THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2012年11月号

第43巻11号(通巻第510号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:外務省の怠慢(上) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
(特別寄稿)日本ライトハウス創業90周年の歩み(上)(橋口勇男) ・・・・・・・・・・・・
5
多様な布陣で船出 日本盲教育史研究会発足 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
19
(新連載)ニカラグアにおける東洋医学教育ボランティア:
  最初の貢献(綱川章) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
27
自分が変わること:佐藤愛子さんと会う ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
35
48㎡の宝箱:さいころ算盤 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
40
リレーエッセイ:始めに日本ライトハウスがあった(高橋秀治) ・・・・・・・・・・・・・・・・
44
(特別寄稿)赤座憲久氏と沖縄(山田親幸) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
49
外国語放浪記:1989年 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
52
大相撲:5年ぶりの新横綱誕生 ―― 第70代横綱日馬富士公平 ・・・・・・・・・・・・・
56
フィリピン留学記:視覚障害学生受け入れをめぐって ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
60
時代の風:本間一夫文化賞決定、障害者虐待防止法施行、
  細胞バンク整備計画相次ぐ、柑橘類の皮に脳神経守る働き、
  DNAから人相特定? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
64
伝言板:サイトワールド2012、ヘレン・ケラー記念音楽コンクール、
  日点チャリティコンサート ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
68
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
外務省の怠慢(上)

 赤穂浪士にしろ、往年の高倉健主演の任侠映画にしろ、「堪えに堪えて、最後にぶち切れる」という構図を、私たち日本人は偏愛する性癖を持つ。
 日清・日露戦争も、先の日中戦争や太平洋戦争も、意外に思われるかもしれないが、やはりこのパターンに入る。
 日清戦争の8年前、長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が暴動を起こしたが、事件後、清国政府は日本に謝罪するどころか、海軍力を背景に高圧的な態度に出て、わが国は悔しい思いをした。
 また、戦前に軍部が跋扈するきっかけを与えたのは、幣原喜重郎による対中宥和政策が裏目に出た結果であった。隠忍自重がいつも戦争の遠因になるのである。
 現在の尖閣諸島問題も、日中国交正常化交渉の時に、田中角栄が周恩来に日本の領土だと強く言えば済んだ話だった。
 ケ小平を日本に迎え「日中平和友好条約」に調印した際も、福田赳夫が「尖閣諸島は日本の領土である」と主張せず、結果的に尖閣棚上げ論を黙認したため、現在の不穏な空気にまで発展したのだ。
 しかも、腰の引けたわが国外務省が、尖閣の国有化に中国の了解を得たと判断し、「不言実行」で国有化するからもめるのである。
 尖閣諸島問題について日本政府に落ち度があるとすれば、領土問題を強く主張してこなかったことにより、誤ったメッセージを中国に送り続けたことであろう。
 遠来の客、あるいは隣人に嫌な思いをさせたくないというのは、日本人の美風かもしれない。しかし、それを外交に持ち込み、隣人に誤解を与えるとしたらとんでもないことになるが、それをよもや外務省が知らないはずはあるまい。
 日本の外交や安全保障を研究する一部の学者が、「中国を刺激するな」という主張を行うが、それこそ戦争に至る道なのである。どうやら外務省もその暴論にむしばまれているようだが、「刺激するな」とは、何もするなということであろうから、これほど楽なことはないということなのだろうか。(福山)

48㎡の宝箱 ―― 京盲史料monoがたり
(20)さいころ算盤

京都府立盲学校教諭/岸博実

 古河太四郎が考案した盲生用の「さいころ算盤」は、「盲人用の算盤にして、立方さいころ三百個を容るる盤面ありて、さいころの三面に小鋲(しょうびょう)を附するもの百八十個又四面に鋲を附するもの二十個 珠算において尽す能はざるものは、此器(このうつわ)により別に布算法(ふさんぽう)を示し、簡易より繁雑に入 以て真理に通暁せしむるの便益を取るものなり」という。
 「立方さいころ」は、1cm角の木製である。格子状に仕切って、それを300個(縦に15個、横に20個)はめ込むことのできる木箱(21.5cm×28.5cm)が用意されている。一つずつの格子の深さはさいころよりも2mmほど浅く作られているから、はめ込んださいころをつまんで取り出せる仕様である。
 「さいころの三面に小鋲を附する」とは、さいころの6つある面の内、3つの面に小さな鋲を打つことによって、数字を表す仕組みである。他の3面は空白のままである。
 『明治十七年五月 於岡山県学事奨励會之節出品 京都府盲唖院出品説明書』という文書に、鋲の打ち方が図で示されている。それを言葉に置き換えてみよう。
 「三面に小鋲を附する」ときの鋲の打ち方は、3タイプある。1つ目は、さいころの真四角な面の辺に近い真ん中に1個打つ。2つ目は、同じく辺に沿って2個を打ち、3つ目は、同様に3個打つ(ただし、3個のうち、真ん中の1個は辺から少し遠い)。それぞれの面を指で触れば、鋲の数を読み取ることができる。1つの面に4個以上を打つことはない。
 これを用いて計算を行うとき、「回転」という操作が利用される。
 1個だけ施されている鋲が、真四角の上辺(盤上の向こう側)に位置するように置くのを1とする。それを右に90°回転させて鋲1個が右辺に位置するように置くと2となる。次いで下辺に位置するように回転させると3、さらに左辺に位置させれば4を表すというわけだ。5〜8には、2個の鋲が施されている面を同様に回転操作して表現する。9・10・カッコ・等号は、3個の鋲でまかなう。このようなさいころが、180個、木箱に収められている。0を意味する鋲は見当たらない。
 加減乗除の符号を示すのに用いられたのは、「四面に鋲を附した」さいころであった。4面のうち3面は上記と同じであるが、4面目に1本の線と1個の点が凸状に施されている(線のほうが辺に近い)。この4面目を加減乗除用に充てる。「四面に鋲を附するもの二十個」とあるのは、加減乗除を表すためのさいころが20個用意されたという意味である。これは、木箱内のしきりにより、「三面に小鋲を附す」タイプとは分けて収められる。
 触察に堪能な皆様には、すぐに「なるほど!」と得心していただけるのではなかろうか。この方式なら、“木箱”からさいころを取り出すには、数字用か、符号用かさえ間違えなければ、さいころを摘まみ上げる動作の折に、“どの数字か”“どの符号か”を一々選ぶ必要がない。
 数字を表したいときは、数字用コーナーから指に触れたさいころを任意に取り上げれば、それが1から10までの数字として働いてくれる。つまり、「探す」・「選ぶ」ロスを産まず、指の中でのちょっとした操作によって必要な数字をたちまち表現することができる。これが、この算盤の妙味である。符号についても、同じことが言える。
 理屈としては4面タイプ1種で数字も符号も事足りるはずだが、3面タイプを作ったのは、製造の手間を省くためだったろうか。
 さいころ算盤は、「珠算において尽す能はざる」学習のために作られた。「珠算ではできない」のは、縦書き筆算である。晴眼の子どもたちは、縦書き筆算を学び、必要に応じてそれを駆使する。
 しかし、盲人用算木や盲人用算盤ではそうはいかない。基本的には点字も同様である。昭和期に、縦書き筆算に対応できるよう工夫した点字器も作られたが、それはここでは措く。さいころ算盤は、別名、「格子算盤」とも「籌算盤(ちゅうそろばん)」とも呼ばれた。0がないのは、初歩的な四則に限った使い方だったのではないか。
 点による表現手法は、古河が点字に関する知識を持っていたと筆者が推測する根拠の1つでもある。


さいころ算盤解説

(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)

(特別寄稿)
赤座憲久氏と沖縄

沖縄県視覚障害者福祉協会会長/山田親幸

 1962年『目の見えぬ子ら』で一躍文壇に登場した児童文学者の赤座憲久(あかざ・のりひさ)氏が、去る8月31日の夜、低酸素脳症で郷里岐阜県可児市で逝去された。
 氏は1927年3月21日生まれ、享年85。逝ってしまわれる年齢ではなかっただけに何とも残念でならない。
 私が氏の名に接したのは、確か東京教育大学教育学部特設教員養成部(盲学校理療科)(現筑波大学理療科教員養成施設)在学中の1963年、教育原理学の講義中、S教授から聴いたのが初めてだった。
 氏の作家としての活動は主に17年間の県立岐阜盲学校教諭、引き続いた大垣女子短大教授時代、そして退職後と都合55年。その間に書かれた著書が何と100冊余、ありがたい事にその中には沖縄関係著書4書が含まれている。
 氏の初来沖は、復帰前の60年代半ば、渡航ビザを申請・持参しての玉ねぎ満載の貨物船によるものであったという。1965年琉球政府立沖縄盲学校が弱視学級を編成して弱視教育を開始した年で、氏はその学級で作文教育の模範授業もされた。
 私と氏との出会いは、忘れもしない1969年の冬、岐阜市で開催された日本教職員組合(日教組)の教育研究集会、会場借用が強権で阻まれたために「寺小屋教研」と評されたあの極寒の教研会場でのことだった。障害者教育分科会もその名にたがわず寺の本堂であちらこちらにだるまストーブの置かれた畳敷きの大部屋だった。南国育ちで全盲の私にとって、積雪の中の会場を移動するのはまさに闘いの3日間だったが、会場移動、手洗い、食事のサポートなど、初めての出会いにも関わらず、何から何まで至れり尽くせりの世話をして下さったのが赤座氏だった。
 そして43年前岐阜をお訪ねして3度、沖縄にお出でいただいて数えきれないほどお会いしたが、ここ数年は手紙のやり取りだけになっていた。勤務校の沖縄盲学校や沖縄県視覚障害者福祉協会、そして九州情報提供施設沖縄大会でも講演をしていただきました。また、沖縄盲教育と福祉の父『デイゴの花かげ』(高橋福治伝)の執筆もお願いしたと言うありがたい関係を持たせていただいた。
 氏の著書中4書の沖縄関係書とは上述した『デイゴの花かげ』(デイゴとは樹木の名)の他、絵本『マブニのアンマー』(沖縄本島南部の激戦地摩文仁地域のお母さん)、『ガジュマルの木かげ学校』(ガジュマルとは熱帯樹木でバニヤンと呼ばれ樹根が垂れ下がり地中深く潜りそこからまた地上に幹を伸ばして広がる大きな樹木帯)、『波照間からの旅立ち』(波照間とは沖縄県内で最も低緯度にある周囲14.8kmの離島)の3書であり、これらは沖縄戦のいずれも異なった側面を記述しており、読書の秋、読書週間も間近な子供等に必読の書。ちなみにサピエ図書館では15タイトルの著書を読むことができる。

編集ログ

 日本ライトハウス木塚泰弘理事長にご相談の上、同常務理事の橋口勇男氏に、超多忙な中無理を承知で「日本ライトハウス創業90周年の歩み」を寄稿していただき、今月と来月に分けて掲載します。
 「ライトハウス」は、桜雲会や「点字毎日」、東京点字出版所などと共に、わが国点字出版のパイオニアです。しかも、創業者の岩橋武夫先生は、当協会設立の契機となるヘレン・ケラー女史来日招請の功労者であり、当協会の大恩人でもあります。
 ライトハウス90周年を慶祝すると共に、この90年間の激動の日本と盲界・視覚障害福祉を振り返るよすがとしても、橋口氏によりよくまとめられた本稿は、大変貴重で意義深いものとなりました。
 今月号から元横浜市立盲特別支援学校教諭の綱川章先生による、「ニカラグアにおける東洋医学教育ボランティア」を連載します。中南米の同国には、日本人が創設した5年制の東洋医学大学があり、卒業生は「自然東洋医学士」として、鍼灸はもとより、画像診断や臨床検査、および注射も行うと聞き驚きました。また、同大には1年コースの視覚障害者指圧講座があり、視覚障害者の職業的自立と社会参加に大きく貢献しているというのも初耳でした。綱川先生の亜熱帯、ラテン気質の国での奮闘・活躍ぶりをご期待ください。
 (特別寄稿)「赤座憲久氏と沖縄」を読み、大垣女子短大教授にして児童文学者の赤座憲久氏が、17年間も県立岐阜盲学校に奉職されていたこと、何度も沖縄を訪問されていたこと、沖縄県視覚障害者福祉協会会長の山田親幸氏とも近しい関係であったことなど、恥ずかしながらいずれも知りませんでした。85歳で逝ってしまわれた赤座憲久氏のご冥福をお祈りいたします。(福山)

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