THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2011年7月号

第42巻7号(通巻第494号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:現金の副賞にご用心 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
失明 マイナスをプラスに変えた人生!
  盲導犬と共に歩んだ長岡市議 藤田さん勇退
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
7
(短期集中新連載)開業された吉川惠士先生に聞く
  ―― 理療科教員養成の栄光と暗雲(1) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
20
使わなくなったカセットテープレコーダ・
  CDプレイヤー・FMラジオをキルギスへ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
30
らくらくホンベーシック3好評発売中!  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
33
カフェパウゼ:陰翳の再発見 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
34
自分が変わること:ささのは さらさら ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
37
48㎡の宝箱:紙製凸字(彩色カード式) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
42
リレーエッセイ:「ランニング」がくれた今と未来(和田伸也) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
46
外国語放浪記:駆け足のフィレンツェ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
51
あなたがいなければ:悲痛なプロポーズ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
55
大相撲:関取の座をめぐるし烈な争い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
60
時代の風:道立総合盲学校新設へ、節電の街歩きにくく、
  障害者の新規雇用5万人超え、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
64
伝言板:加納洋ニューヨークの風コンサート、第5回塙保己一賞候補者募集、
  第61回ヘレン・ケラー記念音楽コンクール出場者募集 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
68
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
71

巻頭コラム
現金の副賞にご用心

 副賞の現金50万円を銀行に預けようと確認したら、なんと20万円しかなかった。しかし金額の多寡を問題にしているようで、その被害者も「なにやらがめついような気がしてね。ちょっと躊躇した」と言う。しかし、加害者とおぼしき前夜の祝賀会に現れた人物の落ち着きのない姿を思い出し無性に腹がたった。これは、「不注意による事故ではない」と考え、その人物に強く抗議すると、あっけなく残金が即納されたので、被害者のご当人もすっかり矛を収め、
 「詫び状ももらったことだし、お金が絡むことなので大げさにしたくない」と言われる。そこで、ここではあえて実名は出さないが、事件に絡む人物は、障害者施設の全国団体の要職にある人物である。
 一夜明けて金額が足りないというクレームを述べることは、場合によっては逆に訴えられるようなリスクをも伴うので、当事者にとっては深刻で、泣き寝入りを選ぶ人が出ないとも限らない。そこでことの経緯を明らかにして、同様の事件が起こらないよう戒めにしたいと思う。

奇妙な祝賀会

 特定の分野で先駆的な結果を残した障害者個人を毎年表彰している地方の社会福祉法人がある。今年はその最高賞に、視覚障害を持つN医学博士が選ばれた。同賞の授賞式は、同法人の地元で、例年ゴールデンウィーク中に行われる。しかし、今年は3月11日の東日本大震災の勃発で、授賞式の経費を被災者支援に充てるため中止された。そこで、同法人のSという役員が、表彰状と副賞を持って上京するという。そこでその日時に合わせて、せっかくの慶事なのに無愛想では寂しいから、友人・知己ら10名ほどが集まって、ホテルにおいて、会費制のささやかな式典と祝賀会を行うことにした。
 ところが、当日の夕刻、Sから終了時刻の午後7時にならなければ行けないと、祝賀会の幹事に電話があった。こうして授賞式前に祝賀会を行うという変則的なパーティが午後5時から開かれたが、それでも参加者は旧知の間柄だけに和やかな時が過ぎた。ところが、表彰状は、参加者の誰もがやきもきする中、閉会時刻を過ぎた7時20分になってやっと届いたのである。
 待ちくたびれて、少々頭に血が上った参加者の1人が、「いくら何でも失礼じゃないか? なぜ、遅れたのかくらいの釈明があってしかるべきではないか」と声を上げた。Sが、表彰状を読み上げて、賞金を幹事に渡して、すぐに帰ろうとしたからである。散々待たせたあげく酒肴に箸をつける時間もないとは、何事かというわけである。
 結局、Sは「個人的な用事で遅れてしまいました」と平謝りに謝って、5分ほどテーブルに着いて逃げるように帰って行った。

即納された30万円

 翌朝、N博士は、副賞を銀行に預け入れようとして、金額が足りないことに気づいて驚く。そこでくだんの社会福祉法人に午前10時に電話をして、念のため自立大賞の副賞はいくらかと尋ねた。すると応対に出た事務局員は「50万円です」と即答した。そこで、副賞には20万円しか入っていなかったがと抗議すると、5月末までに同博士の銀行口座に必ず残金を送金すると事務局員は述べた。その後しばらくすると、Sから電話がかかってきて、「寄付金が集まらなかったから・・・」とか、「賞金は幹事さんに渡した」とか、狼狽して要領を得ない弁明が続いたという。そして、驚くべきは、同日の午前中に、N博士の子息が20万円を銀行に預けに行くと、S本人の名前で、博士の銀行口座に30万円が振り込まれていたというのである。
 最近は高額な賞金は、銀行振り込みか小切手により、現金でやりとりされることはまずない。このため、ちょっと虚をつかれたような形だが、現金であれば「ちょっと失礼」と言って、今後はその場で確認して用心するに如くはない。
 授賞式でSは、副賞を本人ではなく、祝賀会幹事のK氏に渡している。それをK氏は右から左にN博士に渡したから、嫌疑を受けることはなかった。しかし、副賞を本人以外に渡すというのも極めて不自然で、K氏はまったく危ないところだったのである。(福山)

失明 マイナスをプラスに変えた人生!
―― 盲導犬と共に歩んだ長岡市議 藤田さん勇退 ――

 埼玉県川越市の牛窪多喜男市議と共に、同時期に全国で初めて盲導犬を連れて議員活動を始めた新潟県長岡市の藤田芳雄市議(63歳)が4月の統一地方選に立候補せず、この4月末に3期限りで勇退した。
 議員活動を通じて長岡市にバリアフリーの考え方を浸透させたとして、長岡市民や障害者団体から高い評価を受けている藤田さんは、引退後は本職の鍼灸師に戻り、「しばらく休んでいたマラソンも再挑戦したい」と張り切っている。

電電公社の青春

 藤田芳雄さんは昭和23年(1948)4月 15日に新潟県の旧三島郡与板町(さんとうぐん・よいたまち)(現・長岡市)で生まれた。ここは平成21年(2009)放映のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公・直江兼続の居城があった城下町である。
 昭和42年(1967)県立長岡工業高校を卒業すると共に、現在のNTTグループの前身である日本電信電話公社に入社する。
 仕事と共に組合活動や平和運動にも参加しながら職場にもようやく慣れた頃、彼は大学病院の眼科で、「あなたの病気は進行性の眼病で、今は適当な治療法がない」と突然、将来の失明を宣告される。なぜ俺がそのような仕打ちを受けなければならないのか。自らの運命を恨み、夢や生きる勇気をすべて失ったという。二十歳代の多感な時期に大きなショックを受けて、彼はしばらくは立ち直れなかった。
 この間の深い悲しみをある講演の中で、彼は次のように述べている。
 「大学病院で失明宣告を受けたその帰りの電車の中、沈む夕日に光る、母の涙を見た。その時、辛いのは私よりも母の方だ。私はこれから母を悲しませることのないよう、努めて平静を装うことにした。しかし私の心の中には失明という、将来に対する不安以上に、障害ということに対する差別や偏見があった。『みじめ』『かわいそう』『自分では何もできない人』という思いがあった。将来に対する不安と失望、そして内なる差別と偏見に悩む月日が流れた」。
 このような経験を元に、藤田さんは「今にして思うと、医師による宣告の際は、もう少し精神的なフォローがあってほしかったですね。そうすれば、立ち直りも早く、随分、違ったのではないでしょうか」と当時を振り返る。
 そして昭和53年(1978)、30歳のとき、藤田さんは長岡赤十字病院の看護士であった和子さんと結婚。その後、2女に恵まれるが、その頃から、視力に限界を感じるようになった。彼は「通信線路技術職」として電話などの通信回線の図面を引いていたのだが、文字や線が滲んで見えるようになり「いよいよ来たか」と暗澹たる思いであった。
 同僚の中には「目が見えなくても、他にやれる仕事もあるはずだから、公社に残る道を探そう」と言って励ましてくれる人もいた。しかし、藤田さんはエンジニアとしての矜持もあり、図面が引けなくなったら、その時は潔く電電公社を辞めることを既に決意していた。
 昭和62年(1987)に、彼は症状が悪化して、遂に電電公社から変わったばかりの日本電信電話株式会社を退職する。その3年前には公社に在職しながら「社会復帰」の一環として、県立新潟盲学校理療科に36歳で入学する。「その時の仲間の支援や公社の対応には今でも感謝している」と藤田さんは述懐する。
 上司からも「盲学校を卒業したら、ただちに退職するという事ではないのだから・・・」と、後押しされてのことだった。職場の仲間からも励まされ、そこから彼の新たな挑戦が始まったが、しかし2人の娘はまだ6歳と3歳。「子供たちを路頭に迷わす事はできない」、藤田さんにとっては退職よりも盲学校への入学の方がむしろ重い決断で、悩みに悩み抜いた末の結論だった。

第2の人生への挑戦

 重い足取りでの盲学校入学だったが、毎日校門をくぐるたびに気分は少しずつ晴れていった。学校で出会うのは、障害を持ちながらも明るく生きていこうとする、同じ悩みを抱えた児童・生徒であり、若者たちだった。こうして片道2時間余、雪の降る日も雨の日も、眠い目をこすりながら、朝一番の高速バスで通う生活も徐々に励みとなり、自らの障害を受け入れるきっかけとなっていった。
 そこで出会った1冊の録音図書、トーマス・J・キャロルの『失明』、彼はこの本に文字どおり新たな光を感じた。「自らの運命を受け入れ、ありのままの自分を受け入れることからすべてが始まる」。この言葉が彼に新しい生き方を模索するきっかけを与えた。
 ある日、盲学校の体育行事で、それまでは敬遠していたマラソンと再び出会う。「神様がチャレンジする機会を与えてくれたのだ」と考えた彼は、まだ僅かに残っていた視力で、盲学校の校庭や自宅付近の中学校の周囲を走り、マラソン大会のための体力づくりを始めた。苦しく辛い10kmのマラソンで、伴走の先生と1本のロープの端をしっかりと握りながら、涙まじりに完走。「目が見えなくてもできることはある。ロープが1本あれば全力で走ることだってできる」と心の中でつぶやき、彼は汗をかき、大地を蹴って走る事の喜びを、次第に薄れゆく視力の中であらためて知るのだった。
 こうして、本来の活動的な性格を取り戻した藤田さんは、鍼灸を学びながら盲学校在学中、視覚障害の仲間と共に「江陵会(こうりょうかい)」という新潟市の芸能和太鼓「万代太鼓(ばんだいだいこ)」の同好会を組織する。目が見えなくても耳で覚える和太鼓なら俺たちにもできる。こうして社会人となった現在でも、会の代表として太鼓を通じ、仲間との絆を大切にしている。
 藤田さんは鍼灸などの東洋医学については元々、強い関心を持っていたと言い、特に在学中に、中国古来の陰陽五行説に基づく経絡治療に出会い、それを研究実践する東洋はり医学会に自ら入会することで、将来に対する一条の光を見出した。エンジニアとして技術職にこだわった彼は、鍼灸技術の奥深さにもいいようのない魅力を感じたのだ。
 盲学校入学から3年、鍼灸など三療の国家資格にも合格し、理療科を卒業すると共に、それまで20年間勤めた職場を離れ、大きな不安を抱えたまま新たな船出に舵を切る。幼い子どもを抱えたまま、妻が看護士として仕事を続けてくれたことが、何よりも社会復帰を目指す彼の大きな後押しとなった。
 藤田さんには鍼灸の道だけで一人前になりたいという、心に秘めた望みがあった。そこで、開業に先立ち、隣町の柏崎市駅前にある、弟子が数人いる植木鍼灸治療院に1年間弟子入りをする。そこで経絡治療を学んだあと、今度は中国に飛び、北京中医学院で3カ月間の研修を受けた。そして昭和63年(1988)10月に自宅に鍼灸院を開業したのであった。
 もちろん開業初日から大繁盛というわけにはいかない。しかし、患者は少しずつ増え、数年後には毎日10名以上の患者をコンスタントに診るようになり、経営的にも次第に安定するようになった。
 開業から7年目の平成7年(1995)治療院の経営もかなり安定してきたこの年、ふるさと長岡は、昭和20年(1945)8月1日の空襲からちょうど50年目の年を迎えた。しかし、50年という月日は、空襲の記憶を人々から風化させようとしていた。
 「これではいけない。戦争の悲劇を後世に伝えるためにも、平和への願いを込めた公園を作りたい」と、少しずつ自分に自信を取り戻しつつあった彼は、青年時代に活動した平和運動への思いを、年を重ねた今こそやるべき仕事と考えた。
 そこで藤田さんは、かつての職場の仲間や地域の人たち、そして関係者に呼びかけ、「平和の森を作る会」を結成。これが市議として結実する地域活動への参加のきっかけとなるのだが、翌年7月にはこの平和運動は実り、長岡市によって市のほぼ中心部にある本町(ほんちょう)三丁目に平和の森公園が完成して、市民の浄財で数百本の木を植えることができたのだった。

盲導犬との「二人三脚」

 藤田さんは、この活動を通じて徐々に自らの生き方に自信を取り戻す。これは「障害者は何もできない人」というかつての自らの偏見と、生身の自分に対する2重の挑戦でもあった。
 平成10年(1998)、申し込んでから2年後、初めての盲導犬オパールがやって来る。藤田さんが盲導犬をパートナーにしようと決めたのは、盲学校の同期生が盛んに「盲導犬はいいぞ」と吹き込んだためで、元々犬好きだった彼は次第にその気になったのである。
 ところが彼の背中を押した友人は、結局、盲導犬を持つことを断念。「縁とは面白いものです」と藤田さんは愉快そうに笑う。
 札幌の北海道盲導犬協会での1カ月の共同訓練を終えたとき、彼は颯爽と風を切り、1人で自由に外出できる喜びを再び実感する。
 訓練を終え、自宅に戻り、盲導犬との生活が始まる。そして初めて1人でバスを乗り継ぎ自宅から7qほど離れた長岡市悠久山(ゆうきゅうざん)プールに出かけた。訓練を終えて自宅に戻って初めての単独による外出である。光を少し感じるだけの視力になっていた藤田さんは、不安と期待が交錯するなか、ハーネスをしっかりと握りしめて歩き続けた。バスを乗り継ぎ、目的地のプールに到着したその瞬間、彼は思わず感動で涙が溢れ、「ありがとう!オパール」とその場にしゃがみ込んで盲導犬を抱きしめたという。
 平成11年(1999)、それまでの様々な活動が契機となり、当時、進み始めた障害者議員を議会に送る動きに呼応して、先輩の県議の勧めもあり、市会議員選挙に革新系無所属として初挑戦した。人口18万余(当時)の中堅都市長岡市において落選候補と噂されての立候補であった。
 しかし、盲導犬オパールとの「二人三脚」の運動が話題を呼んだこともあり、選挙には日を追うごとに手応えを感じてきた。そして4月の開票結果は、仲間の大きな支援のもと、まさかの3,763票、トップ当選だった。「長岡市民の良心を強く感じた」と藤田さんは述べる。
 こうして市議となった藤田さんはこれまでに長岡市議会の一般質問に26回立ち、常任委員長も3度、さらに議会運営副委員長も務めた。「障害者に何ができる」と陰口をたたかれた藤田さんだったが、最後は所属クラブの代表まで努め、他会派との交渉にもあたった。
 そして、平成16年(2004)の中越地震の際には、障害者の福祉避難所の設置を働きかけ、市役所には触地図や点字掲示板が設置された。また、変わったところでは市制100周年を記念して、誰にでも親しまれる新しい長岡市歌の選定を市長に提案し、公募で採用された友人の作品「笑顔いきいき」という新市歌の誕生に貢献している。
 藤田さんの趣味は和太鼓やマラソン。平成4年(1992)のホノルルマラソンを皮切りに、彼はこれまでにフルマラソンを5回完走している。そして、今一番楽しんでいるのはなんとサックスの演奏だ。2期目の選挙期間中に、偶然、選挙カーのラジオからテナーサックスが流れてきて、音を出すのは比較的簡単な楽器だとの話を聞く。選挙運動に縛られ、ストレスの反動からか、再び当選したらこれをやろうと強く決意した。そして、55歳から週1回のレッスンを3年間続けた。そして現在も、CDで音楽を聴いては、1つ1つ音をとりながら吹く楽しみは何事にも代え難いという。
 藤田さんが、今、振り返って思うことは、ありのままの自分を受け入れ、そして挑戦し続けたことによって、今の自分があるということだ。欧米では障害者を「チャレンジド」と呼ぶ。藤田さんはまさに挑戦者である。障害は確かにマイナスには違いないが、そのマイナスをプラスに変えることだってできる。3重の障害を負ったヘレン・ケラー女史は、「障害は不便ではあるが、不幸ではない」と言い切っている。また、彼が好きなネイティブ・アメリカンのことわざは、「この世に生まれてきたもの全てに使命があり、目的がある」。これはこの世に不必要なものは何1つないといった意味である。
 インタビュー中に記者は、問わず語りに、東日本大震災の被災者を支援しているある理学療法士から聞いた話を藤田さんに伝えた。「被災者を受け入れている地方自治体によって待遇にかなり格差がある。その中でもっとも充実しているのは、中越地震を経験した新潟県だ」というエピソードである。すると、藤田さんは「わが意を得たり」と破顔一笑し、「長岡市には新潟県で唯一専門の介助員を配置した福祉避難所があり、障害者やお年寄りなどを受け入れています」と言って、このような形で結実した、彼が議会に居続けた3期12年間の成果を振り返った。
 ところで「63歳は、まだ、引退するには早すぎるのでは」と水を向けると、初当選のとき、「政治家は引き際が肝心」と先輩に諭されており、満身創痍での退場ではなく、余裕のあるうちに辞めたかったとその美学を語った。
 ただでさえ政治家は激務だが、睡眠時間を削りながらも藤田さんは大好きな鍼灸業を続けてきて、「二足のわらじ」をこれ以上続けると周りに迷惑をかけると、昨年の10月に引退を決意したのであった。
 最後に、藤田さんに目が見えていても市会議員に立候補しましたかと聞くと、言下に「あり得ません。定年までサラリーマンを続けていたはずで、考えようによってはこんな幸せな人生にはなっていなかったでしょう。失明したおかげで、充実した人生を送ることができたと、今は亡き母に伝えたい」と満足そうに語った。(福山)

48㎡の宝箱 ―― 京盲史料monoがたり
(4)紙製凸字(彩色カード式)

京都府立盲学校教諭/岸博実

 背中や掌になぞるのと違い、板に彫ることによって、文字はじっくりと確かめられるようになった。しかし、木刻凹凸文字は、かさ張り、たくさんの木片の中からその日の授業に必要な字を探し出すのがやっかいであった。また、製作にあたっては彫刻家に発注したが、決して安くなく、量産しにくいのも短所であった。京都府立盲唖院はそれを4セットしか注文していないので、5人以上の集団では学習しづらかったろうとも想像できる。
 こうした問題点のうち、いくつかを解決したのが紙製凸字であった。「紙に凸字を成形する」手法は、フランスのバランタン・アユイなどのやり方と似ている。それは、盲教育の入り口では世界共通の技法だったとも言える。
 西欧では凹式に成形されたこともあるが、画数の多い漢字は凹式にそぐわないと考えられたのであろう。明治期日本の盲児用教材に凹式のものはほとんど見かけない。京盲資料室には、アルファベットの筆記体を凹ませた線で表した、輸入品とおぼしき厚紙が残っているが、その表面を撫でても、指先が感じとる情報はきわめておぼろで、実用性に乏しい。
 厚紙に文字を浮き上がらせた、カタカナ、漢数字(いずれも一覧カード形式)などの紙製凸字がある。裏面が少し凹んでいるからプレス方式で作られたのは一目瞭然だ。凹状は成型の跡を示すだけで、実際に触察に用いたのは凸面だけであった。
 このタイプの紙製凸字は、木製に比べれば、型に当てて簡易かつ安価に量産できるし、置き場所も省スペースで済んだ。いろは歌のかたちでカタカナを一覧できるカードは、最も多いものだと28枚も残っている。10人を超えるような学級でも一斉授業が行えるほどの数が用意されていたわけだ。生徒が増えて行った事実の反映とも理解しうる。
 カード式凸字には、地の部分を水色・橙色・薄緑色で彩色した3タイプがある。文字はいずれも白色。文字の背景にあたる地への彩色は、弱視の生徒を念頭においたものではなく、指導する教員にとっての使い勝手のためだと思われる。発足当初の京都盲唖院の生徒に弱視生はいなかったから。ただし、このカードの製造時期が明確ではないので、断言は避けておきたい。
 縦25p、横33pのこの教具は、現在、4種類が確認できる。将棋盤のようなやや縦長の枠の中に1字ずつ表現されている。その枠の大きさと文字サイズの概要は次のとおりである。
 A.水色:いろは歌のイ〜ウ 枠(縦5.3cm×横4.3cm)字(縦3cm×横3.5cm)
 B.水色:いろは歌のヰ〜ス 枠(縦5.3cm×横4.3cm)字(縦3cm×横3.5cm)
 C.橙色:いろは歌のイ〜ス 枠(縦3.9cm×横3cm)字(縦1.5cm×横1.5cm)
 D.薄緑色:漢数字の一〜億 右半分(A.と同じ)・左半分(C.と同じ)
 これを製造したのは、誰であったか。残念ながら不明である。盲人教授用の凸文字を広く収集した鈴木力二氏の『図説盲教育史事典』にも採り上げられていない。
 ところで、ここまでの説明では、京都盲唖院草創期の指導法は、<背書・掌書→木刻凹凸文字→紙製凸文字>という順序で進んだという理解を生んでしまうだろう。だが、ことはそう単純ではない。
 木刻文字は、京都盲唖院の創立に先立つ待賢小学校での実践ですでに用いられていた。古河太四郎を盲・聾教育にいざなった熊谷伝兵衛が盲唖院開業に際して木刻文字を寄付したという記録もある。また、木刻文字や紙製凸字では判別しにくい複雑な字形をしっかりと確認したいときに「(画面の広い)背中を利用した」とも伝えられている。三つの方法は、相互補完的に用いられるようになった時期がある。
 さて、次号を予告しておきたい。今回は、彩色されたカードを紹介した。実は、これとは製法の異なる無彩色の紙製凸字を綴り合わせた教科書があるのだ。そして驚くべきは、京都盲唖院がまだ創立されていない明治9年に製造販売されていたのだ!


「紙製凸字(彩色カード式)」

(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)

編集ログ

 6月2日午後3時過ぎ、衆議院が内閣不信任案を否決したので、胸をなで下ろしました。しかし、それまでは可決し、衆議院が解散になったらという一抹の不安で、この日は朝から生きた心地がしませんでした。むろん、被災地で総選挙などできるわけがなく、首相が解散に打って出る公算はごく僅かでした。それでも万が一に備え、私たちは朝から点字用紙や亜鉛板、カセットテープの資材が間に合うかどうかで大わらわでした。さて、当日の朝、全国紙にすべて目を通しましたが、『産経新聞』だけが1面で「不信任案 可決の公算」と打ち、他社の社説に相当する「主張」で、「不信任案が可決された場合は時期の問題はあるが、解散・総選挙により国民の信を問うことを最優先すべきだ」と、世論を煽っていました。現実無視のまったく無責任な、壮士気取りの暴論というべきでしょう。
 最近、私は怒りやすく、「巻頭コラム」の「少々頭に血が上った参加者」という道化師は実は私のことです。詐欺まがいのことをした重度障害者収容施設の責任者のプロフィールは大変立派なもので、偽善者と呼ぶには充分ですが、入所者に対してだけは誠実であることを願うばかりです。
 今月号から吉川惠士先生のロングインタビューを5回にわたって連載します。理療科教員養成制度の現状と未来に関しては、心静かにしておられない様子で、実際に、深刻な課題に言及されました。しかし、実際のインタビューは、先生の「わっはっは」との豪放磊落な笑い声が絶えない、初夏の空のようにさわやかなものでした。(福山)

お詫びして訂正します

 本誌先月号(6月号)「時代の風」中、「長尾榮一さんありのまま自立大賞受賞」の記事で、先生を79歳と書きましたが実際は80歳で、1982年に医学博士号取得とあったのは1979年の誤りです。お詫びして訂正します。

投稿をお待ちしています

 日頃お感じになっていること、記事に関するご意見などを点字800字以内にまとめ、本誌編集部(tj@thka.jp)宛お送りください。

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