「Oさん(文科省大臣官房審議官)にお願いなのですが、先ほどの話からは今ひとつ情熱が感じとられませんでした。昨年文科省から出られた方は情熱的に語ってくださり、うれしく思ったのですが、国として情熱を持って法整備に動いて欲しいと思います」。
先日開かれた大活字文化普及シンポジウムの中で開催されたパネルディスカッション「読み書き情報支援サービスと読書権保障法の制定」において、質疑応答の時間に、フロアーから情報支援員を名乗る中年の女性が、以上のような仰天質問(意見)を行った。
審議官のどの発言が、どのようにまずかったか指摘しないで、「情熱が感じられなかった」との批判は、およそ討議の場には似つかわしくない印象批評以外のなにものでもない。
審議官は、主に昨年(平成24年)12月19日から施行された「図書館の設置及び運営上の望ましい基準」について説明し、それに付け加える形で、「朗読サービスはともかく、代筆まで図書館が担わなければならないのか? という議論が日本図書館協会の中でも論議されている」と問題提起しただけで、なんら「読書権保障法」に水を差すような後ろ向きの発言ではなかったためとても気の毒に思った。
ただ、官僚であるから当日の発言はあらかじめ文章化し、棒読みになったのは確かで、名演説とはいえない。しかし、この日のために10分間の発言録を作成して、時間内にきちっと収めるには無難な選択だとも思った。この発言録を元に情熱的に語ったら、倍の時間がかかったかも知れないからである。
しかも、同審議官は、「私のお話の仕方が大変まずくて、ご不快に思われた方がおられたとしたら申し訳ありませんでした」と謝罪までしたのである。
あの場の空気として、大人の対応を取るしかなかったのはやむを得ないだろう。しかし、あのような質問や意見を放置したら、禍根を残すことにならないだろうか。が、「あなたの発言は印象批評なので、論理批評で質問してください」と言って、すんなり通ったとも思えないので、あまりに日本的ではあったが致し方なかったのだろう。(福山)
【本年(2013)4月から、日本盲人会連合常務理事に就任した小野束<オノ・ツカサ>さんは、大学医学部の助手、企業内ベンチャー起業部門の部長、筑波技術大学副学長という多彩な経歴を持つ人物だ。65歳で同大を定年退職すると、筑波市から自宅のある愛知県に戻り、技術コンサルタントの国家資格である「技術士」の資格を生かして、企業顧問として科学技術に関する高度な専門的応用能力を必要とする事項について今でも指導している。東京と愛知を往復する忙しい時間を割いてもらい、5月14日の午後日盲連にて同氏のこれまでの半生とともに「なぜ日盲連なのか?」を聞いた。取材・構成は本誌編集部・戸塚辰永】
「小野束と申します。束という名前はスクリーンリーダーでは、『タバ』と読みますね。だから、技大では学生からよく『タバ先生』と呼ばれていました」と笑みを浮かべて気さくに自己紹介が始まった。
小野束日本盲人会連合常務理事は、愛知県瀬戸市で代々続く瀬戸物工場の家に戦後すぐに生まれた。当時、すでにアルマイトなどが普及し始め、瀬戸物業は衰退しかけてきた頃であった。そのため誰も家業を継がず、父は中日新聞や毎日新聞で記者として活躍した。
このため、自宅には進駐軍を取材したおりに譲り受けた米国RCA製真空管ラジオがあり、早くも1955年にはソニー製トランジスタラジオがあった。小野さんは、父の目を盗んでそれらを分解し、組み立て直すといった機械いじりの好きな少年だった。もっとも元通りになることはまれだったが。
「今も、ソニーの初期のラジオを持っています。ソニーの技術者は、当時のトランジスタラジオを見て、その技術の高さと誇りを取り戻して貰いたい」という。
1957年10月、旧ソ連が人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、地球周回軌道に乗せたというニュースが流れると、世界中の少年達が宇宙やサイエンスにワクワクした。小野少年もその1人だった。
「スーパーコンピュータのことで『2番じゃダメなんでしょうか?』と言った政治家がいましたね。科学技術の世界では常に1番を目指し、努力することが大切なのです。それらの努力が技術の底上げにつながりますから」と彼は力説する。
技術者を夢見て工学部で電子工学を専攻しメーカーへの就職を模索。卒業を目前にして、東京医科歯科大の鈴木良次<スズキ・リョウジ>教授の生体工学についての論文に偶然出会った。それは、人間の脳から筋肉へ発する電気信号を義手に伝え手を動かすものだった。これに触発されて、小野さんは北大応用電気研究所(現電子科学研究所)で生体工学の実験と研究に夢中になった。
しかし、生身の動物を相手にするので、毎回同じデータを得られるはずもない。工学研究では、当時、実験結果は毎回同じでなければならないという考えが主流であったから工学部では苦労した。これは今でも変わらないが生体特有の再現性の無さは到底理解されなかった。現在でこそ、先端学問領域として注目されているカオス理論だが、当時はまったくの異端として扱われる時代であったのだ。
かくして工学博士号を授与された小野さんは、教授の薦めで1973年に山形大学に医学部が新設されると共に、文部教官助手の辞令を受け、同大医学部生理学教室に配属された。こうして彼は人の呼吸のメカニズムを生体工学の技術を用いて解明する研究に3年ほど没頭した。具体的には、酸素と2酸化炭素のガス交換を、当時としては最新のコンピュータを用いた実時間波形を分析する研究で先端的なものであった。ところが、まとめてみると当時の研究室の学説とは異なる結果となってしまった。科学の世界だから、異なる結果が出ても許容されるはずだと考えて意に介さなかった。しかし、「象牙の塔」は論文の内容よりも、上下関係を重んずる世界であった。結局、小野さんは大学に居づらくなって学者の道を退くことになった。
多くの人と相談した末、「これからは一技術者で生きようと思い、名古屋市に本社を置く、K株式会社に入社させてもらった。K社と言えば、誰もが「コルゲンコーワ」とか「キャベジンコーワ」という薬を思い浮かべる。今でこそ、売上げの半分は医薬事業だが、当時は4分の1くらいしかなかった。もともと同社は、綿布問屋として創業した関係で、当時の主たる事業は繊維貿易。しかし、いつまでも「糸へん商社」では会社の未来はなかった。そこで、新規事業部門の開拓に乗り出そうとしたが社内には人材がいない、そこで白羽の矢が小野さんに立ったのだ。内側には人材がいないということは既存組織ではいくらでもあり、どの組織も改革は難しい。
小野さんを含めて4人の小さなチームは、当初月額数10万円の利益しか上げられなかった。「カネにならなくてもいいから」と口説かれてはじめた事業であったものの、大学の研究室とは勝手が違い、当たり前のように利益にはシビアであった。新技術を開発してもカネにならなければ存在価値すら認めて貰えなかった。K社の現在の代表取締役社長はM氏であるが、同氏は当時海外部門を統括する責任者で新規事業の必要性を強く主張していた。そのおかげもあり何とか開発、商品化は継続できたが、1、2年は大した成果も出ず、役員会などでは針のむしろに座る思いであった。
そして何とか製品を開発しても、会社の営業部は見向きもしてくれないので小野さんたちが自ら営業に回った。
実績のまったくない新製品を既存の営業部で引き受け、売れなければ損益として計上しなければならないから、そんなリスクは誰も負いたくなかったのである。
ところが営業で回るうちに、「この技術があるなら、こういうことができないか」と先方から要望が出るようになった。「営業をやって頭を下げる。そして相手の声をしっかり聞く姿勢が身に付いたことが1番の収穫でした」と小野さんは当時を振り返る。
起業3年目で、画像処理技術を用いた欠陥検査装置を開発し販売に成功した。この装置は、人間の目の代わりに直径0.1mmの傷や穴を瞬時に識別する装置である。ロール紙、アルミホイルなどの製造工程で虫が飛び込んだりして穴が空くことがある。当初は人の目で検査していたが、毎分1,000mの速度で流れる幅2〜3mのアルミホイルのごく小さな穴を見つけるのは肉眼では不可能だ。そこで、1式2,000万円の高価なこの装置が売れ、ようやく利益に結びつくことができた。4人ではじめたベンチャー企業部門は、時間を経て100人に増え、次々とIT分野で研究・開発に取り組み、年商10〜20億円を売り上げるまでに成長していた。
「当時の部下が、今ではK社の中核を担っています。『小野さんの部下は何か他の人とは違う突出したものを持っている』との言葉を、今でもいただくのがありがたい限りです」と彼は微笑む。当時の部下とお酒を飲みながらこの話をすると「あんなに厳しい上司はいませんから」と皆笑いながら言ってくれることが嬉しいのである。
当時、本部長として陣頭指揮を執る小野さんは、元旦しか休みを取れない年もあったほど猛烈社員として仕事に励んだ。そして、小野さんの姿を見て部下も精一杯働いてくれた。
そんなある日、突然激しい頭痛とめまいが小野さんを襲った。働き盛りの45歳であった。東京出張の帰り、新幹線の車内でビールを飲んで疲れを癒すところだが、頭痛は激しくなるばかり。さらに物が二重に見える「複視」という症状も出て、目も回り歩行さえままならなかった。
翌朝すぐに、藤田保健衛生大病院脳神経内科を受診すると、世界でも珍しい変わった病名を医師から告げられた。
「私の脳と眼球の映像が珍しい症例として学会誌に発表されたのです」と小野さんは苦笑する。
入院中、安静にしていると、4日目頃からだんだん具合がよくなり、片目をつむれば、廊下を歩くことができた。
そこで交通事故で失明した若い女性や、脳腫瘍で失明した男性と出会い、彼らの絶望的な境遇に思いを寄せた。「私もいつか同じようになるのでは」という不安と同時に、「彼らの社会復帰に何か役立ちたい」という考えが横切った。
2週間病床に伏したが、何の治療もして貰えなかったが次第に回復してきた。しびれを切らした彼は「もう治ったから退院させてくれ」と言って自主退院した。それ以来、時折疲れが溜まると症状がぶり返すが、2、3日寝ていればいずれも症状は消えたが不安はいまだに残ったままである。
第2の転機は、49歳のときだった。部下の健康を慮って、社内定期健康診断を受けるよう指示したら、ある社員が「部長が受けるんだったら、私も受けますよ」と生意気な口調で言った。小野さんはカチンときたが、仕事に追われ10年余健康診断を受けなかったので受診した。
しかし、健康診断で引っかかったのは、彼だけだった。「胃に腫瘍のようなものがありますので、再受診して下さい」との医師からの電話を受けて驚いた。病院の奥の診察室に家族と共に呼ばれ、胃ガンであるとの説明を受けた。すぐに入院し、胃の摘出手術を受けた。入院生活は2カ月におよんだ。
ようやく出社すると人事部長から「企業人としてのおまえの人生は、もう終わったぞ!」と言われハッとした。
「会社ってそんなもんですわ。肩肘はって頑張ってきたのに、会社とは薄情なものだなと思いました。辞めようかなと・・・」。ところが、これまでの小野さんの業績を高く買ってくれていた人がいた。先に述べた現在の社長である。
「5年間売上げは忘れていいから、筑波の研究所で研究してくれないか」と申し渡された。これが、小野さんと筑波を結びつけるきっかけとなった。
K総合科学研究所では、音楽CDの著作権法に基づいた情報セキュリティの技術である電子透かしソフトウェアの開発に従事した。開発したソフトウェアは1本何百万かの高額であったが結構売れた。そんなある日、研究者や業界関係者向けの『情報処理学会誌』の公募欄に筑波技術短期大学視覚部情報処理学科で教員を公募しているとの記事が目にとまった。
彼自身難病にかかり、入院中に知り合った患者仲間の顔が思い浮かんだ。
そこで、駄目でもともとととりあえず応募することにした。採用されるとは思っていなかったので、なかば忘れかけた2カ月後の2月に内定の電話がかかってきたときには驚いた。しかも、小野さんにはまだ会社に未練があった。ところが翌3月、父が突然亡くなりこれも運命だと思った。父の死を機に再び学問の世界に戻る決意を固めた。小野さん、56歳の春であった。
その後、筑波技術短期大学と筑波技術大学で合わせて9年間勤務した。
短大では、視覚部情報処理学科教授として採用された小野さんだったが、短大設立から15年も経過したのに、視覚障害学生への指導方法すら確立されていないことに愕然とさせられた。2年目に学科主任、2006年に4年制大学に昇格すると学科長をへて学部長を1年務めた。
大沼直紀<オオヌマ・ナオキ>初代学長が退任すると、「視覚関係からも立候補者を出そう」との声に押されて、小野さんは学長選挙に立候補したが惜しくも次点で、その結果、副学長に就任した。
「やはり、大学は官僚的ですね。大学でも『民間企業の方法を取り入れて下さい』と言われましたが、私にはその意味がわかりませんでした。目的が大学と企業はまったくちがいますからね。同じ手法でいいわけがないのです。今はどうかわかりませんが、盲学校などでは学生に臨床実習をさせているのに、技大では鍼灸学科の学生は、東西医学統合医療センターでの本格的な臨床実習は事実上なされていなかったのです」と苦言を呈した。
65歳で定年退職した小野さんは、2年前から郷里で技術コンサルタントの仕事を始めた。技術顧問としての仕事も軌道にのりようやく落ち着いた頃、「常務理事になっていただきたい」と突然、竹下義樹日盲連会長直々に要請を受けたのであった。
いくらか戸惑いもあったが、縁あって視覚障害者の世界で仕事をしてきた小野さんは、「コンサルタントの仕事を続けながらでよければ、そして遠方の地であるから迷惑をかけなければ」と回答した。すると会長は、当然のこととすべて受け入れた。
小野さんは現在、週に2、3日、日盲連で常務理事として執務する。
「疲れるでしょう?」と尋ねると、「筑波に通うのと余り大差はありませんよ」と軽くかわされた。「ここでも、『民間企業で養った経験を生かして組織改革をして下さい』と言われますが、私にはその意味がまったくわからないのです」と苦笑いする。大学でもそうであったが、企業がうまくいくのは企業精神だと勘違いするのであろう。民間企業は営利を追求する場、日盲連は非営利団体だから、まったく立ち位置が異なる。「人事評価制度を導入するとか、営業成績を評価するとか、民間企業でやっていることをやろうと思えばすぐできます。しかしそのままやって効果的かどうかわかりません。官僚的ではなく、風通しのいい職場にしていきたいものですね」と小野さんはいう。
そこで、「何か具体案はお持ちですか」と尋ねると、「今は言えません」と断られた。
ただ、「驚いたことに、常務理事になって2日目に厚生労働省の方が訪ねてこられました。こんなことは、普通ありません。その時、やはり日盲連は視覚障害者のナショナルセンターなのだと思いましたね」と小野さんは述懐する。
これは創立以来、障害者福祉の充実を求め、特に故・村谷昌弘<ムラタニ・マサヒロ>会長の強いリーダーシップのもとで日盲連が厚生省とねばり強く交渉し、障害者福祉の向上に尽力し続けてきた成果だと彼は語った。「ところが、多くのうちの職員は厚生労働省の官僚が挨拶に来ることは、通例行事として不感症になっているのではないか」と危惧もしていた。
ちなみに大学では文部科学省の官僚が視察する際には、前もって事務方が当日の流れをシナリオに書き、教職員に配布し、失礼のないように徹底していたのでまったく逆の光景に、ことさら驚いたようなのである。
最後に、小野さん独特の理論を紹介する。
「ちょっと恥ずかしい話なのですが」と小野さんは前置きして、「私には組織を改革するための理論があります。それは“トイレ理論”です。トイレに行ったとき、臭いと感じるでしょう。それが30秒もしないうちに、鼻が慣れちゃうんです。だから、慣れるまでに何かしなくちゃいけないのです」と破顔一笑した。
日盲連の常務理事に就任して1カ月半、「3カ月過ぎれば匂いに鈍感になってしまう。だから、実は焦っています」と小野さんは厳しい顔をした。
近年、福祉を取り巻く潮目は様変わりした。民間企業でイノベーション(技術革新)に取り組み、大学で教育・組織運営に取り組んできたエンジニアが、今後どのように日盲連に新風を吹き込むのか、注目したいものである。
平成25年(2013)5月24日、京都盲唖院が創立されて満135年を迎えた。翌25日、京都府立盲学校同窓会はそれを祝賀する式典と懇親会を開催した。京都府知事、京都市長(代理)など多彩な臨席を得て多数の同窓会員の懐かしい顔ぶれが揃った。
卒業生諸氏から「この学校があったから生きてくることができた」「この学校があったから今の私がある」などのスピーチが相次ぎ、盲唖院から盲学校に至るこの教育が果たしてきた役割にしみじみと思いを致す機会となった。同時に、現在と今後のありようも問われていると感じた。
式典における講演は、元校長である桜庭修<サクラバ・オサム>氏によるものであった。盲唖院が明治22年に京都府立から京都市立に移管し、昭和6年に府立に「復活」するまでの経過を中心にした興味深いテーマだった。その中で、明治10年代に京都府盲唖院が着手した職業教育に関する言及があった。古河太四郎<フルカワ・タシロウ>は、聾唖者の職業を資本主義のもとで賃労働に移行しつつあった手工業に求める一方、盲生には伝統的な鍼按などが適すると考えた。しかし、彼は盲人の新職業の開拓にも驚くべき発想を持っていた。その一端を紹介する講演であった。
この機会に、職業教育にまつわる宝物をピックアップし、初期盲唖院の職業教育構想を概覧しておきたい。
『徹心録<テッシンロク>(徹夜するの「徹」に「心」、録音の「録」)』もしくは『鐡心録<テッシンロク>(鐵道の「鐵」に「心」、録音の「録」)』:これは明治維新の頃の古河による手記とみられる。そこに、職業の意義が述べられている。「仮令<タトエ>、不具ナリト雖モ、天、人トシテ性命ヲ与フル限リハ、必<カナラズ>人ノ行ヒナクンバアラズ。行ヒ均シク、業<ギョウ>高ケレバ、人ニ軽蔑且凌辱セラルヽノ理<リ>ナシ」と。
『盲唖授職之儀伺<モウアジュショクノギウカガイ>』『盲人職工生名簿』などの文書:前者は明治11年、後者は同13年に、まとめられたもので、当時の京都における盲人・聾者が従事している職業、職種や年齢別の平均所得などが記録されている。古河は、自分の頭の中だけであれこれをひねり出したのではなく、事実を丹念に調べた上で、視覚障害者にとっての伝統的な職、新しい可能性の感じられる職を見出していったのである。
『工学場規則』(明治13年):前記の理念と認識をベースに実際の職業科が具体化された。工学場は、当初普通学科に在籍する13歳以上(貧困な家庭の子の場合は10歳以上)を対象とし、同年のうちには公募によって30歳以下の盲・聾者をも受け入れた。盲生には、まず紙撚細工が導入され、翌14年から按摩、琴・三絃・胡弓・琵琶、籐細工・織物・紙製織物も加えられた。なお、13年に設けられた専門予科では法学の教授も試みられている。鍼術については同17年の学則で明記され始める。ちなみに、聾生には、銅器彫鐫<チョウセン>、和木<ワキ>指物、刺繍、裁縫、唐木<カラキ>指物などが指導された。
琵琶・月琴・琴:江戸時代から伝承されたと思われる楽器である。琵琶のうち1点は嘉永4年に製造され「都富士号<ミヤコフジゴウ>」と命名された逸品である。明治20年、昭和51年に修理した旨の書き物も添えられている。
人体模型:東京盲唖学校の史料には金属製の経絡人形が存在するようだが、京都に残っているのは陶器製である。
木製按摩器:明治17年にロンドンで開催された博覧会に出品し、金賞に輝いた。今日でもよく見かける肩たたき器様の物など10種近くが残っている。もっとも大きな函体<カンタイ>の按摩器には、それを新案特許として申請した書類もみつかっている。
紙撚細工の器:京都府庁で生じた書き損じの反故紙を無償で払い受け、菓子皿や炭籠、漆塗りの碗などに加工した。漆は教員が塗った。同窓会名簿にも「紙撚<コヨリ>科卒」の人がある。需要の後退などに災いされて永続しなかった紙撚科だが、職域拡大への挑戦であった。
紙撚細工の器
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
今年は暑い夏になりそうですね。7月には3年ぶりに参議院選挙が行われます。『点字毎日』で、「参院選も3媒体で対応」との記事を読みました。「選挙のお知らせ」の作成は本当にご苦労様です。「法的な選挙広報」に位置づけられることを願うばかりです。
ところで、昨年12月の衆議院選挙の「点字選挙のお知らせ」を読んで気づいた事があります。地元、小選挙区「兵庫県第10区」の候補者4名のうち、最初の候補者の所属政党名が点訳されていなかったのです。
後日、選挙情報支援プロジェクトの担当者に聞いたところ、『選挙公報』(墨字原文)に掲載順序やふりがなを手書きした点字版用原稿の最後に、候補者名と所属政党名・ロゴマークが記載されており、その横に「点訳不要」または「できない(適切な表現か疑問)矢印がある」と記されていたとのことでした。ロゴマークの点訳は難しいとはいえ、政党名はぜったいに記載すべきです。関係者の今後の配慮を切望いたします。
私は来る参議院選挙に出掛けて点字投票をする予定です。そして秋には爽やかな日本の政治政策を実感したいものです。(兵庫県・古賀副武)
通常は、ロゴマークとは別に、選挙公報の氏名欄に候補者氏名・年齢と共に党派名が記載されるのですが、この候補者は、氏名欄に政党名を書かなかったようですね。極めてまれなケースですが、政党名は必須なので、選管を通して候補者に問い合わせるなどの配慮が必要だったように思われます。
先月号「ラジオが告げた・・・」で下沢先生の名前が「ひとし」になっていましたが、正しくは「まさし」です。お詫びして訂正いたします。ご指摘ありがとうございました。(福山)
日頃お感じになっていること、記事に関するご意見などを点字800字以内にまとめ、本誌編集部(tj@thka.jp)宛お送りください。