閣僚の放言、失言が起こるたびに、日本の政治家はなぜ「スピーチライター」を雇わないのかと不思議に思う。米国では政治家に代わり演説草稿を代筆する一群の人々がいる。
もっとも日本にも代筆する人がいないわけではない。大臣の演説やコメントは官僚によって手がけられることは広く知られている。しかし、それは役人らしく手堅く、簡潔にまとめられているため、面白みがなく、聞く者を退屈させるような作文に陥りやすい。そこで満座を沸かせてナンボの選良としては、聴衆がドキッとして、耳を傾けるようなウケ狙いのフレーズをつい入れたくなる。それが、麻生太郎副総理兼財務大臣の「改憲はナチスに学べ」などという放言につながるのだ。
麻生大臣がナチスを擁護したのであればともかく、演説の核心、本筋から外れた言葉尻をとらえて、ことさら揚げ足取りをするのはいかがなものだろうか。
4年前、麻生首相の漢字の読み間違いをしつこくあげつらって、首相が天皇・皇后両陛下の結婚50年祝賀行事に出席した際、繁栄を意味する「弥栄(いやさか)」を「いやさかえ」と言い間違えたと報じた。ところがその後、神道などでは「いやさかえ」と読むことが指摘され、大恥をかいたことをマスコミは今一度思い出して欲しいものである。
もっとも現場の記者が揚げ足取りをやめようとしても、上司が書けと指示する可能性は高い。全国紙を筆頭に大手メディアは、他紙に載った記事が自社の媒体に出ていないことを極端に嫌う。そこで、上層部から「なぜウチだけ書いていないのだ」と叱責されることを恐れるあまり、現場は違和感を覚えても書かざるを得ないのである。したがって、このような揚げ足とりは今後も続くことだろう。
幸い麻生太郎氏は、「とてつもない金持ちに生まれた人間の苦しみなんて普通の人には分からんだろうな」としんみり語る(『毎日新聞』2008年9月24日付朝刊 )ほどの大金持ちである。スピーチライターを3人ほど雇って、面白くて、内容豊富で、しかも舌禍事件を起こさないような気の利いた演説草稿を書いてもらったらどうだろう。
メディアも品位を欠いた原稿をいやいや書くこともなくなるというものである。(福山)
7月20日(土)、東京・早稲田の戸山サンライズにおいて、日本盲人職能開発センター主催の「全国ロービジョン(低視覚)セミナー」が開催され、関係者など約250名が参加した。今回のテーマは「ロービジョンとともに働く〜ロービジョンケアから就労支援まで」。
午前の基調講演では、初めに国立障害者リハビリテーションセンター病院の仲泊聡(なかどまり・さとし)医師が、「ロービジョン医療の現実とあるべき姿」と題して講演を行った。平成23年度の厚労省の実態調査によると、肢体不自由者は170.9万人、視覚障害者は31.6万人である。それぞれの患者数の推移を見ると、1950年と比べ、肢体不自由者は3.5倍、視覚障害者は1.3倍増加している。肢体不自由者に比べて視覚障害者の増加は抑えられているように見えるが、一般の眼科医に2万人のカルテを調査してもらった結果、現在障害者手帳を所持している人の1.5倍もの人が手帳を取得可能であり、実質的な視覚障害者数は約80万人に上った。これは、眼科医が手帳取得に伴って世間から貼られる「障害者」というマイナスイメージを重く見て、取得勧奨に消極的なためだと考える。整形外科医は早くからリハビリの重要性に目覚め、患者と対応する福祉制度とを橋渡ししてきたのに対し、眼科医は視覚障害者を前にして逃げ回るだけだった。結果、現在視覚障害はほとんどの場合医療の中で発見されるにも係らず、その成果が先のステップへと活かされず、眼科医の手を離れた視覚障害者の多くが行き場を失っている。眼科医がロービジョンケアを他人事とし、支援のノウハウを持たないことは問題である。視覚障害者がよりうまく社会生活に適応するための手段がロービジョンケアであり、眼科医療の中でごく当たり前に行われるべきものである。すべての眼科医がこのような価値観を共有することで、視覚障害者の福祉は飛躍的に前進するだろうと語った。
次に、同病院リハビリテーション部の久保明夫(くぼ・あきお)氏が、「多種多様な復職・就労支援」と題して就労支援の実例を8つ紹介した。いずれの事例も個別性に富んでいるが、強いて共通項を探せば、患者本人、会社の上司や人事担当、病院のスタッフが一堂に会したミーティングを行うことができたケースの復職率は極めて高いといえるとまとめた。
午後からは、視覚障害者の就労継続支援をテーマにパネルディスカッションが行われ、コーディネーターである障害者職業総合センターの指田忠司氏の進行の下、5名が発表した。
(株)JVCケンウッド総務部の井上裕次(いのうえ・ゆうじ)氏は2009年3月に脳動脈瘤の手術後、視界が回り続ける、歪むなどの後遺症により視覚障害者となり休職。視覚障害の他に平衡機能、声帯麻痺、左半身温痛覚麻痺などが重複している。1年半の入院生活、半年間の職能訓練、約3カ月の試行勤務を経て、2012年5月21日より復職。前職である管理監督者の経験を活かし、社内の安全・衛生管理を担当している。復職後に井上氏の上司となった石井利二(いしい・としじ)氏は、「彼の観点が普段は気付きにくい危険の発見に活かされている」と語る。
次に、職能開発センター指導員の佐藤利昭(さとう・としあき)氏が、就労移行支援事業における訓練コースに関して、その内容と効果を説明。また、補助器具などの貸し出しの際には、同センターの職員が機種の選定、会社に出向いての設定・作業もサポートしていると話し、職場との連携強化を強調した。
鹿沼市役所総務部の川田良子(かわだ・よしこ)氏は、2005年、結核の治療薬の副作用から両眼球視神経炎となり、現在も両目に中心暗点と色覚異常が残っている。人事担当者から「自分にしかできないスキルを身につけてほしい」と要望され、フットスイッチを使ったテープ起こしの技術を習得。技能労務職員として市議会のテープ起こしを担当している。
平成19年6月8日から川田氏の職能訓練を担当した職能開発センター訓練部の廣川正樹氏は、「自宅からセンターまで往復5時間の道のりに弱音を一言も吐かず訓練に取り組む川田氏には頭が下がる。今後も現場に出向いての定着支援をできる限り行ってゆきたい」と語った。(丸山旅人)
48uの宝箱中の1点1点はどれも重みがあるが、物理的な重さで群を抜くのは堅牢な米国製の点字製版機だ。よほど怪力でなければ、大人2人でも持ち上げられない。
点字製版機を最初に導入したのは、東京盲唖学校だった。明治26年(1893)に、イリノイ盲学校長ホールの発明による品を採用した。それまで、点字器でこつこつと写すしかなかった教員による教材づくりも生徒による転記も飛躍的に軽減され、教科書を含む大量印刷・出版への道を開いた意義は計り知れない。横浜にもドレーパー夫人が寄付した機械が早くからあり、聖書の点訳に活かされたとのことである。
京都のステレオタイプ・メーカーは、京都盲唖慈善会がその購入のために募った浄財で、国内3番目の機材として明治36年に取り寄せた。
この年は、京都盲唖院の創立25周年にあたり、『瞽盲社会史』と『盲唖教育論』を刊行して、近世までの盲人史と創業以来の実践で裏付けられた理論の体系化を期したエポックメーキングな年であった。その前年には、学校の諸規則を改め、盲教育、聾唖教育の刷新を図ったまさに節目だった。しかし、教育環境や設備の面での壁がいくつかあり、中でも最大の課題は点字印刷の近代化であった。京都で最初に点字を教えた教員・中村望斎(もちまさ)や院長の鳥居嘉三郎は、東京の製版機を実際に見てきただけに、その入手を激しく渇望したという。
「見かねた商議員辻信次郎、市原平兵衛(へいべえ)、それに内藤小四郎が発起人となり、35年3月点字印刷器寄付の運動が起こされ、米国ハリソン社製ステレオタイプ・メーカー、ブレイユ・タイプライター各1台、洗濯絞り用ラバロールが購入された。機械類は36年7月19日に到着。寄付の総額は605円74銭であった。ステレオタイプ・メーカーは亜鉛版に点字を製版する器械で、ラバロールは印刷に用いられたのである」(『京都府盲聾教育百年史』)
彼らは京都の実業界の大物で、京都盲唖慈善会の役員でもあった。高額寄付者の氏名はステレオタイプ・メーカーの木製保護蓋に列記されている。
発注に際しては、訪米経験がある東京盲唖学校・小西信八から助言を得、購入も同校を経由している。アメリカ側の商社はシカゴのクーパー・エンジニアー・コンパニーで、東京・有楽町にあった輸入業者・高田商会とやりとりした書類が残っている。3品の合計は、225ドル73セント(453円73銭)であったが、シカゴから東京までの輸送料、関税、手数料を加えると総計545円63銭に上った。これを、東京盲学校名義で高田商会に支払った領収書も現存する。
明治36年7月19日の『宿直簿』には、「東京ヨリ ステロータイプメーカー到着」とある。実は、この前々日、東京から石川倉次、遠山邦太郎など4人もの教員が京都市立盲唖院を訪れ、点字製版機の使用方法の講習も行った。至れり尽くせりの協力であった。鳥居らは、感謝の気持ちをこめて東京の諸氏を京都の観光地に案内し、宴席も用意した。
9月7日には、寄付者のうち市原平兵衛らが、点字タイプライターの使用方法を参観するために来校している。夏の間、盲唖院の教員たちは、操作の熟練をめざして汗を流したことだろう。
待ちに待った新品の器械は早速フル稼働することになる。
その年のうちに、院内盲生の生徒会にあたる「篤交会」の会報第1号が点字でも印刷・配布された。それが後には、『点字世界』『光』の発行へとつながる。京都府立盲学校資料室には、明治41年に催したルイ・ブライユ生誕100年を記念する講演会の演説内容を点訳した亜鉛原版が保存されている。鳥居篤治郎は、明治42年、まだ京都市立盲唖院の生徒だった時期に、文部省から発行された墨字の『訓盲楽譜』を自ら製版し、頒布した。その亜鉛原版も京都ライトハウスに在る。
点字製版機の獲得は、希望への必須の種であり、時代を画する壮挙であった。
京都市立盲唖院点字印刷室
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
前号(8月号)の「もくじ」で、「初秋の金沢へようこそ!」を22ページと書きましたが実際は26ページで、「ラジオが告げたあの時・あの人」は25ページと書きましたが、実際は22ページでした。お詫びして訂正致します。
「48uの宝箱」では、史料に基づいた「ブレイユ・タイプライター」と、「ルイ・ブライユ」というような現在の一般的表記が混在しておりますが、よろしくご了承ください。
本号の「自分が変わること」によると、鉱山会社のエンジニアであった藤原章生さんを「報道、執筆の世界へ転進させるひとつのきっかけになった」のは、ニカラグア内戦を描いた映画「アンダー・ファイア」だったといいます。この映画は、親米独裁政権を打倒するサンディニスタ革命が舞台で、1979年7月に独裁者は亡命し、民族再建政府が樹立され終わります。
そして革命政府は、独裁者の財産を没収し、土地改革・識字運動などの政策を実行しました。
「しかし、やがて米国が政府の転覆をもくろみ、反政府ゲリラに武器と資金を提供し・・・自由と民主主義の大国は、裏庭で小国いじめをしていた。その結果、国は疲弊した」と本号に書いたのは、「ニカラグアにおける東洋医学教育ボランティア」の綱川章さんです。
わが国は戦後68年を過ぎて、国民のほとんどが“戦争を知らない子供たち”となり、毎年夏になれば、新聞やテレビで陰々滅々とした“終戦特集”が組まれます。
一方、本号で藤原さんは北山修作詞・杉田二郎作曲の「戦争を知らない子供たち」を、引き合いに出し、「改めて気づいたのは、曲も歌い方も、あえてお気楽な感じを前面に出しており、今の私はそこに好印象を抱いた。それは多分、戦争を語るにはお気楽でいいのではないかと、私自身が思えるようになったからだ」と述べています。
数多くの修羅場をくぐってきた方だけに、その真意は奈辺にあるのか? 興味津々です。次号以降をご期待ください。(福山)