衆議院議員選挙ギリギリのタイミングで政党の離合集散があり、点字選挙公報等を作成している私たちのような点字出版所関係者は大いに振り回された。しかし、1つだけ救いは「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党」とか、「国民の生活が第一」というような人を食った、長すぎる名称の政党が解党したことだ。自らの政治的理念を政党名にしないで、「減税」「反TPP」「脱原発」というような有権者の歓心を買うスローガンを羅列し、そのまま政党名にして恬として恥じない厚顔無恥ぶりにあきれたり、落語の前座噺の「寿限無」を思い出した人も多かったのではないだろうか。
もちろん、日本未来の党に合流したとしても「国民をあなどる意識」まで変わったとはとても思えないので、そのような軽率な人々が結集した政党を、支持するわけにはいかないと思うが、皆さんはどのように判断されたのだろうか?
スローガン政党の源流は、1983年に結党した八代英太の福祉党や野末陳平の税金党のいわゆる1政策政党に見出すことができる。しかし、少なくとも当時はにわか仕立ての口先三寸ではなかったし、止むにやまれぬ1人1党という格別の事情もあった。
1政策政党の嚆矢は、1869年創立の米国・禁酒党に遡るが、同党の主張に沿って1919年に施行された「禁酒法」は、アル・カポネなどギャングの重要な財源になり、結局、1933年に廃止されたことは他山の石となるだろう。清廉潔白な思い込みが、結果的に国を誤らせた適例だからだ。
総選挙は終わったが、今後も政治の混迷は続き7月には参議院選挙がある。今後も勇ましくラッパを吹き、歯切れ良くデフレ脱却・景気回復などと耳障りのいい声が聞こえてきたら、注意するに越したことはない。
3年前に国民の大きな期待を背負って船出した民主党が政権を担当して、時の最高権力者であろうと、いかに「言うは易く行うは難し」か、まざまざと見せつけたのはそう古い話ではないのだから。(福山博)
11月10日から15日まで、日本盲人福祉委員会(笹川吉彦理事長)が企画したタイ・バンコクでの世界盲人連合(WBU)の総会ツアーに社員とともに参加し、会議や選挙の場もオブザーバーとして見学した。
到着初日、11日の夜、 WBU全体の歓迎レセプションがホテルの屋外プールサイドで立食形式で行なわれた。生の音楽演奏が行なわれる中、各テーブルに食べ物や飲物が出て、それらを自由にとって飲み食いしつつ、いろいろな人と交流し合う形式のパーティーだった。
私は、ベトナム、ルーマニア、モルダビア、フィンランド、インドネシア、米国の人達と交流できた。たまたま声を掛けた米国人が、米国の盲人団体NFB会長のマーク・モーラー氏だった。文献で知っている大変有名な方であり、実にラッキーだった。また、その後長時間にわたって歓談していたインドネシアの女性が後に次期WBU事務局長に選ばれ大変感激した。
12日の夜、日本の代表団が企画した「ジャパン・ナイト」というパーティーがホテル内の日本レストランで行われた。このパーティーは、無料かつ自由参加で、食事や飲物代はすべて日本側が負担するというものだった。定員50名のところ、100名以上の参加者が殺到し、食事や飲物も追加注文したと聞く。私は、このパーティーで30年前の若き日に米国短期留学の際に大変お世話になったラミー・ラビー氏と会うことができ、30年ぶりに親交を深める幸運にあずかった。
13日の夕方から夜にかけて、 WBUのアジア太平洋地域、WBUAPの総会が行われ、ここで次期役員の選挙も行なわれた。
ここでは、会長、副会長および執行役員3名の投票が行なわれた。選挙の方法は、記名式ではなく、形の異なる用紙を投票する方式だ。三角、四角、台形、六角形の4種類の紙が入った封筒が各国の代表権のある人々に配られた。
会長選挙のときは、田畑さんのライバルのマレーシアのサバラトナム・クラセガランさんに三角が、田畑さんに四角が割り当てられ、投票が行なわれた。時間節約のためか、AP地域は「ファミリー」だということで選挙演説は行なわれなかったが、日本のオブザーバー団の席からは、「クラセガランさんは現会長なので出ずっぱりだからいいが、田畑さんは一言もしゃべっていないので、演説をさせてもらうべきだ」というささやきが聞かれた。だが、私がいたのはオブザーバー席、オブザーバーはあくまでもオブザーバーであり、発言権はない。
ところが、投票結果は、52対17で田畑さんの圧勝だった。この4年間の田畑さんの執行役員としての活躍が評価されたことは間違いない。
その後の副会長選挙では韓国のスンジュン・ハさん(男性)が、会計はオーストラリアのケビン・マーフィットさん(男性)が選ばれ、3人の執行役員選挙では4人の立候補があり、その中からタイ、ホンコン、ニュージーランドのメンバーが当選した。
田畑さんは会長就任演説の最後で、投票時のライバルでもあった現会長のクラセガランさんに感謝と温かなねぎらいの言葉を述べ、大和なでしこの優しさと度量の深さを示した。
選挙終了後、各国のメンバーが田畑さんの周りに駆け寄り、「おめでとう」のラッシュとなった。
展示会の規模は、サイトワールドとほぼ同じ。新興国からの参加もみられ、世界経済のパワーバランスの変化をここでも感じ取ることができた。
日本からはケージーエス、シナノケンシ、日本テレソフトの3社が出展した。韓国から4社、インド、中国(ホンコン)、ポーランド、南アフリカから1社ずつ、先進国からは米国9社、ドイツ4社、イギリス4社、カナダ、オーストラリア、スペイン、ベルギー、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドから各1社が出展し、そのほかは地元タイの団体の出展だった。
スマートホンの入力を何とか全盲者にさせようと工夫した機器が多数見られたが、これだという決定版は見つからなかった。
私は○○恐怖症である。だからディズニーランドには行かないし、アニメの「トムとジェリー」も見ない。伏せ字にしたのは、その動物の文字を書くことさえ嫌だからだ。実害といえば、ごくまれに新聞に動物実験の結果として写真やイラストが出てギョッとして、朝刊をほっぽり投げることくらいだ。写真より動画がよりインパクトがあるので、テレビは見ないことにしている。
こんなことを思い出したのは、ノンフィクション作家・沢木耕太郎のエッセイ集『ポーカー・フェース』を読んだからだ。彼はこれまで、家族を語らない作家だと思っていたが、この本にはゴキブリが嫌いな愛娘が出てくる。その娘が小学生だったころの話を持ち出して、彼は今でも結婚の条件はゴキブリを退治できることなのかと聞く。すると、娘は「そんなことが結婚の条件になるはずないじゃない」と一蹴したというのだ。ちなみにこの娘の父親はヘビ恐怖症らしい。北海道を除けば、都市部、農村部を問わず、ヘビよりはるかにゴキブリの方が出現率が高いから、ゴキブリ恐怖症の方が分が悪い。
それではヘビなどめったにいない都会のヘビ恐怖症は安全かといえばそうでもない。ヘビを連想させるものが数限りなくあるからだ。ズボンにベルトをすることができず、鰻重を食べることもできない気の毒な人もいる。沢木耕太郎はちゃんとベルトを締めているので、そこまで重症ではないようだが。
当協会には高所恐怖症や先端が尖った物が視界に入ると強い動揺をみせる先端恐怖症がいる。先端恐怖症がばれたのは、当人がほかの職員にふざけて鉛筆の先端を突き付けたからである。その職員は何ともなかったので、同じことをふざけた本人にしたら「やめて、やめて」と泣きが入ってばれたのである。
私も高いところはあまり好きではない。職場の屋上から地上を見下ろすとちょっと怖い。しかし、高所恐怖症はそんなことはできないらしい。屋上への階段出口から1歩踏み出すのがせいぜいで、地上が見えるところまで歩くことはない。そして、これが最も困ることだと思うが、彼は飛行機に乗らない。このため、以前、宮崎の出張にも東京から新幹線と在来線を乗り継いで行った。もし、どうしてもヨーロッパに行かなければならない時は、船でウラジオストクに行き、シベリア鉄道で行くとうそぶくから重症だ。
ただ、このように、多くの恐怖症は個人的な不便と笑い話のネタになる程度のいたって平和的なものである。
ところが、米国やイスラエルでイスラムやイスラム教徒(ムスリム)に対して極度の恐怖を感じるイスラム恐怖症(イスラモフォビア)はどうだろうか。日本にいるとあまり実感できないが、イスラム教やムスリムというだけでテロや戦争、それによって発生する被害を連想するのだ。
しかし、もちろんすべてのムスリムがテロルを行ったり、テロルを支持しているわけではない。逆に本来のイスラム教の教義は殺人や自殺を禁じているくらいだ。そのような理解がなくネガティブなステレオタイプから特定の宗教に対する差別や被害妄想があることは、実に恐ろしいことである。
ユダヤ人恐怖症(ジュデオフォビア)が昂じてナチスによるホロコーストが起こったのではなかったか。どこかで断ち切らないと、恐怖は連鎖する。(福山)
「任意につまみあげたサイコロが指先での回転操作によって求める数字にもなる」。これが古河式とマルチン式の共通点で、サイコロを探したり選んだりする負荷を少なくし、視覚障害者の指の触知力を巧みに活用する。わずか6面だが回転を利用して数字を表現する発想も優れていた。盤面を用意することで縦書き計算も容易にした。
これを究極まで突き詰めたのがテーラー式計算器で、中途失明したイギリスの数学者ウィリアム・テーラー(1842〜1922)が考案した。小西信八や石川倉次を「ブレール氏の方式」(後に日本では「点字」と呼ばれる)の研究に導いたアーミテージ『盲人の教育と職業』(筆者の所蔵する英語版は1886年第2版)にすでにテーラー式が載っている。『東京盲学校六十年史』には「明治三十七年九月から試用した」とある。しかし、点字器製造で有名な仲村は「大正五年 テーラー式計算器製作発売した」と『日本点字器事始 仲村謙次の証言』(毎日新聞社)の年表に記している。もしかすると、明治37年のは東京用の試作で、大正5年に広く市販するようになったのかもしれない。
それはともかく、これはサイコロ状ではないのが特色だ。小さな角柱がベースで、測ってみると4×4×20mmで、面としては4mm四方の正方形が2つ、4×20mmの長方形が4つあることになる。後者は凹凸のない平らな状態のままであり、前者は両端の正方形に数字などのための凸がほどこされている。
一方の端にある1辺に幅1mmの凸線が形成されている。反対の端には、やはりある1辺に沿って2つの突起が並んでいる。言い換えれば、両端に1本の凸線を描いた面(A)と2つの凸点を描いた面(B)を持つ角柱である。素材は金属だ。このたった2つの面を用いて0〜9の数字だけでなく加減乗除などまで表現する。
サイコロは6つの面を備えている。しかし、こちらはわずか2つの面しかない。古河式やマルチン式のように「90°回転」で使えば片方の端で4つずつ、計8種の数字しか表せない。この問題を解決するためにテーラーが編み出したのは「45°回転」であった。それならば、合計16個の数字や符号を表現できる。では、四角柱をあいまいさを排して確実に45°ずつ回転させるにはどうすればよいか。どんな盤面を作ればそれが可能になるか。テーラーの真骨頂はそこにあった。
結論として、彼は盤面に四角形(■)とそれが45°回転した四角形()を重ね合わせた形の穴をうがつことにした。つまり、八方に光が伸びる星の図様()の穴。それを縦横に数十行ずつ規則的にうがつことにより、横書きにも縦書きにも対応する。
説明の便宜上、1は後回しにして、2から説明する。正方形のAを左辺に縦の凸線がくるように置き、これを2とする。正方形の中心を支点に45°右回転したものを3、さらに45°右回転し正方形の上辺に横の凸線がきた状態を4、さらに45°右回転して5、さらに45°右回転し正方形の右辺に縦の凸線がきた状態を6、さらに45°右回転して7、さらに45°右回転し正方形の下辺に横の凸線がきた状態を8、さらに45°右回転して1とする。9からは、Bを用いて同様のやり方で0、加・減・乗・除、カッコ、等号、9に振りあてる。
鈴木力二は彼の「数学記号の完成」を「一九〇七年」としている。a・b・c・ルート・大カッコなどまで表現できるよう両端の形状を増やしたようだ。
実際に使ってみると、京都府立盲学校が所蔵するテーラー式は、角柱の抜き差しがかなりやっかいであった。45°ずつ角度を調整しての角柱の挿入は、星形の穴とうまくフィットせず、動作がひっかかりやすい。かといって、星形を大きくしすぎると、きちっとした角度に固定できまい。
東京盲学校でも「教官が生徒の答を見るのに困難なこと、計算の経路がわからないなどであまり使用されなかった」と鈴木は記している。
時代の推移の中で、消えていったテーラー式だが、盲目の学者がその指先にこめた情熱を永く伝えたい。
『テーラー式計算器』
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
聖明福祉協会本間昭雄先生のご推薦で当協会は、へレン・ケラー女史が人生の目標にした塙保己一検校の名を冠した賞の「貢献賞」を12月に埼玉県から贈られました。さぞや天国の女史も喜ばれたことでしょう。誠にありがとうございました。
田畑美智子さんがWBUAPの会長に就任されましたので、「外国語放浪記」の筆者の肩書きも、今回から「WBUAP会長」と致します。田畑さんは現在でも「日盲連国際委員」なので、従来どおりの肩書きでよいとの意向でした。しかし、小誌今月号の他の記事で盛んに「WBUAP会長」と紹介しているのに、ここだけ違う肩書きでは、読者にあらぬ誤解を与える恐れがありますので、編集部の判断でこのようにさせていただきました。
筑波大学附属盲学校教諭、葛飾盲学校長、文京盲学校長、全国盲学校長会会長、全国特殊学校長会会長等を歴任された小林一弘先生が12月10日13時35分、肺炎により逝去されました。享年77。ご冥福をお祈り致します。
先月号の「編集ログ」で、WBU終身名誉会員は、「国家代表を外れたとしても執行委員会に出席することができて、しかも投票することもできる」と書きましたが、「総会に出席することができ、しかも投票することもできる」の間違いです。訂正します。
「点字選挙公報」を作成する私たちは、春先からずっと解散・総選挙を待っていたのですが、虚をつかれて実現しおおわらわとなりました。とくに東京都は石原慎太郎知事の突然の辞任で、ダブル選挙になりました。しかも総選挙の公示直前に政党の離合集散があった影響で、既成政党も政見原稿の出稿を遅らせました。そのため編集スタッフを中心に5名が、一時は泊まり込むという前例のない事態に陥りました。しかし、職員の頑張りがあり、入稿の遅れを取り戻して、最後は余力を残して計画通りに発送して完了することができました。
「終わりよければすべてよし」。新しい年が皆さまにとって明るく平安でありますよう祈念致します。(編集部)