日本盲人会連合(日盲連)の会長職は激務である。毎日、朝早くから夜遅くまで、それこそ馬車馬のように働いて、休むことを知らない。
笹川吉彦氏が日盲連の会長職を退任された。6期12年にわたり日盲連を牽引し、平成20年には日本盲人福祉センター新築という大きな仕事もされ、80歳という大台を目前に控えての退任だ。
もっとも、同氏はこれで隠遁するわけではない。日本盲人福祉委員会の任期はまだ1年残っており、日盲連でこそ相談役・名誉会長だが、東京都盲人福祉協会(都盲協)の現役の会長でもある。もともと、笹川氏は日盲連より、都盲協の方により愛着を持っているといわれてきた。日盲連は先々代の村谷昌弘会長が、大阪から身ひとつで東京に乗り込み、苦難の末に大きく育てたが、世田谷区のマンションの1室にあった都盲協の事務所を、高田馬場の現在地に移し、苦労して立派に育てあげたのは紛れもない笹川氏だ。
日盲連会長当時、笹川氏は毎朝8時15分頃都盲協に出勤し打ち合わせ、それから9時前に日盲連に出勤して執務。日中、都盲協に帰ることもたびたびで、昼食はほとんど都盲協で摂られていた。午後4時過ぎ日盲連を退出して都盲協へ移って執務、都盲協の退出は午後7時を回ることも少なくなかったはずだ。それで解放される日はまだ楽な日で、夕刻からの会合もまた多かった。
多忙を極める理由は、日盲連会長の「充て職」にある。つまり日盲連会長として、日本の視覚障害者を代表して慣例的に就任する役職が20以上あるのだが、夜の会合と土・日・祝日の会合にも出かけて、よく身体が持つと感心するばかりであった。
ところで、前々任者の村谷氏は、強力なリーダーシップによるトップダウンのワンマンタイプだったが、それを引き継いだ笹川氏は、実務家タイプで、チームワークを重視する調整型のリーダーだった。そして新会長の竹下義樹氏は、その迫力ある演説を聴くと、村谷会長を彷彿とさせる一面もあり、トップダウンタイプに見える。
しかし、実際のところどうなのだろうか? というのも、竹下氏は会長に就任しても京都と東京の法律事務所を掛け持ちして弁護士活動を今後も継続されるようで、日盲連で執務するのは一月に10日ほどしかないと聞く。その分は、在京の鈴木孝幸、時任基清両副会長を中心にカバーすると聞いたが、鈴木氏はNPO法人神奈川県視覚障害者福祉協会理事長の顔も持ち、夜は地元での活動に忙しい。一方、時任氏は週3日のみの出勤でこれまた、日本あん摩マッサージ指圧師会の公益社団法人化に汗を流す身だ。それで、問題山積の日盲連の会務は滞りなく進むのだろうか? 鈴木氏は早朝6時半には出勤して奮戦しているから大丈夫と風の便りに聞いてはいるが。
盲界に「まずはお手並み拝見」という余裕は今やない。二足の草鞋で混乱が生じないか、会員を始め、盲界全体が気を揉み、固唾を呑んで注視している桜花舞い散る季節である。(福山)
「ヘレンケラー・サリバン賞」は、視覚障害者の福祉・教育・文化・スポーツなど各分野において、視覚障害者を支援している「晴眼者」にお贈りする賞です。これは、「視覚障害者は、何らかの形で晴眼者のサポートを受けて生活している。その支援に視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が1993年に創設、今年で20回目となります。なお、同賞の名称は、ヘレン・ケラー女史と同女史を生涯支え続けたアン・サリバン女史の名に由来します。選考は、視覚障害者によって推薦された候補者の中から、当協会が委嘱する視覚障害者の選考委員によって行われます。受付は6月末日(必着)まで。発表は本誌10月号で行い、受賞者には本賞(賞状)と副賞(ヘレン・ケラー女史のサインを刻印したクリスタルトロフィー)をお贈りします。推薦書をご希望の方は、当協会(03-3200-1310)までご請求ください。多くの方からのご推薦をお待ちしております。
3月31日、東京・西早稲田の日本盲人福祉センターにおいて、日本盲人会連合(日盲連)の定期評議員会が行われ、全国から58人の評議員が参列した。
あいさつに立った笹川吉彦会長は、「昭和39年1月、東京に本部を移した時は東京ヘレン・ケラー協会から間借りした6畳ほどの部屋に、村谷昌弘前会長夫妻の2人だけだった。それが今日ではこのセンターにパートも含め47人が働いている」と日盲連の発展を振り返り、役員選挙について「6期12年会長を務めたが、引退させていただく。日盲連の今日までの歩みを認識し、新しい執行部の下で日盲連の底力を発揮してほしい」と述べた。
そして平成23年度補正予算、平成24年度事業計画、平成24年度予算がいずれも原案通り承認された。
続いて、会長および副会長の選挙が行われた。
会長には竹下義樹氏(副会長、京都)のみが立候補し、信任投票となった。あいさつに立った竹下氏は、方針として、1.日盲連の普遍的な使命をねばり強く訴える、2.組織の強化、3.時代への対応の3つを挙げ、「誰かが決めたものではなく、視覚障害者自身が考えるユートピアを10年後、100年後に実現するため、1歩を踏み出したい」と決意を述べた。投票の結果、信任55票、不信任1票、候補者名でなく「信任」と書かれた無効票が2票で、竹下氏が会長として信任された。
副会長には、3人のところ4人が立候補した。鈴木孝幸氏(理事、神奈川)は、「副会長として、1.福祉の向上・組織充実、2.新会長の補佐、3.名誉職でなく責任職として職務を全うしたい」と意気込みを述べた。
前川昭夫氏(副会長、広島)は、「新会長の手伝いをしながら、地方の支援もしていきたい」とあいさつ。
時任基清氏(副会長、東京)は、「笹川会長と同じ年なので本来なら引くべきだが、新体制への円滑な移行と、日本あん摩マッサージ指圧師会の公益社団法人化のため、あと1期務めたい」と語った。
また衛藤良憲氏(理事、大分)は、「財政の透明化を含めた民主的な運営のため、10年間の市議会議員としての経験を活かしたい」と述べた。投票は候補者を1人から3人まで記名する形で行われ、鈴木氏41票、前川氏40票、時任氏36票、衛藤氏34票となり、上位3人が選出された。
また理事は、澤田勝昭氏(札幌)、及川清隆氏(岩手)、本多操氏(茨城)、新谷孝全氏(東京)、岡田正平氏(千葉市)、小山尊氏(福井)、橋井正喜氏(名古屋市)、内田順燻=i三重)、田澤勝男氏(滋賀)、井上誠一氏(大阪)、糸数三男(京都)、小川幹雄氏(島根)、久米清美氏(徳島)、染井圭弘氏(福岡)、衛藤良憲氏(大分)が承認され、勇退した笹川前会長は相談役と名誉会長に推戴された。翌日の理事会において、会長以下候補者が正式に選任された。
今後竹下新会長が日盲連をどう舵取りするか、注目したい。(小川百合子)
4月8日に視覚障害者支援総合センターから阿佐博著『父のノート』墨字版1,400円(税・送料別)、点字版(3巻)1万4,000円が刊行された。サブタイトルは「盲界九十年を生きて」で、著者がその半生を記したものだ。発行日の4月8日は著者の誕生日で、本年の同日夕刻、ホテルグランドヒル市ヶ谷において、109人の参加者で「阿佐博先生卒寿ならびに出版記念祝賀会」が賑々しく開催された。この日同氏は90歳になったのだ。
中学校校長であった阿佐先生の厳父は昭和25年、結核により55歳で永眠するが、その前に「煤払い」と題した遺書をノートにしたためていた。その紹介と格調の高い名文の転載から本書は始まる。
「輝く新春を迎えるために、歳末煤を払い大掃除を行うと同様に、余の生涯の歳末に余の一生の心の煤を払い清めて、玲瓏(れいろう)玉のごとき清浄な身となって往生の素懐を遂げたい念願である。払われた煤は集められてこの一巻となる」。
数え年5歳の長男が、おもちゃ箱にあったものを金槌で叩いて大爆発が起きて失明したことを気に病み、その子と共に死のうとその時期を待っていた厳父。しかし、失明したわが子が存外明朗であったため、死んだつもりで、その子のために充分な教育を受けさせようと決意し、山間地の古里から徳島市へ移住する。その慈父は死ぬ間際に、自分は地方教官として生涯を終えるが、失明した息子は文部教官として前途多忙であると満足する。
以上を導入部に、失明した長男である著者が、大正末期の小学校就学前から徳島盲学校初等部、東京盲学校中等部を経て同師範部、そして岡山盲学校と附属盲学校の教員と、まずは時系列に沿って人生を語る。次いで、点字研究との関わり、退職記念の旅(聖地巡礼)、東京ヘレン・ケラー協会へ、日本盲人評論家協会、日本盲人キリスト教伝道協議会と教職以外に力を注いだ事業を語る。
全編興味深いが、とくに戦前の草深い山里の経済的に余裕のある一族と地域との関係が、そのまま子供にも影響していたこと。父親が京阪神の盲学校を訪ね全盲の校長から「普通の他の子供と同様に育てること」とアドバイスされ、実際に失明した子は近所の子供達と共に木登り、魚すくい、水遊び、ベーゴマ遊び、メンコ遊び、かくれんぼなどをのびのびと行ったこと。自宅では薪をノコギリで切り、斧で割り、手押しポンプで水くみをしたこと。そして、就学猶予の身ではあったが、自宅で点字教科書を読む訓練をはじめたことが、村の中でいち早く蓄音機やラジオが導入されたエピソードなどと共に語られる。
驚くべきは昭和8年の徳島盲学校は極端な複式学級で、初等部には教師が1人しかおらず、1年生から6年生を1つの教室で教えていたこと。しかし、英国で開発されたテーラー計算機が、盲教育の後進校であったために、徳島盲学校に生き残った皮肉なども述解され新鮮な発見を覚えた。(福山)
その未発表史料は、宝箱の底で静かに眠っていた。数年前、当時の資料室担当者が永年閉じられたままの扉を開けてみた。すると、「盲生習字」がひっそりと横たわっていた。鉛筆で書かれた作品である。
盲唖院の教育成果を普及したかった古河太四郎は、生徒の優れた成績物に厚紙で裏打ちをし、各地の教育展覧会などに出品した。長らく放置されていたので、埃が表面にこびり付いて、書かれている文字の読み解きは容易でない。
4枚ある書き手のうち2人は、京都盲唖院の第一期生で、山口菊次郎と小畠てつだ。この両名は間違いないが、後の2枚は不明。
山口菊次郎は、在学中、点字を習うことなく墨字教育だけを受けた。卒業後彼は、母校音曲科の助手・主任を務めた。巌と改名し、後には音楽取調掛として東京音楽学校(現・東京藝術大学)で邦楽教授に当たった。多くの箏曲譜を校閲・出版し、大正から昭和にかけて『三曲』誌にもしばしば原稿を寄せ、関東地方に生田流を広める役割を果たした。当道会の検校ともなった。彼の後任として東京音楽学校の邦楽を担ったのが宮城道雄である。
山口の筆跡は、数分の一しか判読できていない。かろうじて読める箇所を連ねてみよう。
「京師ニハ盲唖院ヲ開設セラレ普通学科ヲ●リ尚自己食力ノ礎●得セシメン為性質ニ適フノ専修科ヲ設ケラレ」…「幸甚」…「天稟ヲ缺●●者有之候●未タ徒手素●食ハ齎ラスニ応シ」…「入学」…「懇情」…「京都府盲唖院瞽生 山口菊次郎」
「京師」は「京都」を指す。正確な文意は不明と言わざるをえない。タイトルが「他郷人ニ本院ヲ勧ム文」であろうと判読できるので、盲唖院の現況や生徒としての喜びを描き、京都市域以外に暮らす人々に入学を勧奨する文面であった可能性が高い。
書き手の分からない作品には「按擦術科」という語句が登場するものもある。鍼按教育を主題に、山口と同じ趣旨で書いたのかもしれない。
小畠てつは、「てつ女」とサインしている。当時、女性の名の末尾に「女」を添えることはしばしば行われた。小畠てつは、音曲科を卒え、昭和の初めまで京都市内で「お琴のお師匠さん」として立派に生きた人である。盲唖院の春季大試験や慈善音曲会を報じた『日出新聞』の記事にも名前が載っている。彼女の鉛筆字はよく整った書体と言える。
「春雨の日操琴会催しの招に応する文/御●致しまゐらせ候便の如く此ころハ/はる雨にふりくらし音つれ候たた朝の玉/水したヽるはかりにていとヽつれヽの折から箏/かきあはせの御催しとて数ならぬ身/まてお招きにあつかりかきりなく●う/れしく存しまいらせ候さためてみて●の日/におはし候へハつま音●つ音かの朝の/玉水の音にかなひて興なる御事/とおもひ●まいらせ候尚申上たき事山/く【注】におはし候へともかなしくもめ/しひの身にて筆●●●●●候へハうか/ヽひの節にゆつりまづハ御禮まて/に候/京都府盲唖院盲生/小畠てつ女」(備考 不確かさの残る仮読みである)。
【注】かなの「く」を縦に伸ばしたかたちの踊り字。「々」と同じ働きの字である。
邦楽の温習会か何かに招かれての答礼である。招待は実際に行われたのかどうか。時候の挨拶、「お招きに預かった」喜び、当日を楽しみにする心境が綴られている。「朝の玉水のしたたり」に季節を描き、それを琴の音色につないでいく。音を大切に生きている様子が思われる。「めしいの身」というくだりには哀しみも漂うが、芸の上での謙虚さの反映でもあったろうか。「書けるようになった」喜びと「墨字を使いこなしきれない」もどかしさとが同居している。
4枚いずれにも縦の折り目が施されている。小畠てつ作品には「おはし」の「はし」などが続け書きになっている。「盲生鉛筆自書の奥義」に沿って仕上げられたに違いない。 スラスラと読める極上の出来ばえだが、本人には読み返せない。換言すれば、「晴眼者社会への適応が優先され、盲生側にのみ学習負担を強いる」ものではあった。
写真下:小畠てつの作品
写真左:本文で言及していないカタカナの作品
その他:4枚の盲生作品
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
長尾榮一先生に続いて、2月29日の午後3時に直居鐵先生までもお亡くなりになりました。享年85でした。まったくもって寂しい限りです。長尾先生の場合は予期されていたことでしたが、直居先生はまったく突然でした。ただ、最後まで日本点字図書館のことを気にかけておられたことを、よく存じておりましたので、急遽、田中先生にご無理をお願いして「直居鐵先生を偲ぶ」を草していただきました。
5月12日(土)午後3時から日本点字図書館で、直居先生の「お別れの会」が挙行されます。
小誌2009年2月号「盲界のご意見番・直居鐵先生に聞く」で、長時間インタビューしたことが懐かしく思い出されます。先生には、長年小誌の編集委員をお願いして、なにくれと無くご指導をいただきました。先生のご冥福をお祈りいたします。
WBUとICEVIによる共同総会は、実は公式には11月8日スタートなのですが、8・9の両日はWBUアフリカ地域協議会の総会であり、日本とはまったく縁がないので、「WBUAPマレーシア代表団来日意見交換会」では11月10日からと記載しました。
毎日新聞ローマ支局長の藤原章生さんが4月から本社勤務となるので、東京に帰ってこられます。
3月9日(金)午後、ロゴス点字図書館で、日盲社協の評議員会・理事会が開催され、石倉満行常務理事が退任され、後任には高橋秀夫理事(岐阜アソシア)が就任されました。30余年前、高橋氏とは当協会で、一緒に汗を流したものでした。同氏と選挙公報がらみで会うと、今でも当時の殺人的忙しさが話題になります。
ここ当分の間、消費増税をめぐる駆け引きで、解散風が吹いたり止んだりして、解散・総選挙にやきもきさせられることになりそうです。現在の第180回国会の会期は6月21日までなので、その頃がひとつの山場となるのでしょうか? この日、第60回日盲社協大会が和歌山市で開催されます。(福山)