THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2011年10月号

第42巻10号(通巻第497号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:『決断できない日本』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
盲老人の幸せを願い続けて40余年
  全盲老連事務局長の酒井久江さんにサリバン賞
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5
「同行援護」のすすめ 日盲連鈴木孝幸情報部長に聞く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
13
ミャンマー短期訪問記 ―― 塩崎夫妻を訪ねて(下) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
20
開業された吉川惠士先生に聞く ―― 理療科教員養成の栄光と暗雲(4)  ・・・・・・
27
自分が変わること:よくわからない仙人とお化け その3 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
34
48㎡の宝箱:凸字イソップ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
39
リレーエッセイ:音のユニバーサルデザインを考える(佐々木幸弥) ・・・・・・・・・・・・
43
外国語放浪記:ドイツつまみ食い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
48
あなたがいなければ:再来日するまで ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
52
大相撲:八百長騒動を乗り越えて、大相撲は変わったか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
57
時代の風:治癒肝炎が新薬で劇症化、糖尿病魚でリスク減、
  津波警報も携帯メール配信へ、セブンイレブン非常用電話配備、
  アポロ足跡40年たっても鮮明 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
61
伝言板:声楽コンサート、附属盲音楽科定期演奏会、ゴールドコンサート、
  本間一夫記念チャリティ・コンサート、写真教室、食事とオペラを楽しむ会 ・・・・
66
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
『決断できない日本』

 東日本大震災が起こるちょっと前、3月7日付新聞各紙に「沖縄はごまかしとゆすりの名人」と米国務省ケビン・メア日本部長が発言したという記事が出て世間を騒がせた。この記事のもとになったのは、共同通信が配信した記事である。
 その後の続報も、沖縄の地方議会の動きと連動して、さらにセンセーショナルに報道された。しかし、それらを吟味して見ると、情報源は3カ月前に国務省内で米国人学生相手に講義したオフレコ発言で、証拠の録音もなく、学生がメモを基に作成したペーパーが唯一あるのみで、いわゆる伝聞に過ぎない。「ごまかし」とか「ゆすり」という強い言葉ばかりが一人歩きしているが元は英文である。そこで、私はこの記事に対して、米国は猛烈な反撃に出るものと予想した。ところが、あにはからんや米国はくだんの日本部長を更迭することで幕引きをはかった。
 なにやら腑に落ちない思いでいたところ国務省を退職したメア氏が、この8月、文春新書から標記書名を出版し、8月18日外国特派員協会で記者会見を行って反撃に出た。
 メア氏は、沈黙を守って国務省に残ったり、共同通信を相手に裁判で泥仕合を行う代わりに、得意な日本語で自説を日本社会に広く訴える道を選んだ。同氏にとって幸いなことに、同書は大手書店に平積みされ、ベストセラーになっているので、この戦略は当を得たようである。
 メア氏は1981年に国務省に入省し、駐日大使館安全保障部長、沖縄総領事などを歴任。日本に通算19年間滞在し、奥さんは日本人で、実際に米国政府高官の通訳を行うほど日本語が流暢である。しかし、それがためにか、これまでもたびたび一部の報道機関で、同氏の発言が問題視されてきた。ある意味で、その集大成が『決断できない日本』なのかも知れない。同氏の意見に諸手を挙げて賛成するわけにはいかないが、一読するに値する好著であるとは思う。(福山)

盲老人の幸せを願い続けて40余年
―― 全盲老連事務局長の酒井久江さんにサリバン賞 ――

 本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」受賞者は、国内外の視覚障害福祉の調査・研究、全国盲老人施設職員研修の企画と開催、施設間の国際交流等を通じてわが国の盲老人の福祉向上に尽力された全国盲老人福祉施設連絡協議会(全盲老連)常務理事・事務局長の酒井久江さん(東京都青梅市・69歳)に決定した。
 第19回を迎える本賞は、「視覚障害者は、何らかの形で晴眼者からのサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害を持つ委員によって選考される。
 贈賞式は、10月4日(火)に当協会で行われ、本賞(賞状)と副賞として、ヘレン・ケラー女史の直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。

3度目の正直

 「ぜひ勤めさせてください・・・」。25歳の酒井さんは、何度も深々と頭を下げ、思いの丈を本間昭雄聖明園園長(現・法人理事長)に訴えた。昭和42年(1967)のクリスマス・イブは日曜日であった。この日、勤務先のパーティーをキャンセルして、長野県諏訪市の実家から国鉄中央本線(当時)を乗り継いで、青梅市の聖明園を訪ねた。面接という改まったものではなく、「とにかく一度、いらっしゃい」という本間園長の言葉に一縷の望みをかけてのことだった。寮母を募集していると聞いていたが、実際にお会いすると「銀行にお勤めなら、事務の仕事の方が適任でしょう。私の秘書的な仕事もお願いできますか」という園長の言葉ですべてが決まった。
 昭和17年(1942)2月7日、長野県諏訪市で生まれた酒井さんは、2男1女の真ん中として育った。昭和35年(1960)4月、長野県諏訪二葉高校卒業と同時に富士銀行(現・みずほ銀行)諏訪支店入行。高度経済成長まっただ中の日本が、東京オリンピックを目前に控え、もっとも輝いていた時代である。
 就職すると実家の近くに住む高校の事務員から、地域の点字サークルに誘われた。高校時代JRC(青少年赤十字奉仕団)の活動にかかわっていた縁であった。上田点字図書館の通信教育を受けながら、数年間点訳活動を続けていたある日、それを耳にした東京・高田馬場に住む叔母が、「私の家の近くに点字図書館があるわよ」と教えてくれた。
 そこで、日曜日に叔母の家に遊びに行ったついでに、日本点字図書館を訪問した。飛び込みであったが、本間一夫館長(当時)は満面の笑みで迎えてくれた。ところが、「私をこの図書館で雇ってください」と申し入れると、突然のことに驚かれたようだった。しかし、優しく「今はどちらにお勤めですか」との質問に、銀行に勤めていると答えると、「とてもそんな方を雇えるだけの余裕はありません」と、きっぱりと断られてしまった。
 「振られちゃった」とすっかり落ち込んで実家に帰ってしばらくたった頃、美容院で女性雑誌を読んでいたら、読者投稿ページに、「あなたも私たちと一緒に働きませんか」という、聖明園の記事に出会った。すぐに、メモをとって電話すると、残念ながら寮母募集は打ちきられた後だった。それでもあきらめきれずにいると、「来年増設する計画があるので、その時お知らせします」という返事をもらった。そして、年の瀬に実際に連絡があって、先のクリスマス・イブの面接となったのである。この年、全盲の宮崎康平氏による『まぼろしの邪馬台国』がベストセラーになり、第一回吉川英治文化賞を受賞し、時代は変わろうとしていた。

成長する盲老人福祉施設

 昭和43年(1968)4月に、酒井さんは聖明園の運営母体である社会福祉法人聖明福祉協会に就職する。26歳でまだ若かったが、それから10年間は聖明園の寮に泊まり込んで、昼も夜もない多忙な日々を過ごすことになる。もっとも当時は他の職員も、何より本間園長夫妻も同様の忙しさであった。高度経済成長にかげりが見えてきた時代であったが、周回遅れで飛躍的成長がはじまった福祉業界は、まったく人手が足りず、だれもが大わらわの時代だったのだ。
 そんな中にあって、酒井さんが特に多忙を極めたのは、就職した同じ月に全盲老連が発足し、その事務局長に本間園長が就任したからでもあった。就職したばかりで右も左もわからない彼女が、必死で本間氏を支えなければならなかったのだ。
 同一の仕事であれば、普通、時間の経過と共に、その負荷も少しずつ軽減されていく。ところが、「全国各都道府県に盲老人ホームを建設する」を最大の目標にしていた、当初4施設(3法人)でスタートした全盲老連は、運動の甲斐あって、全国に盲老人ホームが次々と建設され、加盟施設も急増する。現在、実に79施設(51法人)が加盟しているので、40年間で実に20倍の急成長ぶりである。
 全盲老連事務局の忙しさは、加盟団体が増えたからばかりではない。全盲老連の黎明期には、そもそも行政に「盲老人ホーム」という概念が希薄だった。そこで、昭和43年から在所者アンケートなどの地道な調査活動を繰り返し、それを職員定員の増員に結びつけるようにした。盲老人ホームは一般の老人ホームより人手がかかると訴えるだけでは行政は動かないので、それを数字で示し、本間氏を中心に厚生省(当時)に陳情を毎年繰り返したのだ。その成果は少しずつ寮母や生活相談員、看護師の増員として日の目を見る。ただ一方では、役所への煩雑な申請書の書き方にとまどう施設もあり、その研修も不可欠となった。また同時にケアの専門性を研究して、施設職員の資質向上をはかるための研修も充実させる必要があり、結局、年間8分野の研修会を全国レベルで開催することになった。これらを聖明園の本来業務と並行して行うため、寝る間も惜しむ生活になったのである。
 ただ、日常業務に埋没することなく、彼女は忙しい合間を縫って、欧米の盲老人ホームを視察して国内に紹介すると共に、国際交流にも尽力する。その白眉は、昭和51年(1976)、中央競馬馬主社会福祉財団の研修生として、米国、カナダ、英国、ドイツ、デンマークを3カ月半かけて視察したことで、その時の成果は小冊子にまとめた。また、オーストラリアのメルボルンにある盲老人福祉協会と姉妹提携するため、昭和59年(1984)に2カ月現地に滞在し、このときの様子を彼女は週刊『福祉新聞』に連載・寄稿している。

壮大な夢に向かって

 日の出の勢いで全盲老連とその会員施設は発展してきたが、そこに明らかな暗雲がたちこめたのは、平成12年(2000)4月1日に介護保険が施行されてからであろう。特別養護老人ホーム(特養)は、介護保険の荒波を直接かぶることになって経営は一段と厳しさを増した。それは、全盲老連の職員研修会に端的に現れた。特養の施設からの参加者が、予算不足からがた落ちとなったのだ。一方、養護老人ホームは介護保険施設ではなく、行政による措置施設なので特養よりまだましだが、地方においては定員割れを起こしているところもある。むろん入所希望者がいないわけではない。ちょっと視覚障害があれば介護認定をとって特養を勧めて、予算不足を理由に行政がなかなか「養護」に措置してくれない現実があるのだ。
 そんな福祉施設の多難な時代にあって、聖明福祉協会は新たな飛躍を目指そうとしている。
 現在の聖明園の敷地は1万坪だが、別途、2万坪を隣接地に用意している。近代的な設備を誇る養護老人ホームの曙荘はそのままに、老朽化しつつある寿荘と富士見荘を新天地に新築移転させようという計画があるのだ。同法人は4年後に創立60周年を迎えるので、それまでに少なくとも着工したいと考えている。そして、3万坪の敷地全体を公園のように整備して、理想的な老人ホームを目指すというのが本間氏の壮大な構想なのである。
 その実現に向けて、酒井さんは軸足を全盲老連から本業の法人常務理事・施設長に移しつつある。彼女の半生は、本間氏の次々と広がる夢を実現するためにひたすら疾走してきた道のりである。壮大な構想に向けて、本間氏子息の本間清郷(きよさと)法人常務理事・事務局長と共に、彼女の奮闘はまだまだ続くようである。(福山)

48㎡の宝箱 ―― 京盲史料monoがたり
(7)凸字イソップ

京都府立盲学校教諭/岸博実

 明治10年代の視覚障害児は、木刻文字や紙製凸字を丁寧になでることによって、ひら仮名・カタ仮名・数字・漢字などを1字ずつ学んだ。木刻文字を5つ並べることのできる細長いお盆のような道具を用いて単語を綴る学習に進み、伊藤庄平の凸文字教科書によって掛け算・足し算の勉強にも世界を広げた。
 教師たちは、次のステップとして、子どもたちを「文章の世界」に誘いたいと志したであろう。
 京盲資料室にお越しになる方々から例外なく「驚嘆の声」を浴びるのが、凸字によるイソップ物語だ。同じものが、筑波大学附属視覚特別支援学校にも「東京盲唖学校」と押印されて現存する。東西のどこが産地かははっきりしない。
 表紙には墨字で『伊蘇普物語 全』と題されている。縦27cm、横16.5cm、古文書のように糸で綴り、表紙・裏表紙を含めて35丁の書物に仕立てられている。糸で綴った側の厚さは0.6cm、他は凸字のためにやや膨らんでいる。
 片面のみとなる本文33頁は全てカタ仮名の凸字になっている。凸線の高さは1mm程度、幅は1mm余り、清音1字はおおむね縦横1〜1.5cm角のサイズである。裏面は貼り付け紙のないまま剥き出しに凹んでいる。金唐革紙とは違う、単純なプレス方式だ。
 冒頭の1頁を原文の歴史的仮名遣いのまま再現してみよう。なお、「/」は、行替えを示す。
 「イソツプ モノガタリ/ウマトベツタウノハナシ/アルベツタウカヒウマノカイバヲヌスンデオノ/ガモフケトナシシユジンニアヤシマレ ジトナガ/ノナツジウヨリハタラキテソノウマノツメカミ/ヲキリアラヒナドシウツク シクミセントホ子/」
 歴史的仮名遣いによるので、「べっとう」が「ベツタウ」、「かいうま」が「カヒウマ」「なつじゅう」が「ナツジウ」となっている。これを漢字かな交じり文に直すと次のようになる。「馬と別当の話/ある別当が飼い馬の飼葉を盗んで己/が儲けとなし主人に怪しまれじと永/の夏中より働きてその馬の爪髪/を切り洗いなどし美しく見せんと骨/」
 このほかに、「子カニと母カニの話」「寺へ逃げ込んだ子羊の話」「鶏と猫の話」「獅子とロバと狐の話」「風と日輪の話」など14話が収められている。中には、今日知られている題名との異同がにわかには判然としないものもあるが、「風と日輪の話」は、有名な「北風と太陽」だ。イソップの全体にはほど遠いボリュームとは言え、その興味深い世界を子どもたちに伝えようとする熱意が伝わってくる。
 仮名ばかり並ぶと、昔の電報のように語句の切れ目が分かりにくく、読み進むのが難しい。同じく表音文字の点字では、原則として文節毎にマスあけをほどこすが、この凸字イソップにはそれに当たる明確な1字あけは少ない。だが、「イソップ」と「モノガタリ」の間には、ほぼ1字分の空白がはさまれている。そして、ところどころに「半角分」の空きスペースが認められる。それを\で表すと、「ウマ\ト\ベツタウ\ノハナシ」のように刻字されている。文節の切れ目とも、単語の切れ目ともつかぬ不統一なものではあるが、仮名書きを読み取るためには字詰め・字間への配慮が必要だと意識されていた可能性がある。触覚での読解を念頭に置いたものだとすれば、なかなか鋭い着想と言える。
 注目すべきことに、一部のカタ仮名は変形されて、例えば、「ウ」の2画目の縦線、「テ」の1画目の横線が省かれている。単純化の手法だ。「ン」は、書き始めの縦線を短くした「レ」の形に描かれている。「ソ」との違いを際立たせたのだろうか。
 さらに、濁点、半濁点が極端なほど拡大造形されている。いずれも5mm角。大きい! この思い切ったデフォルメは、触察上の便宜をねらったに違いない。昨今ようやく発展しつつある、弱視者や高齢者にも視認しやすいUDフォントに通じる発想として評価したい。明治は、限りなく知恵を湛えている。
 なお、カタ仮名凸字の読み物としては、他に『橋ヲ渡ル心配』なども残っている。高津柏樹(たかつ・はくじゅ)が編集し、ひら仮名凸字で綴った『ことばのおきて』(附属校所蔵)も貴重である。


「凸字イソップ」

(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)

編集ログ

編集長より

 「開業された吉川惠士先生に聞く」の先生に治療を受けたいという電話が、最近、小誌編集部に断続的にかかってきます。そこで、ご本人の許可を得て、ここに治療院の連絡先をお知らせ致します。完全予約制なので、必ず事前に電話してからお出かけください。
 吉川はり物療院:電話03-5948-8355、〒114-0034東京都北区上十条2-15-8、JR埼京線「十条駅」下車徒歩4分。
 今年度のヘレンケラー・サリバン賞受賞者、酒井久江さんの母校、長野県諏訪二葉高等学校の前身は諏訪高等女学校で、一時期アララギ派の歌人土屋文明が校長を務めていた学校としても地元では有名です。なぜそんなことを知ったかというと、二葉高校の正式校名に少し疑問を感じて調べたからです。そしてわかったことは、長野県は他県と違い県立学校であっても二葉高校のように正式名称に「県立」を冠しないということでした。
 これは大正9年(1920)に、長野県令38号により、それまで「県立」の文字を冠していた学校名称から「立」の字を削除することにし、以来、新制高校にも引き継がれてきたためです。ただ、これだと他県から、「県立ではないのか?」と誤解を受けることもあるのでしょう。そこで、高校側から県立なのだから、正式名称を「県立」にして欲しいという要望もあるようですが、教育委員会は頑として聞かないようです。90年以上の伝統があるので、今さら変更はできないということでしょうか。
 もっとも私はこのような頑固を愛するものですが。
 8月24日、王崢さんが女児を出産されました。名前は「理香」ちゃんで、生まれたてで元気に泣いている写真が、今号の原稿に添えられてEメールで送られて来ました。母子共に元気でなによりです。改めまして王崢さんおめでとうございます。(福山)

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