岩手県選出の参議院議員・平野達男(ひらの・たつお)震災復興担当大臣は10月18日、福島県二本松市で開かれた参院民主党の研修会で講演し、東日本大震災の津波被害に関連して、「私の高校の同級生のように逃げなかったバカなやつもいる。彼は亡くなったが」と発言した。これに対して自民党の大島理森(おおしま・ただもり)副総裁は同日、記者団に「大臣として許されざる言葉だ。人を傷つける言葉を平気で言う野田政権に復興はできない。徹底的に大臣の資格を追及する」と息巻き、臨時国会で追及する構えをみせた。
大震災、津波、原発、円高、TPP、財政再建と、問題が山積し、国難といわれるわが国にあって、貴重な国会の審議時間を大島副総裁は、無意味な「言葉狩り」に費やそうというのだ。
津波で亡くなった親しい友人の死を悼んで「バカなやつ」といった言葉のどこに瑕疵があるというのか。この文脈で、「バカ」に「知能が劣り愚かなこと」という侮辱した意味合いを見いだすことはできない。「バカ」という言葉だけを頼りに飛びつく思考停止状態をこそ、「知能が劣り愚かなこと」というべきではないだろうか。
最近、このような愚かなことが目に余る。9月には、東京電力福島第1原発事故の現場周辺を見学した後、「死の町」と述べ辞任した経済産業大臣がいた。初入閣で舞い上がったあまり、記者に防災服の袖をすりつけるしぐさをしたことは軽率だが、「死の町」は誤認でもなんでもない。他の重要案件を差し置いて、国会で追及すべき、いかほどの価値があったというのだろうか。発言全体の論旨をみないで、言葉尻だけを取り上げて非難するのは、あまりに「知能が劣り愚かなこと」と、そろそろ「選良」も気づくべきだろう。
今回の「バカなやつ」発言に対しては、「犠牲者やその遺族への配慮を欠いた発言で、進退問題に発展する可能性も出てきた」と、輿論をミスリードしようとしたのは、全国紙では、さすがに『産経新聞』一紙のみで、大事に至らなかったことが、せめてもの救いといえば救いだが。(福山)
11月3日から6日にかけて、日本盲人会連合(日盲連)スポーツ協議会は、同協議会としては初めて海外視察と交流を目的にフィリピンの首都マニラへ飛んだ。
参加者は、同協議会の大橋博会長、日盲連情報部長でもある鈴木孝幸副会長、日盲連青年協議会副会長でもある濱野昌幸副会長、青年協議会幹事でもある武山静江会計担当、鈴木副会長の地元から撮影等担当で参加した福喜多(ふくきた)恭子さんと筆者の計6名であった。
強力な太平洋高気圧の間接的な影響か、雨模様の4日間だった。
2010年10月に千葉県で開催された世界盲人連合アジア太平洋地域協議会の中期総会に、国際盲人スポーツ協会(IBSA)会長のマイケル・バレードさんが、フィリピンの国家代表として来日した。そして、途上国での車椅子バスケットの指導等、障害者スポーツを通じた国際交流・国際協力の事例を聞いた直後に、私はスポーツ協議会がIBSAとの情報交換をする良い機会になると考え、懇親会を提案した。すると、両者から快諾を得たので、その機会を設けたところ、その懇親会の中で、スポーツ協議会がフィリピンを訪問し、日本で行われている盲人スポーツを紹介するアイデアが持ち上がった。
中期総会終了後も同スポーツ協議会からは好意的な反応をいただき、何度か打ち合わせを重ねながらフィリピンと連絡を取り、スポーツ協議会常任委員会の決定を受け、晴れて11月3日に出発する運びとなった。
フィリピンの人口はおよそ1億人で、それに対して視覚障害者は50万人とも100万人とも言われており、いかにも統計が当てにならない。そのうち、学校に行っているのは3,000名ほどだという。盲学校は全国に4校あるが、大半の視覚障害児は一般の学校に通っているそうだ。フィリピンは若い世代が多い国という印象だが、老人性白内障による高齢の視覚障害者も多いという。
途上国の例にもれず厳しい状況が至る所で見られるが、学校に行けば公立でも小学校4年生から英語を勉強するお国柄で、英語ができることはコンピュータ技術の取得にかなり有利に働いている。ちなみに、本来の母国語であるタガログ語のスクリーンリーダーはいまだないという。
日本財団と米国オーバーブルック盲学校が共同で展開しているコンピュータ技術向上プロジェクト、ON-NET(オンネット)の支援を受けたパソコン講習にお邪魔した。マニラ市内のビジネス街、マカティ地区にあるIBMのビルの1室を借りた「コンピュータ・アイ」という教室では、最大30名の視覚障害者がコンピュータを学ぶことができる。
フィリピン各地の一般校に通う子どもたちが、教育省から正式に2週間学校を休む許可を得、マニラ市内の安価なホテルに滞在しながら講習を受ける。2週間でインターネットと電子メール、文書作成まで教えるのだ。訪れた時はちょうど、Wordを使い英語で作文を書く課題をこなしていた。また、日本点字図書館が行っているIT講習の修了生が2名、研修の講師を務めていた。
その後、大きなショッピングモールにあるマッサージセンターに案内してもらった。「バイブス」という名前のチェーンで、30店舗以上を有し、100人単位で視覚障害マッサージ師を雇用している。一行が行った店にも男性8名、女性5名の視覚障害者が働いており、われわれがマッサージを受けた後、顧客で満床になったことから、そこそこビジネスとして上手くいっているようであった。
マッサージセンターから向かった懇親会の会場には、フィリピン盲人連合会長のオスカー・タレオンさん、同委員長の立場のマイケル・バレードさんとあわせ、今回の訪問の受け入れ団体であるフィリピン障害者スポーツ協会(通称「フィルスパーダ」)の関係者が集っていた。
フィルスパーダはフィリピンのパラリンピック委員会も兼ねており、マニラ市内にある通称「ウルトラ」と呼ばれる一大スポーツ施設にオフィスを構えている。また、様々な障害者団体のスポーツ活動をも支援している。ウルトラには宿泊設備も調っており、日本の視覚障害スポーツの実演に体育館にうかがった際には、全盲の水泳の強化選手が会場に顔を出していた。朝食前の早朝トレーニングをしていたそうだ。
今回は日本から来るのが視覚障害の分野ということで、声が掛かったチームの1つは、視覚障害児の親の会だった。この親の会では、VISTA(ビスタ)という名前のスポーツ振興プロジェクトに取り組んでおり、その資金集めに父兄が古新聞をコーティングし、編み込んで作ったサンバイザー等をボランティアで作って販売している。
このあたりは、人口比でNGOの数が世界一というフィリピンのお国柄を感じさせる。ビスタからいただいたプロモーションDVDによると、多方面からスポンサーを募り、ビスタ独自の大会を主催し、陸上や水泳にチェスや、英語圏を中心に普及している視覚障害者用の卓球の一種である「ショウダウン」などに100名近い視覚障害児が参加しているようである。
フィリピンの視覚障害者の球技と言えばボウリングとゴールボールということで、スポーツ協議会からフロアーバレーボール、グランドソフトボール、ブラインドテニス、サウンドテーブルテニスのデモをするべく、器具やボールをマニラに持ち込んだ。
サウンドテーブルテニスは、想定していたショウダウンの台と実物がかなり異なり、参加者が不慣れだった上に、イベントの開始が1時間ほど遅れ、スケジュールがおせおせになったこともあり、デモはしないことにした。
体育館に朝早く行くと、10歳前後の全盲の男の子が2人、バスケットボールを両手でドリブルしていた。体育館の中を自由に走り回り、一瞬視力があるかと思ったが、ボールが手から離れると何処に行ったか分からなくなる。彼らはバスケットボールをゴールに投げ入れるのではなく、ドリブルだけしてゲームをしているようだった。この2人は日本チームに大変なつき、帰る時には涙すら流していた。
人々が集まると、開会宣言の前にまず、女性が中央に出てキリスト教の祈りから始まった。十字を切った後、今度は合唱団の指揮者のような人が歩み出て、フィリピン人全員でフィリピン国家斉唱、その次は、案の定、日本チーム6名で君が代の斉唱となった。イベントの中で私たちに敬意を表してくれたのだろう。
日本の球技の前に、フィリピンチームとゴールボールの試合をした。こちらはゴールボールは素人で、8対5でフィリピンが勝利した。フィリピンが点を入れると観衆が大いにわいた。その後、ゴールボールチームを前衛にして、フロアーバレーボールの実技に移ったが、類似したバレーボールのような競技は行っているらしく、詳しい説明をしなくてもスパイクを打つことができる人が何人かいた。ゴールボールをこなせれば、フロアーバレーボールは、比較的取り組みやすいのではないかという感触を得た。
昼食後は体育館から陸上競技場に場所を移し、中央のフィールドでグランドソフトボールの真似事をしたが、フィリピンでは野球自体の知名度が低いため、競技の説明は断念し、日本チームが転がすボールを子どもたちがバットで打つ体験をしてもらった。
小さい子どもはバットが重いので後ろから母親が支えていたが、10歳くらいになると自分でバットを振り、ボールに当たると見ている人と一緒に大喜びした。中には進んでピッチングをしたがる子どもも出てきた。
競技のデモの合間に、取材に入ったテレビ局のロングインタビューを受けた。訪問に至った経緯やスポーツが、なぜ障害者に大切なのか、また障害者・健常者を問わずスポーツ参加への呼びかけをした。フロアーバレーボールの風景もカメラで追いかけていた。最後に6名全員で「こんにちは、日本の日盲連スポーツ協議会から来ました、スポーツ大好き!」と揃って叫んで取材終了となった。
貧しい国で道路の至る所が冠水していた。身の上を語りながら思わず目頭を押さえる母親もいたが、子どもたちのはじけるような笑顔と陽気な人たちの親切に、温かい気持ちで短い滞在を終えた。
背書掌書法(背中や掌に文字を書く方法)、木刻文字、紙製凸字を順に紹介してきた。それらは、墨字1つ1つの形を伝え、意味や使い方を学ぶことから計算、さらに文章にまで、学習の世界をはるばると広げる素材であった。画数の多い、複雑な字形をどこまで触察できたかという問題を抱えながらも、点字が存在しないという社会的な条件のもとで「墨字」習得や「読書」にかけがえのない役割を果たした。
では、書き方の学習用には、どのような教具が編み出されたか。今回からしばらく、その話題にお付き合い願いたい。
盲児が墨字の「書き」を練習し始めるとき、鉛筆を用いたのでは、自分の描いた線が確認できない。鉛筆そのものは、徳川家康も手にしたということだが、本格的な輸入は明治初期、国内での量産は1887年に始まったという。後に取り上げるが、東京にも京都にも、盲生が書いた鉛筆文字が残されている。ただし、それは入門期の作品とは考えにくい。ボールペンも、まだなかった。万年筆は1884年に輸入されたが、高価に過ぎたであろう。
では、墨と和筆はどうか。これは当時大多数の国民の手になじんだ普段使いのツールであった。安価な品も容易にみつかる。書いた後でしっかり乾かせば、敏感な指先がごわごわした墨の痕跡を感じ取れた可能性はある。だが、墨汁を適切な量だけ筆に含ませつつ、しかもボタボタと落ちてしまわないような筆さばきは、見えない子にとっては非常に難しかった。せっかく書写しても、十分乾くまで筆の跡に触ることができないから、習練に時間的なロスも生じたに違いない。少なくとも、「書き」の初歩にはふさわしくない。
おそらく、そのような考察や実験を経て、古河太四郎がたどりついたのが「蝋盤文字」であった。実物として残っている蝋盤は1点のみである。それは、「縦25p、横30pほどの長方形、高さ1p弱の、薄い鉄板でできた、菓子箱の蓋を上向きにしたような器」に「蝋を乗せて固めた」ものである。
永い年月に風化したのか、蝋の表面はたわんでいる。その中央に縦書き2行で「古河流/愈香」と5つの漢字が凹状に掘り下げられている。文字の1つずつはおよそ5cm四方大である。
「古河太四郎流の教え方や教具」が「いよいよ香る」と称えた文と読めば、これは古河の薫陶を受けた教員の誰かが「先達の発明が今なおつややかな美しさを漂わせている」という思いをこめて刻んだ5文字なのかもしれない。
使用法は次のとおりだ。「器」に蝋を適宜入れて下から熱を加え、蝋を溶かす。あるいは、溶かした蝋を流し込んだか。しばらく待つと蝋が平らに固まる。その表面にヘラで字を掘っていく。刻まれた文字をじっくりと撫でて字形を把握する。次に、盲児自身がヘラを用いて、手本の横に字を掘ってみる。そして、掘り終えた自分の字と手本とを触り比べて出来ばえを確認する。
自分の書いた字がどういう形になったかを自分で触って確かめることができる! ここに、この道具の存在意義があった。通常の筆記具を超えた画期的な発想。柔軟だ。しかも、盤の下から熱を加えれば、何度でも書き直しができるという利便もあった。反面、近くに火(熱源)を置くことの危険もあったと思われる。
当時の文書には、これによって「運筆の強弱」まで教えたと記されている。確かに、蝋の柔らかさと立体感はそれを可能にした。疑う余地はない。ただ、線や画が複雑に交叉する込み入った文字を表現しにくいなどの難はあったのではないか。
普通の蝋燭を買って来てレプリカ作りを試みた。ヘラでたやすく文字を掘ることができる。だが、石油由来のパラフィンでは、ぬるぬるした感触になる。不快感が気になる。
ロウについては、明治14年の備品目録に「蜜蝋」と「晒蝋」が記録されている。普通「蝋」という漢字は虫偏なのだが、にくづきの「臘」の字を用いた史料もある。蜜蝋ならミツバチ、晒蝋なら櫨の木に由来する。粉を吹いて乾燥しているところからみて、現存する蝋盤文字のロウは晒蝋であろう。
「蝋盤文字」
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
今号はことのほか国際色豊かな誌面になりました。今月の「リレーエッセイ」を書いていただいた全日本視覚障害者ボウリング協会青松利明会長は、国際視覚障害者スポーツ連盟テンピンボウリング技術小委員会の委員長であり、4年前の視覚障害者ボウリング世界選手権大会の「銅メダリスト」であることも、ここにご紹介しておきます。
外国である日本に嫁いで来て、すぐに外出先でご主人の具合が悪くなり、心細い思いをされた王さんが、ご主人の鬱病と闘っておられることをはじめて知りました。そのような事情もあるのでしょう。「あなたがいなければ」は、次号が最終回となり、王さんは少なくとも1年間は筆を置き、育児に専念されます。
国際的ということでは、毎日新聞紙上に藤原さんの署名記事を見つけると、どこにおられるのかとても気になります。日替わりでギリシャ危機の「アテネ」とか、国債の利回りが急上昇する「ローマ」と書いてあるからです。その前は、リビア東部の「ベンガジ」やチュニジア南部の「ラサジール」でした。まさに神出鬼没、八面六臂の大活躍で、その激務の合間に本誌宛の原稿を書いていただいているのかと思うと申し訳なさが募ります。
今号の「自分が変わること」はアテネで書かれたようですが、それを読み「30年前に、60年前の映画を見ていたのか」と少し懐かしく思いました。そこで触れられている「麦秋」を、私は同じく小津監督の「東京物語」との二本立てで30年前に、東京・高田馬場の名画座で見たのです。その頃(1981)にギリシャは、EU(欧州連合)の前身であるEC(欧州共同体)に加盟し、日本のGDPも右肩上がりで絶好調でした。
藤原さんがいわれるように、「昔はいいに決まっている」とはいえ、おそらく私ばかりでなく、今破綻しかけているギリシャの人々も「あの頃は良かった」と、30年前を懐かしむのではないでしょうか。(福山)
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