「ねぇ、この近くに安くて美味しい店知らない」。「格安というわけにはいきませんが、北京ダックとか特別なものを頼まなければそれほど高くなく、とても美味しい北京料理の店があります」。「北京ダックなんて注文しないよ。そんなうまいもんじゃないし。じゃ、そこに行こう」。
長尾榮一先生はとにかくせっかちで、うっかりすると手引きを追い越しかねない勢いで、この時もでかけたのだった。
これがきっかけで、新宿御苑近くの音楽ホールで行われる箏曲演奏会に行った帰りは、いつも長尾先生を中心に4、5人で「随園別館」に向かった。そして、いつも1階は満席で、2階に通されたものだった。
先生には、『点字ジャーナル』に創刊時から何度も寄稿していただいた。ただ中には、単発の予定だったものが、あまりに長大になり、編集部で再構成して、分割したものもあった。当方が原稿に手を入れても、明らかな間違い以外はほとんどクレームはなかった。書き上げるまでは、せっかちに異様な集中力を発揮するが、その後は、恬淡とさえしているように見えた。
ある夜、随園別館で紹興酒を飲みながら、「『別館』というのなら、随園という本館もあるのだろうね。そこに行ってみたいね」と言われた。そこで、「なぜか、随園別館というのが正式な屋号で、随園という店はないようですよ」というと得心がいかない顔をされた。しかし、店員は中国人ばかりで、複雑な会話はできそうもないので、この疑問はそのまま宿題として残った。
18世紀清朝の詩人に袁枚(エン・バイ)がいる。浙江省杭州の出身で、若くして科挙に合格したが、地方官を転々とさせられたため、嫌気がさして38歳の時に退官。以後、「随園」と名付けた屋敷に隠遁自適して50数年、4,000ほどの詩を残した。また、食通としても知られ、随園で催された宴のレシピをまとめた『随園食単(メニュー)』という本も残している。
随園別館はこの袁枚の随園にちなんだ屋号だと思うが、それを伝える前に、先生はあまりにせっかちに逝かれてしまった。あるいは天国で、随園を訪ねられているのかも知れないが。(福山)
3月11日、死者1万5,854人、行方不明者3,155人を出した未曾有の大震災から1年。被災者の生の声を聞くため、宮城県仙台市のホテルメトロポリタン仙台で、日本盲人福祉委員会(日盲委)主催の「東日本大震災シンポジウム 視覚障害者支援のまとめと課題」が開催された。震災後日盲委は対策本部を設置し、日本盲導犬協会仙台訓練センターを拠点に支援活動を行ってきたがその総括である。来賓には厚労省や宮城県、被災地の視覚障害当事者をはじめ関連団体・施設の役員など、約300人が参加した。
あいさつに立った対策本部長の笹川吉彦氏は「今回の教訓を活かせるよう議論し、成果を明日に活かしていきたい」と述べた。
午前は、対策本部の現地支援責任者・棚橋公郎氏の司会で、特に被害の大きかった岩手・宮城・福島の3県から5人の被災者が登壇し、体験を語った。
まず地震発生から避難までの体験が語られた。奇跡的に助けられた人もいるが、多くは家族、そして近所の人の助けで避難している。中村亮氏(岩手県釜石市)は1人で自宅の治療院にいる時に被災。近所の人が「一緒に逃げよう」と声をかけてくれ、ちょうど帰ってきた弱視の妹と逃げることができた。津波が後ろ50mにまで迫り、まさに間一髪だったという。中村氏は「あいさつ程度の付き合いだが、近所の人に視覚障害者がいると知ってもらっていたのが幸いした」と語る。また今回の震災では家族を捜して津波にのみ込まれた人も多かったが、斉藤俊夫氏(宮城県山元町)は「自宅は流されたが、津波が来たら高台にある親戚宅へ避難しようと話していたことで、家族がバラバラにならずに済んだ」と言う。
次に避難所での生活が語られた。半谷(はんがい)フミ氏(福島県南相馬市)の代理で話した愛娘は「特に震災を経験した新潟では温かく迎えられ涙が出た」と語る。ただ慣れない環境の上、仮設住宅に落ち着くまでに6カ所も避難所を転々とさせられた。また視覚障害ゆえの苦労もある。中村氏は一番の問題はトイレだという。川の水で流していたトイレが紙詰まりしたため、紙は床においたビニール袋に捨てることになった。しかしビニール袋の場所が分からない。うまく見つけてもどこが口か、またうまく入ったか確認できず、トイレに行きづらくなった。「そのうち便秘になり、食べると吐くようになった」と話す。また鈴木明美氏(宮城県石巻市)は、多発性硬化症という神経難病を患っている。この病気のため目が見えなくなり、日によっては動けなくなることも。しかし避難所の人たちにうまく理解してもらえず、「避難所では調理班などの係に必ず入ることになったのだが、病気のため遠慮すると何もしないと責められた」と語る。避難所に居づらくなり、2カ月間1階が水没した自宅で夫と2人何の援助もなく過ごしたという。
では福祉避難所はどうだったのか。阪神淡路大震災の教訓から、障害者など配慮を必要とする人のため、全国に指定されたバリアフリーの施設がある。しかし鈴木氏が福祉避難所への入所を相談した先は、「寝たきりでない人は受け入れていない」と説明。また中村氏は身体障害者センターへ移ったが、「はじめは避難所に指定されておらず、食料を自分たちで調達しなければならなかった」と話す。一方原田宗雄氏(福島県いわき市)は盲導犬の受け入れを心配したが温かく迎えられたと話し、地域間・施設間で対応の差があったことが分かった。
そのほか、斉藤氏は透析治療を受けており、地元の病院からバスで山形県の病院に通うことになったが、地元の病院までのガソリンがない。あとで許可されたが、「役所からは緊急車両以外は認められないと断られた」と言う。また、半谷氏の自宅は原発事故の避難区域に指定され、今や養豚場から逃げた豚の住処だが、「それでも家に帰りたい」と願いっている。
4人は今も仮設住宅で生活している。司会の棚橋氏は「登壇者も今日はたまに笑顔をみせながら話してくれるが、当時はそんな余裕はなかった。ぜひこの方たちの話を持ち帰り、生き残った者たちで今後の支援と備えを考えていかなければならない」と訴えた。
午後には、対策本部現地支援責任者を務めた原田敦史氏が「視覚障害者支援活動の報告と提言」を発表。4月から関係団体の視覚障害者リストを元に安否確認と支援を開始した。行政にリストの開示を求めたが、個人情報保護法により拒まれる。しかしねばり強い折衝が実り、被害の大きい沿岸部の重度視覚障害者全員に対策本部の支援情報を県などの行政機関から送付。この効果は大きく送付直後から要望が寄せられ、直接支援数は4月は236件だったのに対し今では1,400件に近付いた。原田氏は「視覚障害者も日頃から備えることが必要。行政・団体は震災後すぐに支援できるよう、個人情報の開示への早急な体制整備が求められる」とし、当事者向け、行政・団体向けの対応マニュアルを来年度発行すると報告した。
続いて、14時46分、全員で黙祷を捧げた後、シンポジウム「災害時の視覚障害者支援はどうあるべきか ―― 視覚障害者支援対策本部の1年間の成果と教訓」が行われた。司会は加藤俊和氏(対策本部事務局長)、シンポジストは新阜義弘氏(養護盲老人ホーム千山荘相談支援員)、仲泊聡氏(国立障害者リハビリテーション病院第二診療部長)、吉川明氏(日本盲導犬協会ゼネラルマネージャー)、中村亮氏、棚橋公郎氏、原田敦史氏が務めた。まず制度上の問題として上がったのは災害要援護者リスト。原田氏によれば仙台市の登録者はわずか1%で、登録していたのに迎えが来なかった事例もある。一方で支援者側の限界もある。加藤氏は「今回ボランティアを歩行訓練士に限ったが、これは運営の人材不足のため。またロービジョンの支援もできなかった」と説明。また原田氏の勤める仙台訓練センターは業務を停止して支援活動に当たったが、他の団体・施設ではそういくだろうか。加藤氏は「どこが拠点になるか、職員をどのくらい派遣できるか、事前に関連団体・施設が協定を結ぶ必要がある」とまとめた。
対策本部は今年度で活動を終え、支援活動の主体は現地の団体に切り替わる。いつ起こるともしれない地震に備え、早急な体制整備が求められる。(小川百合子)
3月3日午後5時から日本盲人福祉センターにおいて、マレーシアから訪れた世界盲人連合アジア太平洋地域協議会(WBUAP)の代表団と、国際協力や留学生受け入れを行っている日本の視覚障害者団体・施設との意見交換会が開催された。なお、この会をお膳立てしたWBU田畑美智子執行委員が司会兼通訳を務めた。
冒頭あいさつに立ったWBUAPサバラトナム・クラセガラン副会長(晴眼者)は、「急遽お集まりいただき感謝いたします。WBUAPがこれから行おうとすることと、関係する日本側の活動の紹介・情報交換を忌憚なく行えたら幸いです」と述べ、この日集まった参加者を紹介した。
まず、日本側からの活動紹介となり、日本盲人会連合(日盲連)国際委員会指田忠司事務局長が、日盲連の概要を説明。次に日本点字図書館田中徹二理事長が、池田輝子ICT奨学金事業のアジア太平洋への指導支援について近況を報告した。また、国際視覚障害者援護協会(IAVI)石渡博明理事長は、アジアの視覚障害者を日本へ留学させた実績を話し、「今後は帰国した留学生の自立のために現地の盲人協会などと協力したい」と抱負を述べた。IAVIの紹介などで留学生の受け入れをしてきた筑波大学附属視覚特別支援学校(附属盲)の足達謙教諭は、「附属盲は1990年から留学生を受け入れており、これまでマレーシア、ベトナム、中国など12カ国から20人余の留学生を受け入れました」と述べ、同席したマレーシアの留学生タン・リー・メイさんを紹介した。また、筑波技術大学の形井秀一教授は、アジア医療マッサージ指導者ネットワーク(AMIN)についてその概略と、成果としてモンゴルに開設した盲学校や、海外支援用に作成した日本あん摩の英文教科書を挙げ、「広く活用していただければ」と述べた。同じく筑波技術大学の藤井亮輔准教授は、指田氏からのリクエストで、日盲連内に組織された三療問題に関する委員会が、日盲連として初となる提言書をまとめ、今年6月の日盲連総会に提出することを報告した。
一方、マレーシア側からは、WBUAPマッサージセミナーのプレゼンテーションが、実行委員長のショーン・クォ・イェン氏によって行われた。「今年5月3日から5日にマレーシアの首都クアラルンプールのホテルイスタナで開催されるので、多くの皆様のご参加をお待ちしています」と呼びかけた。また、4年ごとに開催されるWBUと国際視覚障害者教育会議(ICEVI)による共同総会に関するプレゼンテーションをWBUAPアイバン・ホ・タック・チョイ事務局長が行った。今年11月10日から18日にタイの首都バンコクにあるクイーンズパークホテルで開催される今大会では、期間中にWBUAPの総会も開かれ、この場で次期WBUAPの会長が選出される。またWBU総会は今回初めてアジアで開催されるため、WBUAPもことのほか力を入れている。
閉会後にはレセプションも行われ、短い滞在時間の中で両国は密に交流を図った。(小川百合子)
古河太四郎たちが創案した様々な教具・教材を検討してきた。多くは、いわゆる墨字(仮名・数字や漢字)を盲目の児童・生徒に習得させるための工夫であった。
前回ご紹介した「表裏同画記得(盲人用左右対称)文字」だけは、通常の墨字から離れる考案だった。
ここで、話を「墨字を書く」ことに戻す。
「自書自感器」の類。それは要するに「行や文字の大きさを枠によってコントロールする」方法である。文字列が乱れることを避け、文字サイズを揃えることが可能になった。縦・横のサイズが幾種類か用意されていたから、どのタイプにするかを「選択する」こともできた。しかし、「枠に縛られた、自由度の低い書法」と言わざるをえない。
それに対し、「盲生の習字」の奥義とでも言おうか、究極の方法が編み出されている。
「鉛筆書 其折目ノ凸所ノミヲ表面ニ形ハシ其折目條中ニ書ス」ならば、「自書自感器」を使わずに、書字の大きさを調整し、行のゆがみを防ぐ手法があるというのだ。だが、説明が簡潔すぎて、分かりづらい。
古河による別の文章(「明治十七年五月 於岡山県県学事奨励會 京都府盲唖院出品説明書」)を写してみよう。原本には句読点がないので、相当の所に1字の空白を施す。
┌───────────┐
盲生作文 并 鉛筆自書
盲人ノ既ニ器械ヲ用テ作字ニ熟セルモノハ 一方ヲ設ケテ字ヲ書セシム 即チ器械ノ助ケヲ藉ラス 先ツ其用紙ヲ巻キ 適宜ノ字行ニ折目ヲ付シ 之ヲ圧シテ凸起セシメ 紙ヲ展シ 凸起セル折目ヲ摸擦感触シテ 其中央ニ字ヲ書スナリ 而シテ其字ヲ書スル時ニハ左手ヲ右手ニ隣接シ紙面ニ在ラシメ 其拇指ト示指トヲ伸シ 相開クコト寸大ナラシメ 之レヲ定準トシ 其間ニ筆ヲ下シ 細大適宜ニ作字セシメ 一字ヲ終レハ折目ヲ標準ニシ 左手ノ示指ヲ拇指ニ附シ 拇指又順次ニ條下ニ運ヒ 復タ一字ヲ書シ 次第ニ此ノ如クシテ 日用ノ手簡ヲ作ラシムナリ
└───────────┘
これはこれで、微に入り過ぎて、かえって読み取り難いかもしれない。多少語順も変え、言葉を補って現代風に改めてみる。以下は、日本文を縦書きすることを前提にし、右利きを想定した説明となる。
すでに「自書自感器」などを用いて「墨字の書き方」に習熟した盲人には、一つの方法を用意して字を書かせる。この方法では器具の助けを借りない。まず、紙を巻き、行間に相当する位置に適宜折目をつける。その部分を強く圧迫して凸状の線に仕立てる(通常の罫線のようにインクで描かれた線ではないが、凸状であるから、見えない人にも触ればその線が分かる)。それから紙を広げ、触って凸線を感じとり、左右二本の線の真ん中に字を書く。このようにして字を書くときには、紙の上で左手と右手を近づけるほうがよい。まず、これから字を書こうとする空白部分の左側にある凸線の向こう端に左手の親指と人差し指をぴたっと合わせて置く。これがスタートだ。そして、親指だけを手前にずらし、親指と人差し指の先を少し空けておく。親指と人差し指のこの間隔を基準として、その右の空白部に1つの文字を書く。その際、文字の大きさは、(右側の凸線をオーバーしない範囲で)適宜に選べばよい。1文字書き終われば、(いわゆる尺取虫の這う要領で)左手の人差し指を親指にくっつけた後、親指をさらに手前にスライドさせる。そして、また1文字書く。このようにして、次第に日用の手紙などを書くことができるようになる。
確かに、周到に設計されている。この手順を試みてみたところ、案外たやすく真似ることができた。次回は、この方法で書かれた生徒作品を紹介する。乞う、ご期待。
なお、紙そのものに網目などを利用して罫を施すことやフリーハンドで書くこともかなり行われたようだ。鈴木力二(すずき・りきじ)氏は、東京盲唖学校と焼印された文字書記盤(点字器のように紙おさえで紙を固定し、鉛筆等で書く)を紹介している。
『鉛筆書』
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
長尾榮一先生に続いて、2月29日の午後3時に直居鐵先生までもお亡くなりになりました。享年85でした。まったくもって寂しい限りです。長尾先生の場合は予期されていたことでしたが、直居先生はまったく突然でした。ただ、最後まで日本点字図書館のことを気にかけておられたことを、よく存じておりましたので、急遽、田中先生にご無理をお願いして「直居鐵先生を偲ぶ」を草していただきました。
5月12日(土)午後3時から日本点字図書館で、直居先生の「お別れの会」が挙行されます。
小誌2009年2月号「盲界のご意見番・直居鐵先生に聞く」で、長時間インタビューしたことが懐かしく思い出されます。先生には、長年小誌の編集委員をお願いして、なにくれと無くご指導をいただきました。先生のご冥福をお祈りいたします。
WBUとICEVIによる共同総会は、実は公式には11月8日スタートなのですが、8・9の両日はWBUアフリカ地域協議会の総会であり、日本とはまったく縁がないので、「WBUAPマレーシア代表団来日意見交換会」では11月10日からと記載しました。
毎日新聞ローマ支局長の藤原章生さんが4月から本社勤務となるので、東京に帰ってこられます。
3月9日(金)午後、ロゴス点字図書館で、日盲社協の評議員会・理事会が開催され、石倉満行常務理事が退任され、後任には高橋秀夫理事(岐阜アソシア)が就任されました。30余年前、高橋氏とは当協会で、一緒に汗を流したものでした。同氏と選挙公報がらみで会うと、今でも当時の殺人的忙しさが話題になります。
ここ当分の間、消費増税をめぐる駆け引きで、解散風が吹いたり止んだりして、解散・総選挙にやきもきさせられることになりそうです。現在の第180回国会の会期は6月21日までなので、その頃がひとつの山場となるのでしょうか? この日、第60回日盲社協大会が和歌山市で開催されます。(福山)