2月5日、小野寺防衛大臣は、1月30日に東シナ海で中国海軍のフリゲート艦が、海上自衛隊の護衛艦に射撃用の火器管制レーダーを照射したと発表。これは事実上の軍事行動で、武力行使を意図した極めて危険な挑発行為であるため日本政府と米国政府は懸念を表明した。
日本政府の抗議に対して、中国外務省の報道官は、当初「まず事実を確認したい」と応えていたが、2月8日午後、前日までの態度とは打って変わり、射撃レーダー照射の事実はなく捏造だと日本を強く非難した。
射撃用レーダー使用の是非を争えば、「戦闘行為に準じる」として、国際社会から批判される恐れがあるので、しらばっくれて「やった」、「やっていない」のレベルに議論を持ち込もうとの魂胆である。場合によっては、免職とか更迭とかの深刻な問題にまで発展する可能性だってあるのが中国社会なので、そうでもしなければ中国の面子は立たないのだろう。
かつての中国・天洋食品製「餃子農薬混入事件」のとき、中国公安省の余副局長は、日本国内での毒混入を示唆し、しかも「日本は鑑定結果を提供しない」と発言。同日、吉村警察庁長官は、鑑定結果や証拠写真は提供済みだとして、「看過できない」、「不可解」と厳しく反論した。しかし、その後、日中の主張は平行線となり、もう少しで迷宮入りになるところであった。
ところが、中国で回収された天洋食品製の餃子をこともあろうに河北省政府が横流しし、今度は中国国内で中毒事件が発生。天洋食品の元従業員が犯人として逮捕され、余副局長は更迭され、中国で販売または輸出入される商品の品質や安全性を検査・認証する質検総局の局長は自殺した。
因果は巡り、少なくとも今後、中国人民解放軍は、射撃用レーダー照射を自粛せざるを得ないだろうから、それだけは成果といえるかもしれない。(福山)
その昔、カトマンズ盆地にはバクタプル、カトマンズ、パタンという3つの王家があり、それぞれの旧王宮(ダルバール)前の広場には、一群の寺院が建ち並んでいる。
昨年の12月30日(日)首都・カトマンズの中心部から車で約40分の距離にあるバクタプルのダルバール広場の門前で、待ち合わせ時間ぴったりの午前10時30分、スレシュ・ラズバンダリ氏(48歳)が父親の手引きで現れた。
彼は兵庫県立盲学校3年在学中の1995年に、阪神・淡路大震災に遭遇しているので、来日したのは今から20年ほど前のことである。当時、彼の依頼でカセットテープによる「声の便り」を手渡すために父親には会っていたが面影はおぼろであった。
ラズバンダリ氏を引き取り、日本への留学を希望しているビベック・バッタライ氏(22歳)が待つバクタプル病院前に徒歩で向かう。2〜3分歩くと彼は学友でやはり全盲のルームメイトと共にいた。それから私を先頭に4重連となってダルバール広場に引き返し、ゲート前にある外国人観光客目当てのレストランに入った。
二昔前であれば好奇の目で見られたはずだが、今や誰もわれわれを振り返ったりしない。それだけしっかりと視覚障害者が市民権を得ているのだ。
ネパールでは通常午前9時過ぎに朝食を食べるので、彼らに食べたかと聞くと、ラズバンダリ氏だけが食べていないという。そこで彼は食事を、私たち3人はコーヒーを注文した。
この面談は国際視覚障害者援護協会(IAVI)石渡博明理事長から、「日本への留学を希望している青年に会って、日本で三療を学び帰国後それがネパールの視覚障害者の自立に貢献できるのかどうか、リサーチしてきてください」という依頼に基づいて行った。
それから2時間にわたって様々な話を聞いた。バッタライ氏は日本語の日常会話が結構できるので、来日してもその点の不安はない。しかし、彼が帰国後、あはき関連の仕事に就く可能性はほぼないというのが私の偽らざる印象であった。彼はとにかく日本に行きたい一心であって、あはきに興味があるわけではない。とにかく訪日して、その上で自分の将来について考えればいいというスタンスなのだ。
ラズバンダリ氏の日本留学は、成功とはいえないと私は思っているが、それでもバッタライ氏にとっては垂涎の的なのだ。現在、国立トリブバン大学サノチミキャンパスの修士課程1年生で「農村開発」を専攻している彼は、大学院を休学、あるいは退学してでも日本への留学は得難いものと思い詰めている。
ラズバンダリ氏に話を振ると、視覚障害の男性2人、女性2人が同時に日本に留学して、ネパールに同時に帰国したら、あはきを職業としてネパールに根付かせることができるかもしれないと言っていた。しかし、彼の経歴を知るものとしては、とても無責任な言い草に思えた。
彼らは英国の慈善団体による「シーイング・ハンズ(Seeing Hands)」プロジェクトを挙げて、視覚障害者のマッサージ雇用の可能性に言及した。しかし、そのプロジェクトに彼ら自身はまったく興味がなく、また接点も持っていなかった。
翌日、大晦日の午後、私はウェブで調べてシーイング・ハンズ・クリニックに行って施術を受けた。
シーイング・ハンズ・ネパールは、英国人によって英国で登録され、トレッキング等でマッサージの需要が多い、景勝地ポカラにまずクリニックを開き、2年前にカトマンズにも進出した。年に5、6人のマッサージ治療師が英国、スペイン、ポルトガル、ブラジルなどからボランティア教師としてネパールに来て、視覚障害者にオイルマッサージを中心に教えているという。
こうして養成された視覚障害施術者がポカラに9人、カトマンズに3人働いており、晴眼者の受付や洗濯・掃除婦などを合わせると17人以上の職員が働いていると聞いたが、私が行ったカトマンズの店にはその日、全盲の治療師がたった1人いただけだった。
私が宿泊しているホテルから歩いて7分ほどのところにそのクリニックはあり、看板には「シーイング・ハンズ・ネパール ブラインド・マッサージ・クリニック 訓練を受けたプロの盲人マッサージ師が施術します」と英語で書き、電話番号が記してあった。
ドアをノックして、大声で「ナマステ」や「ハロー」と数度呼びかけると、曖昧な返事があったので、靴を脱ぎ、室内に入ると「ちょっと待ってくれ」と音声パソコンを叩いている男が不機嫌そうに言った。それから「1時間で1,200ルピー(1,200円)」とぶっきらぼうに言い、「OK」と私が言うと2階の施術室に案内した。
室内はとても清潔で、2台の治療用ベッド、その間にはヨーロッパ製とおぼしき大型の石油ストーブがあり、治療師はまずカタカタと大きな音を立ててストーブに点火した。そして私に、パンツ一つになってベッドにうつ伏せになるように言って、部屋を出て行った。
ストーブは点いたばかりで寒く、私は長袖Tシャツを脱がないでいた。数分後やってきた彼は「ロングTシャツも脱げ」という。私が「オイルマッサージか?」と聞くとそうだと言う。そこで「ドライマッサージにしてほしい」と頼みようやくTシャツの上から施術が開始された。
施術を受けた感じは悪くなかった。按摩や指圧の方を私は好むが、凝りのある部分を探し出してしっかり揉みほぐそうとしており、それなりに上手に思えた。
ただ、施術中「どこから来た」「いつネパールに来た」「いつ帰る」「名前は」「年齢は」「結婚しているのか」・・・と、一方的に英語で質問した。また、問わず語りに聞いたところでは、彼は年齢26歳で、トリブバン大学の教育学部を卒業して、2年前からこのクリニックで働いており、どうやら同クリニックの事実上の責任者らしい。「シーイング・ハンズはカンボジアにもあるよね」と言うと、「ない。ネパールだけだ」と彼は断固として答えた。
後日調べてみるとカンボジアの視覚障害者が施術しているマッサージ店は「シーイング・ハンズ・マッサージ」と名乗っており、ロゴマークも違うので、まったく別組織である。カンボジアの方は、アジア視覚障害者マッサージ指導者協議会(AMIN)などの協力を得て、日本式の按摩・マッサージ・指圧の施術所をカンボジア全土にすでに10店舗展開している。施術料も1時間500円程度とネパールの半額以下で、本格的に営業しており、名称は同じだが内容は大いに異なる。
シーイング・ハンズ・ネパールのプロジェクトは、その中で完結しているので、同クリニックに勤める視覚障害者が日本に留学するとか、日本であはきの資格を取った者が同クリニックに勤めるなどということは、ちょっと考えられないように思えた。
現在の同プロジェクトは、慈善事業の一環として行われており、その英国の団体が支援を中止したら果たして継続できるのか? その点もはなはだ疑問だ。しかもホームページを見ると連絡先はあくまでも英国なのだ。
辛辣な言い方をするならば、同クリニックは患者の方を向いて治療をしておらず、英国を中心にヨーロッパなどから西洋マッサージの治療師が自分たちの技術が、ネパールで役立つことに自己満足するためのプロジェクトではないのか。
施術が終わると黙ってストーブを消し、私を残して、すたすたと階下に降りて行った施術者に営業努力を問うのは無理な相談なのかもしれない。これは営業ではなく慈善事業なのだから。(福山)
以前、ある人から「君は感謝の言葉を述べるときに『すみません』と言うね。『すみません』は謝罪の言葉だから『ありがとうございます』と言うべきだろう。悪い癖だから直した方がいいね」と言われたことがあった。
私はかなりむかついたので、それに対して「いつから『すみません』が謝罪の言葉専用になったのですか。感謝の気持ちを表すときにも『すみません』って言うのですよ。そしてこれは正しい日本語です」と食ってかかったことがあった。
誰かから側聞したことを鵜呑みにして、自分で消化することもなく、受け売りするから反撃されても二の句が継げないのだ。
感謝の気持ちを表すときに『すみません』と言う人が、極めて稀有な例であれば、先の説教は成り立つ。しかし、ちょっと注意深く観察すれば、多くの人々が感謝の気持ちを表すときに『すみません』を使っているのを目撃するはずである。日常普段に感謝の気持ちを表すときには『ありがとう』とか、『ありがとうございます』と言うより、むしろ『すみません』と言うことの方が多いのではないだろうか?
「すむ」という大和言葉には、「支払いが済む」、「人が住む」、「心が澄む」などと様々な意味に使われるが、語源は同じだという。
人が通常と違うことに出会った場合、心が動き、平常ではなくなり、気持ちが澄んでいない、落ち着かない、何故ならあなたにこのようなことをしていただいたから、このような迷惑をかけたから、あなたに負担になることをお願いするから・・・。すべて心が平常ではなくなり、そこから自分の気持ちを、すんでいない、すまない、すみませんと表現するようになり、感謝・お詫び・依頼の気持ちを表す言葉となったのだという。したがって「すみません」は、必ずしも謝罪の言葉だけではないのである。
この大和言葉を理解できない英語の若い先生などは「すみません」は本来感謝の意味ではなく謝罪の意味だから「サンキュー」にあたる正しい日本語「ありがとう」を使うべきだなどと教え、それを受け売りするような「ナイーブ」な人が出てくるから話はややこしくなるのである。(福山)
見学者からの讃辞が集中する一つに木製の「凸形京町図」(京都市街之図)がある。明治12年製の、京都盲唖院を代表する至宝である。
全体の大きさは、縦1.2m、横25cmで、厚さ2cm余の頑丈な板4枚を裏打ちしてつなぎあわせ、1枚版のようにしつらえてある。その表面に京都の市街地が彫られ、条里制の大通りなどが凸線で表されている。
『明治十五年盲唖教授参考書』に、「盲生ニハ木刻凸形京都市街図ニヨリ先町名ノ順序ヲ暗誦セシメ以テ街衢ノ屈曲衝突等ヲ示シテ迂回遠近ノコトヲ知ラシメ道路ノ広狭ニヨリテ車馬除避ノ心得ヲ示シ川河橋梁ニ拠リ便路ヲ知ラシメ併セテ官舎及学校ノ位置ヲ示シ(略)」とあって、通学の便や安全を学ぶために使われたと分かる。描かれているのは、三条通りを境に、北の上京と南の下京だ。当時、北区とか左京区とかは存在せず、上京・下京以外は「郡部」に属した。
要所に、大・中・小、幾種類かの鋲(凸状のマーク)が施されている。最も大きいのは御所で、その次は二条城。二条城には京都府庁として機能した時期があった。この二つは別格だ。そして、それより小さい、径1〜1.2cmの凸は寺院などであり、知恩院、泉涌寺、東寺、仏光寺、東・西本願寺、相国寺、閑院宮などが刻まれている。天満宮、八坂神社などの神社は5mm四方の凸符が選ばれている。
径7mmほどの丸い凸は官公庁。府庁、郵便局、電信局、裁判所、療病院、監獄、そして女学校、画学校、舎密局、待賢小学校、仮盲唖院、府庁前の盲唖院等が示されている。まさしく近代京都の新しい景観に位置を占める盲唖院だったのだ。京都ステンション(駅)、神戸へ向かう線路も描かれている。東向きはまだない。三条通りの郵便局は、地図上と同じ場所に、煉瓦造りの近代建築として現存する。
径3mmくらいの凸符も60個余り付されている。何を意味するのかなかなか分からなかった。あれこれの検証を経て、明治初期の地図史料と照合したところ、それは当時の番組小学校(明治2年、京の町衆が全国の先陣を切って、今日の学区に当たる「番組」を単位に64校を創設した)の所在地を示したものと判明した。番組小学校はしばしば再編が行われたため、凸形京町図と明治2年の小学校地図とには一致しない部分もある。
まとめなおすと、この地図には、盲唖院の生徒たちが、自分はどの学区に住んでいるか、自宅から盲唖院への通学路はどのようであるか、京都の都市部にはどんな歴史的建造物や近代的な建造物があるかを、過去と現在におよんで、実用的・多角的に学ぶことができる機能が与えられていた。時間と空間を一体化したツールとも言えよう。
発注関係の書類や「学事年報」から西京村の彫刻家・柘植利安の手になった逸品と分かる。彼は、印判や江戸期の版木とは異なる近代彫刻の技法を用いている。名工というべきだろう。製作費は13円50銭であった。朝日新聞社発行の『値段の(明治、大正、昭和)風俗史』によると、その頃の家賃が「8銭」だから、この教具に費やした金額には驚きさえ感じる。盲唖院は生徒のためとなれば、出し惜しみをしなかったのだ。
全体が黒光りし、触感は滑らかだ。これを繰り返し、撫でて、撫でて、存分に京を学んだ指のいきいきとした動きや喜びの表情が目に浮かぶ。唖生への地図指導にも使われた。障害の違い、あるいは有無を超えて共用できるという意味で、「ユニバーサルデザインの地図!」と評価してくださった研究者の言葉が耳に残っている。
ちなみに、この凸形京町図を銅版で復刻したものを、公立学校共済組合の「ホテル ルビノ京都堀川」のロビーに、他の若干の盲唖院史料とともに常設展示していただいている。
『凸形京町図』
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
国リハあはきの会「新年の集い」では、報道機関の誤報が厳しく取りざたされました。2部の懇親会でも、酒の勢いもあり報道に対する批判が噴出して、これまで私が犯したケアレスミスが頭をよぎり、顔を赤らめたものです。今後もできるだけわかりやすく誤解を与えないよう、また誤報のないよう一層精進すると共に、過ちに対しては率直に訂正・お詫びするべきだと肝に銘じた初春でした。
これは誤報ではありませんが、「巻頭コラム」に「小野寺防衛大臣は、1月30日に東シナ海で中国海軍のフリゲート艦が、海上自衛隊の護衛艦に射撃用の火器管制レーダーを照射したと発表」と書きました。しかし、この「照射」という言葉がとてもわかりにくく、実態に即しておらず、誤解を与えそうに思われました。が、そのように発表されたのですから致し方ありません。
実際は外来語ですが、「ロックオン(lock on)」という語彙を使うべきです。ロックオンとは「射撃管制装置やミサイルに内蔵された目標追尾機構で、敵を捕捉すること」という専門用語です。米国やロシアの軍隊なら、ロックオンされたらすかさず反撃してもおかしくない極めて異常で危険な行為です。「レーダーを照射」では、建国の父が「鉄砲から政権が生まれる」と言った国ならではの海軍の暴挙がうまく伝わらないのです。
石田由香里さんはこの2月末に帰国されましたが、まだ、語るべき話があるようなので、「フィリピン留学記」は今しばらく継続して連載していただきます。
年末にカトマンズで、全盲の日本人女性に出会い、そのネパール語を流暢にしゃべる姿に驚きました。ネパール語という極めてマイナーな言語を、自然体でしゃべる日本の視覚障害者が他にいるのでしょうか? 私は知りません。まだ若い女性がなぜネパール語がしゃべれるのか? 本誌、来月号に登場していただき、その謎を解明していただく予定です。お楽しみに!(福山)
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