THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2012年3月号

第43巻3号(通巻第502号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:ダマラさんの「メメント・モリ」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
訃報・長尾榮一先生 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5
(インタビュー)厚生省出身の川崎市視障協副会長に聞く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
6
ニャックアン物語 何のためにベトナムに来たのか? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
27
読書人のおしゃべり:『ハーイ! みのり』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
35
国リハあはきの会「新年の集い」
  安すぎるマッサージ療法の診療報酬 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
自分が変わること:近未来が見えない その4 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
41
48㎡の宝箱:表裏同画記得文字 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
46
リレーエッセイ:漢字コンプレックスの私(福井哲也) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
50
外国語放浪記:長旅の終わりに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
55
大相撲:把瑠都、悲願の初優勝 ―― いよいよ綱取りへ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
59
時代の風:技大中高生向け参考書作成、練馬区礼拝にヘルパー認めず、
  網膜色素変性症の原因遺伝子発見、ES細胞で視力改善、
  ロシア盲導犬に給与支給、オレカ3月で首都圏販売終える、
  毛の成長を早める仕組み解明 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
63
伝言板:調布映画祭2012、「生きる」を考えるイベント ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
69
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
ダマラさんの「メメント・モリ」

 写真とエッセイを巧みに組み合わせた作品を多数発表している写真家で作家の藤原新也に、『メメント・モリ』というタイトルの写真集がある。ラテン語で「死を想え」という意味のこの警句は、本書によって人口に膾炙した。
 この写真集を思い出したのは、1月16日早朝、大阪市阿倍野区の路上で、ネパール料理店経営のビシュヌ・プラサド・ダマラさん(42歳)が日本人の男女4人組に暴行を受けて殺されたからである。
 写真集『メメント・モリ』は、死に関連するカラー写真にキャプションがつけられている。たとえば、ガンジス川(ガンガー)の中州に打ち上げられた死骸を犬がむさぼり食う写真には、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」と付されている。
 幼児、妊婦、疫病死、自殺者は、焼かずに水葬されるがヒンドゥー教では、死者をガンガーの川岸で荼毘に付し、遺灰をこの川に流すことが死者に対する最大の敬意となる。
 ダマラさんの遺体は、生前の彼の望みどおり、カトマンズの聖地パシュパティナート寺院前で荼毘に付され、遺灰はガンガーの支流に流された。生前、彼は自分の死を思い、日本人である妻にその旨、告げていたのである。
 何の落ち度もない無抵抗の男性に、容疑者は顔などを執拗に狙って蹴り、自転車を頭部に何度も投げつけている。
 ネパールでは死は身近にある。多くの子供達が病気でよく死に、毎日道端でヤギが屠畜され、川岸では死体が燃えている。一方、日本では死が徹底的に隠される。その挙げ句の果てが、鬼畜の所業だとしたら戦慄を覚える。
 ダマラさんの友人である在日ネパール商工会議所の代表は、「友人を失って悲しいが、暴行した方も人生を台無しにした。反省することで、ダマラさんも彼らの心も安らいで欲しい」と述べている。
 この発言は、日本人にはきれい事に聞こえるかも知れない。しかし、これは本音である。「ガンガーに遺灰を流された者は解脱できる」という考えがあり、それを成し遂げたことで、彼らは心静かにダマラさんの死を完全に受け入れたのである。(福山)

(インタビュー)
厚生省出身の川崎市視障協副会長に聞く

 「昭和44年(1969)の卒業は、あることでとても有名です。東大闘争があって入試が中止になり、3月に卒業ができず、6月に卒業したのです。このため厚生省入省は7月でした。最後の1年はあまり授業もなく、卒業試験もなくて、レポートなんです。だからか、その後、卒業試験の夢をよく見ましたね。卒業試験を受けなくちゃ卒業できないと(笑い)。さすがに最近は見ませんが」。
 本誌先月号で紹介した、『ドイツ医療保険の改革』を著した舩橋光俊さんに、インタビューをはじめて間もない時であった。「東大法学部を出て、すぐに厚生省に入省されたのですね」と確認したら、このような返事であった。当時、テレビで見た全共闘の学生と機動隊による東大安田講堂攻防戦が鮮やかに思い出された。
 厚生省を選んだ理由を聞くと、「福祉行政をやりたかったからで、私たちの数年前の先輩達は、公害行政をやりたいという動機が多かったようです」という生真面目な答えが返ってきた。当時の学生は、社会を憂い、天下国家を論じていたのだ。その時代において当然のことと考えられていた認識や価値観などが劇変することを「パラダイムシフト」というが、昭和44年もそうかも知れない。その後、「政治の季節」は学園から静かに退場した。
 舩橋さんと接して、いわゆる官僚臭は一切しなかった。これについては、神奈川県内のある視覚障害者福祉協会(視障協)の会長から事前に聞いていた。おそらく、権威主義的、形式的な態度や傾向を意識的に避けているのだろう。そして、理路整然とていねいに説得しようという姿勢が身に付いているように思えた。それは、あるいは若い頃ドイツに赴任したことが影響しているのかも知れない。インタビューの途中、「私はドイツに毒されているせいか・・・」と自虐ネタを交えてそれらしい発言もあった。
 舩橋さんは、終戦の年である昭和20年(1945)5月25日、神奈川県大磯町で生まれ育った。「吉田茂元首相のお宅があったところですね」と水を向けると、「あれは別荘地ですね。吉田邸へは、駅から車です。本来の集落は駅から徒歩で行ける範囲で、私は旧市街の下町、漁村みたいなところです」と、さらり。
 今回のインタビューは、視覚障害者でもさまざまな経歴の方がおり、元厚生官僚ということで、著書の発行に合わせて同書発行の経緯と共に人となりを紹介したかった。そして、就業人口が減っていく中で、どのように今後の社会保障を考えるのか? また、視障協の活動などを含めて、話を聞きたいと思い、1月23日に取材した。取材・構成は本誌編集長福山博。

ドイツでの最初の調査とその顛末

 舩橋さんの著書にある略歴に、厚生省国際課ドイツ社会保障制度調査員、社会保険大学校長とあるので、私はてっきり厚生省で、研究畑を歩まれたものと早合点した。すると「一貫して行政職でした」とあっさり否定された。「最初は年金局で、その後、公衆衛生局などにいて、それから国際課課長補佐の肩書きで調査してこいという辞令を貰ってドイツに行きました。その後、環境庁へ2回にわたって5年ほど、栃木県庁に3年、公害等調整委員会や外郭団体にも出向、最後は社会保険庁の社会保険大学校でした。結構いろいろ行っていますね」ということだった。
 また、そそっかしい私は、厚生省の国際課を諸外国の社会保障制度などを研究する部署と誤解していた。すると、「当時の国際課は主にWHO(世界保健機関)などとの一般的な連絡や窓口業務を行うところ」との説明。
 当時、厚生省には西欧の年金などの社会保障制度をもう少し調べたいという問題意識があった。こういう場合、通常は現地大使館員が調べるのだが、当時の在西ドイツ日本大使館には厚生省からの出向はいなかった。そこで、年金課にいたことのある若手を派遣して、調べることになった。
 こうして1974〜1976年にかけて、30歳前後の舩橋さんは単独で当時の首都・ボンを拠点に調査する。米ドルが300〜305円の時代で、当時の西ドイツでは「実感としてはいつも1マルク100円で換算していた」という。ドイツ商業の拠点であるデュッセルドルフには、現在2万人の邦人がいるが、当時でも日本人ビジネスマンと家族が何千人も住んでいた。
 そもそも西ドイツでの調査は、日本の銀行や商社などの駐在員が、向こうでも公的年金に入らざるを得ない状況があり、そうすると保険料が日本でも払っているため二重払いとなる。それを調整しようというのが、当時の厚生省の狙いで、その前段として西ドイツの年金制度がどういう仕組みなのか、あるいは西ドイツが自国の年金制度とフランス等の諸国と年金制度をどのように調整し、協定を結んでいるのかを調べるのが、舩橋さんのミッションだった。
 当時、西ドイツはすでに10数カ国と協定を結んでいたので、日本との年金協定はいつでもOKというスタンスだった。しかし、日本は国内の政治課題があるとそちらを優先するのでなかなかまとまらなかった。そこで、落ち着いて協定の中身を詰めてなんとか大筋で合意したのは、東西ドイツが統一された翌年の1991年であった。次いで国内の制度を変える必要があるのでその後も大変で、結局、1990年代の後半に入って日本の制度の中での折り合いがついて条約を結び、国内法の整備をして施行へ。ついに日独協定が発効したのは2000年2月1日であった。
 この協定発効で5年以内の短期滞在であれば相手国の年金への加入は免除される。予定が変わって5年以上滞在しても、免除期間が最大で3年間延長される。このほか相手国の年金制度に加入したことのある人は、それぞれの制度への加入期間を合算できるようにもなった。そして、これが第1号となって、社会保障関係の窓口を厚生労働省の国際課に作って、ドイツ以外にも、英国など数カ国との年金協定が結ばれていくのであった。

ドイツ医療保険調査団

 時潮社刊『ドイツ医療保険の改革』が書かれるきっかけになったのは、厚生省を1995年に退官して、国民健康保険中央会(国保中央会)在勤中の1997〜2009年にわたる5回の調査である。
 1997年12月の第1次調査は、厚生省派遣の時からすでに23年たっており、1ドルは130円、1マルクは72円と随分円高に振れていた。消費税が3%から5%に増税された年でもあった。日本の医療保険がモデルとしたのはドイツなので、ドイツの動向は日本の医療保険関係者にとって関心が強い。しかもドイツで医療保険関係の大きな制度改革が1990年代半ばと2007年にあり、その時期は舩橋さんの国保中央会在職期間に重なる。
 当時の国保中央会理事長が、「ドイツでいろんな制度改革をやっているので、ひとつ調べてみないか」とドイツ語が堪能な舩橋さんに白羽の矢を立てたのだった。
 すでに目がかなり弱くなってきていたが、この仕事は自分こそが適任だという矜持を持ち喜んで引き受けたという。
 国保中央会の調査は具体的なテーマを事前に送付し面談する1週間から10日の調査だ。そのために調査が円滑に進められるよう事務方と「行政知識のある医師」を帯同して3人チームで行動。医師は医学的な質問とか医学用語の翻訳やチェックで頼りになる。さらに、現地ではトップクラスの通訳を確保して万全を期した。同一テーマについて、例えば診療報酬の話でも医師団体、保険者団体などできるだけ複数の団体から聞いて客観的事実を把握するための配慮をした。
 5回の調査の後には必ず報告書を作成し、関係者に配布した。その際にはインタビューをテープに起こして、日本語全訳を付録として付けた。
 「私のテープ起こしはドイツ語からです。テープに録音した通訳のドイツ語の質問と、向こうの答えたドイツ語をもとに全訳したものです。もちろん通訳はその場で瞬時に的確に訳してくれており質疑自体は噛み合っていますが、あらためて全体の文脈を理解した上での適訳をみつけます」と舩橋さんはこともなげにいったが、これは大変なことである。日本語のテープ起こしでさえ、むやみに時間がかかるというのに、それをドイツ語でやり、日本語に翻訳する。実際に1回の報告書には300〜500時間かかったというが、恐るべきマニアックな仕事ぶりである。
 また、この報告書とは別に、ドイツで調査した内容をトピックスとしてまとめて、『社会保険旬報』や『国民健康保険』という専門誌に寄稿もしている。これらの報告書や寄稿原稿等をベースにまとめたのが、『ドイツ医療保険の改革』である。
 それまでも、ドイツの医療保険での財政調整の改革とか、疾病管理プログラムについて報告はあったという。「しかし、具体的にどうやっているのかと踏み込んだものはありませんでした。学者はそれでもいいんですが、行政官はその制度が実際にどういう理屈で、具体的にどう事務処理するかということを知りたいのです。そういう実務的な内容を調べたいというのが、私の基本的な問題意識でした。実務的な事柄を徹底的に調べたのが、この本のユニークな点だと自負しています」と、同書の特長を説明する。
 少子高齢化の中で、医療保険も明らかな曲がり角に来ている。その解決策は、技術的には色々あるようだ。例えば、私が柔道整復師の不正請求問題に触れたら、ドイツでは医療費請求の内容を審査する時に1つの方法として2%だけ抽出して徹底的に調査する。後の98%はいざとなったら調べるので、「正しく請求してください」と言って担保する仕組みだ。日本は良くも悪くも悪平等という点はとくに興味深かった。それ以外の解決策も極めて具体的に語られたがここでは述べない。そのためには、いずれにしろ国民的コンセンサスをとる必要があり、政治がカギになるからだ。しかし、その政治が頼りない。「政策決定プロセスで大臣や政務官が思いつき的な主張をすると、制度の在り方として整合性あるまとめができず行政が迷走し、停滞することになりかねません」と政治の不安定を彼は憂う。
 「政治家が多忙なことは承知していますが、『一般の国民感覚』だけを頼りに長期的な制度のハンドリングをすることは国民の負託に反します。国政をあずかる政治家には行政組織の持つ知見を上手く活用してまずは現在の制度の仕組み、理念、沿革などを把握する真摯な姿勢が求められます」と手厳しい。
 「吉田茂に乞われて2年間文部大臣を務めた天野貞祐(1884〜1980)の大臣室に新聞記者が入っていったら、大臣は原書でカントを読んでいたらしい」と舩橋さんは笑う。大哲学者と比べようもないが、近年の大臣にはサラリーマンの方が似合う人の方が多いようである。彼が斯界の泰斗を引き合いに出したのは、ある意味で事実に基づくといいながら、あまりにも今の政治家が事務的になりすぎて、長期ビジョンが欠けていると考えての慨嘆であったようだ。
 少子高齢化の時代で就業人口が次第に減っていく中、医療や年金の社会保障をどうするのか? 私はとても不安を持っていたが、行政官としてはやりようはあるらしい。しかし、近未来は見えない。

政治主導と政治家主導

 舩橋さんは、1995年1月の阪神・淡路大震災の発生から40日後に官房副長官に就任して辣腕を発揮した、厚生省出身の古川貞二郎氏の言葉を引き合いに出してこう述べた。
 「政策決定をするのは政治ですから政治主導は当たり前です。しかし、民主党政権の2年間は『政治家主導』であって政治主導ではないのです」と。それぞれの政策にはそれぞれの論理があり、事実があって一定の政策が組み立てられる。独立行政法人が今やり玉に挙がっているが、各法人にはそれぞれの政策理由があって制度ができているのだと述べた上で、「もう済んだ話ですが、独立行政法人福祉医療機構に3,000億円の基金があって、いろんな高齢者・障害者・子育て支援などに、その基金で毎年100〜200万円の事業費を100〜200団体に助成していたのです。ところが、民主党政権の初年度に、従来の事業は予算措置で面倒をみるからと3,000億円の基金を取り上げられたのです」と嘆く。
 基金最後の年度に、川崎市視障協は視覚障害者パソコン講座事業に200万円の助成を受けた。基金だと前年度内に準備・設定して、年度当初から動き始められるが、財源が予算の場合は予算が通ってからになり、とても時間的に窮屈になる。基金にしたのにはそれなりの意味があったのだ。それぞれの制度の存立理由なり、その意義なり評価なりが軽視される風潮は本当に残念という。そして、「本来の目的なり機能が有効か、どこをどう手直しするべきかというのは政治主導でいいのです。しかし、それを抜きにして天下りの役人が何人いるから問題だ、ともかく民間人がよいというのは、ものすごく短絡的な議論です。組織経営に一定の役員経費は不可欠ですし、『土地勘のある』役人はそうでない民間出身者よりも機能します」と冷静に指摘する。
 小泉政権のときに、損保ジャパンの副社長を社会保険庁長官に登用した。そうしたら、「新聞は、民間の高給をなげうって2,000万円という安い年俸の役職についたと賞賛しました。ところが、その少し前には社会保険庁長官の年俸は高すぎると、一度叩いているのです」と、この問題に関するマスコミのWスタンダードを鋭く指摘。しかも「民間登用がうまくいっているのかは疑問です。それまで個別のビジネスでのぼりつめてきた人たちに、日本における大局的な制度運営ができるかというと、それは別問題でしょう」。また、消費増税に関しても、「その前に国会議員も身を削れというが、議員80人減っても80億円も減らないのです。一方、消費税は8兆円とかという額の議論。他国にくらべて著しく国会議員が多いとも思えません。国民代表として役割を十分はたしてくれれば今の人数でよいのです」。
 最近の報道番組も、感情的なその場の空気で語られることが多いと批判した。「公務員人件費の削減については、当然、現在の質と量の公務サービス水準の低下を伴なわざるをえませんが、福祉のみならず様々な行政水準の低下を国民は納得し選択する覚悟があるのでしょうか。報道にはこの視点があまりありませんね。確か以前、同様の指摘を清家篤慶応大学教授がされていたと思います」。論理的な舩橋さんは、最近流行りの「空気を読む」ことが嫌いで、それより事実を積み上げ、「数字を読め」ということをいいたいらしい。これには私も大いに共感した。

障害者総合福祉法について

 現在、政府は障害者自立支援法をなくして、障害者総合福祉法の制定を目指しているが、舩橋さんはそれに対して、元行政官として、また、網膜色素変性症で視覚障害のある当事者である、視障協の役員として危惧を隠さなかった。
 「多くの障害者団体の意見を聞いていますが、当事者は視覚障害者を含めて、自分たちの利益のための主張が中心ですから、総合的な視点は少ないのです。理念段階の報告だとみんな取り込んで書けます。しかし、それをどういう風に具体的な施策にまとめるのか、今の障害者自立支援法との接続をさせ、いかにして、障害者総合福祉法にするのかが、全然見えてきません」というのだ。「結局、司令塔がいないのです。パスを出して、全体を走らせる人がどこにもいないのです」という。
 これはもちろん障害者団体を批判しての発言ではない。舩橋さん自身、同様の場にいけば、視障協の立場から発言することになるし、そういうものだということを言っているのだ。
 従来のやり方だったら、「社会・援護局のラインできっちり抑えてやるんでしょうが、当事者を委員の半分も集めてどうするのでしょうか。全体のあり方や整合性は、当事者団体が考えることではないのです。民主党の政治家でも医師の今井澄(いまい・きよし)さんみたいな人だったらあるいは動けたかも知れません。しかし、今それに変わる次の代の政治家で期待できる人がいるのでしょうか? 司令塔が今不在なんです」と容赦ない。
 今井医師は、舩橋さんが東大を卒業する年の安田講堂攻防戦で、防衛隊長として事実上学生側の現場責任者だった人で、この事件により服役している。学部生の中で最年長ということで担ぎ上げられて、火中の栗を拾ったのだ。その後、全国区の知名度を持ち日本各地から研修医が訪れる諏訪中央病院を大きく育て、40歳で病院長となり、その後参議院議員に転じ、2002年に62歳で逝去した男気のある人物だ。

神奈川県川崎市にて

 障害者総合福祉法について、「先般、川崎市の福祉講演会である大学の先生が、去年の8月以降何も新しいことが具体的に出てこないと話していました。司令塔を内閣が務めるようですが、内閣は総合調整の場ですからね。厚労省の社会・援護局長あたりにきっちりと責任を負わせれば、それなりに懸命にやるでしょう。しかし、今は責任を負わせてもらえないから、一生懸命やろうとしてもやれない状態ではないでしょうか」と、後輩を気遣う。
 以前は、学識経験者の審議会から意見を聞いて、それなりの理論付けをして制度の立案をしていたが、今は、パブリックコメントが流行りである。「川崎市の障害者福祉計画の関係でもやっていますが、あれもなんかちょっと胡散臭いところがあります。冷たく言うと行政のアリバイ作りというところがあって、私たちのコメントをどう評価しているかというのがよく見えないのです。川崎市視障協はパブリックコメントには必ず応じていますが、市は『個別には回答しません』と必ず言いますからね。それよりは市レベルで、市議会なり検討の場で意見を交える方が明らかに有効だと思います」。国だけでなく、地方自治体でも政策形成の枠組みがものすごく不安定になっていて、手探りでやっている感じがする、と彼はもどかしがる。
 川崎市視障協の話題を振ると、舩橋さんはおもむろにデイパックからパンフレットを取り出した。そして、「平成21年1月にNPOになったので事業体系を組み直しており、挟み込んだペーパーに新しい事業大系が書いてあります」と身を乗り出した。
 川崎市視障協は情報提供、啓発事業、親睦交流、文化・スポーツ事業、それに社会的な仕組みの改善への活動などを行っている。とくに社会的な仕組みの改善には多くの声が必要なので、より多くの人に入って貰いたいと思っているが、視障協はどこも組織率が10%前後。ただ、「それだけ問題意識のある人たちが集まっているのです」と彼は前向きに評価することも忘れない。
 中途視覚障害者は、視障協があるということ自体あまり知らず、パソコンやインターネットができる人も少ない。「視障協のパンフレットも区役所の窓口などにおいて貰っています。しかし、理解ある担当者は渡してくれるのですが、そこまで気が利かない人はカウンターに置きっぱなしです。それでは視覚障害者はアクセスできませんよね。視覚障害者のために、視障協は意味のある活動をやっていると思うので、できるだけ多くの人に入って欲しいのです。それにはまず情報提供からと苦労しているところです」と、彼はひた向きである。
 日盲連は最近、電気自動車対策の提言、同行援護の創設とか、あるいは金融機関での窓口対応の改善等に力を注いだ。また、それ以前から支援用具の給付とか、バリアフリーとかそれなりに社会環境は整いつつある。その一方、会員は全体として高齢化している。
 「ロジカルに言うと一定の年齢の発生率があるので、若い人でも視覚障害を持つ人はむろんいるはずです。若い世代は現在の視覚障害に対する社会的サポートの仕組みを当然のこととして受け止めているようです。しかし、それは先人達が1歩1歩いろんな段階で国のレベルなり、市町村のレベルで、行政なりいろんな団体に働きかけ、勝ち取ってきた成果です。その成果を享受するだけで事足れりとする人が、割と若い世代に多いのじゃないかと感じています。これは別に実証的ではないので、空気なんですが」と言って、いたずらっぽく笑った。
 自分たちが生活しやすい社会にしていくためには、より多くの努力が必要だ。「社会が変わり、電気自動車とか、ATMの問題が出てきました。スマートフォンもいずれ何とか視覚障害者が使えるようになるでしょう。社会のいろんな仕組みも変わり、利便性が向上していけば、それに伴って私たちが社会で生活していくために必要になるいろんな条件整備もさらに出てきます。そういう意味でも、今のいろんなサポート体制が自分たちの運動の成果なんだということを認識した上で、より多くのとくに若い世代に活動に参加して欲しいという思いがあります。いろんな機会に啓発PRしていきたい」と彼は力説した。
 最後に、親睦とか交流事業はそれなりにやっているし、川崎市委託の女性の家庭生活訓練やスポーツ活動はもちろん継続していく。「視障協のことも知らず、引きこもっている人が外へ出て活発に活動していけるような条件整備をしたい。3年前、先ほど述べた福祉医療機構の助成を受けたパソコン講座に20数人応募しました。しかし、パソコンを使いこなしていくとなるとまだまだなのです。そういう情報関係のサポートもやりたいことですね。やることはたくさんあり、できるだけいろんな人に参加してもらいたいです。移動の支援も重要ですが、情報アクセスのバリアをいかに解消していくかが、副会長兼庶務部長としては最も気になるところです」と意気込みを語った。
 視障協の活動のかたわら、舩橋さんは20年以上、地域の混声合唱団に所属している。1年半ごとにプロのオーケストラやソリストと共に定期演奏会を行う100人余の大合唱団だ。毎週土曜日夜の練習にはボランティアグループ製作の点字楽譜を持参し歌っている。次回は、来年の5月にバッハの大曲「ミサ曲ロ短調」。
 「わが団の演奏会ではいつも、点字の詳しいプログラムを用意し好評なんです」と笑顔で話した。高校、大学、地方転勤でも続けてきた合唱の話題になると、急に弾んだ声になったのが印象的だった。

48㎡の宝箱 ―― 京盲史料monoがたり
(12)表裏同画記得文字

京都府立盲学校教諭/岸博実

 「紙に凹んだ線を引いて書いた仮名や漢字を裏返して読む自書自感器」には有効性も認められる。だが、「致命的な欠点」がある。裏返した瞬間に、字形が逆転してしまうからだ。古河太四郎はすぐにひらめいた。「左右対称の文字を作ればいい」と。
 「盲人用左右対称文字」とも呼ばれるが、「表裏同画記得符号」と記す史料が多い。『明治十二年諸伺』や明治13年の『博覧会出品目録』がそうだ。
 大正2年に文部省図書局から刊行された『古川氏盲唖教育法』(渡辺平之甫編)には「五十音符号文字」という見出しのもと、4種類の「表裏同画記得文字」が載せられている。しかし、この中に『明治十二年諸伺』綴じ込みのタイプは含まれていない。従って、古河はそれを少なくとも5タイプ考案したようである。以下、その一つずつについて紹介してみよう。
 『明治十二年諸伺』に綴じられた「表裏同画記得文字」のア行(a・i・u・e・o)は次の通りである。aは、直角三角形の直角部を下(手前)に置いたときの左右の斜線の形(ひら仮名の「く」を左90度回転させたのに似る)。iは、横向き直線を1本。uは、横向きに同じ長さの直線を2本。eは、aを上下逆にしたもの。oは、縦の直線1本。確かに左右対称であるから、裏返しても字形は変わらない。
 カ行以下は、ア行の字形にそれぞれの行を意味する点を加えて組み立てる。カ行ならば、aの下・中央に点を1つ加えてカとする。その「1つの点」がローマ字のkのような働きをするのである。キ以下も同様にiからoの「点を1つ加える」方法で表現する。サ行は、aからoの下・中央に縦2つの点を加える。タ行は、ア行の下に横2つの点を加える。ナ行は、中央に縦3点。ハ行は、横3点。マ行は、点字のコを右90度回転させたような3つの点。ヤ行は、点字のタを右90度回転させたような3つの点。ラ行は、縦横2つずつの4つの点。ワ行は、点字のゴを丸ごと右90度回転させたような4つの点。そして、濁点は縦に2本の直線・・・のように構成されている。点を利用して文字を造形する発想はどこから生まれたのであろうか。
 一方、『古川氏盲唖教育法』に「表裏同画記得文字」として載っている4タイプのうち、「其一」は、カタ仮名を創出したのに似た手法で、漢字から一部の線を抽出し、左右対称に造形してある。例えば、「こ・ふるい」と読める「古」という漢字から上部の「十」だけを取り出し、縦横十文字(墨字のプラス記号様)に変えて「こ」に充てている。五十音の全てが基となる漢字を異にするので、点字のような法則性はない。
 「其二」は、斜線もしくは一筆書きの曲線に何らかの点を1つだけ加える。
 「其三」は、全て正方形の内側に直線と点を配置するデザインとなっている。ア行のaは左右の中央上寄りに縦線1本、iは上辺の近くに横線1本、uは中央にやや短い縦線1本、eは下辺の近くに横線1本、oは中央下寄りに縦線1本。カ行はそれらの右上角に点を1つ、サ行は右下角に点を1つ、タ行は下辺近くの中央に点を1つ加える。以下、ナ行は左上角に、ハ行は左下角に、マ行は右辺中央に打つ点がn・h・mの役割を担う。ヤ・ラ・ワ行は変則的な配合になっている。
 「其四」は、「其三」に近いが白丸も用いられ、全体としてなんだか点字にも似ている。
 さて、「其三」の解説をお読みになって気づかれたであろうか。カ行は右上角に点を1つ加えるから、左右に裏返すと、その点は左上角に移動してしまう。つまり、対称形とは言えない。実は「其二」も「其四」も対称形ではないのだ。これはどうしたことか?・・・渡辺平之甫の説明は混線していると私は考えている。はっきり言えば誤っている。「其二から四」は「五十音符号文字」ではあるが、「表裏同画記得文字」ではないのだ。
 とは言え、古河太四郎という人の柔軟さは尋常でない。おそらく点字も知っていただろう。


『古川氏盲唖教育法』所載の「表裏同画記得文字」其三

『明治十二年諸伺』に綴じられた「表裏同画記得文字」

(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)

編集ログ

 川崎市視覚障害者福祉協会副会長の舩橋光俊さんへのインタビューが、思わぬ長さに増えてしまいました。これでも、実際の内容を3分の1ほどにギューッと凝縮したものです。厚生官僚であった舩橋さんに、「少子高齢化社会で、就業人口が減って、いわゆる現役世代が減少し、高齢者が今後急激に増える日本は、これからいったいどうなるのだろうか?」という問題意識を持って臨みました。それに対して、噛んで含めるように説明していただいたので、思わぬロングインタビューとなったのでした。
 先月号の「巻頭コラム」で新聞にこと寄せて、消費増税に賛意を表したら、早速、電話やメールで反応がありました。とくに「不景気に増税して、税収が増えて、社会保障が、本当に持続可能になり、借金が返せるようになるんでしょうか?」という鋭い質問には、お答えしなければならないと思います。
 これは舩橋さんにくどくど質問して知ったことですが、「今から手を打てば、行政的にはなんとでもなる」ということです。しかし、このまま手をこまねいて、ずるずる先延ばしをすると、昨年あたりから団塊の世代が高齢者になりつつありますので、遠からず破滅的なことになることを数字が示しています。そうなってから、いきなり消費税20%なんて言われたくありません。
 ところで2002〜2007年の日本経済は、戦後最大の景気といわれましたが、生活がより良くなったという実感がわいた方がおられるでしょうか? 人口減少、とくに就業人口が減る世の中では、高度成長期のような景気は最早望めないのです。また、多重債務者が行うことは、給料ががっぽり増えることを期待して先延ばしすることではなく、今すぐ返済計画を練り、実行することです。したがって「景気が良くなってから増税」は間違いと言わざるを得ません。日本も同様に「待ったなし」の危機的状況で、ある意味では今が「持続可能な社会保障制度」を築く、最後のタイミングなのです。(福山)

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