地震はいつ起こるかわからず防ぎようがない。しかし、津波は防波壁と警報である程度は防げるはずで、原発は絶対安全なはずではなかったか?
東北地方太平洋沖地震で被災した福島第1原発1号機は、原子炉を安全に冷やすために必要な外部からの電力供給や非常用のディーゼル発電機がすべて使えなくなり、発生から1日で炉心溶融という最悪の事態に陥った。
このため原子炉内の圧力を、弁を開き放射性物質とともに外へ逃がすという「禁じ手」を使ったほか、炉心溶融を止めるために原子炉内に海水を注入して冷却するという「荒業」を重ね、事態の収拾を図っている。1号機の場合は営業運転開始(1971年)から40年がたっており、廃炉やむなしという決断なのだろうか?
今回の非常事態に対して、東電は「想定外」を繰り返している。確かに今回の大地震はマグニチュード9.0という未曾有の激震だから、うっかり首肯してしまいそうになる。しかし、同原発のディーゼル発電機の故障は今回が初めてではない。少なくとも、平成15年9月、平成16年4月、平成16年9月、平成19年6月と4回もトラブルが相次いで発生しており、いわば前科4犯なのである。
そして、もっとも私が腑に落ちないのは、東電は、世界第4位の巨大電力会社であるにもかかわらず、停電(ブラックアウト)という、自らの商売を否定するようなことで、大事故を起こしたということだ。
東電のホームページには今でも、「災害に強い 世界に誇れる 発電所を目指して (新潟県中越沖地震)×(柏崎刈羽原子力発電所)」「柏崎刈羽原子力発電所では地震発生以降、安全を第一として設備の点検・復旧、耐震強化工事などを着実に進めています。また、こうした状況や結果につきましては、引き続き、皆さまに分かりやすくお伝えしてまいります」と述べているが、今となっては、ブラックジョークにしか思えないのは、私だけなのだろうか?(福山)
京都府立盲学校(京盲)は、明治11年(1878)に『日本最初の盲唖院』として創立された学校で、ここに広さ48㎡の「資料室」がある。
昭和初期の校内配置図に現れた「参考室」は、戦後もその名前で生徒用のはく製や模型等と創立以来の文書類を保管していた。「資料室」に模様替えされたのは昭和30年代だと伝えられる。創立90周年を迎える時期に、史料の確認と整理が行われ、数千にのぼる品のうち、約750点が京都府の有形文化財に指定された。
京盲資料室は、130年余におよぶ盲・聾教育史を彩る収蔵品を擁している。内容は、学校文書、教材・教具・教科書、視覚障害教育関係の書籍、点字新聞、写真・フィルム、レコードなど、多岐にわたる。それは、日本の視覚障害教育の歩みを明らかにするうえで欠かせない第一級の史料として注目され、加藤康昭氏(注1)や鈴木力二氏(注2)の名著の苗床となった。
近年は、京都市学校歴史博物館による「京都盲唖院発!障害のある子どもたちの教育の源流」展や国立民族学博物館の『点天展』をきっかけに来室者が急増している。研究者から注目され、教員・ボランティアの研修、マスコミ取材も相次ぐ。
木や紙でできた凸字や点字書籍などは、いま在籍する児童生徒が直接手にとっていきいきと学ぶことのできる素材でもあり、たっぷりと魅力をたたえている。
京都盲唖院(後の京都府立盲学校・京都府立聾学校)を創設し、近代日本における視覚障害教育・聴覚障害教育の黎明期をリードした古河太四郎(1845〜1907)などの創造した教材群は、それを生み出した母なる現場にあるからこそ本来の力を発揮するのだ。その中には、江戸時代の鍼灸・邦楽・当道座・言語などに関する古文書をまで含み、全体として、医学史、芸能史、文化史、福祉史などの観点からの幅広い検討にも役立つものでもある。昨年秋には、歴史史料を保存し利用する機関の全国大会にもポスター発表を行い、歴史研究者に向けた広報も行った。
同窓会員・元教員・大学院生など13名で、平成22年春に結成した「京都府立盲学校資料室ボランティア」の力を借りながら、文書のデジタル化、保存・修復、耳や触覚を通して観賞していただくためのレプリカ作製、ガイド活動などに務めている。来室者が増すにつれて、視覚に障害のある人もない人も共に学べ・楽しめる資料室づくりへの期待が高まっている。史料へのアクセスにおけるバリアフリー化も求められている。
手前味噌ながら、京盲資料室は、今、「ほこりをかぶって」は、いない。特別支援教育に移行していく局面で、この教育の出発点やその後の発展過程、それを実現してきた先人の熱気や工夫から学び直しておくべきことが少なくない。
このたび、この「48㎡の宝箱」のふたを開き、皆様にご紹介する機会を得たことを心から喜んでいる。ご一緒に、「グッズを生んだ力」「グッズが発揮した力」「グッズの今日的意義」を深めていきたい。
視覚障害教育と福祉の歴史を研究する新たな輪がかたちづくられ、筑波大学附属視覚特別支援学校の資料室をはじめ全国の関係機関が保有する史料の活用をめぐる将来展望を探るきっかけともなれば、さらに幸いである。
(注1)加藤康昭(1929〜2002):東京教育大学大学院教育学研究科修了、教育学博士。茨城大学教育学部教授。著作『わが国特殊教育の成立』、『盲教育史研究序説』。
(注2)鈴木力二(1908〜1984):東京盲学校師範部卒。都立葛飾盲学校長。著作『盲学校というところ』、『日本点字の父 石川倉次先生伝』、『中村京太郎伝』。
明治中期の京都府立盲唖院校舎を描いた絵(唖生・児玉渓堂による日本画)
(写真は著者のご要望により、ホームページに限り掲載しています)
読売新聞のウェブサイト「ヨミウリ・オンライン(YOMIURI ONLINE)」に、「あの日あの時」というコーナーがある。その中に、「日本の国名を『ニッポン』と呼ぼう――。閣議でそう決めた日があることをご存じない方もいるのではないだろうか」という記事が掲載されている。http://otona.yomiuri.co.jp/history/20090714_01.htm
世界最大の1,000万部を超える大新聞で、信頼性は抜群であるはずなので、この記事をうっかり信じそうになった。しかも、それに続けて、「この閣議決定を報じた1970年7月15日付の読売新聞によると・・・」と、その根拠となる紙面の「キリヌキ」が画像ファイルで貼り付けてあるのだ。
ただ、そのキリヌキは「ニッポンと呼ぼう 閣議で一致」という見出しは読めるものの、本文は、いくら拡大しても不鮮明で読めなかった。そこで、職場と同じ東京・高田馬場にある新宿区立中央図書館で当日の新聞を探してみた。
新聞の縮刷版は、ご存じのように実際の新聞を4分の1ほどに縮小して製本してあるので、とても読みにくい。そこで、最近はパソコンで手軽に読めるCD-ROM版が持て囃されている。しかし、残念ながら3台ある専用パソコンは埋まっており、目をしばたかせながら、茶色く変色した縮刷版に取り組んだ。
しかし、「ない」のである。7月15日付の読売新聞を念のため、4回も目を通したが、そのような記事はなかったのだ。ただ、関連記事が2編もあったので、もしやと思い、前日の夕刊を調べてみると、1970年7月14日付読売新聞(夕刊)の1面にくだんの記事があった。
でも、「閣議で一致」とは書いてあるが、「閣議決定」とは書いていない。そればかりか、紙上で山中総務長官(当時)は、「日本の呼称を正式にニッポンとするためには、いくつかのはっきりとした根拠が必要で総理府の公式制度調査会で検討しなければならない・・・閣議後佐藤首相と相談した結果、ただ慣行上ニッポンとするだけということだったので、公式制度調査会などでの検討は行わない」と語っている。見出しは確かに紛らわしいが、熟読すれば閣議決定ではないことははっきりわかる。掲載日も間違っているし、「あの日あの時」を書いた記者は、本当にくだんの記事を読んだのだろうか? 2重に間違えて、しかも「キリヌキ」の画像ファイルの本文が読めないのでは、いろいろ不審を抱かざるを得ない。
ところで、この件に関しては、岩國哲人衆議院議員(当時)が、2009年6月19日提出の「日本国号に関する質問主意書」で、実は国会で質問しているのである。
昭和45年7月、佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について、「『にほん』でも間違いではないが、政府は『にっぽん』を使う」と、「『にっぽん』で統一する旨の閣議決定を行ったが、法制化にまでは至らなかった」、「この閣議決定は現在でも維持されているか」というのがそれだ。
これに対する麻生太郎首相(当時)の答弁は明快で、「『日本』の読み方については、ご指摘のような閣議決定は行っていない」、「『にっぽん』又は『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている」と否定している。http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b171570.htm
点字の業界で「日本の国名」を点字でどう表記するかは、昔からの重要課題である。
実は小誌を含めた当点字出版所では、「日本」を正式の国号として使う場合は「ニッポン」と表記し、そのほかの場合は言葉に応じて読み分けている。しかし、その根拠となるとはなはだ曖昧模糊となる。あえていえば、日本の紙幣や郵便切手には「NIPPON」と記載されており、各種、国際スポーツ大会でも公式に「NIPPON」と登録され、公式に国名を表記する場合は、「ニホン」より根拠が多いということだろうか。NHKが国名を呼ぶとき「ニッポン」としていることも背中を押す一因になったと思う。ただ、読売新聞に惑わされたためでないことは、一応ここにお断りしておきたい。(福山)
3月11日の東北地方太平洋沖地震による被災者の皆様に心からのお見舞いを申し上げます。当協会は編集室の書架が傾いたくらいで、人的・物的被害はありませんでした。しかし、帰宅難民が30名近く発生するとの予想から、地下倉庫に備蓄していた毛布を持ち上げ、それに臨床用も加えて4、50枚用意し、ヘレン・ケラー学院の治療室や和室の実技室、出版所の絨毯敷きのスタジオや会議室を仮眠室に仕立てました。しかし、西武線が午後10時頃復旧したことや、友人宅に泊めてもらう人が多かったこと、翌日が土曜日であったため、はしご酒を決め込む猛者もおり、結局、14人(内女性3人)だけが協会で夜を明かしたのでした。そのうち点字出版所の男性3人は視覚障害者(内全盲2人)でした。
「自分が変わること」の藤原章生さんは、現在、リビアの騒乱から逃れてきた避難民でごった返すチュニジア南東部リビア国境「ラサジール」で取材中です。そして現地から、原爆にまつわるとても重いテーマの原稿をお送りいただきました。藤原さんのご健闘と安全をお祈り致します。
今号は地震の影響で、次号は統一地方選の「点字選挙公報」発行のため、極めて困難な編集・印刷体制とならざるを得ません。発行が遅れるようなことがありましたらお許しください。(福山)
先月号(2011年3月号)「時代の風」の「ホームドア増設へ」の中で、「線路側に線状のガイドがある点字ブロックに変わる」と記載しましたが、正しくは「線路と反対側に線状の・・・」の誤りでした。ここにお詫びして訂正致します。
先月号の「よりどりみどり風見鶏」(最終回)で、水谷昌史さんは、ステファニー・メイヤー著『ザ・ホスト』を取り上げて、「点訳データのみサピエにアップされています」と書かれました。そして実際に、今現在アップされており、ダウンロードすることが可能です。しかし、本誌先月号が発行された直後では、ダウンロードすることが不可能でした。ご迷惑をおかけした皆様に、ここにお詫び申し上げます。(編集部)