本誌、本年3月号(通巻第514号)に「今、日本にこの夢が必要だ!」と題して、ご存じパラリンピックゴールドメダリストで、日本パラリンピアンズ協会会長の河合純一氏に「リレーエッセイ」を書いてもらった。
書き出しは「2013年9月7日、この日は何の日でしょうか?」というものであった。しかし、この謎かけ、当時の私は皆目わからなかったのであった。
もちろん今はわかる。「アルゼンチンのブエノスアイレスで行われたIOC総会で、2020年のオリンピック・パラリンピックの開催都市が、東京に決定した日である」とこれは誰もが言えるだろう。
日本時間は9月8日で、この日の早朝テレビ各局は速報を流し、新聞各紙は号外を発行。とくに『讀賣新聞』は842万部もの「特別号外」を発行して、午前10時前後に購読者に宅配まで行う気合いの入れようであった。
ところで先の記事中、河合さんは4年前に2016年の招致に東京がブラジルのリオデジャネイロに敗れた原因を「立候補都市の中で国民・都民の最も低い支持率というものが、最後まで足を引っ張ったともいわれています」と分析している。一方、今回は「国内支持率も92%まで上昇したとのこと、よかったです」と彼はホームページに書いている。たしかに4年前と比べると、私たちの関心もにわかに高まったように思う。
今回の東京の勝因の1つに、オリンピックとパラリンピックを並列に並べて、国民に強くアピールしたことがあるのではないかと思う。少なくとも私はこれでコロッと宗旨変えした口である。
従来、オリンピックは文部科学省の所管だが、パラリンピックは厚生労働省の所管であるため、これまでパラリンピック選手がオリンピック強化選手用の施設を使えないなどの問題があった。しかし、政府は8月23日、来年度から文部科学省に所管を一本化することを決定。これにより、施設を使用する際の調整がしやすくなる他、指導方法の共有も容易になるということである。(福山)
本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」受賞者は、1998年の発行以来版を重ねている『点字・点訳基本入門』の著者で、点字製版のオーソリティである日本点字委員会(日点委)事務局長の當山啓(とうやま・ひらく)氏(東京都東久留米市・66歳)に決定した。
日点委の事務方として長年活躍する一方、日本盲人福祉研究会や全自動製版機開発の裏方、地域の点訳ボランティア養成などの活躍が高く評価された。
第21回を迎える本賞は、「視覚障害者は、何らかの形で晴眼者からサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害の委員によって選考される。
贈賞式は、10月2日(水)に当協会で行われ、本賞(賞状)と副賞として、ヘレン・ケラー女史の直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。
今から35年ほど遡って、日本点字図書館(日点)の古い建物の製版室を午後7時過ぎにのぞくと、よく當山氏が日本盲人福祉研究会(文月会)の名称で発行していた『視覚障害 ―― その研究と情報』の点字製版を行っていた。
当時、日点の館長は本間一夫先生だったが、日点が5時に終業すると、交代するかのように東京都心身障害者福祉センターに当時勤務していた田中徹二氏(現・日点理事長)が現れ文月会の業務を行った。そのため、田中氏は「日点夜の館長」とあだ名された。
『視覚障害』は、当初年4回の発行だったが、その後隔月刊、月刊誌へと発展するが、季刊の頃から當山氏たちは墨字版と点字版の作成を企画段階から、いわばサークル活動のノリで終業後、ときには茶碗酒片手に行っていた。
戦車学校校長などを歴任した啓氏の実父は、日本本土決戦のため昭和19年4月、妻子を旧満州に残したまま呼び戻され独立戦車第8旅団を指揮して、静岡県引佐郡三ケ日町(現・浜松市北部)に駐屯。敗戦と共に行き場を失った約500人の職業軍人は家族と共に、隣町の愛知県豊橋市にあった広大な陸軍演習地に集団入植した。
「私は昭和22年5月生まれですから、昭和21年の夏までに母は帰国したはずですが、幼かった姉を抱いて、ご多分に漏れず大変な苦労をしたようです」と啓氏は語る。
昭和27年、連合国軍の日本占領が終わるとともに軍人恩給が復活支給され當山家も一息つく。こうして啓少年が物心ついたときには、一家は普通の落ち着いた生活ぶりだったが、周囲から「中将の息子」という目で見られ、子供心に肩身が狭かったという。
高校で好きだった女の子と仲良くしたくて入ったボランティアサークルが、當山氏の今に続く点字人生の馴れ初めである。今もある「豊橋ともしび会」は、昭和36年以来点字カレンダーを作成して、全国に無償配布しているが、彼らは草創期の同会ボランティアとして、休日になれば点字印刷に汗を流した。そして彼は、同会にあった日点発行の『点訳のしおり』を読んで、点字が読めるようになる。
点字を本格的に勉強したのは、東京都町田市にある玉川大学文学部教育学科に入学してからのことだ。せっかく読めるようになったのだから書けるようにもなりたいと、日点の点訳通信講座を受講した。将来教師になると意欲満々で入学し、僻地教育研究部に入って下北半島などを現地調査したが、結局、未来の教師たちとは反りが合わず3年に進級すると退部。その頃から、部活での経験や自分の性格などから、教師に向いていないと思い始めた。
小学校教員の夢はあきらめたが、とりあえず中学・高校社会の教員免許だけは取ることにした。すると取得単位数が激減したので、学業そっちのけで、点訳とアルバイトに明け暮れ、大学3年になると、点訳奉仕者として点字書を日点に納めるまでになった。とはいえ、周りで就職内定の声を聞くと落ち着かなかった。そこで、出来上がった1冊の点訳本を手に、日点のある高田馬場駅に降り立った。
日点に入ったら点訳できるとばかり思っていたが、昭和45年4月1日に初出勤すると、なんと庶務係へ配属された。しかしこの経験が、その後日点委の事務に大いに役立つことになる。
待望の点字製版係への異動は5年9カ月後で、しかも丹羽清雄出版部長が印刷に軸足を動かしたので、當山氏はインターポイントの米国製電動製版機を譲り受けた。また、昭和51年に丹羽部長は日点委の事務局員も降りたので、そのお鉢も回ってきたが、日点委の事務局を本格的に手伝うのは今少し先になる。
平成2年、本間一夫会長と下沢仁(しもざわ・まさし)事務局長がお辞めになり、日点委は阿佐博会長、直居鐵事務局長の時代となり、直居先生の意をくんで當山氏は日点委の運営実務を担い、点字表記体系の整備に尽力する。そして平成14年に木塚泰弘(きづか・やすひろ)会長になると、事務局長を名実共に當山氏が担うことになる。
「直居先生とは、なんといっても昭和58年の夏に日本聖書協会の派遣でドイツで開催された聖書会議に行ったのが思い出深いですね。前後してIFLA(国際図書館連盟)ミュンヘン大会もあったので、それにも参加するため3週間の長旅となりマールブルクやオランダにも足を伸ばしました」と當山氏は懐かしそうに語った。
昭和48年から日点は点字カセットシステム研究会を組織してコンピュータの点字への応用を研究していたが、まだ、日本は足踏み製版機全盛の頃だった。しかし、前年に現在のJTRの前身が日本初のコンピュータ点字端末装置 ESA731の製造・販売を開始して、日本でも点字のコンピュータ化の胎動が強く感じられた。そしてドイツで自動製版機や点字プリンタが実用化されているのを見て、彼は目から鱗が落ちる思いだった。
日点が音頭をとった全自動製版機ブレイルシャトルの開発にあたって、ハードは小林鉄工所が担当し、プログラム作成は芝浦工業大学入江正俊(いりえ・まさとし)先生が担当した。當山氏は、使用者の立場からこれに数々の注文をつけては、製品化に道筋をつけた。その上、京都からなかなか修理に来ない小林鉄工所に代わって、桜雲会などのブレイルシャトルの修理まで手を染めることがあったが、これもまたボランティアである。
阿佐博日点委元会長は、「當山さんは点字製版士として、日本で五指に入る人です。地元での点訳ボランティアの養成も昔から熱心にやっていましたね」とその点訳能力の高さと指導の熱心さを賞賛する。
なにしろ日点副館長のときも、点字製版を続けることを条件に引き受けたというから点字に対する思いは筋金入りだ。
点訳もさることながら、旺盛な好奇心のままに点字に関わる様々な事業に骨身を惜しまず邁進してきた人生は、胃癌や腸閉塞で一時期中断することはあったが、いまだに熱意を失うことはない。まさに彼にとって点訳や点字製版はかけがえのない天職なのである。(福山博)
8月7日に自民党の溝手顕正(みぞて・けんせい)参議院議員会長が、参議院選挙で初当選したおよそ30人の新人議員を前に選挙の心得を説く中で、「現在のように、安倍総理のように大変勢いのいい総理の下だと、もうバカでもチョンでも通るという要素があることは否定できない」と述べたため、「チョンは韓国・朝鮮人に対する差別的表現ではないか」と指弾されて発言を撤回した。
舌禍事件として報道されたが、溝手議員も、指摘したどこかのマスメディアの記者も、辞書のひとつでも引いたのだろうか。それとも俗説に惑わされて、根拠を確かめもせずに、思いこみで空騒ぎを起こしたのだろうか。
「ちょん」とは江戸時代からある言葉で、「知恵が少し足りない愚か者」程度の意味であり、朝鮮人の蔑称という意味は原義にない。
バカチョンとはバカチョンカメラから人の口の端に上るようになった言葉だが、このカメラは、バカでもチョンでも、つまり誰でも写せるカメラという意味である。
それまでのカメラはシャッター速度と絞りを適切に設定し、焦点を合わせる必要があり、撮影にはそれなりの専門技術が必要だった。ところが1963年に米国のイーストマン・コダックが発表したインスタマチック・カメラは、ピント合わせの必要がない固定焦点、シャッタースピードも固定、絞りも固定と実に単純な機構で、「フールプルーフ・カメラ」と呼ばれた。これをどこかの知恵者が、「バカチョンカメラ」と和訳したのである。
このカメラは、レンズはプラスチックの1枚もので、構造的にはカメラではなく「レンズ付きフィルム」と富士フイルム(株)がいう「写ルンです」同様の簡便なカメラの仕組みである。
フールは、エイプリルフールでお馴染みのように「馬鹿」という意味である。そんな「愚か者の操作にも堪えられるカメラ」という原語の意味も活かした「バカチョンカメラ」とは見事な訳語である。
一方1963年には小西六写真工業(現・コニカミノルタ)が、シャッター速度と絞りの自動化を実現したカメラを発売し、米国ではこれが「休日に気軽に持ち出して使えるカメラ」の意味で「バケーションカメラ」と呼ばれ大流行した。日本ではその廉価版の「ジャーニーコニカ」が1968年に同社から発売されやはり一世を風靡する。当時の人気グループサウンズのひとつザ・スパイダースのメンバー井上順がテレビCMで「ジャーニー!」とやって流行語になったことを覚えておられる方も多いだろう。
また、同社は1977年には世界初のオートフォーカスカメラを発売し、これにより、専門知識を持たない、いわば「バカでもちょんとシャッターボタンを押せば写せるカメラ」が登場して、「バケーションカメラ」ならぬ「バカチョンカメラ」が、わが国で人口に膾炙して一時は流行語にもなったほどである。
たとえば新聞でも1983年までは、「バカチョンカメラならぬ“バカチョン・パソコン”」とか、「バカチョン建機作る」という記事が普通に紙面を飾っていた。
ところがなぜかこの年を境に「バカチョン」が、新聞紙面から一斉に消えるのである。これは従来韓国人の名前を音読みにしていたのだが、1983年から外務省やマスコミが母国語読みにしたことが影響したのではないだろうか。
1983年、中曽根康弘総理大臣が韓国を訪問した際に、民族主義を掲げる韓国政府は「相互主義に則って両政府がそれぞれの総理大臣・大統領を母国語読みにしようと」と提案し、それまでの「全斗煥(ゼン・トカン)」韓国第11代大統領の名前が、それを境に「全斗煥(チョン・ドゥファン)」大統領に一挙に変わったのである。
よく聞く俗説に「バカチョンカメラというのは、『バカ』でも『チョン』でも写せるカメラという意味だが、この『チョン』は朝鮮人を侮べつした言葉」(1990年11月8日付『朝日新聞』夕刊)というのがある。
なにを根拠にこのように書いているのか首を傾げるが、有り体に言えばこれは流言飛語の類である。少なくとも差別だと糾弾するのであれば、いったいどこの何という辞書に書いてあるのか、しっかり原典を示す必要があるのではないだろうか。
それよりも、韓国には「チョン」という姓があることを韓国大統領の名前を母国語読みにしたときに多くの日本国民が気づき、日本のマスコミも「バカチョン」はちょっとまずいと考え、自主規制したのではないか?
日本語の「チョン」に韓国人・朝鮮人差別の原義はないとしても、韓国人の姓にそれがあり、日本のメディアで目にし、耳にするようになったので、礼儀として差し控えようというのであればこれはよくわかる話である。
したがって、「チョン」という日本語には、人を小馬鹿にする意味があるのはたしかであり、一方韓国には「チョン」という姓があるのだから、誤解を招かないように「チョン」という日本語の使用を控えようというべきである。それを鬼の首をとったように、根拠無く差別だと食い下がったり、糾弾するのはいかがなものだろうか。
ところで韓国名を現地読みにすることが定着したのは、1984年9月6日の全斗煥(チョン・ドゥファン)韓国大統領の訪日を前に、当時の安倍晋太郎外相が、7月4日の国会答弁で「向こうの発音で呼ぶのが日本の当然の責任」と述べ、現地読みを実行したことによる。
現在の安倍首相が父親の下で外務大臣秘書官をしていた頃の話である。(福山博)
「宝箱」の奥に “日本最古のオルガン”が鎮座し、ひときわ輝きを放っている。では、これがここに来た経緯はと尋ねると、ことはそう簡単でない。
言い伝えでは、これは、伊沢修二がアメリカから持ち帰った3台のうちの1台で、他の2台は、宮内省と東京音楽学校(現・東京藝術大学)に寄贈された。『京都府盲聾教育百年史』にも、「伊沢修二(いざわ・しゅうじ)が米国から持帰り文部省から下付されたオルガン」と解説されている。
伊沢は、明治初頭の文部官僚として我が国の音楽教育の近代化をリードした。留学先の米国でメルヴィル・ベル(電話を発明したグラハム・ベルの父)から学んだ「視話法」を日本の聾唖者の発音教育に応用し、そこから盲唖院との縁が生まれた。島根県立盲学校を創立した福田与志(ふくだ・よし)は、京都市立時代の盲唖院で聾唖教育を実践的に修業したが、伊沢から直々に「視話法」を教わる志を抱いて東京へ赴いた。伊沢が京都に来院したこともあり、「宝箱」の中には彼の名刺もある。伊沢と盲唖院のつながりの密接さは明らかだ。しかし、つまびらかとは言えないことがらが少なくない。
1.宮内庁と東京藝大に、そのようなオルガンは現存するのか。そもそもこの2カ所にも寄贈されたのかどうか、そして現存するのかどうか。
2.伊沢が入手したオルガンは全部で何台だったのか。10台とする文献もあるが。
3.伊沢は、どの時点でどのようにしてそのオルガンを入手したのか。帰国後の「明治16年に取り寄せた」旨の記録もある。だとすれば「持ち帰った」が怪しくなる。
4.このオルガンのメーカーはどこか。現状では、外装にメーカー名やロゴが見当たらない。解体して内部を直した経過はあるのだが、その時に手がかりがみつかったという史料もない。ただし、リードは米国マサチューセッツ州のマンロー社のものだ。
5.邦楽教授を行った京都盲唖院において、このオルガンはどう使われたのか。洋楽の本格的な導入以前にも、唱歌の時間に活用され、邦楽教授にも副次的に用いられただろうが、未詳である。京都市内の唱歌講習会に伴奏用として貸し出したとは分かっている。
6.このオルガンは、ほんとうに「日本最古」と言えるのか。「日本最古」と形容されるオルガンが各所に存在するらしい事情を念頭に置いた吟味が必要だろう。ネットで見つかるだけでも、「実働する日本最古のパイプオルガン」「演奏できるリードオルガンとしては国内では最大で最古のオルガン」「日本最古のリードオルガン」などの情報がある。オルガンの種類を勘案し、なんらかの条件を加えると、「最古」は複数ありうる。京都府立盲学校に現存するものを何の条件もつけずに「日本最古」と断定していいかどうか。
7.このオルガンの贈り主はほんとうに伊沢か。別の名前も取りざたされている。それは近代日本音楽に進路を与えた米国人L・W・メーソンである。メーソン由来ではないかと推定したのは、『オルガンの文化史』(青弓社1995年)の著者・赤井励(あかい・れい)だ。氏は「メーソンは明治15年7月に日本を離れる際、5台のオルガンを日本側に寄贈していた」と記す。その1台が京都盲唖院に回ってきたのかどうかは、あくまで推測に留められているのだが。
ところで、問題のオルガンが京都盲唖院に「文部省から与えられた」ことに関しては裏付け文書がある。明治16年に盲唖院と京都府学務課が交わした往復文書がそれである。「文部省ヨリ下付風琴外奨励品引渡ニ付照会ノ事」に始まり、その受領に至る一連の文書から、それは明治16年1月に盲唖院に到来したと言い切れる。「文部省」の線では、伊沢もメーソンも、このオルガンに関与していて不思議ではない。あるいは、2人の協議があっての贈与だったか。想像は膨らむ。
上の3.で、伊沢が「明治16年に取り寄せた」ことがあると述べたが、その落手は7月6日以降だから、その品を1月の時点で京都に送ることは不可能であった。
ここまでが、私の到達点である。ご教示や精緻な調査に俟ちたい。
オルガン(正面)
オルガン(側面)
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
「ニカラグアにおける東洋医学教育ボランティア」は、今月号で最終回となりました。著者である綱川章先生は、9月からJICAシニアボランティアの派遣前研修を受けられ、10月1日にニカラグアへ出発する予定だということです。先生はデング熱に1回罹っておられます。デング熱を引き起こすウイルスは4タイプあり、2回目に別の型のウイルスに感染した場合には免疫の反応がより強く出て、重篤なデング出血熱になる可能性が高いと言われています。くれぐれもご自愛ください。そして元気で帰国され、「ニカラグアにおける東洋医学教育ボランティア」の続編を寄稿してください。
平成元年に閉館した高田馬場の場末の名画座がまだにぎわっていた頃、今から30年ほど前のことである。市川崑監督の「東京オリンピック」と小津安二郎監督の「東京物語」との2本立て映画を、「なんという組み合わせだろう」と思いながら見たことがある。
映画館は名作「東京物語」目当ての学生たちでいっぱいであった。彼らは東京オリンピック前後に生まれた世代であった。
昭和39年(1964)私は九州の山奥の小学校4年生で、担任教師の「教育的配慮」で、宿直室のテレビでオリンピックを観戦した記憶がある。当時は日本全体が興奮のるつぼと化しており、自宅に急いで帰っては連日白黒テレビに釘付けであった。そして後日、その映画を中学校で見た。
記録映画はクレーンで吊した鉄球が激しくぶつかりビルを解体する映像に近代オリンピックの沿革を紹介するナレーションがかぶさって始まる。中学の頃は気付かなかったが、長編記録映画であると共に芸術性も高い作品でもあったのだ。美智子妃殿下がちらっと写るシーンで、「おおー」と名画座の館内がどよめいた。学生達は妃殿下の輝くばかりの美しさをそのとき発見したもようであった。(福山)
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