THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2013年8月号

第44巻8号(通巻第519号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:塩をつまみに水を飲む ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
4年後にも名称変更か? ―― 福井県で日盲連大会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5
認定訪問マッサージ師講習会参加者募集! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
13
「白杖シグナル」を全国に!
  日盲連福井大会で福岡県盲人協会が提案
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15
スモールトーク:「ハンディキャップ」は差別語か? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
19
ラジオが告げたあの時・あの人
  「盲人の時間」から50年:「働く盲人たち」@ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
22
初秋の金沢へようこそ! 第13回ジェイボスの旅 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
26
ニカラグアにおける東洋医学教育ボランティア:安全研修 ・・・・・・・・・・・・・・・・
29
自分が変わること:道の奥にいた男 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
33
読書人のおしゃべり:『わが盲想』に嫉妬して、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
48㎡の宝箱:検校杖 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
42
リレーエッセイ:3年ぶりの韓国 〜インチョンとソウルにて〜(指田忠司) ・・・・・
46
外国語放浪記:恋するロシア語 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
51
大相撲:八百長騒動による2年のブランクを経て蒼国来が土俵復帰 ・・・・・・・・・
55
フィリピン留学記:折り紙で自信を取り戻す(下) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
59
時代の風:日本最速の視覚障害者ランナー、マラケシュ条約採択、
  政府機関サイトJIS規格最低基準満たさず ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
63
伝言板:点字の普及啓発と資質向上のための講演会、
  「写真を言葉にして伝える」ワークショップ、
  ビッグ・アイピアノコンサート ―Sense ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
67
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
塩をつまみに水を飲む

 「マッチ箱に塩を詰めて大事に持ち歩いたんだ。そして、歩き疲れた休憩の時に、誰にも気付かれないように、そっと指に唾をつけてほんの少しなめると、これがうまいんだ。もちろん食料など誰も持っておらぬから、塩をもっているかどうかが、生死を分けたと思っている」。
 猛暑日が続くおりから寝苦しい熱帯夜の夜、その昔、元日盲連会長の村谷昌弘(むらたにまさひろ)氏(故人)から聞いたこんな話を思い出した。
 インパール作戦に機関銃兵として従軍した村谷伍長は、東インドに攻め込んだものの英印軍の投げた手榴弾の爆風で、なんと両眼球が飛び出して失明。それから彼は、歩けない戦友を負ぶって、背中越しに道案内をしてもらいながら1,500〜2,000mのアラカン山脈をこえてビルマ(ミャンマー)に撤退する。その後、後送されラングーン陸軍病院に着いたとき、村谷伍長は骨と皮のやせ細った身体になっていた。
「病室に寝ていると、看護婦が自分が飲むはずのココアをくれたんだよ。うまかったなあ。きっともう長くはないと思ったのだろうなあ。ところが、あの1杯のココアのお陰で、それからみるみる元気になり生き返った」と彼は豪快に笑った。そこで、その看護婦さんは美人だったのでしょうね。と聞くと、「さあどうだったのだろう。まったく見えなかったし、そんなことを聞けるような状態ではなかった。今の体重の半分もなかったからなあ、とにかく生きるか死ぬかという瀬戸際だった。しかし、その時は天使に、いやビルマだから観音さんに見えたな(笑い)」というのがオチであった。
 「わずかな塩をなめたら元気が出た」という話に、30年前は、かなり違和感を持って聞いた覚えがある。しかし、その後、猛暑の中作業やスポーツの後に水をがぶ飲みすると、血中の塩分濃度が下がり、腕や足、腹部に痛みを伴った痙攣が起こるとか、水だけを飲むと水分の多くが尿として排泄され、発汗量の4割程度しか水分は補充されないが、塩を補いながら水を飲むと、発汗量の約8割を補充できることを知り、「生死を分けた」という表現が、少しも大げさでなかったことが、今ではよくわかる。(福山)

「白杖シグナル」を全国に!
日盲連福井大会で福岡県盲人協会が提案

 福井県で開催された日本盲人会連合(竹下義樹会長)の第66回全国盲人福祉大会の2日目、6月22日の生活分科会において、小西恭博(こにしやすひろ)福岡県盲人協会会長(76歳)から、同県での「白杖シグナル」運動の取り組みが紹介され、同運動の全国展開が提案された。
 これを受けて、渡邉巧(わたなべたくみ)岐阜市視覚障害者福祉協会会長が、名刺の裏に白杖シグナルのポスターを刷って渡していきたいと賛意を表明し、中部ブロックでも白杖シグナル運動の普及啓発活動をおこなうとエールを送り、全体会でも承認された。
 白杖シグナルとは、全国的な普及をはかろうと1977年に福岡県盲人協会が提案したものだ。これは助けが欲しい視覚障害者が白杖の持ち手を頭上50cmの高さに掲げて、視覚障害者であることを周囲に知らせ、助けを求める運動だ。
 35年前は障害者への差別や偏見が今より強く、視覚障害者に対する社会の認知度も低かったことに加え、白杖使用にためらいを感じる視覚障害者も少なくなく、当時の白杖シグナル運動は全国的に普及することなく自然消滅した。
 しかし、東日本大震災や九州北部豪雨で視覚障害者が避難に困った事例などが報告されたことから、小西会長が「日頃からSOSのサインを周知しておくことが大事」と再度の啓発を決意。2012年9月の第38回福岡県盲人協会福祉大会で、「自分達の安全・安心な空間をもっと広げよう! そのためには、多くの人々に私達のことを知ってもらい、人々との接点を広げよう」、「視覚障害者は孤立して生きて行くのではなく、視覚障害者であることを自信を持って社会に発信して行こう」と小西会長が会員に提案。その一環として、白杖シグナル運動が福岡県で展開されることになった。
 現在、福岡県盲人協会は福岡市と北九州市の視覚障害者福祉協会と話し合い、白杖シグナル運動の啓発活動を全県レベルで進めている。具体的には、福岡県盲人協会が、同県教育委員会の了解を得て、また人権擁護委員会からの要望もあって、3,000枚の啓発ポスターを作製。ポスターは福岡県内の小・中学校に掲示され、白杖シグナルの認知と視覚障害者への理解を求めるために役立っている。早速、ポスターを見た児童・生徒から積極的に話しかけてくることも多くなったと小西会長は喜ぶ。
 福岡市では、アナウンスがうるさいとの苦情から西鉄バスが車内アナウンスを止めていたが、白杖シグナルのポスターを見た『西日本新聞』の記者が抗議して、アナウンスが復活するという思わぬ効果もあったという。
 さらに、九州ゆかりの「黒田節」をはじめ500曲以上のレパートリーを持ち、美声男性民謡歌手四天王の1人に数えられる藤堂輝明(とうどうてるあき)さん(70歳)が、福岡県盲人協会から今年5月に白杖シグナル推進大使に任命された。藤堂さんは、同県久留米市出身で、1973年に亡くなった父・喜市さんが全盲であったことから、これまでもチャリティー活動に積極的にたずさわってきた。
 藤堂さんは、「父は多くの人に助けていただいた。その何万分の1かも知れないが、推進大使として恩返ししたい」、「舞台に上がる度にシグナルのことを伝え、全国に浸透させたい」と抱負を語った。
 福岡県盲人協会では、会員が公園に集まって白杖を頭上高く掲げる練習も行っている。公園を歩いて、場所が分からなくなったときに実際に白杖を上げるのである。白杖を掲げる動作は、恥ずかしいという意識が先に立ち、躊躇してしまうからだという。
 「都会では人通りが多く、路に迷っても助けを求められる。しかし、田舎では道に迷っても尋ねる人もそうはいない。タクシーも止めることもできない。そんなとき、白杖シグナルが役立つ」。小西さんは「視覚障害者が小さな勇気を持って示すシグナルを必ず定着させ、一般の方々との距離を縮めたい」と熱を込めて語った。(戸塚辰永)

スモールトーク
「ハンディキャップ」は差別語か?

 あるシンポジウムの質疑応答で、フロアーから「ハンディキャップという差別的表現を使うのは許せない。欧米ではもはや使わない!」という激しい調子の批判が出た。それに対して、パネリストの1人も同調して、「ハンディキャップの語源は、乞食が差し出す帽子に由来する」とうんちくを傾けたからたまらない。その場では「ハンディキャップ」という言葉はすっかり差別語にされてしまったのである。
 だが、これは3つの点で問題がある。
 その1は、日本語で議論している中に英語の定義を持ち込む愚である。「ハンディキャップ」はもちろん英語から借用したカタカナ語だが、すでに日本語に充分とけ込んでいることに異論はなかろう。
 外来語はその元になった外国語とまったく同一の意味の場合もあるが、必ずしも同一とはいえない場合やまったく違う場合さえある。すでに日本語として定着しておれば、原語本来の意味と違っていてもそれを認めるしかないのである。
 英語でマンション(mansion)とは「大邸宅」のことである。不動産屋に「この集合住宅のどこがマンションだ! これは英語ではコンドミニアムという」とねじ込んでも詮無い話である。
 その2は、ハンディキャップは欧米でも必ずしもタブーではないことである。確かにちょっとオールドファッションであることは否めないが、インターネットで調べると、法律用語としては健在で、いまだにハンディキャップを冠した大きな当事者団体さえある。また、カンボジアで病気や事故、地雷による障害者を支援しているハンディキャップ・インターナショナルは、英国や米国にも支部がある。この大きな国際NGOは1997年ノーベル平和賞を受賞した「地雷禁止国際キャンペーン」の構成団体の1つでもあることは記憶に新しい。
 ちなみに英語では、ハンディキャップの代わりに「ディスアビリティ」、「チャレンジド」、「サバイバー」などの語彙が使われているが、どの言葉にも一長一短があり、決定打にはなっておらず、いずれも外来語として今すぐ導入するには無理があるようだ。
 その3は、「ハンディキャップの語源は、乞食が差し出す帽子に由来する」という説は俗説もいいところでほとんど根拠がない。あえていえば、英語に「キャップ・イン・ハンド」という言い方がある。「帽子を手に取る」という意味から、しおらしい態度で、うやうやしく、謙虚にという意味になり、物乞いを連想させるという。だが、それではそもそも語順が逆ではないか? 連想する方が無理筋で、勘違い以外の何ものでもないというべきだろう。
 ハンディキャップの語源は、14世紀の文献にすでに出てくる罰金を帽子に入れる「ハンド・イン・キャップ」(帽子の中の手)という英国の古いゲーム感覚の商取引による。物々交換に第3者がアンパイアとして、等価にするために、一方にビール1杯(1パイント)など付加するものである。18世紀に入り競馬の強い馬にオモリを乗せるハンディキャップ戦に使われるようになり、20世紀に入り「身体障害のある」という意味でも使われるようになったのである。
 いずれにしても、言葉狩りに血道を上げたり、「欧米では・・・」などと見当違いの受け売りをする精神はとても健全とはいえない。
 もって「他山の石」とすべきだろう。(福山)

読書人のおしゃべり
『わが盲想』に嫉妬して

 5月にポプラ社から刊行されたモハメド・オマル・アブディン著『わが盲想』の「モウ」は盲人の「盲」である。もちろんこれはアドルフ・ヒトラー著『我が闘争』をパロディ化し、「根拠なくあれこれと想像する妄想」と全盲の自分を引っかけたオヤジギャグ的タイトルである。
 私がアブディン氏を初めて知ったのは、ノンフィクション作家高野秀行著『異国トーキョー漂流記』を読んだことによる。そこでは仮名になっていたので、当時国際視覚障害者援護協会(IAVI)の理事長だった直居鐵(なおいてつ)先生(故人)に、「筑波技術短大の学生でとてもユニークな全盲のスーダン人がいるそうですね」と尋ねたら「そりゃアブディンだよ」と教えてくれたのであった。
 アブディン氏が最初に『点字ジャーナル』に登場したのは、2006年11月号の「留学生座談会」であった。編集部の小川百合子が、彼が繰り出すオヤジギャグに、悶絶しそうになっていたことが思い起こされる。その日彼女は録音担当で、笑いをかみ殺すしかなかったのである。
 現在、35歳のアブディン氏は東京外国語大学大学院で「総合国際学」を専攻、母国スーダンの紛争問題と平和構築の研究を行っており、目下、鋭意博士論文執筆中である。
 その彼が19歳の時、スーダンの名門ハルツーム大学法学部を中退して、IAVIの招きで来日。2〜3カ月の日本語特訓でお情けで福井県立盲学校に入学。その後猛勉強の末、3年後にはあはき国家試験にみごと合格し、筑波技術短大で情報処理を2年学んだ後中退して東京外国語大学に進み、結婚するまでの波瀾万丈の泣き笑い半生を、オヤジギャグ満載で描いたのが本書だ。
 アブディン氏の日本語は、熊本訛りの私より数段洗練されておりきれいだ。そして文章も会話に劣らぬ素晴らしさである。ユーモアの中にペーソスも交えて、平易に正しい日本語で書くことは難しい。しかも、ぐいぐい引っ張って一気に読ませるちょっと余人に真似のできない抱腹絶倒の面白さだ。
 彼は2010年にスーダンに一時帰国して結婚し、その後東京でも会費制の披露宴が行われ、その時、彼はなれそめを「半年前に従姉妹の紹介で、電話で知り合った」と確かに言った。そして、参加者から「早すぎる」と盛んにはやし立てられた。
 しかし、税込み1,470円の本書では「実際は1カ月前」だったと告白している。その嘘の理由を、「たった1カ月前に電話で知り合った人間と結婚したなんて、スーダンではあるにはあることだが、日本では口が裂けても話せない。僕と結婚相手の人格が疑われるだろう」と書いている。それは確かにそうで、的確な判断力は伊達に苦労してきたわけではないことを物語る。
 本書を読むと、数々のハードルを彼は多くの日本人サポーターの協力を得て乗り越えて来たことがわかる。まず最初に日本でお世話になったのはIAVIの荒木さんだが、彼女は当協会点字出版所に1977年から1992年まで在籍した故・荒木久子さんのことである。人名の出し方などとても鮮やかで、悔しいけれどもとても勉強になった。(福山)

『鍼医・杉山検校管鍼法誕生の謎』

 杉山和一検校(1610〜1694)は、破門され実家に帰る道すがら江の島で石に躓いて倒れた際に竹の筒と松葉を手にし、後年、鍼の施術法の一つである管鍼法を創始するとともに、鍼・按摩技術の取得教育を目的に世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設したことで知られている。
 日盲連竹下義樹会長推薦の標記の書は、著者の新子嘉規(あたらしよしのり)氏自身が三療を営む視覚障害者であることから、3年前の杉山検校生誕400年をきっかけに管鍼法がどのように生み出されていったのか、想像を駆使してその謎に挑んだ小説である。
 定価1,800円(税別)で桜雲会点字出版部が発売しており、視覚障害者が購入した場合は、デイジー版(非売品)を附録としてつけるので、購入に際してはその旨連絡して欲しいとのことである。詳しくは(福)桜雲会(03-5337-7866)へ。

48㎡の宝箱 ―― 京盲史料monoがたり
(29)検校杖

京都府立盲学校教諭/岸博実

 京都市立盲唖院は、明治36年3月1日付で『盲唖教育論』を刊行した。
 古河太四郎(ふるかわたしろう)の辞任、鳥居嘉三郎(とりいかさぶろう)の事実上の院長就任という更迭人事に発展した危機から14年。経営面だけでなく、教育条件や学校体制が安定してきたことを背景に、盲・聾教育の実践を理論化した書であり、附録として『瞽盲(こもう)社会史』を併載した。全体としては、日本初の「盲唖教育の実践を踏まえた研究書」と評することができ、『瞽盲社会史』は近代に入って最初に書かれた「日本の盲人史」である。
 現在、その全文(墨字で正味64ページ)が国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに登載され、ダウンロードして読むことができる。
 今回は、近代以前の日本の盲人史に関連する話題を採り上げる。
 『瞽盲社会史』の序文には、「当道大記録当道式目等を除けば殆んど史料と称すべきもの」がなかった上に、「維新の際盲人官位の廃止と共に徳川時代の記録も往々散逸」したと嘆いている。その困難を排して、椙村保寿(すぎむらほじゅ)検校、古川、藤村、松阪の三勾当(こうとう)、泉座頭(いずみざとう)などの談片(だんぺん)、「其他雑書」を参考にまとめられた、とある。
 章立てのみを追ってみよう。第一章盲人社会(当道)の沿革、第二章官制、第三章統治機関、第四章経済制度、第五章司法制度、第六章年中行事及典礼、そして、第七章職業でしめくくられる。
 一々内容に立ち入るゆとりはないが、当道座に関する文献として重要である。学問的には、中山太郎氏や加藤康昭(かとうやすあき)氏などによって、これを超える批判的解析が行なわれている。今回、注目したいのは、当道座の情報を語り継いだ勾当や検校などの存在だ。
 筆頭に挙げられている椙村保寿は、明治維新に際して、桑名藩のとりつぶしを回避する政治工作に力を揮った盲人で、左近允孝之進(さこんじょうこうのしん)が『あけぼの』創刊号に傑物としてその名前を記した1人だ。本来の姓は杉山和一(すぎやまわいち)と同じだが恐れ多いと、同じスギでも国字の「椙」に変更したという。当道座を含む盲人史の生き証人として情報を提供したのであろう。椙村が三重県での慈善音楽会を企画して鳥居嘉三郎に演者の派遣を要請した明治35年付の手紙も残っており、交渉の深さが認められる。
 明治4年の当道座廃止後、前近代を封建的なものとして否定する盲教育に対して、旧当道座の人々には複雑な思いがあっても不思議はない。しかし、京都盲唖院の場合は、職業教育の分野で、高度な技量を備える勾当たちが音曲科のために惜しみなく力を貸した。明治13年の筝曲・三弦教育の開始に際して、旧検校岡予一郎(おかよいちろう)がまず教員として迎えられた。翌年には、やはり旧検校の幾山栄福(いくやまえいふく)が就任。古川龍斎(ふるかわろうさい)も弦歌の教員となり、藤村繁三(ふじむらしげぞう)、松阪春栄(まつざかはるえ)なども進級試験・卒業試験の試験官役を担った。
 泉座頭については、手がかりがなく、フルネームも確定できていない。
 さて、「検校杖」である。邦楽家として手事(てごと)の名手であり、「楓の花」などを作曲した松阪春栄(しゅんえい)の所有であったと伝えられる。当道会の検校・松阪から彼の弟子津田青寛(つだせいかん)に譲られ、津田からさらに京都府立盲学校へと移ったという。
 鈴木力二(すずきりきじ)によると、筑波大学附属視覚特別支援学校には、村野検校の盃と、長さ76cmの杖が保存されているという。こちらはそれより長く、ネジ式で3本に分割できる。すべて繋ぐと1m35cm強となる。456gと、重くもある。全体が精巧な螺鈿細工で装飾されていることからも、権威を示すための装具であったと思われる。48uの宝箱のなかで、文字通りの宝物というわけだ。
 なお、『日本盲教育写真史』(鈴木力二、あをい会)の2ページに、この杖の写真があるが、説明と写真の位置が離れすぎており、「折りたたみ式」という説明も誤解を招き惜しまれる。『図説盲教育史事典』(日本図書センター)の12ページも同様である。


写真

検校杖と『瞽盲社会史』

(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)

編集ログ

 猛暑お見舞い申し上げます。
 梅雨明けから連日異常な暑さが続いています。昨日、ちょっと涼しいと思ったら、例年並みとか、読者の皆様もご自愛ください。
 「巻頭コラム」では、故村谷日盲連会長の言葉を借りて、いかに塩分が生体に重要かということを述べましたが、もちろん食事も大事です。
 最近、体内から冷やす野菜という意味でクールベジタブル(略して「クールベジ」)という言葉をよく耳にします。これは東洋医学でいう陰陽説の「陰性食品」のことなのでしょうか。たしかに夏野菜にはカリウムを多く含んだ野菜が多く、トマト、ゴーヤ、なす、ピーマン、レタス、キュウリ、ズッキーニ、オクラなどには、これが多く含まれており、利尿作用があるので、水分と一緒に余分な熱を体外に放出することで、熱くなった体を冷ますといわれています。塩分も大切ですが、夏野菜も忘れずに!
 「時代の風」に出てくる「ウェブアクセシビリティ」は、聞き慣れない言葉ですが、インターネットの普及により、高齢者や障害者にとってもホームページ等は重要な情報源となっています。しかし、情報を提供する側が適切に対応しないと、視覚障害者などがホームページ等から情報を取得できなかったり、操作ができないという問題が生じます。たとえば、文字にカラフルなグラデーションをかけようとすると、図形化する必要がありますが、そうするとそのままでは視覚障害者はスクリーンリーダーでは読めません。そのためにはどのような配慮が必要か? 全盲の静岡県立大学石川准教授などによる「みんなの公共サイト運用モデルの改定に関する研究会」がまとめた「みんなの公共サイト運用モデル」が、そのガイドラインなのですが、どうも多くの政府機関が無視しているようですね。見た目を重視するビジュアル化が進むと、今まで読めていたホームページが突然、視覚障害者が読めなくなるという事態さえ起こりうるのですが。(福山)

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