筆禍というにはあまりにナイーブ過ぎてみっともなさ過ぎるが、スポンサーであるJAグループや視聴者を激怒させるには充分であった。このため、人気番組は打ち切られ、社長は50%減給3カ月、その他の役員3人も減給、社員4人も降格などの重い処分を受けた。
8月4日(木)東海テレビが「ぴーかんテレビ」という番組において、リハーサル用仮テロップ「岩手県産ひとめぼれ10kg」プレゼント当選者として「怪しいお米 セシウムさん」、「汚染されたお米 セシウムさん」の字幕テロップを放送した事故に対する代償は、かくも重いものとなった。
不謹慎な字幕を作成したのは、CG制作会社の50代の男性で、実際に当選者の名前を記入する前の仮テロップに「ふざけた気持ち」で書き込んだという。それを見とがめたタイムキーパーが、8月3日と4日の両日、訂正を依頼したがCG制作担当者はそれを無視。タイムキーパーがリハーサルに合わせ当選者発表の仮テロップを準備する作業中、訂正されていないことに気づいたが、その後、誤操作してテロップが放送されてしまったというのが、事故の経緯である。
下請けや関連会社のスタッフ間の複雑な人間模様に、未必の故意ともみなされるような無責任な雰囲気の中、予期せぬ過誤が重なった末の事故のようである。
50男にしてみれば、ふざけた軽い気持ちで書いた落書きだろうが、現実に風評被害に悩む被災地にしてみれば、たまったものではない。このため、「現在流通している米は平成22年産米で、原発事故発生前の昨年秋に収穫された米であり、低温倉庫、準低温倉庫に適切に保管されているものが流通しており、安全です」と、岩手県はその対応に大わらわだった。
仮テロップは、画面に映ることがない前提なので、ふざけた内容で作ることが常態化していたようだ。それにしても、皮肉とか、風刺とか、諧謔とかは無縁の、あまりに稚拙な表現には、50男の暗い情念だけしか感じられず背筋が寒くなった。(福山)
7月27日、宮崎市の宮崎観光ホテルで、理教連(日本理療科教員連盟)の総会が開催された。今回の総会で、4期8年務めた緒方昭広会長(筑波技術大学教授)が正式に退任。後任には、今年1月の会長選挙で当選した、元理教連副会長の藤井亮輔氏(筑波技術大学准教授)が就任した。総会では、理教連の組織改革も視野に入れた活動方針などが提出され、いずれも承認。理教連は新体制による新たなスタートを切った。
まず討議に先立ち、緒方会長が退任するにあたり「役員6期、会長4期の計20年務めてきたが、役員や会員の支えがあったからこそこれまでやってこられた。今後理教連は時代のニーズが変わっていく中で、職業的自立をどうやって支えていくかが問われるだろうが、新しい会長のもとますます発展していくと期待する。これからは1会員として支えていきたい」とあいさつし、大きな拍手が送られた。
続いて藤井新会長以下の役員交代が行われた。今回の新体制発足に伴い事務局も筑波大学附属視覚特別支援学校から文京盲学校に移行され、事務所が東京都盲人福祉センターの1室に新設されることになった。
藤井会長は就任にあたり「これからの2年間、不偏不党の立場で務めたい」と口火を切り、所信表明を行った。まず、理療教育を取り巻く問題点を挙げた。特別支援教育の影響で、現場ではさまざまな課題があがっている。例えば入試や留年を行わない盲学校が出るなど、「理療教育の専門性がゆらぎはじめている」と指摘。また就職についても、関東・甲信越地区盲学校・養成施設進路指導協議会の調査で、卒業後の開業率および病院への就職率が20年前の10分の1に落ち込んでいる。藤井会長は「業が廃れば学が廃る」と、職業問題にも踏み込んでいく考えを示した。さらにこうした時代の変化を捉え、「理教連も組織のあり方が問われている。先生方の専門性や全国ネットワークをさらに活かせる組織に改革すれば、必ずや山積する諸課題を解決できると確信している」と訴え、会員に協力を求めた。
そこで藤井会長が提案したのが「理教連組織改革等あり方懇談会」の立ち上げだ。内部委員9名と有識者による外部委員3名で構成し、1年の時限付きで開催。決定権はなく、理教連の下に地域ブロックを設けるといった体制整備のほか、大学編入問題など今後の理療教育のあり方について幅広い意見を求める。この懇談会で集約された意見は、その後理事会などで検討し方針を固めていく。会場からは委員の選出方法などについて疑義があがったが、結局承認された。
また23年度の重点事業は次の5点が挙げられた。1.理療科用教科書について、複数媒体を必要とする学生のため、給付制度の改善を求め、関係団体と協力し、国会並びに文科省へ陳情などを行う。2.保険医療機関におけるマッサージ行為の適正化と診療報酬の引き上げを目指す。3.高校専攻科からの大学編入が可能となった場合の課題を整理し、理療科教員の資質向上のための基本方針案をまとめる。4.理療科教員養成課程の今後のあり方について、技術大・理療科教員養成施設や大学編入制度の情勢を踏まえつつ、文科省を含む関係機関と協議する。5.組織改革等あり方懇談会の意見具申を受け今年度中に基本改革案をまとめる。
会場からは佐賀盲学校が「特別支援教育の影響で入試を行わなくなった」と報告。総会に参加した中で無試験は佐賀のみ、留年させない方針をとっているのは佐賀のほか福島・八王子・文京・浜松の5校もあった。特別支援教育が始まって4年、問題が地域ごとに分化してきているようだ。これに対応するためには藤井会長の提案する地域ブロックの下部組織が有効だろう。組織改革の動向に注目したい。
最後に東日本大震災の被災県である岩手から、総会に参加することができた宮城、福島、茨城の4県を代表し、義援金への感謝が述べられ、あたたかい拍手が送られて理教連総会は幕を閉じた。(小川)
伊藤庄平の『盲目児童凸文字習書』について新しい資料が続々と見つかっている。
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに収載されていた史料群によると、それは明治10年の内国勧業博覧会で、最優秀賞を受けていた。
1.『内国勧業博覧会出品目録』に、「盲目児童凸文字習書 一冊 仝町 伊藤庄平」とある。
2.『明治十年内国勧業博覧会出品解説』に、「瞽童(こどう)習用凸字扁額」の製法として「桜板ニ文字ヲ彫刻シ器械ニテ美濃紙三葉ヲ打嵌シ文字画ノ凹処ニ唐土ヲ抹テ填実シ其乾定ヲ待チテ更ニ美濃紙三葉を糊貼シ麻糸ヲ綴着シ然ル後薬袋紙ヲ以テ其裏面ヲ貼付ス」と説明されている。
3.『明治十年内国博覧会賞碑褒章状授与人名録』に、「龍紋賞(りゅうもんしょう)牌 盲児教育文字 伊藤庄平」と認められる。
4.『明治十年内国勧業博覧会審査評語』には、「龍紋 盲児教育用文字 本所花町 伊東(ママ)庄平 洋製ヨリ意ヲ着ケ来リ又工夫ヲ以テ少シク改革スル所アリ盲児ヲ文字ニ導ク其功偉ナリト謂フ可シ」と評されている。
庄平の品は高く評価され、龍紋賞を受けていたのだ。金唐革紙の技法もかなり分かった。
同じ博覧会には、東京楽善会員の岸田吟香が目薬「精リ水(せいきすい)」を、京都盲唖院の和歌指導に貢献した半井忠見(なからい・ただみ)(凸字教育を受けた半井緑の祖父)が著書『愛媛面影(えひめの・おもかげ)』を出展している。東西の関係者の思いが結集したかのようである。
我が国における凸文字開発の歴史に位置付けると、庄平の凸文字が「洋製」から着想され、それに独自の工夫を加えることによって成り立ったと読み取れる部分が重要である。
これは、手島精一が欧米から持ち帰った教育博物館所蔵の外国製凸字を彼が実際に見たことを物語っている。『盲目児童凸文字習書』は、特殊な製紙技術を持った一個人の単なる思い付きではなく、時代の最先端を行く手島の知見に結びついた熱意の発露と見なくてはならない。西欧の物まねに終わらず、紙の加工に関する日本的な伝統や技術が注がれていた。
手島と庄平の交渉については、伊藤卓美氏の所蔵資料中に、教育博物館から庄平に宛てた表書きの封筒もある。さらに、明治14・15年の『教育博物館図書目録』にも「盲目児童凸文字習書 一冊」が明記されている!
なお、前回、この凸字教科書の価格を不明と書いたが、筑波大学附属視覚特別支援学校(以下、筑波校)に現存する同書には「定価二円六十銭の朱印」が押されている。
次に、庄平の凸字教科書と楽善会訓盲唖院の凸文字教材の関係を探ってみたい。
筑波校に『盲目児童凸文字習書』が現存するからには、両者にはなんらかの交流があり、庄平の作品が授業に用いられた可能性が高い。しかし、鈴木力二氏は、「初めの方は相当使用した形跡があるが、中程からはそうでもない」と観察している。それはこの単体だけの特徴かもしれない。
しかし、『東京盲学校六十年史』(68ページ)に、次の記述がある。
「本社学校ニ於テ教授スベキ凸字ノ原版ハ我ニ所有シ以印刷製本等之ヲ市商ニ需ムルナク尽ク校内ニ於テ之ヲ製装シ或ハ手術生徒中其技ヲ成シ得ベキモノニハ配付調整セシメ」と。(明治10年12月8日意見書)
つまり、楽善会は商品としての凸字教科書を選ばず、自らの力でそれを作製する方針を採っていたと読み取れる。現に、その後の楽善会訓盲唖学校は、大蔵省印刷局のスタッフに援助を仰ぎながら、聾唖生徒の職業教育の一端として、盲生用の凸文字教材をたくさん製造している。
伊藤庄平の名が永くうずもれてきたのには、この事情が影響したのかもしれない。その仕事を掘り起し、ゆるぎない記憶として刻み直したい。
「龍紋賞牌」
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
吉川惠士先生の連載インタビュー記事、8月号の高橋秀治先生の寄稿には、「ドキッ!」としたり、「はっ」としたりで熱くなりました。山口和彦さんの「フルマラソン完走記」で少し、涼しくなりました。荒井太郎さんの「大相撲」記事を読む前に、魁皇の引退記者会見を聞きました。はじめがあれば、終わりがある、あたりまえのことに、改めて、気づきます。(埼玉県春日部市/品田武)
今月と来月に分けて、ベトナム在住の佐々木憲作さんによるミャンマー訪問記を掲載します。塩崎夫人の名前はダン・クン・チャンさんなので、佐々木さんは「チャン先生」と略されました。そちらの方が実は正しいのですが、彼女の日本での通り名・愛称は「クンチャン」なので、無理をお願いしてそのように統一させていただきました。
「副賞の現金50万円を銀行に預けようと確認したら、なんと20万円しかなかった」という本誌7月号の「巻頭コラム」を読んだ方から、「(不審人物である)障害者施設の全国団体の要職にある人物とは視覚障害者ですか?」という問い合わせの電話がありました。もちろん違うので、「健常者で、盲界関係者でもありません」と応えたら、その方は安心されたようでした。もっとも6月号の「時代の風」も読んでおられたようで、ちょっとヒントを出すと、すぐにピンとこられたようでした。実名を出したらなんということはなかったのでしょうが、「博士の情け」が仇になったようでちょっと残念でした。
本誌の元編集長であった内田捷治さんが食道がんのため7月9日に逝去されました。享年70。葬儀は7月11日に家族だけで営まれました。ご冥福をお祈りします。(福山)
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