2001年の米国同時多発テロ以降、私たちの脳裏に、アラブ人=イスラム教徒=テロリストという方程式が、無意識のうちに刷り込まれていないだろうか?
ムスタファ・サイッド氏(関連記事33ページ)が、国を追われる原因となった「ルバイヤート」は、天国と地獄の存在を否定し、「酒を飲め、こう悲しみの多い人生は、眠るか酔うかしてすごしたがよかろう!」と謳う。もちろんイスラム教は酒を厳しく禁じている。
サイッド氏の母校である盲学校に冠せられているターハー・フセイン(1889〜1973)という偉人を、私はこれまで知らなかった。フセインは3歳で失明するが、長じて国立カイロ大学に入学し、同大開学以来初の博士号を取得。その時の研究対象は、10〜11世紀のシリアでイスラム教の教義を激しく攻撃した盲目の詩人アル・マアッリーであった。その後、国費留学生としてフランスに渡り、ソルボンヌ大学でも博士号を取得。フランス人の妻を伴い1919年に帰国して、カイロ大学教授に就任。ところが、コーランは客観的な歴史資料として用いるべきではないと暗示したため、イスラム教に対する侮辱で訴訟を起こされ、1931年に大学を追放される。そして、米国人が開学したカイロ・アメリカン大学に招かれ教授となる。1942年には教育大臣の顧問に就任し、国立アレクサンドリア大学が開学すると初代総長となる。1950年教育大臣に就任し、「教育とは我々が呼吸する空気、我々が飲む水のようなものである」という自らの主張を実践すべくコーランを教える小さな学校を小学校へ改組して、無償で初等教育を行い識字率を大幅に向上させる。また、従来の高校を大学などへ改組し、教育を富裕層だけのものから、一般に開放した。この貢献により彼に死後、国連人権賞が贈られている。
さらに、彼は日本語の『現代アラブ小説全集』の第1巻に取り上げられるような現代アラブを代表する作家でもある。(福山)
劣化ウラン弾の被爆2世でエジプト人の盲目のウード奏者ムスタファ・サイッド氏(28歳)は、福島原発の災禍に深く心を傷め、連帯の意をあらわすために自費で来日して、無料コンサートを福島と東京で開催した。ウードは、アラブ圏で広く使われているマンドリンの祖先にあたる弦をはじいて音を出す撥弦楽器。
突然の来日だったが、9月28日(水)、福島市の東聖山醫王寺五大院にて、11時と13時の2回、29日(木)には18時半から福島県南相馬市銘醸館で、共に「福島に奏でる ムスタファ・サイッド氏による連帯ボランティアコンサート」と銘打って開催された。
9月30日(金)19時からは東京・門仲天井ホールにて、「フクシマ原発災害とエジプト革命をつなぐ音」と銘打って、ムスタファ・サイッドコンサートが行われ、その後に、テロや戦争に関する著書も多い哲学者の西谷修(にしたに・おさむ)氏(東京外国語大学教授)との対談が行われた。
サイッド氏は、ウード奏者・歌手、作曲家、アラブ音楽研究者として現在、レバノンのアントニン大学で講師として教鞭をとるかたわら、ヨーロッパ、インドネシア、日本の大学でアラブ音楽の伝統的技法の講義も行っている。また、昨年(2010)秋には、日本のウード奏者の第一人者常味祐司(つねみ・ゆうじ)氏、フランス人のヤン・ピタール氏と共にインターナショナル・ウード・トリオを結成して、広島、神戸、京都、長野、名古屋、静岡、東京のライブハウス等でコンサートツアーを行った。
彼は1983年3月11日エジプトの首都カイロで生まれたが、それに先立つ1973年10月、イスラエルとエジプトやシリアなどの中東アラブ諸国との間で行われた第四次中東戦争のとき両親がシナイ半島に滞在して戦禍の巻き添えになる。同半島はエジプトの領土だが、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領されており、第四次中東戦争では激戦地になった。そして両親は、イスラエルが投下した劣化ウラン弾により被爆し、兄と彼は共に全盲として誕生した。
カイロのターハー・フセイン盲学校卒業後、彼はアラブウード学院を2004年に修了し、カイロ・オペラハウス、アゼルバイジャンでのスーフィーフェスティバル、中近東諸国、スイス、フランス、イギリスへも招聘されている。
この間、彼は11〜12世紀のペルシャの著名な数学者・天文学者・歴史学者にして詩人のオマル・ハイヤームの詩「ルバイヤート」を歌ったことから、詩の内容がエジプトの独裁政治体制への批判とみなされ、政府から厳しい監視を受け、海外への移住を余儀なくされた。このため、2004年からはレバノンの首都・ベイルートで暮らしている。
今年の1月ムバラク独裁政権を倒すことになるエジプト革命に際して、彼はレバノンから単独で駆けつけ、反政府デモの中心地・カイロのタハリール広場で革命歌となる曲を演奏して民衆を鼓舞。この時の歌は、エジプト取材のBBCアラビア語放送を通じて全世界へ放映された。
なお、ウェブ上において「Mustafa Said」で検索すると、彼の演奏を動画で見ることができる。(福山)
10月9日(日)9時より時差スタートで、第12回東京夢舞いマラソン大会が開催された。このマラソンは、通常のように車両をシャットアウトして車道を走るのではなく、交通規則を守って歩道を走・歩行する。レースではないので記録計測はせず、順位表彰もなく、近道をしたり、地下鉄やバスを使うことも自由。2001年の元旦に77人のランナーが都心を走ったのが事始めだが、以来、年々認知度が高まり、現在は東京都や新宿区なども後援している。今年はフルマラソンの参加者を先着順で1,500人募り、すでに6月26日にはいっぱいになったという。
このマラソンに招待された全盲で大連障害者連合会理事の程超氏(35歳)は、大連市の視覚障害者4万1,900人に関するすべての事業に責任を持っており、「大連国際マラソンの視覚障害者部門の運営者として関わってきました。今回はランナーとして貴重な体験をしたので、大連で今後これを生かすことができます。また、こういうチャンスを生かして、これからも視覚障害者間の国際交流を行いたいですね。私の担当はスポーツだけでなく、文化芸術分野にも及ぶので、あわせて音楽などの交流も行えたら素晴らしいと思います」とマラソンの後、シャワーを浴びてさっぱりした顔で抱負を述べた。
彼と伴走者の李さんは、東京夢舞いマラソン実行委員会(大島幸夫理事長)の招きで初来日。同マラソンは17時に終わったので、18時から、東京・高田馬場の居酒屋にて、歓迎交流会が開催された。
アキレスインターナショナルジャパン(AIJ)望月優副代表が「ようこそ東京へ! 仲間が毎年大連国際マラソンに参加しています。これからも交流を深めましょう」と乾杯の音頭を取った。
程さんは、「美しいコースはよく考えられており、観光ツアーよりも良かったのではないでしょうか?」と、伴走者の李さんに情景を解説してもらいながら走った感想を述べた。たしかに、都民広場をスタートし、新宿御苑・赤坂見附・国会前庭・東大赤門・上野公園・東京スカイツリー・浅草雷門などを通るコースは見所満載だ。
今回の招待は、実行委員会の事務局長が、昨年、AIJのパーティで、海外からアキレス関係者を招待したいと相談したことから始まる。そして、8月初旬には程さんに話が届いたが、それからが大変だったという。
中国では仕事で海外に出る場合、山ほどの書類が必要で、それが調った後、日本のビザを取得しなければならなかった。ところが、実行委員会の招待状では、日本領事館はビザを発行しなかったのだ。前例がないと来日は本当に大変で、一時は諦めかけたという。そこで、AIJは中国からの賓客招聘に実績のある日本点字図書館に泣きつき、田中徹二理事長の奮闘で、ぎりぎりのタイミングで、なんとかビザが下りたのだった。
そのような苦労話を肴に、片言の中国語も飛び交い、「伴走」、「視覚障害」と大書したAIJのTシャツも贈呈され、賑やかに交歓が行われた。(福山)
近代盲教育の始まった頃、イソップ物語の他にも、カタ仮名凸字による聖書が刊行された。「48㎡の宝箱」でも『凸字 山上垂訓』をそっとだが撫でていただける。
ひら仮名凸字の教科書としては、楽善会訓盲唖院の教員・高津柏樹(たかつ・はくじゅ)によって『ことばのおきて』が編まれた。これは伊藤庄平の技法に似たものだった。ローマ字凸字の『MOJINO TCHIKA MITCI』も製本された。これは、キリスト教の宣教師がもたらしたアルファベット凸字の技術を模倣したものらしい。京盲資料室にはないが、筑波大学附属視覚特別支援学校の資料室に保管されている。
今回は、漢字とカタ仮名で構成された凸字書をひもときたい。杉山和一の『三部書序』『療治之大概集』は鍼按科の教科書として、『吾嬬筝譜』『増訂撫筝雅譜集』は邦楽を学ぶ生徒の必読書として凸字に誂えられた。『珠算校本』は、算盤用の練習問題集である。
これらは、一字ずつの線画を凹状に刻んだ活字(およそ1.5cm角)を縦書きに文章として並べ、それを1mmほどの凸に写し取る方法で製造された。従って、各文字の周囲に四角い枠がうっすらと浮き出ている。
漢字交じりの凸文字教科書は、そのほとんどが東京で作られた。宣教師等による西欧文明の導入路・横浜に近かったし、楽善会が明治政府の中枢や大蔵省印刷局に通じる人脈を備えていたことも功を奏した。京都は、その教育的な有意性を認め、利用にいそしんだ。
『楽善会訓盲院第一期考課状』の明治13年の項に、「大蔵大書記官得能良介氏コレヲ凸文ニ製造シテ本院ニ寄附スルノ約アリ」「会友山尾庸三頻ニ力ヲ凸文製造之業ニ尽シ宇都宮某ニ謀リテ已ニ小学生徒心得数葉ヲ製造セリ」と記録されてある。なお、この引用は、筆者が入手した、明治10年代の楽善会事務職員・雨宮中平所蔵文書からの写しであり、これまでに紹介された文面とは若干異なる。
漢字交じりの凸字教材を用いた指導の進み具合はどの程度だったか。その評価を述べた史料は乏しいが、大内青巒が点字以前の読み・書きを次のように回想している。
「突起文字と突起文字の印刷書籍を使用して教授したれば、触覚を以て文字を読ましむることはわずかに教授し得たるも書き方に至りては到底完全に教授すること能はず(中略)昼夜工夫を凝らして辛苦せしかども概ね徒労に属して遂に盲教育の光彩を発揮せしむること能はず」 ―― つまりは、点字が圧倒的に優れていたわけだ!
だが、現実問題として当時はまだ点字が存在しなかった。一方、教育において文字は不可欠である。130年前の試行から、コンピュータ時代の墨字教育を考えるヒントを得たい。
ここに、『療治之大概集』の本文1頁目と『増訂撫筝雅譜集』の目次の一部を転記する。使用された漢字の難易度、教育内容の水準をうかがいしる助けになるだろう。前者には、「療治之大概集巻之上/補瀉之事/一補ハ呼息ニ鍼ヲ刺入/レ吸息ニ鍼ヲ抜キ其/跡ヲ揉ム也」とある。後者には、「六段」「八段」「桐壺」「須磨」「明石」「梅ケ枝」「心尽」などの代表的な曲が並んでいる。(原本の漢字は旧字体)
これらの全てにではないが、巻末に奥付があり、製造者が明記されている。ある一冊には「楽善会訓盲唖院唖生徒等製造」とあり、別の1冊にはより詳しく「高木慎之介 吉川金造」らの実名が加えられている。実在する聾唖の生徒であった。
つまり、聾教育の成果として、盲生のための教科書が生み出されていたのだ。生徒がどれほど自発的であったかは不明だが、楽善会の理念・着想の1つの要をそこに読みとることができるのではなかろうか。ちなみに、吉川は、小西信八の秘蔵っ子であった。伴われて各地に赴き、発語や席書を披露し、盲唖教育の普及に貢献した。彼はまた、若き鳥居篤治郎が赴任した三重盲唖学校の先輩教員で、着任の雑務など親切に世話をしてくれたと鳥居が書き残している。
「療治之大概集」
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
本誌10月号の伝言板で紹介したヴォーチェ・アプリートの第17回声楽コンサートを聴きに出かけました。以前よりさらにレベルアップした素晴らしい歌声に久しぶりに心洗われる思いでした。第1部の日本歌曲9曲が終わると、ピアニストが合唱希望者を募り、壇上に上げて、「花」「ふるさと」の大合唱となりました。全員観客なのにこれがまた見事でした。そして、第2部はイタリア語の歌曲10曲。男声合唱の最中に、舞台裏へ続くドアを開けて、舞台裏から女声合唱が被さる演出など、観客を楽しませる工夫がこらしてありました。アンコールでは、おなじみの「乾杯の歌」と「オー・ソレ・ミオ」で、満席の会場は大いに盛り上がりました。
本号は記事が集まりすぎて嬉しい悲鳴なのですが、そのために少し窮屈になりましたことをお詫びいたします。(福山)
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