朝鮮初級学校の周辺で街頭宣伝し、ヘイトスピーチ(憎悪表現)と呼ばれる差別的な発言を繰り返して授業を妨害したとして、学校法人京都朝鮮学園が「在日特権を許さない市民の会」(在特会<ざいとくかい>)などを訴えた訴訟の判決で、京都地裁は10月7日、学校周辺での街宣禁止と1,226万円の賠償を命じた。
この事件は、そもそも校庭のない京都朝鮮第一初級学校(当時)が、隣接する京都市が管理する公園を無許可で占用していると在特会が同校校門前で街宣を行い、抗議側が威力業務妨害罪などに、初級学校側が都市公園法違反に問われたものである。
この事件をめぐっては、すでに在特会のメンバーら4人が威力業務妨害罪などに問われ、有罪判決が確定。初級学校の元校長も京都市が管理する公園を無許可で占用したとして、都市公園法違反の罪で罰金10万円が確定している。
在特会が「朝鮮人を日本からたたき出せ」とか「朝鮮人を保健所で処分しろ」とか、物騒な罵詈雑言を拡声器で叫んだりせず、おだやかに紳士的に抗議を行っておれば、初級学校側に一方的に非がある小さな事件に過ぎなかった。ところが社会正義を実現するためには手段を選ばない、あるいはついでに鬱憤晴らしとしか思えない差別的な発言をするから話がややこしくなったのである。
ただ、この正義に酔うという現象は、在特会ばかりか、喫煙者いじめとしか思えないような嫌煙権を声高に叫ぶ人にも見られることなので、意外に根が深いものなのかも知れない。ちなみに私は2003年3月21日に煙草を止めたので、禁煙歴10年ということになる。
ところで、ヘイトスピーチを法規制すると、「権力により恣意的に使われるおそれがあるので表現の自由の観点から弊害が大きすぎる」というもっともな意見がある。しかし、少なくとも「戸外で拡声器を使ってのヘイトスピーチ」に関しては、なんらかの法規制をしてもいいのではないだろうか。(福山)
明治の中頃日本で創られたルイ・ブライユの石膏像がある。いくつか謎がないでもない。
直径20.5cmの円形で、厚さは部分によって0.8〜3cmで凹凸がある。色づけされておらず、表も裏も白色だ。長い年月のあいだにいくらか灰色がかっているが、保存状態はまずまず良好だ。重さは500gだから持ち重りのする品ではないが、歴史の角度から考えると軽く扱うことは決して許されない。
「直径と厚さ」と書いた通り、これはレリーフで、腰から上の顔や腹の側が、洋服を着た姿で凸状に表現されている。今日私たちになじみの深いブライユ像だ。
誰が、いつ、創ったのか。いつどのようにして京都にやってきたのか。こうした疑問は、すぐにあらかた解ける。複数の裏付け史料があるからだ。
まず、作者は、青山武一郎(あおやま・ぶいちろう)である。石膏像の裏面に「青山武一郎」と墨書きで明記されている。青山は、東京盲唖学校の教員で、美術を担当していた。どちらかと言うと、盲教育よりも聾教育・聾唖者運動で活躍し、その名がよく知られた。明治39年に、東京・大阪・京都の3校長、小西信八(こにし・のぶはち)・古河太四郎(ふるかわ・たしろう)・鳥居嘉三郎(とりい・かさぶろう)が文部大臣に宛てて「盲・唖分離と義務制度化」を求めた上申の背景となった「聾唖教育講演会・第一回全国聾唖大会」を主宰した日本聾唖技芸会の代表者であり、後に聾唖教育の充実と聾唖者の職業問題で全国をリードする1人となった。
青山が、それを創ったのは、明治28年の夏よりも前だ。レリーフの裏面に、「明治二八年七月十●日」とある。●の部分は1文字消えている。これが青山から贈られた日が12日であることを示唆し、製造年月日とは考えにくい。
この寄贈については、京都市立盲唖院日誌にもっと明確に記されている。
「石川倉次(いしかわ・くらじ)遠山國太郎(とおやま・くにたろう)青山武一郎ノ三氏盲唖教育上ニ関スル諸協議ヲ為ンガ為来院ノ旨通報アリ本月十二日着院セラレタリ因テ三氏ノ来京并ニ滞在中ノ顛末ヲ左ニ略記ス」「東京盲唖学校ヨリ同校職員青山武一郎ノ製ニ係ル点字ノ発明者るいぶりいゆ氏ノ石膏像ヲ贈進アリタリ」と。
翌年には、京都の鳥居嘉三郎院長が東京に長期出張し、点字を含む指導法や盲・唖分離に関する共同研究に着手し、それから30年代に東西の共同研究が花開く。そのきっかけとなった青山らの上洛だった。
3人の賓客は、28日の夜汽車で京都駅を発つまで滞在した。京都側は、入洛直後に歓迎の茶菓会を催し、見送りに際しては「本院製盲生地理教授ニ用ヒ来ル針跡日本各国地図一冊并ニ小遣帳記入練習一冊参考トシテ送リ」、聾生児玉兌三郎(こだま・たいざぶろう)、伊集院キクらの絵や刺繍を学校に宛てて、3氏それぞれに対しては7月15日に撮影した記念写真を謹呈した。小遣帳は点字用だったと推定しうる史料もある。
石川倉次らによって日本訓盲点字が編み出され満5年を迎えた頃だ。京都が導入してまだ4年余りしか経っていなかった。点字による教育が徐々に各地に広がりつつあったとはいえ、この国土の上にいったいどれほどの点字利用者があっただろう。
ところで、青山は、どうやってブライユの顔立ちや体型や服装を知ったのだろう?写真か絵か立体造形から描いたのだろうが、どこから? 誰によって?
東京教育博物館の手島精一(てしま・せいいち)が小西信八に提供したアーミテージの『盲人の教育と職業』には、ルイの写真は載っていない。初版にも第2版にもない。あるいは、手島のコレクションにはレリーフもあったのだろうか。小西の外遊は、翌明治29年12月の出発だから時制が合わない。
青山の石膏レリーフは、ルイ・ブライユ以外の何者でもない。たいへんよく似ている。何らかのモデルか資料があったはずだ。東京盲唖学校は明治26年にコロンブス世界博覧会へ製品などを出展している。そうした国際交流を通じてもたらされたのだろうか。
ルイ・ブライユ石膏像
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
先月本誌で、バカチョンの「チョン」は、「韓国・朝鮮人に対する差別的表現というのは根拠のないでまかせで、原義にそのような意味はない」と述べた。しかし、江戸末期から明治初頭にかけての戯作者・仮名垣魯文(かながき・ろぶん)は中国人に対する当てこすり、あるいは差別意識を持って「チョン」を使っている。
「ちょん」とは江戸時代からある言葉で、文例としては明治3年発行の仮名垣魯文著『西洋道中膝栗毛』の、「仮染にも亭主に向かってさっきから人中だと思って勘辨すりゃ馬鹿だの豚尾(ちょん)だの野呂間(のろま)だのとモウ此上は堪忍袋の緒が切れた」という彌次さんこと彌次郎兵衛(やじろべえ)のセリフが有名で、その一部が『広辞苑』ほか多くの国語辞書に用例として採用されている。
「ばか」や「のろま」と並列に使われていることからもわかるとおり「ちょん」とは「知恵が少し足りない愚か者」程度の意味であり、朝鮮人の蔑称という意味は原義には毛頭ない。
『西洋道中膝栗毛』は、十返舎一九(じっぺんしゃ・いっく)著『東海道中膝栗毛』の彌次郎兵衛、北八の3代目の孫2人が、英国のロンドン万国博覧会見物にでかけたその道中を、明治3年から明治9年にかけて全15編30冊にまとめた大長編滑稽読み物である。
「馬鹿だの豚尾(ちょん)だの」は(初編上)の出だしのところ「日本東京」に出てくるので、明治3年(1870)に刊行されたものに間違いない。
同年といえば李氏朝鮮は鎖国中で、室町時代から江戸時代にかけて日本へ派遣していた外交使節「朝鮮通信使」も1811年を最後に途絶えていた。このため、日本国内で朝鮮人の姿は影も形もなかった頃のことである。これでは差別のしようがないではないか。
一方、中国人はというと江戸時代の鎖国下でも長崎は対中貿易港として認められ、当時の長崎の人口7万人に対して、1万人の福建省出身者を中心とした中国人が居住していた。オランダ船が来航していない期間に出島に住んでいたオランダ人は約15人だったから、その圧倒的な数がわかろうというものである。しかも1859年に長崎港が国際開放され、1870年に唐人屋敷が焼失したのを機に、隣接する長崎市新地町に中華街が作られ今日に至っている。また、1866年には横浜中華街の前身である横浜新田居留地ができており、魯文も見聞きしていたはずである。1868年には神戸港も開港し南京町もできたので明治に入ると、中華服に辮髪姿の中国人はかなり目立った存在だったはずである。
そこで、あろうことか魯文は『西洋道中膝栗毛』中の「ちょん」に「豚の尾」(とんび)という漢字を当てたのである。これは中国人に対する差別的表現といわれても仕方ない。
「豚尾(とんび)」とは、もはや死語だが、『日本国語大辞典』によると「中国人の辮髪をあなどっていった語」とあるからだ。
ただし、これは魯文が勝手に漢字を当てただけであり、「ちょん」の原義に中国人の蔑称という意味はない。
なお、魯文は1894年日清戦争のさなかに65歳で亡くなっている。(福山博)
本誌「自分が変わること」の連載でお馴染みの藤原章生さんがツイッターを始められました。「まだ初心者ですが、郡山発でいろいろつぶやきたいと思います。みなさまにお知らせいただければ幸いです」ということです。アドレスは<@serioakio>、毎日新聞のホームページともリンクしており、読み応えがあります。(編集部)
エイブラハム・ネメス博士(全盲)が10月2日、ニューヨークで逝去されました(享年94)。同氏については、本誌2007年9月号で、障害者職業総合センターの指田忠司(さしだ・ちゅじ)氏が「知られざる偉人」の中で「点字数学記号の考案者A.ネメス博士」として詳しく紹介しています。その記事は、昨年桜雲会から出版された指田忠司著『世界の盲偉人』にも収録されています。
コロンビア大学で数学を専攻し、修士号を取得したネメス氏は、1946年第2次世界大戦から復員してきた大学生に当初はボランティアで数学を教え、その後代替教員となります。1952年には彼が数学学習の中で独自に考案した点字記号体系「ネメス点字数学理科記号(ネメスコード)」が、米国の標準的な数学記号として採用され、1955年にはデトロイト大学(現デトロイト・マーシー大学)の数学教授に就任します。
その後、改良を加えたネメスコードは、現在、米国・カナダ・ネパール等で理数系の標準的な点字記号として広く使用されています。
ネパールでの導入にあたっては、私もお手伝いしたので、ネメスコードには格別の思い入れがあります。博士のご冥福をお祈り致します。(福山)
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