THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2012年2月号

第43巻2号(通巻第501号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:消費税率引き上げと新聞 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
大学に行かせてください 「視覚障害者のインクルーシブ高等教育セミナー」
  中国・上海にて(田畑美智子)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5
(短期新連載)ニャックアン物語(1)
  旅立ち、そして開校と第1回の卒業生を送るまで(佐々木憲作) ・・・・・・・・・・・
13
国境を越える点字楽譜 ある点訳奉仕者の半生 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
25
読書人のおしゃべり:『ドイツ医療保険の改革』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
35
鳥の目、虫の目:タマネギの力 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
自分が変わること:近未来が見えない その3 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
41
48㎡の宝箱:自書自感器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
46
リレーエッセイ:「芝居の音楽」という未知なる挑戦(平野泰代) ・・・・・・・・・・・・・・・
50
外国語放浪記:観光地ロンドン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
55
大相撲:平成24年角界展望 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
59
時代の風:ブラインドサッカーパラリンピック逃す、除雪車が視覚障害者はねる、
  視覚障害者の振り込め詐欺被害、膝の半月板再生に新治療、
  花粉飛散量少なめと予測、ビールの苦みをつくる遺伝子特定 ・・・・・・・・・・・・
63
伝言板:フリークライミング教室、日点春のチャリティ映画会、
  詠進歌来年のお題は「立(りつ)」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
68
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
消費税率引き上げと新聞

 昨年末、民主党は2014年4月に8%、2015年10月に10%まで消費税率を引き上げる増税案をまとめた。野田首相は1月4日の年頭記者会見で、社会保障と税の一体改革について、「これ以上先送りできない」「大義のあることを、あきらめないでしっかり伝えていくならば、局面は変わる」と述べ、3月末に関連法案を国会に提出する意向を強調した。
 この政府・与党の「税と社会保障の一体改革」素案に対して、新聞各紙の「社説」はおおむね好意的で、あえて不人気政策に取り組む姿勢を評価した。
 これは民主党嫌いの産経新聞も同様で、首相の与野党協議呼びかけを拒む方針の自民党に対して、「国民に信を問うまで議論のテーブルにもつかないというのでは、国民の理解も得られまい」と援護射撃さえしている。
 それもそのはずである。政府の来年度の予算案では、税収だけでは90兆円余の歳出総額の半分もまかなえず、借金である国債発行が44兆円に達する。その主な要因は、歳出の3割を占め、毎年1兆円強のペースで増え続ける社会保障費にある。今の世代が使う社会保障費を、国債の形で将来世代につけ回ししているのだ。このため国と地方を合わせた公的債務は900兆円弱に膨らみ、国内総生産(GDP)のほぼ2倍にものぼっている。しかも昨年までは高齢者(65歳)になる人が年間100万人台だったが、今年から毎年4年連続で200万人以上になり、まさに崖っぷちなのである。
 「予算の組み替えや無駄の削減だけでは必要な財源が出てこなかったことを踏まえれば、『消費増税に賛成か反対か』という設問自体がもはや現実的な意味を持たない」と毎日新聞は述べ、「日本が危機的な財政状況に陥ったのは、長年政権を担当してきた自公両党の責任も大きい。財政再建は、どの政権も避けて通れない。与野党は、消費税の関連法案を早期に成立させて、事実上の『話し合い解散』に持ち込むことを模索してはどうか」と読売新聞は提案している。(福山)

大学に行かせてください
―― 「視覚障害者のインクルーシブ
    高等教育セミナー」中国・上海にて ――

日盲連国際委員/田畑美智子

 2008年の北京オリンピック、2010年の上海国際博覧会と大きな国際イベントをこなして国際的にアピールした中国。また、沿岸地域の巨大都市がみるみる近代化し、底知れぬ消費マーケットに世界中が注目している中国。
 東京より生活が豊かで、他方、物価も大差ないのではないかと思われる上海。上海虹橋(ホンチャオ)空港から6km、華東師範大学にほど近いカイボホテルで、昨年(2011)12月15日(木)、「視覚障害者のインクルーシブ高等教育セミナー」が開催された。主催は中国盲人協会と華東師範大学、それに後述する「ワン・プラス・ワン」。
 このセミナーが開催されたのはほかでもない、王崢さんが本誌で連載した「あなたがいなければ」に書いたように、極端に門戸が閉ざされているからである。

セミナーの様子から

 今回のセミナーには、上海・北京・青島・重慶・泰安の盲学校からの参加者を始め、中国盲人協会と上海市の盲人協会や障害者連合会、筑波技術大学と提携している北京連合大学や障害学生の受け入れ実績のある華東師範大学と上海師範大学等の教育・学術関係者、特殊教育の行政に携わっている人、さらに視覚障害児の父兄も何名か参加した。
 また、共催団体のワン・プラス・ワンというNGOからも10名ほどが参加していた。このNGOは2006年に設立され、20名ほどいるスタッフの大多数は障害当事者で、障害者に関するラジオ番組を障害当事者自身の手で製作し、中国全土100近いラジオ局ネットワークに配信している。番組作りの準備として英国のBBCから技術支援を受けたそうだ。音響やカメラマンとしても、弱視の若者が会場内を駆け回っていた。
 筆者はこのセミナーで、第2期ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー研修の修了生で中国出身の庄麗(ショウ・レイ)さんの通訳の下、中国盲人協会の依頼に基づき、アジアを中心とした他国での高等教育の実績を紹介した。米国や日本の事例では、「裕福な先進国のようにはできない」と言い訳に使われてしまうので、東京ヘレン・ケラー協会海外盲人交流事業事務局、国際視覚障害者教育会議(ICEVI)、アジアの盲人協会など各方面のご協力をいただき、過去の類似セミナーの記録も拝見しつつ、途上国を中心とした事例紹介に絞った。筆者より後に発表した人の中で、他のアジア諸国で視覚障害者が多数大学で学んでいることに言及した発表者が若干名いたので、もくろみはある程度達成できたようだ。

視覚障害者は置き去りに

 中国には日本のセンター試験のような全国統一の大学入試試験があるが、度重なる請願にも関わらず、点字による受験は認められていない。このため、他の障害のある学生は大学で学んでいるが、重度の視覚障害者だけ高等教育を受けられていない。彼らに開かれている門戸は、1980年代に特殊高等教育専門課程を開始した長春大学と北京連合大学で按摩か音楽を専攻する選択肢くらいである。1,200万人以上視覚障害者のいる中国で、点字使用者が学べるのはこの2校の2つの専攻のみだ。近年、拡大文字による受験がようやく開放されており、さらに北京市内の高校進学に関わる試験は点字受験が認められている。こうなると、大学受験を認めない理由は、もはやないはずだが、すばやく腰を上げるには大国の腰は重すぎるのだろうか。障害学生の受験を阻む法律があるわけではなく、それどころか2009年に障害のある学生に学ぶ機会を与えるよう政府通達が発布されているのに、である。弱視の受験生が自分の障害を隠して何とか試験を受けることができたとしても、その後の健康診断で低い視力が判明すれば、学生に視力の基準を設けている学科には結局入ることができない。
 高等教育の機会がないため、その後の進路も極端に限られている。按摩と音楽はさておき、カウンセラーが一部で実現している以外は、知人を頼って就職し、それでも担当する仕事がなくやめているような事例ばかりのようだ。上海障害者連合会の調査では、同年代の健常者と比較すると、北京でも上海でも明らかに収入が低く、教育を受けていない比率も障害学生が高い。高等教育に至っては、その差は歴然としている。工業化の進む中国では手工芸品の作業所は激減。代わりに細々とネットショップを経営する視覚障害者が出ているようである。
 このように進学も就職も進まないと、特に地方部では盲人協会のリーダーですら、機会を求めず年金増額にのみ意識が集中していく。それほど難しいのであれば大学に行く意味がないのではないか、無理に外に出る必要もないだろう、何か困ったらボランティアが来てくれるのだから・・・と。

師範大学2校の挑戦

 こうした状況がしばらく続いたが、2000年代に入ると、上海の華東師範大学が障害学生を積極的に受け入れる試みを始める。2002年より、上海盲学校の卒業生を中心に、若干名の視覚障害者が同大学に進学するようになった。やがて、上海師範大学でも受け入れを開始し、これまで上海盲学校から60名ほどの学生が両大学に進んでいる。ただし、上海の大学には上海市民しか進学できないというお国柄も付け加えておく。
 華東師範大学では、障害学生が健常者の学生と同じレベルの学力を付けるために何が必要か、2004年から4年間にわたり障害当事者を交えた研究グループが活動した。活動を通じ、大学に支援センターを設置し、障害学生が利用できる支援機器を導入。教授陣には教材をできるだけ前もって配布し、図の説明も口頭でするように要請している。定期試験は点字により別室で受ける。また、大学が主導で健常者の学生ボランティアのネットワークができあがっており、同じクラスの学生がノートテーカーとなり、理科系等の実験も障害学生は健常者のクラスメートと一緒に参加する。この大学での取り組みは、他大学や健常者のクラスメート向けのガイドブック、障害学生本人や家族向けのガイドブックとなり、間もなく結実する予定だ。あわせて、なかなか伸びない卒業生の就職に鑑み、就労や就職活動に関するガイドブックもこれから製作する計画だという。こうした中国としては実験的な取り組みと呼応し、上海市の教育部には障害学生係ができたという。

動き始めそうな気配

 「あなたがいなければ」の王崢さんが通った青島盲学校の高等部ができてまもなく20年になる。当時は10名ほどだった学生も、今では6クラス70名以上という大所帯となった。健常者の子どもたちと同レベルで学習している。さらに、普通校で学ぶ弱視の子どもたちも相当増えているようで、進学校に通う子どもの父兄が、大学の門戸開放の必要性を切々と訴えていた。こうして学力を身に付けた視覚障害児の進学先への希求は、増えることはあっても減少することはないだろう。
 セミナーには、特殊教育条例改正委員会の理事長も壇上にいた。この理事長は変革の必要性を認識していたようで、様々な広報・啓発活動を計画していた。
 さらに現在、中国盲人協会では、他団体や政府と協力し、障害学生の教育に関する条例の改定を目指している。条例では、障害のある学生に入学試験を受験する権利を保障し、必要な配慮をするよう求めている。
 盲人協会のリーダーたちは、日ごろおっとりしており、さすが大陸だと思わせる。が、今回のセミナーに先駆けた事前の打ち合わせや、セミナー終了時に参加者に呼びかけたメッセージからは、このままでは決して終わらない、必ず皆の力で問題を解決していこう、という気概をひしひしと感じ、新鮮な感覚を覚えた。と同時に、私たちが日本のメディアで見ている印象より中国の人たちはしっかりと運動を展開していることを目の当たりにし、頼もしく思いながら帰国の途に就いた。

国境を越える点字楽譜
―― ある点訳奉仕者の半生 ――

 「私のやってきた事なんて、人様にお話しするほどのことではありません」と、謙遜され、取りつくしまもないまま、人を介しての取材依頼は空振りに終わった。
 日韓の交流に関しては、とかく負の心理的バイアスがかかり、「ちょっといい話」にも無用の影がさす。もっとも取材する側も、いい話より、悪い話の方に数倍食指が動くので、ついそちらに流れる。「悪事千里を走る」というが、悪い話ほど、取材しやすく、書きやすいのである。
 一方、いい話ほど取材がしにくく、書きにくいのだが、一度断られたくらいでひるんでいては雑誌の仕事は務まらない。まずは韓国側からいい話に迫って、回り道をしたが、結局、ご本人からも電話で話を聞くことができた。

点訳奉仕者との出会い

 昨年(2011)の1月23日、東京ヘレン・ケラー協会は創立60周年記念チャリティー「ハッピー60thコンサート」を第一生命ホール(東京・晴海)で開催した。出演者5人全員が視覚障害を持つ一流のアーチストというユニークな企画だ。その出演者の1人に韓国から招いたピアニストのイ・ジェヒョクさんがいた。
 コンサート事務局は本番の数カ月前、同氏から2人の日本人をコンサートに招待したいので、チケットを手配してほしいと言われ大慌てする一幕があった。すでにその時点でチケットは完売していたのだ。
 招待したいというのは、楽譜点訳奉仕者の堀江ユキナさんと、ハングル点訳同好会「サランバン」の伊藤則子(のりこ)さんだった。イさんは学生時代から堀江さんに楽譜点訳で一方ならぬお世話になっていた。伊藤さんは、日本に留学中の韓国人留学生のためのハングル点訳を行っている方だ。しかも、伊藤さんはイさんの通訳として来日した呉泰敏(オ・テミン)さんからハングル点訳の基礎を習い、2008年に「韓国語点訳のてびき」を出版し、この2012年1月に改訂版の出版を予定している。その伊藤さんもハングルにのめり込むまでは、楽譜点訳を堀江さんたちと行っていた。また、堀江さんも呉さんからハングル点訳の入門講習を受けた縁で、今でも筑波大学附属視覚特別支援学校の高村明良先生が主導する『韓日辞典』の点訳にも参加している。
 堀江さんは、「伊藤さんも私も、当時日本にいらした呉泰敏先生主催の『サランバン』でハングルの点訳入門講習を受けたのです。お世話になったのはこちらの方です」と言われる。一方、呉さんは「お2人には大変お世話になっています」と証言するので、和気藹々とした国際交流が今でも続いていることだけは確かなようである。
 ところで、意外なほど知られていないが、堀江さんが点訳した楽譜は、十数年前から海峡を渡ってソウルへ、韓国5番目の都市・大田(テジョン)へ。そして、太平洋を渡って米国にも届いていたのである。

全盲の英語教師

 最初に堀江ユキナさんに点字楽譜の作成を依頼したのは、当時、国立ソウル盲学校の英語教師であった全盲の李相秦(イ・サンジン)先生であった。英語も日本語も堪能な先生は、日本点字図書館(日点)から点字図書をよく取り寄せていた。そして、『日本語を外国人に教える日本人の本』と『全音ピアノピース』(注)の両方の奥付に点訳者として、堀江さんの名前があることに注目し、彼女に楽譜点訳の依頼をしたのである。もっとも点字楽譜を必要としたのは李先生ではなく、卒業生達であったが。
 その1人、1985年国立ソウル盲学校を卒業したイ・ジェヒョクさんは、その後韓国の中央大学校音楽学部ピアノ科に進み学部と同大大学院の修士課程を修了。その後、渡米しボストンのニュー・イングランド音楽院、シンシナティ大学音楽学部(音楽博士)などで研鑽を積む。ところが1997年頃の米国で、彼は課題曲の点字楽譜がないことに気づいて頭を抱え、恩師であるソウル盲学校の音楽教師で、自身も全盲のキム・テヨン先生に相談し、李先生が仲介の労をとったのである。
 これを機に韓国で大学の音楽学部に進学した視覚障害者は、ほとんどと言っていいほど日本から点字楽譜を取り寄せるようになるのである。
 話はちょっとそれるが、戦後、韓国盲教育界に大きな足跡を残す李相秦先生の略歴をここで簡単に紹介しよう。
 ソウル市に隣接し、現在、国際空港がある当時「仁川(ジンセン)」と呼ばれたインチョン市に、彼は1926年に生まれる。1942年にソウル盲学校の前身である朝鮮総督府済生院盲唖部を卒業し、理療業に従事する。
 同氏は英語が堪能であったため、第2次世界大戦後、そして朝鮮戦争中と戦後の都合3度にわたり断続的に米軍の通訳を行うが、その狭間には英語塾の講師や公立中学校の英語教師を歴任する。
 その後1955年から1992年までの37年間、ソウル盲学校に勤務する。1965年には英語教師の資格を取得して正規の英語教師となるが、そのかたわら1985年には盲学校理療科の国定教科書の執筆にも携わった多才な名物教師で、65歳まで教員を続けている。韓国の教員の定年は現在は62歳だが、当時は65歳だったのだ。先生は2008年に亡くなっている。

戦争で手放したピアノ

 一方、堀江ユキナさんは昭和4年に、福岡県戸畑市(現・北九州市)に生まれ育つ。そして、小倉高等女学校(高女)に進むのだが、4年生の時に学徒動員があり、過労から身体を壊して慢性腹膜炎と診断される。そこで2年間休学するのだが、この間に戦禍はいよいよ身近に迫り、彼女の一家は、昭和20年の春に当時の国鉄日豊本線別府駅の手前にある亀川(かめがわ)という半農半漁の町に疎開した。そして、療養することも多かったがなんとか復学したいと思い、別府高女に転校して卒業。終戦後、別府女子専門学校に入学する。
 ところが父親の仕事の関係で、昭和25年に東京へ引っ越す。しかし、堀江さんは上京して1〜2年たつと結核に倒れ、長野県の富士見高原療養所に3年間入る。堀辰雄の小説『風立ちぬ』の舞台となった私立の高名なサナトリウムである。
 小説家でもあった著名な医師の正木不如丘(まさき・ふじょきゅう)が院長をつとめ、入院料は小学校教員の初任給よりも高額であった。実はこの正木医師はユキナさんの父親の実兄であった。父親はすでに退職していたが、勤めていた会社が「パス」という抗結核薬を作っており、それを入院料として物納したという。
 当時「死病」と呼んでおそれられていた結核だが、戦後、米国から抗生物質のストレプトマイシンが入り、続いてパス、ヒドラジド等も登場して、療養所でも、「あの人にはあの薬は効かなかったけれど、今度の新薬は良く効いたそうよ」などという、希望が持てる会話も聞けるようになった。
 当時を振り返って堀江さんは「こうして本当にいろいろな方のお陰で、私の今日があるということを折に触れ考えますと、点訳の苦労などどれほどのものでもありません。長生きもさせていただいています」としみじみ語るのだった。
 彼女は結核が全快し、昭和31年に結婚して、3男・1女に恵まれるが、昭和40年、娘の誕生を機に、思い切ってヤマハのピアノを購入した。堀江さんは小倉高女時代までピアノを習っており、自宅にもアップライトピアノがあった。しかし、別府に疎開するときに、そのピアノは処分する必要に迫られ、母校に寄贈していたのである。
 ピアノを購入して、彼女はある種の胸のつかえが降りた思いだった。末の娘が高校を卒業すると共に、堀江さんは習い事をはじめようと思い立ち、その一環として点訳を習ったのであった。
 当時、朝日カルチャー新宿教室では日点の本間一夫館長が講師をしており、その縁から日点で点訳ボランティアをはじめた。この間の事情を彼女は次のように語った。
 「私が日点にお世話になったのは、まず、楽譜点訳をやりたい希望があって日点の奥保子(おく・やすこ)先生のご指導を受けました。講習会で教わった後、改めて日点の一般書の点訳を勉強してから、楽譜点訳に入れていただいたのです」。

音の違う楽譜

 韓国からの楽譜依頼はソウル盲学校の他に、同校から聞いたと大田盲学校の李宇寛(イ・ユガン)先生からもあった。やはり、視覚障害者が音楽大学に入学して、点字楽譜に困った末のことだった。楽譜点訳が身に付いたのは、日点で週1日全盲のピアニストで作曲家でもある島筒英夫(しまづつ・ひでお)さんと読み合わせ校正をしたことによる。島筒さんの本業が忙しくなると、武蔵野音楽大学のピアノ科を卒業したやはり全盲の加藤満裕美(まゆみ)さんとコンビを組んだ。こうして、島筒さんと合わせると10年ほど読み合わせ校正をしたことが血肉になった。
 ところがある日、点訳した楽譜に「音がちょっと違う」というクレームが韓国・大田からきた。とても上手と評判の高かった方からで、「試験で演奏する楽譜なので、試験官の持つ楽譜と違えば減点される」と心配してのことだった。それは大変と、堀江さんは「楽譜を、韓国から取り寄せて点訳をやり直したこともありました」と愉快そうに話す。
 われわれ門外漢は、楽譜は絶対的なものだと考えがちだが、時代によって表現が異なり、楽譜出版社によっても違う場合があるのだ。例えばショパンの有名な「雨だれ」の前奏曲は、全音楽譜出版社の『全音ピアノ名曲選集』、ドレミ楽譜出版社の『ピアノ名曲110選』、ヤマハ『ぷりんと楽譜』でそれぞれ異なるという。
 70歳になったのを機に堀江さんは「加齢のためにミスをしては困るので、校正のお手伝いはご辞退したい」とお願いしたそうだが、なかなかそうもいかず、結局、彼女は71歳まで第一線にとどまった。
 しかし、昔と違ってパソコン点訳の普及で、点訳の裾野は広がり、現在は楽譜点訳グループも全国にたくさんある。また、点訳楽譜を集めてデータベース化する国内初の機関として平成18年(2006)に点字楽譜利用連絡会(和波孝禧会長)も発足し、充実した点訳体制が整えられている。
 そこで堀江さんは、現在も韓国からの点字楽譜の問い合わせに対して、各地の点訳グループを調べて、韓国に点字楽譜を送るという、仲介する仕事を行っており、それが「韓国との嬉しいつながりでございます」と楽しそうに語る。(福山)
 (注)全音楽譜出版社が出している500曲におよぶ主なピアノ曲が網羅された楽譜シリーズで、点訳には多くの点訳者がかかわっている。

読書人のおしゃべり
『ドイツ医療保険の改革』

 NPO法人川崎市視覚障害者福祉協会(視障協)舩橋光俊(ふなばし・みつとし)副会長の手になる標記の書が、昨年の12月20日、時潮社から刊行された。サブタイトルは「その論理と保険者機能」で、価格は税込み3,675円とちょっと高額なのは純然たる専門書だからである。
 著者の舩橋氏は、1969年に東京大学法学部を卒業して厚生省に入省。厚生省の国際課でドイツ社会保障制度調査員、大臣官房企画官、薬務局監視指導課長、社会保険大学校校長等を歴任し、1995年に退職。同年、国民健康保険中央会に転じ、常務理事、監事などを歴任し、2010年に同会を退職。現在は川崎市視障協副会長のかたわら庶務部長として事務局も担当している。
 高齢化、疾病構造の変化、医学・医療技術の高度化、長期不況、グローバル化の中で、医療保険は需要の増大と医療費の高騰による保険料率上昇に直面し、多くの先進諸国では抜本的な対策が求められている。そしてわが国もその例外ではない。
 ドイツの公的医療保険は1880年代のビスマルクの社会政策立法以来、医療を保障する仕組みとして、様々な社会的経済的変動を克服して継続発展してきた。そのために近年では1988年の医療保険改革法、1993年の医療保険構造法、2007年の公的医療保険競争強化法と、1990年のドイツ再統一の激動を挟んで、矢継ぎ早に抜本的な制度改革に取り組んできた。
 そもそも日本の社会保障は、第二次世界大戦前にドイツのビスマルクの社会政策の制度にならい社会保険制度が作られた経緯を持つ。このため類似点も多く、破綻しかけているわが国の医療保険を改革するためにも、ドイツのこれまでの改革は大いに参考になりうる。
 そこで、著者は国民健康保険中央会在職中の1997年から2009年まで、次第に視力が衰えていくなか、5度にわたり医療保険制度を調査するためにドイツを訪問し、その都度報告書を公表すると共に、その時々の制度改革動向について論考を重ねてきた。
 本書はこれらの論考を中心にドイツ制度の仕組みとその基盤について考察したものである。しかも、制度改革そのものはもちろんのこと、制度改革を支える基盤の論理構造と具体的な運営実務にまで踏み込む。たとえば、保険者間の医療費格差および所得格差を調整する「リスク構造調整」では、その原理から実施手続き、実務上の課題と対策を述べ、制度の補足説明をして、考察するという具合だ。
 著者は、既存制度の改革は常に既得権のある利害関係者の反対に直面するにもかかわらず、ドイツでは制度改革が頻繁に実施されてきたと賞賛する一方で、保険財政の観点からはドイツの医療保険の運営が成功しているとは必ずしも即断できないとも述べる。
 基礎知識に欠ける門外漢には難解な書だが、労作であることと、今のわが国には必須の書であることだけはまちがいないと確信した。(福山)

48㎡の宝箱 ―― 京盲史料monoがたり
(11)自書自感器

京都府立盲学校教諭/岸博実

 盲唖院の「見えない」児(こ)が墨字の書き方を学ぶ上で、「盲生背書掌書法」や「蝋盤文字」は入門用にあたり、その次に与えられたのは「自書自感器」であろう。まず、木製の2種からご紹介しよう。
 1つは、「使用方法不明」とされてきた。縦29.5cm、横36.5cm、厚さ1cmの板の上に、雲形定規のような曲線形の板を乗せ、その縁に沿って何らかの筆記具を動かすもののようだが、文字の書き方を練習する上でどういう意義・役割があったのだろう。今なお謎である。ちなみに、貼付されている「自書自感器」のシールは昭和期のものだ。
 もう1つは、分かりやすい。文字通り、「見えない」児にとって「自分で墨字を書いて、自分でその筆跡を感じ取ることができる」ツールだったと納得できる。
 縦27cm、横38cm、厚さ1.8cmの台板の上に、針金で縦横の罫線を施した補助板が蝶つがいで連結されている。補助板の手前を持ちあげれば、ほぼ垂直に固定しておける。台の上には1mm厚の紙が置いてある。補助板を上げ、厚紙の上に「字を書くための薄い洋紙」を置く。補助板を戻す。そして、利き手に鉄筆を持つ。これで準備はできた。
 設計書によれば、針金で形作られるマス目の大きさは、1辺4分(ぶ)を基本に、その倍の大きさなども予定されている。現存する「自書自感器」のマス目は2cm大である。このマス目に鉄筆で墨字を1字ずつ書いていくのである。
 晴眼者が鉛筆で書くときのようにさらさらと運筆するのではない。相当大きな筆圧を加えねばならない。ぐいっと押し込むように鉄筆を動かしていけば、厚紙もろとも薄紙に凹んだ線が刻まれる。下に敷いた厚紙の可塑性を利用して、書写を三次元化する。現代のレーズライターとは逆で、薄紙に描かれるのは凹んだ線である。
 凹のままでは触察しにくいので、書き終えたら紙を裏返し、自分の描いた凸線をなぞって確認する。「蝋」ではなく、紙に書いて「自感」できる! 生徒たちは喜んだであろう。
 上達に合わせてマス目が小さくなっただけではない。素材も様々に工夫されていった。木製以外に、3つのタイプが現存する。
 厚紙製の『練習用盲人用仮名(墨字)定規』:木製は持ち重りするし、製造経費も高くつく。台板も補助板も厚紙にすれば、軽便だし廉価でできる。1マスは2cm四方。
 針金製の『筆記体練習器』:説明のために筆者がこう名付けた。一見、魚を焼く金網のようだ。ただし、針金は縦横に編まれているのではなく、置く角度によって、横または縦の行として使える形だ。米国の視覚障害児・者がアルファベットの筆記体を練習するのに用いたのを輸入したという。太平洋を渡り、我が国の港に陸揚げされ、教室に運ばれると、和文のときは縦書き、英語学習のときは横書きの罫線として利用できた。1行1.5cm。今日の封書・葉書用のスケールに似通っている。
 糸罫の『自書自感器』:縦横の罫線を針金ではなく、糸をピンと張ることで表現したものだ。指先の鋭敏さ、鉄筆の先を1マスの中にコントロールできる巧緻性が求められたと考えられる。1マス1.5cm四方。
 京盲資料室には、指物細工に堪能なボランティアの方にお願いして作った木製「自書自感器」のレプリカを複数用意してある。在校生や参観者に鉄筆を握って実際に線を引いていただき、「なるほど、これなら書ける! 指先で自分の書いた線を確認できる!」と実感していただくためだ。京都府有形文化財に指定されている実物を破損から守る目的もある。他の所蔵品についても、レプリカ作りを徐々に進めている。「触って楽しめ、体験できる」ミュージアムを目指していると言えば大げさに過ぎるが。
 ところで、すでに読者の胸には、1つの疑念が萌しているに違いない。「紙に凹線を引き、それを裏返して読む」のは、確かに悪くない発想だが、それには「致命的な欠点があるのではないか」と。
 この問いに対する古河太四郎の答は次号でご紹介したい。


「自書自感器」(上が使用方法不明のもの、下がマス目型のレプリカ)

(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)

編集ログ

 もちろん諸手を挙げて消費増税に賛成するわけではありません。しかし、増税以外に国家財政破綻を防ぐ手だてがあるかのような幻想を振りまくこと、あるいはメディアが沈黙により結果的にそれに荷担することは、政治家でなくとも充分犯罪的であると考え、あえて今回「巻頭コラム」を書きました。政治家は「世論受けしない政策を掲げると選挙で勝てない」という保身の論理で、もはやこれ以上国民を欺き、愚弄しないで欲しいものです。
 田畑美智子さんによる「大学に行かせてください」の文中、セミナーで筆者の通訳をした「ダスキンアジア太平洋障害者リーダー研修の修了生で中国出身の庄麗(ショウ・レイ)さん」が紹介されていました。日本人と結婚している視覚障害を持つ女性で、「チョウ・リー」という名前で、ご存じの方が多いかも知れません。日本での呼称を「中国語読みから日本語読みに統一したい」というご本人の意向があると筆者から聞きましたので、今回あえて「ショウ・レイ」さんと記しました。漢字は庄屋の「庄」に、美人という意味の麗人の「麗」なので、日本人にはこれを「チョウ・リー」と読ませるより、「ショウ・レイ」の方がなじみやすいし、混乱も少ないという判断だと思います。
 国際視覚障害者援護協会(IAVI)の恒例の新年会が、1月7日(土)正午から東京・巣鴨駅至近の「泰平飯店」にて開催されました。マレーシアからフザイファさん、ミャンマーからコンテさんを新たに留学生として迎え入れたこと、昨年の11月1日に同会のホームページをリニューアルしたこと、12月17日に、埼玉県主催の塙保己一賞貢献賞も受けたことなどが報告され、留学生による歌や演奏もありにぎやかな会になりました。
 海外盲人交流事業事務局のホームページ(http://www.thka.jp/kaigai/reports.html)に『愛の光通信』をアップしました。点字・テキスト・PDFファイルから選んで、ダウンロードしてご覧いただけます。(福山)

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