上国に行くと、おおむね物価は低いが、なかには法外に高いと思われるものもある。そのはざまで、われわれはその土地の相場の把握に四苦八苦する。そしてついには混乱して、つい桁を間違えたり、極度の吝嗇漢、つまりケチになったりする。
私などは危険な目に遭うとしばらくは、「数千円で安全が買えると思ったら安いもの」と思うのだが、2、3年ですっかり元の黙阿弥となる。世界有数の治安の良い国に住み、安全にカネを払うという習慣がない国では、日常的な危機管理能力が身に付かないようである。
今回の事件は、日本人なら誰でも同じような陥穽にはまる可能性が大きいと心得るべきであろう。(福山)
1913(大正2)年に、京都市立盲唖院は校名を維持しつつ、椹木町通1つを隔てた北隣に聾唖部を設け、盲部との分離を果たした。そして10年後に発布された盲唖教育令を受けて、1925(大正14)年に完全分離を成し遂げた。現在、旧盲唖院跡には京都第二赤十字病院が建っている。
完全分離は1878(明治11)年の創立から45年を経ていたので、「宝箱」には半世紀に近いろう教育の史料も数多く収蔵されている。
日本聾史学会の会員を中心に、聾唖教育の教育課程、聾唖同窓会、手話・口話の歴史などを調査するために来訪し、諸史料に光を当ててくださる方も多い。以下、聾史関係史料を紹介し、参考に供したい。
まず、重要なのは「京盲文書」である。この連載の初回に「日本の視覚障害教育の歩みを明らかにするうえで欠かせない第一級の史料」と書いたが、それはそのまま「聴覚障害教育」にも当てはまる。明治10年代の楽善会文書が少ないだけに、その当時の聾唖者の実態調査・古河太四郎の障害観・聾唖教育の内容を示す文書、「手勢法(しゅせいほう)」や「発音起源図」、入学・卒業・退学関係書類、学校日誌、試験問題などどれもが貴重で、研究の発展とともにますます価値が高まっている。
昨年秋には、近畿聾史グループの手によって、『ベル来日講演録 ―東京・京都―』(A5版・130ページ)が刊行された。これは、グラハム・ベルが1898(明治31)年に来日した折に京都で行った講演記録を翻刻し、伊沢修二がまとめた『唖子教育談』(ベルの東京での講演)を復刻して併載したものである。京都での講演については京盲文書『ベル氏来院記』が底本になった。その内容は、当時の米国聾教育事情の紹介と日本への提言である。「口話」一辺倒の論者とみられがちだったベルの真実の姿に迫るうえでの新しい素材ともなっている。
盲唖院時代の「唖生」教育に関わっては、京都府立聾学校資料室にも重要な史料がある。美術教育と関連して、盲唖院に心を寄せた高名な画家たちによる作品も大切に保存されている。
宝箱に残されている唖生の作品は多くはないが、秀作揃いだ。筆頭に挙げてよいのは児玉兌三郎の「盲唖院校舎図」であろう。明治30年代の改築を経た後の校舎を西方斜め上から鳥瞰した構図だ。背景には比叡山もそびえ、盲唖院のたたずまいをよく表わしている。彼には、菊と蝶を描いた4枚組の小襖もある。卒業後には、盲唖院の絵画科教員ともなった。
児玉と共に画家としての技量や唖生同窓会の活動で知られる岡元次(おか・もとじ)(藤園(とうえん))の絵もある。絹布に山茶花とメジロをあでやかに描いた逸品であり、現在、表装することを検討中である。岡の師である望月重蔵が買い求め、私邸で使ったという桑の木を用いた飾り箪笥もある。1枚板の大きな桑が材料になっているが、それは今ではまず手に入らない。飾りの彫刻もみごとで、製造に携わった唖生の腕の確かさ、それを指導した教員の水準の高さがうかがえる。これら、岡と望月ゆかりの品は、京都府が望月重蔵に与えた辞令などと共に、昨年、望月のご遺族が寄贈してくださった。「48uの宝箱」は、宝物の新たな発見・収蔵にも力を入れている。
唖生対象の職業教育では、刺繍や彫鐫(彫刻)も採り上げられた。いずれも実作品は残っていないが、内外の博覧会などに出品したときの、作者・主題などを書き連ねた文書がある。刺繍に就いては下絵と思われる文様が描かれた和紙も現存する。
他に、唖生の生徒会や同窓会の活動ぶりを物語る史料もいくらかある。
京都盲唖院を卒業した後、松江や京都で唖生に対する教鞭をとり、聾唖運動をけん引した藤本敏文、彼を指導した鳥居嘉三郎院長、東京の小西信八らによる肉筆の書簡も見逃せない。
京盲文書に加えるべきものとして、新たに盲唖慈善会・盲唖保護院関係史料も見つかっている。
ベル氏来院記
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
【12月25日、田畑美智子WBUAP(世界盲人連合アジア太平洋地域協議会)会長の案内で、バヤスガラン・マイダール(バヤスさん)モンゴル盲人協会事務局長と秘書のシネチメグさん、それに通訳のダシドゥラムさんが当協会を訪れた。バヤスさんに彼の半生、盲人協会の活動等を聞いた。取材・構成は本誌編集部戸塚辰永】
当日は真冬並みの寒さだったが、「日本の冬はとても暖かいですね。モンゴルの厳冬期の気温は日中でもマイナス20から30℃で、朝夕はもっと寒くなります」とバヤスさん。彼は2006年に初来日し、今回5回目。「耳に飛び込んで来る音、日本の雰囲気がとても気に入っています」とも語った。
彼らは中国国際航空で首都・ウランバートルを12月19日に発ち、途中北京で1泊し、12月21日に成田に到着。その足で、筑波技術大学のAMIN(アジア医療マッサージ指導者ネットワーク)プロジェクト関係者を表敬訪問。23日には、アメディアフェアで、田畑WBUAP会長の講演の中で、モンゴルの視覚障害者について2分間バヤスさんが話し、同協会のスリッパ工場で作った刺繍入り、手縫いフェルト製スリッパの販売を行った。そして25日には、日盲連、アメディア、当協会を訪問。翌26日に帰路についた。
来日の目的はスリッパの販路開拓で、スリッパ販売により視覚障害児の教育資金に充てると共に、工場の職員を増やし、視覚障害女性の職域拡大に繋げるという。スリッパの販売と聞いて首を傾げたが、フェルト製スリッパの価格をインターネットで検索すると、1足4、5,000円するものもあるので納得した。
バヤスさんは1970年9月14日、首都から東へ400kmのヘンティ県で公務員の両親の下、6人兄弟の3男として産まれた。8歳まで両眼が見えていた彼は、ある日突然目の痛みに襲われ間もなく失明。
3年療養した後、家族と別れ、首都にあるモンゴル唯一の盲学校に入り、小学部1年から寄宿舎生活で高等部までの10年間同校で学んだ。ちなみに、2011年からモンゴルの教育制度は、10年制から日本と同様12年制に変更された。
その後、彼はモンゴル国立大学に進学し、歴史学を専攻したが、もっぱらマルクス・レーニンの思想史や共産党史ばかりでつまらなかったという。
1991年にソ連が崩壊し、モンゴルも1992年に世界銀行の支援を受け、社会主義国家から資本主義国家へ歩み始めた。その頃、彼は仲間とロックバンドを組み、音楽活動に熱中して大学を中退する。
モンゴルの国土は156万4,100km2で日本の約4倍。人口はわずか286万8,000人。なんと人口のほぼ半分の131万8,100人が首都で暮らしている。ウランバートルは高層ビルが林立する都市だが、地方に行くと隣家まで30km離れている所もあるという。
モンゴル国統計局によれば、2011年度のGDP(国内総生産)成長率は前年度比17.3%で世界トップクラス。2011年度のGDPは61億ドルで、1人当たり2,227ドル。2016年度は255億ドルで、1人当たり1万1,290ドル。2025年度は600億ドルで、1人当たり2万ドルと予測しているが、これは豊富な鉱山資源の開発を織り込んでのことである。
近年経済が急成長しているなか、その反面格差は広がり、国民の32%が貧困状態にあえいでいる。しかも国民皆保険制度は1999年に廃止され、治療費が払えず、病気を悪化させる人も増えた。また、2006年に福祉制度が改正され、最重度の障害者に小遣い程度の障害者手当が給付されるのみとなった。手当削減に対して、モンゴル盲人協会は2007年7月、ハンガー・ストライキで抗議したという。
モンゴルには視覚障害者が1万8,000人おり、その内1万5,000人が重度視覚障害である。日本とは異なり、医療、衛生、栄養状態が悪いため、病気になってもすぐに治療を受けられず失明する例が多いという。
首都に盲学校があるものの、1万5,000人の内80人しか教育を受けられない。「ほとんどの視覚障害児は教育を受ける機会すら与えられず、家でひっそりと暮らしています」とバヤスさんは語る。
モンゴル盲人協会は1970年代に視覚と聴覚を統合した障害者団体から始まる。1990年代にそれぞれが分離。モンゴル盲人協会は2005年に改組し、バヤスさんが初代会長に選出され、2012年度まで3期会長を務めた。発足当初からモンゴル盲人協会はデンマーク盲人協会の支援を受けると共に、近年はWBUAPの指導・助言を得て、モンゴル全21県に支部を、加えて首都郊外の2つの村に支部を作り、計23支部を有する堂々たる組織へと急成長した。会員は、実に9,100人で、視覚障害者の半数が参加している。
主な活動は5つ。その1つがFM放送局で、バヤスさんが2004年にウランバートルで「ベストFM」を開局した。同局の番組は、新聞、小説、エッセイなどの朗読、視覚障害者関連情報、音楽、コマーシャルなどで、バラエティーに富んでいる。職員は40人ほどで地方に支局がある。支局には10人のスタッフがおり、記者として取材に当たる視覚障害者もいる。FM放送以外の活動は、パソコン、点字・歩行訓練、マッサージ、英語の指導である。
モンゴルのマッサージ教育は、2005年にJICA(国際協力機構)の沖縄プロジェクトに3人が参加し、あんま、指圧、マッサージを習ったことから始まる。加えて、IAVI(国際視覚障害者援護協会)の留学生として来日し、熊本県立盲学校で学び、あはき国家資格を取得したガンゾリク・バトバヤルさんが2006年から教師としてあんま、指圧、マッサージを指導している。また、2008年からAMINプロジェクトと連携し、指導技術の向上をはかってきた。
2007年にモンゴル初の視覚障害者によるマッサージ店がオープンした。その名は、「ベスト・マッサージ」、FM放送局の名もベストFM。
「モンゴルでは、盲人は何もできないと思われています。盲人でも何でもでき、それも最も良くできるという気持ちを込めてベストと名付けました」とバヤスさんは熱い思いを語る。続けて、「私は常に人に負けてたまるかという気持ちを持っています。モンゴルの視覚障害者にもっと自信を持って生きてもらいたいと思ってベストという名前を付けました」。
今では、その名の通りベストFMはモンゴルで1番のFM放送局。ベスト・マッサージもモンゴルで最大のマッサージ・チェーン店になった。
ベスト・マッサージは全国に25店ある。その内18店がウランバートルで、7店が地方で営業しており、従業員は120人。当初3年間は赤字だったが、皆が頑張り、今では黒字に転換し、事業も軌道に乗った。施術は、あんま、指圧を行い、人によってはモンゴルの手技を加えている。
2010年にバヤスさんは岡山県立盲学校講師の竹内昌彦さんと知り合った。竹内さんは、発展途上国の視覚障害者の自立支援について講演を20年以上行い、寄付を募った。そして、2011年3月にウランバートルにモンゴル盲人協会付属マッサージ・トレーニング・センターを設立した。ガンゾリクさんが校長になり、マッサージの1年コースを指導しており、将来は3年コースにする予定だ。
「それまで実習室が2つしかありませんでしたが、竹内先生の支援で、立派な施設ができ、修了生がベスト・マッサージで働けるようになりました」とバヤスさんは感謝する。
デンマーク盲人協会とWBUAPの協力で、モンゴル盲人協会の活動がより活性化した。とくに、地方で暮らす視覚障害者が情報を得て、当事者として自治体や政府と交渉し、視覚障害者の現状を訴え、理解を求めている。その結果、状況も少しずつ改善しつつある。
「会長の頃から、モンゴルの視覚障害児が統合教育を受けられるよう努力してきました。今年から事務局長になりましたが、一生をかけ、1人でも多くの視覚障害児が統合教育を受けられるようになることが私の目的です」とバヤスさんは最後に決意を語った。
今月号から渡邉勇喜三先生による「仏眼協会盲学校へのレクイエム―― 空襲で消えた我が母校 ――」を連載します。
東京下町を舞台に、戦中戦後という激動の時代を背景に、渡邉酒店に生まれた少年の成長を、仏眼協会盲学校に関わる人々と共に活写したノンフィクションです。
今回は導入部ということで、特集企画なみに大きく取り上げましたが、来月号からは5ページになります。
渡邉先生が真っ先に書いておられるように、私が先生に執筆依頼をしたのは平成24年(2012)4月のことでした。しかし、実際は「何しろ古い話で資料収集が難しいかも知れない」と難色を示される先生を「そこをなんとか、今が最後のチャンスかも知れません。このままでは仏眼協会盲学校は歴史の闇に埋もれてしまいます」と拝み倒して、無理矢理引き受けていただいたものです。その後、一時は「この企画はやはり遅すぎたのかな」と、弱気になり、半ばあきらめかけたこともありましたが、生真面目な先生の粘り強い努力で、なんとか陽の目を見ることができた次第です。ご期待ください。
「リレーエッセイ」の笹田三郎先生とは、昭和62年(1987)11月に香港で開催された第1回東アジア太平洋会議に同行させていただいたのが初顔合わせで、YMCAの宿舎では同室でした。宿は別ですが、川野楠己さんもNHKの取材で来られていました。
なんともはや26年も前の話で、笹田先生の精力的な活動は、当時とまったく変わっていません。否、もしかしたら、さらに水を得た魚になっておられるのかも知れません。
盲学校の食堂では毎日ベジタリアン・ターリー(インド定食)を召し上がっているようですが、飽きないのでしょうか。私はどんなにがんばっても1カ月で悲鳴をあげること必定です。普通の日本人には、とても真似のできるものではありません。健康に留意してご活躍ください。(福山)
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