5月10日の各紙(朝刊)一面には「東電 実質国有化」の活字が踊った。そして7月から電気料金が10%値上げになりそうな雲行きだ。ただでさえ米国や韓国の2倍も高い電気料金のうえ、「値上げは権利である」と主張する独善的な企業が、手厚い企業年金や数多いファミリー企業をそのままに、値上げを先行するのは腹立たしい限りである。だが、電力の安定供給、賠償、廃炉のためには、われわれも相応の負担をせざるを得ないだろう。
昨年の夏、東京・東北電力管内では、電力制限令などの節電努力で、ピーク・平均ともに前年比80%に、当出版所でも前年比72%に消費電力を抑えた。家庭でもこまめに節電すれば、値上げ分くらいは充分カバーできるはずである。
東京電力の経営改革策などをまとめた「総合特別事業計画」では、値上げに加え2013年度以降、柏崎刈羽原発(新潟県)を順次再稼働させる方針だが、これには不安を禁じ得ない。
国内で1基だけ稼働していた北海道電力泊原発3号機が、5月5日運転を停止し、全国50基の原発がすべて止まった。すると、これでは「夏の電力が不足するので、再稼働を急げ」と読売・産経・日経新聞の社説子は異口同音に主張した。原子力規制庁の設立もままならないまま、なしくずしに原発再稼働を声高に叫ぶ声には寒気を感じる。
強力な権限をもつ原子力規制庁を組織して、2度と亡国の危機に瀕することのないよう充分対策をたててから原発の再稼働論議をしても遅すぎることはない。
『プリンシプルのない日本』で、原理・原則をおろそかにして、なしくずしで何事も行い、敗戦に至ったと痛罵したのは、東北電力の会長をも務めた白洲次郎氏であった。
肝胆を寒からしめた昨年3月のメルトダウンを、今一度思い出してほしいものである。東京だって危ういところだったのである。(福山)
日本盲人会連合(日盲連)は4月25日の理事会で、鈴木孝幸副会長を事業部長、橋井正喜理事を組織部長、そして大橋由昌氏を情報部長とすることに決定した。
鈴木副会長が多忙な情報部長からこれまで空席の事業部長に横滑りしたのは、日盲連会長の「充て職」代行を配慮してのことだろう。団体の要である組織部長には中央推薦の理事である橋井氏が就任したが、これはそれだけ竹下氏の信任が厚いということの証左だ。この3月末まで朝日新聞のヘルスキーパーであった大橋由昌氏が、情報部長に抜擢されたことは盲界の誰もが驚いたことだろう。同氏は30年ほど前から横浜市視覚障害者福祉協会の会員だが、地元での活動歴はほとんどなく、鈴木副会長もまったく面識がなかったらしい。
実は本誌先月号での竹下新会長インタビュー時に、特に大橋氏を名指ししたが、「彼の方が1歳年上かな? 昔からの親しい友人ですよ」とさらりとかわされてしまった。その時点で、鈴木氏が情報部長を退くことは決まっており、後任は誰かと話題になっていたので、私にとってもこの人事はサプライズだった。
大橋氏は大学卒業後、病院勤務を経て朝日新聞に勤務するが、一貫してあはきの現場を歩いてきた。そのかたわら筑波技術短期大学(筑波技短)設立反対闘争に象徴されるように、在野で活発に運動を展開する一方、NHKラジオ第2放送の「視覚障害者のみなさんへ」(当時)のコメンテーターとして、長年活躍したことはご存じの通りである。
軽妙な中に、時として毒のある過激な言論で盲界を沸かせた大橋氏が、「盲界の万年与党」である日盲連の情報部長になぜ就任するのか。過去に何かと盲界を騒がせた論客が就任することで、心穏やかでない日盲連職員も少なくないだろう。しかも「私は傲慢だから」と自認する会長の懐刀になられてはたまらない。そこで、竹下氏との関係なども含めて意外と知られていない大橋氏の半生と誤解されやすい人となりを、詳らかにするべく5月2日にインタビューした。取材・構成は本誌編集長福山博。
「竹下さんから1歳年上だと聞きましたが、同窓ですか?」という私の質問に、独特のユーモアを交えて、彼はこう答えた。
「同じ京都の浄土真宗なのでよく間違われるけど、でも彼はお西さん(西本願寺=浄土真宗本願寺派)の龍谷大学、僕はお東さん(東本願寺=真宗大谷派)の大谷大学。しかも、僕は小学校2年の時に3年間入院し、高等部専攻科に行って道草して、浪人もしたので大学に進んだのは現役の学生より7年遅かったのです。それで、僕が京都に行ったとき、竹下さんはもう大学を卒業して、司法浪人していましたね」とのこと。
その後、大橋氏は関西SL(スチューデント・ライブラリー)の会長になるが、それを昭和47年(1972)に設立した1人が竹下氏であった。当時は大学に入学しても学習環境はまったくお粗末で、それを見かねた大学の点訳サークルが教科書点訳を始めたのが関西SLの起こりだ。その後、点字ブロックの敷設や授業時の配慮などを大学側に要望したり、点字による司法試験の受験を求めたり、会員の駅ホームからの転落事故をきっかけに、通学路の安全確保などにも取り組んできた。竹下氏は創立者の1人として、大学卒業後も何くれとなく関西SLの活動を支え、その縁で大橋氏とも親しくなったのだ。
「当時は大学入学の垣根が高く、視覚障害学生の絶対数も少なくて、ただ勉強するだけでも大変な時代だったのです。このため大学や学年の垣根を越えて、今以上に学生同士が親密につきあったものです」と大橋氏は当時を振り返る。
大橋氏は昭和25年(1950)3月、東京都江戸川区で生まれる。地元の普通小学校2年のとき投与されたペニシリンの副作用で、皮膚や粘膜の過敏症であるスティーブンス・ジョンソン症候群を起こし3年間入院する。一命を取り留めたものの、目に重い後遺症が残り、都立文京盲学校の3年に編入する。
「ひどいドライアイなので梅雨時は調子いいけど、乾燥する冬場は最悪なんです。それで、編入と同時に教師に言われるまま、点字を覚えたのが良かったのかな。特別苦労もなく点字を覚え、それが今に生きています」と彼は微笑む。
翌昭和37年(1962)、文京盲学校から小・中学部を分離して久我山・葛飾両盲学校が設立されるのに伴い、葛飾盲4年に進み、翌年飛び級で6年に進級する。
中学校からは当時の東京教育大学附属盲学校で、この年の昭和39年(1964)は、新幹線が開業し東京オリンピックが開催され、日本がOECD(経済協力開発機構)に正式加盟して先進国の仲間入りを果たす年で、まさに高度経済成長のど真ん中だった。その後、高等部普通科を経て、専攻科(理療科)を卒業し、大谷大学文学部西洋哲学科に進む。
あはきの免許を取ってから改めて大学進学を志したのは、悩み多き青年であったからだが、その前に学園紛争の洗礼を受けたことも大きかったようだ。同級生より2歳年上で、点字使用者とはいえ、白昼の単独歩行に不自由しない彼は、附属盲に進学後、次第にリーダーとしての本領を発揮し、中学部でも高等部でも生徒会長を務めた。
昭和45年(1970)の春、附属盲の専攻科に20歳で入学。時は70年安保闘争に沸く政治の季節で、彼はすぐに音頭をとり社会問題研究会を組織し、当時頻発した目白駅からの転落事故を取り上げて駅長交渉などを行う。そして昭和47年(1972)には附属盲でも学園闘争が起きる。当時、同校には中途失明者で、大学で全共闘運動を身近に体験してきた生徒もおり、留年者まで出す激しいものであった。
このような経験から何かと附属盲の教師に頼ることの多い東京の大学ではなく、京都の大学を目指したもののようだ。
彼の名を一躍全国区にしたのは、筑波技短設立反対闘争を通じてである。大学を卒業して、東京に帰って間もない昭和54年(1979)の10月、彼は筑波短大問題研究会を立ち上げ、附属盲の組合と共闘する。また、昭和57年(1982)には、早稲田鍼灸専門学校にあはき課程を設置するという問題も起こり、昭和62年(1987)10月に筑波技短が設立されるまでは、なにかと盲界は慌ただしく、その中心にはいつも彼がいた。
筆者が初めて大橋氏を見たのは、筑波技短設立反対闘争の集会だった。典型的なアジテーターに見えたので、個人的には敬遠が無難と思った。それでも年に数回様々な会合で会ううち、20年ほど前からはかなりうち解けて、表の顔と随分違う人だということを知った。意外なことに、彼は気のいい、よく配慮のできる、サービス精神旺盛な人なのだ。しかも多様な情報源を持つ早耳で、附属盲の組合やNHKディレクターと阿吽の呼吸で、アジテーターや辛口コメンテーターとして、場合によってはトリックスターとしての役回りまで演じた。名演であればあるほど敵役は憎まれることも、あえて飲み込んだ上でのことだ。
斜に構え、誤解を恐れず名士にも是々非々でものを言う既存組織のアウトサイダーを長く演じてきた大橋氏にとって、日盲連の部長職就任は、だからこそ彼にとっても晴天の霹靂だった。
「だから今年の2月に打診があった時は、はっきり断ったのです」と彼は言う。「われながらあまりに似合わない」と思ったからだ。しかし、4月に入り正式に日盲連会長になった竹下氏から「どや、引き受けてくれへんか」と珍しく2度目の依頼があったときは、「これはちょっと断れないな」と腹をくくり、大橋氏は悩みながらも承諾した。その時念頭にあったのは、NHKで一緒に長くコメンテーターを務めた高橋秀治氏(日盲社協理事長)の生き方だった。
全視協会長を長年務めていたとはいえ、施設経営にはずぶの素人である橋本宗明氏がロゴス点字図書館館長に就任するにあたり、当時東京ヘレン・ケラー協会で脂の乗った仕事をしていた高橋氏が、すべてを投げ捨て親友である橋本氏を支えるためにはせ参じたのだ。その熱を思い起こし、第2の人生は過去の生き方に恋々とすることなく、友人を支えようと思い決めたのである。
竹下会長は山積する課題に取り組むため、これまでの仕組みを改め、新しい考え方を取り入れたイノベーション(新機軸)により日盲連の改革・刷新を行う方針だ。その「先兵が大橋さんですよね」と問うと。
「そう目されているのは承知していますが、だからといって、現場の意向・能力を無視したら、空回りするだけでしょう。現場と会長の良き橋渡し役、調整役になることも僕の役目だと自覚しています」と意外に優等生的答えが返ってきた。
もっとも大橋氏の近年の活躍の場は、会長を務める附属盲同窓会が中心で、一頃の派手な立ち回りは影を潜め、地道な作業に終始している。
趣味がスキーと落語鑑賞、この取り合わせの妙に彼の人となりが凝縮されているが、新たな架橋工作にも注目したいものである。
1882(明治15)年に古河太四郎がしたためた『盲唖教授参考書』と題する文書がある。これは上梓されなかった。
我が国における盲唖教育の実践的な理論書として最初に出版されたのは『盲唖教育論』(明治36年、京都市立盲唖院)であるが、それは中村望斎や渡辺平之甫によってまとめられたものだ。古河の考えや実践に基づきつつも、編著者による解釈が加わっている。その意味で、この『盲唖教授参考書』こそが、初期古河の思想と方法をより正確に反映していると見ることができる。
障害理解、教育目標、盲教育と聾唖教育の特性などを展開し、教科指導や教具に関する具体論も述べられている。「見えない生徒に書写の練習をさせる」方法を説明したくだりをそのまま転記してみよう。〈習字〉の項である。
「習字 墨斗書(種々ノ器械ニ拠リ墨斗筆管ヲ用ヒテ書セシメ熟スルニ及ンテハ尋常普通ノ文具ニ拠ラシムヘシ)」
別の文書には、「墨斗筆管ハ墨汁作字ノ便ヲ得セシムルモノニシテ案上ノ硯ヲ模索スルノ労ヲ省ク為メナリ」とある。
今回はこの「墨斗筆管」を紹介したい。「墨斗管」と表記した史料も存在する。これは、和筆に依って、文字通り、〈墨字〉を書くのに利用する文房具であった。京都府立盲学校に現存するのは1セットのみ。「管」・「筆」・「墨斗」の順に述べる。
A 管:細筆の軸を差し込んで保持するための管(金属筒)を指輪状の金属に接合したもの(金属筒の一方は、先すぼまりになっていて、差し込まれた筆を締め付け、固定できるように力が働く構造。指輪のサイズには複数のタイプがある)。
B 筆:一般的な和筆は15cmよりも長い竹製の先に穂先がついているが、これは竹軸の部分を5cmほどに切り縮めた細字用の和筆。
C 墨斗:外径4cm・内径3cm、高さ1cm弱の円形皿の底に綿を敷き詰めたもの(その綿に墨汁を染ませておく)。
これらを、次のように使う。
Aの金属筒にBの軸を通す。→ 利き手の人差し指にAの指輪をはめる(この時、指の背の側にAの管がくるようにし、かつ、筆の穂先が人差し指の先に飛び出すようにセッティングする)。→ 人差し指を動かして、Bの穂先をCに当て毛筆に墨を含ませる(この時、左手でCの外側を軽く握るようにしておき、環状になったその指をスケール代わりにすれば、穂先を誤りなく墨を含んだ綿に当てることができる)。→ 人差し指を縦横に動かして紙に字を書く。
見えない人にとって、通常の書道形式で文字の形を整えるのは、不可能ではないにしても、相当の困難を伴う。従って、筆管を使うときには、一般に行われる毛筆書きのように肘や手首を宙に浮かせるのではなく、肘も手首も紙に載せたまま、指先だけを前後・左右・斜め・円形に動かして線画を描く。
この手法で書かれた盲生の作品が残っている。2人分あるが、ここでは山口菊次郎の色紙を取り上げてみよう。漢字13文字で、「人只把不如我者較量即自知足<ひと(じん)、ただいまのただ、把=はあくするのは、ふあんのふ、ごとく(にょ)、われわれのわれ(が)、もの(しゃ)、くらべる(かく)、はかる(りょう)、すなわち(そく)、みずから(じ)、しる(ち)、あし(そく)>」と墨の色も黒々と書かれている。1つひとつの文字は5cm前後の大きさだ。
原文は、アメリカの独立宣言で有名なベンジャミン・フランクリンの言葉だと伝えられているが、筆者はその点をつまびらかにしない。
訓読すると「人は只だ我にしかざる者を把握して較量すれば自(みずか)ら足るを知る」となる。「自ら」の部分は「自(おのず)から」かもしれない。意味は「人間は、ただ自分でない者を対象に比較すれば、みずから(おのずから)足りていることをしる」とでもいうのであろうか。
筆さばきの面では、「払い」や「止め」の部分にぎこちなさが覗えるものの、ひどく崩れてはおらず、むしろ骨格の強靭な字と言えよう。同期の谷口富治郎も同様の作品を遺している。
墨斗筆管
山口菊次郎の色紙
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
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サピエの基幹サーバの変更に伴い4月26日、サピエ図書館に深刻なシステム障害が発生し、音声デイジーデータのダウンロード等ができなくなりました。無償サービスなので仕方がないとはいえ、宿命といってもいいIT社会の脆弱性を見た思いです。開発、テスト、運用の全フェーズで何重もの対策をとっても、事故を完全になくすことは不可能で、今後も思わぬアクシデントに見舞われるのは必定でしょう。従来のぬくもりのある貸し出し方式も、並行して運用することの重要性を強く感じました。(福山)
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