第41巻12号(通巻第487号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
振替口座:00190-5-173877
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巻頭コラム:危険なカタルシス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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さらなる連帯を確認 アジア太平洋盲人福祉会議報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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中期総会を終えて ―― 指田WBUAP会長に聞く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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記念碑建立に寄せて(木村愛子) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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日点創立70周年と記念事業(岩上義則) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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海外援助の1例から 世銀・ジャネットミニ研究会報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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よむべえ3,000台感謝キャンペーン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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日盲連島根大会へのお誘い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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水谷さんに物申す(田中徹二) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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投稿に答えて 「按摩師の、2免許制度について」
(品田武、藤井亮輔) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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自分が変わること:信じる人にひかれて その8 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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リレーエッセイ:炎のマエストロの指揮が明日への光を点す(綱川泰典) ・・・・・・・・ |
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外国語放浪記:ギリシャの白い家 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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あなたがいなければ:魂の会話ができる人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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よりどりみどり風見鶏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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大相撲:平成生まれの関取誕生 ―― 高安、舛ノ山 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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時代の風:随筆随想コンクール入賞者決定、大阪で踏切に点字ブロック
広州2010アジアパラ、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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伝言板:第1回視覚障害者クライミング世界選手権大会、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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尖閣諸島沖で中国の漁船が巡視船に衝突した際のビデオがインターネット上に流出するとテレビではこれでもかといわんばかりに流され、誰もが溜飲を下げた。中国人船長は釈放され、証拠のビデオも一般公開されず割り切れない思いをいだいていた人々が、心の中で喝采を叫び、ある種のカタルシスを感じたのだ。
この事件は、戦前に煮え切らない政府に対して、マスコミが煽り、世論が沸騰して「暴支膺懲(暴虐な中国を懲らしめよ)」のかけ声のもと、陸軍の一部が勝手に中国で戦線を拡大したときの構図と同じだ。
日本の保守政治家が「日本は侵略していない」と言い張るのも、「国家としての侵略の計略やそれによる統一した実行はなかった」ことをその拠り所にしているが、なにより実態は侵略そのものだ。
一方、侵略によって中国に迷惑をかけたことを理由に中国を擁護する政府首脳が、戦前の日本政府の轍を踏んでいるのは、戦慄すべき皮肉である。(福山)
「今回の中期総会が円滑に運営できたのは、外国からの参加者を空港まで送迎に当たったり、案内に立っていただいたボランティアの皆さま、日盲委、日盲連関係者の助力によるところが大きかったと深く感謝致しております。また、実際の運営に当たった田畑美智子WBU執行委員を始め、WBUAPの役員や各地区の議長には分科会の司会や運営に本当にご尽力いただきました」と、深い感謝の念を指田忠司WBUAP会長はまず口にした。
以下は、2010年アジア太平洋盲人福祉会議(2010WBUAP中期総会)を成功裏に終えた指田WBUAP会長に、電話でインタビューした内容をまとめたものである。
中期総会にはブルネイ、東チモール、サモアを除くWBUAPに加盟する19の国と地域の代表の他に、デンマーク、英国、カナダからの参加者もあって会議の議論に厚みを与えた。特に開発についての分科会では、WBUAPとデンマーク盲人協会が、現在モンゴルとラオスで行っている能力開発プロジェクトの成果が報告され、開発援助のあり方の1つとして各国で共有できたことには大きな意義があった。また、大会テーマにも掲げたが、WBUAP各国では障害者権利条約の情報の普及が全体に浸透していないため、分科会を設けて徹底的な議論を促した。日本はこれから条約を批准するので、それに向けて大きくアピールできたのではないかと思う。
2008年にダイアモンド氏がWBU会長に就任し、雇用問題への取り組みが強化されてきた。WBUAPでも雇用経済強化委員会を設けて、マッサージを含めて経済的自立に向けて各国・地域で何ができるのか、それらを発信するために何ができるのかが話し合われた。また、WBUAPには東アジア、東南アジア、太平洋オセアニアの3地区があり、各地区ごとのミーティングを大会中に開催した。日本は、韓国、中国、台湾、モンゴル、香港と共に東アジア地区に含まれ、相互訪問はしているが、意外に一堂に会して話し合う機会は少ない。普段Eメールなどで連絡を取り合っているが、言語の壁もあって、うまく情報が伝わっていないこともあり、地区メンバーが顔を揃えて話し合ったことは大変有意義であった。
中期総会では定款改正も行われた。WBUAPにはサポーター制度があったが、機能していなかったので、定款改正で個人からも寄附金が集められるようにした。
今大会では、千葉宣言が決議された。その内容は、(1)権利条約の批准、(2)雇用問題への取り組み、(3)青年組織の強化、(4)女性差別撤廃条約や権利条約とリンクさせた視覚障害女性の地位向上への取り組み、(5)デンマーク盲人協会の活動や他の国際支援団体への協力、(6)大会協力者への感謝の6項目である。
大会終了後の11月2日には、早速、デンマーク盲人協会のプロジェクトについて集中討議され、来年(2011)ラオスでWBUAP、デンマーク、ラオス、モンゴルによる会議を行うことが確認された。(戸塚辰永)
元筑波大学附属視覚特別支援学校教諭/木村愛子
11月1日(月)、東京・市場橋(いちばばし)公園で「東京盲唖学校発祥の地・日本(にほん)点字制定の地」記念碑除幕式が、続いて中央区立築地社会教育会館にて記念式典が開かれました。私が除幕式で碑文を朗読しましたので掲載します。
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東京盲唖学校発祥の地
日本点字制定の地
1879(明治12)年ジョサイア・コンドル設計による校舎完成
1880(明治13)年楽善会訓盲院として開校
1887(明治20)年官立に移管 東京盲唖学校と改称
1890(明治23)年日本点字制定
2010(平成22)年11月1日之を立つ
筑波大学附属視覚特別支援学校
筑波大学附属聴覚特別支援学校
記念碑建立実行委員会
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石碑の上段左側に、ブロンズで作られたコンドルの設計図をあしらった学校の立体図が、右側には菅野智明(かんの・ちあき)先生直筆の碑文があります。
当日は、100名を越える方々が集い、90歳を超えられた上田薫元校長、盲・聾同窓会の皆様、OBと現職の教員・事務官、そしてお世話になり、さらに今後、石碑を守ってくださる中央区の区長と議員、教育課・土木公園課の職員等が出席くださいました。
記念碑建立のきっかけ
2006年12月、国立大学法人筑波大学附属視覚特別支援学校(以下、附属盲)、元小学部教諭下田知江(ともえ)先生が逝去されました。下田先生は、かねてから盲学校創立についての研究者で、何度も中央区築地に足を運ばれ、『盲界事始め』に、盲教育の事を詳しく書かれています。タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)には先生の著書が飾られています。
2008年12月、下田先生を偲ぶ会が開かれました。私は先生の教え子で、中央区に在住しているので、会場選定係になり、老舗の宮川うなぎ店を選びました。偲ぶ会に集まった方は、先生とともに小学部で子供たちの教育に当たった先生方、本校で歴史に携わっている先生方等20名ほどでした。
2009年1月末、偲ぶ会に参加した浅海(あさうみ)福子、岩崎洋二、金本りせ子、木村愛子の4名が有楽町のレストランで会い、「盲学校発祥の地築地に石碑を建立したい」という下田先生の数十年にわたる思いを実現しようと話し合い、「あなたは、築地に長く住んでいるのだから、必ず石碑建立の手伝いをしてね」と言われました。私は祖父の代から120年余り住んでいるため、弟にも多大な援助を受けながら4人のひとりとして活動してきました。
実行委員会
2009年2月から、いつも4人でタイムドーム明石に数回行きました。この建物の床には、明治はじめの中央区の地図が描かれており、次長さんと現場の係の方に会って、当時の築地3丁目15番地の場所を確認しました。現在は、すし屋がいっぱい軒を連ねています。
そこで、国立がん研究センター前の歩道の角が良いと考えましたが、区の方が無理と言われ、次に、発祥地の真向いの駐車場脇の草地を考えましたが、地元の方が、車も来るし、ラジオ体操も毎日行うので無理となり、最後に、区の議員さんから「市場橋公園内で良く見える所はどうでしょう」と提案があり、実行委員会も同意して設置場所が決まりました。実際の発祥の地の斜め前になります。
実行委員会は、2009年10月から発足し、引田秋生(ひきた・あきお)校長が、聾学校にも話しかけてみようと言われ、ご尽力が実を結び、実行委員長は盲学校長、副実行委員長は宮本信也(しんや)聾学校長。実際には今井二郎副校長がずっと参加してくださいました。メンバーは、盲・聾両校の同窓会、後援会の方々、OB会の先輩諸先生、日点委の代表木塚泰弘先生、元校長飯野順子(じゅんこ)先生ら20名ほどで月1回、合計8回、暑い夏も行いました。発起人は、元校長、元教頭、実行委員会メンバー、現教員で、42名、聾学校側16名にお願いしました。
2010年2月、何度もお会いした中央区教育長高橋春雄(はるお)様から、「石碑設置」の許可を口頭で受け、7月に書類を整えて完全に決まりました。なお、土木公園課の方々にもご協力いただき、今後、中央区が無料で石碑を守ってくださりますが、書類は毎年書き換える事になっています。
石碑について
1874年、スコットランドのプロテスタント宣教師ヘンリー・フォールズが来日して、築地に診療所を開設しました。ここで、日本人に眼の病気を患う者が多い事に気づき、翌年、信徒の日本人も一緒に、「盲人教育の保護事業を起こす事」を提案し、楽善会ができ1877年に政府を動かして盲教育が始まったわけです。有名な山尾庸三は、外国人の力に頼る事を好まず、フォールズは楽善会を抜けたと言われています。その後、岩倉具視の助力を得て皇室から3,000円が贈られて、1880年学校が設立され、盲生2名、聾生2名が入学して、楽善会訓盲唖院と改称されました。
築地の聖路加病院周囲には、フォールズの影響で、立教、立教女学院、女子学院、雙葉、関東学院等のキリスト教関係学校の石碑が20数個あります。
事務局4人は、つるつるしていて赤みがかった、文字もはっきり彫られている立教女学院と関東学院の石碑を参考にさせてもらおうと、メジャーで石碑だけでなく、文字の大きさまで測定し、実行委員会に提案。子供でも触れる高さ約1m(台は30cm)、幅1mにして、コンドル設計の校舎を立体で入れ、現行の点字の大きさで点字も刻印することにしました。手話も入れたらという話もありましたが、結局聾学校の方でいらないと言われました。
このような条件で、元附属盲の美術科教師でブロンズ像の製作者として著名な筑波大学の芸術学系教授の柴田良貴(しばた・よしき)先生に石碑の監修を、石碑の製作には原忠信(ただのぶ)先生、文字は菅野先生に、そして、ブロンズは、柴田先生の直弟子の大学院生江村忠彦さんにお願いしました。製作者の氏名は石碑の後面に彫ってあります。石は、インド産の赤ミカゲで、高さ83cm、幅90cm、奥行き60cmで、台は、公園内のコンクリートが30cmでそのまま使わせていただきました。筑波の石屋さんが、芝生を用意して、石碑の左右に植えてくださいました。
矢田美英(やだ・よしひで)中央区長の祝辞にもありましたが、築地が明治の学園地で、官立の記念碑が25校目と区切りも良く、本当に良かったと思います。小さな石碑の前に立った時に、私は、100年ぶりに盲と聾が共に仕事ができた喜びを感じました。今後、教育内容は異なりますが、ともに社会参加し、国内外に日本人として活躍する事を心から祈っています。
日本点字図書館館長/岩上義則
昭和15年11月10日に豊島区雑司が谷で日本盲人図書館の名称で産声を上げた日本点字図書館(以下「日点」)は、以来70年、皆様の温かいご支援のおかげで創立70周年を迎えることができました。そして、去る11月13日には大勢のご臨席をいただいて盛会裡に式典を終えることができました。改めて深く感謝を申し上げます。
弱冠25歳の本間一夫によって創設され、点字図書700冊で出発した日点が、今日では点字図書2万2,000タイトル以上、録音図書2万5,000タイトル以上を有する大日点に成長しております。しかも事業は拡張の一途を辿り、用具部の創設、プライベートサービス、点字教室、パソコン教室など多岐にわたり、視覚障害者総合福祉の拠点として揺るぎない地位を築いてまいりました。輝かしい70年の歴史の中で、特に50周年以後は、目覚ましいICTの進展に支えられて情報革命を成し遂げた20年でした。
そこで、創立70周年を、サービスの改革達成と次なる飛躍を誓う節目として位置づけるとともに、4つの記念事業を進めています。ここではそれをご紹介させていただきます。
1.「点訳奉仕運動70周年記念冊子」の製作
日点の創立70周年は、点訳奉仕運動開始から70年を意味します。それを記念して、今までの日点の歴史の中の点訳奉仕活動を冊子にまとめ、11月に発行しました。「心の家」主催者で社会教育家後藤静香が日点創立者本間一夫にボランティアによる点訳奉仕を提案したのは、開館を間近に控えた昭和15年10月13日。後藤静香は翌11月から「心の家中央部」を会場に点字講習会を開催しました。以来70年間、講習会で育った点訳者、戦後に日点が始めた通信指導によって育った点訳奉仕者により、現在は2万2,244タイトル(7万7,307冊)の蔵書を有します。冊子は「黎明期」と「戦後」の2部構成にし、別項目で日点発行の点訳指導書「点訳のしおり」の変遷にみる点字表記の移り変わり、触図の拡がりも紹介しています。A4・24頁。
2.「70周年記念誌」の製作
編集対象となる期間は、創立50周年から後の20年です。50年の際の記念誌は『われら播し一粒の麦は』のタイトルでしたが、今回のタイトルは『新たな世紀、新たなサービス ―― 電子図書館の歩み ―― 』です。このタイトルが物語りますように、1990年から今日までの20年は21世紀を迎え、図書データを始め書誌情報、貸し出し・返却、製作工程など日点が管理するすべてのデータを電子化して電子図書館を目指した歩みでした。記念誌の内容はそれを振り返り、今後を展望するものです。
掲載内容は、「関係各位からの祝辞」、「70周年記念事業の報告」、「写真で見る建て替え・仮移転の時代」、「創設者本間一夫の思いと人生」、「日点が授与し、受賞した表彰」、事業や組織の変遷、「年表」等です。A4160頁を予定しています。
3.「先人の声 ―― 歴史を築いた50人CD版 ―― 」の製作
これは、創設者本間一夫が「視覚障害者にとって人の声はアルバムに等しいもの」との考え方に基づいてカセットテープで収集保存していた盲界先人たちの声を音楽CD2枚にまとめて収録したものです。視覚障害者の教育・福祉・三療・芸能・宗教活動などに優れた業績を残し、盲界の礎を築いた50名の人たちです。人選は日本点字委員会顧問の阿佐博氏を中心に行いました。本間一夫を始め、秋元梅吉、岩橋武夫、熊谷鉄太郎、鳥居篤治郎、宮城道雄など、錚々たる先人の肉声です。このCDは、記念式典においで下さった方に差し上げたほか、「創立70周年特別募金」(本年4月〜12月)にご寄付くださった皆様に差し上げることになっています。今後の利用法につきましては現在検討中です。
4.「映像で見る日本点字図書館」の製作
日点の過去と現在を21分の映像とナレーションでまとめました。創設者本間一夫の生い立ちから戦時中の困難、戦後の発展、今日の事業の数々を貴重な写真や映像で紹介しています。映像は70周年記念式典で上映しました。今後は、全国各地から来館される見学者に日点をよりよく知っていただくための資料としてご覧いただくほかホームページ(http://www.nittento.or.jp/)でも公開する予定です。
日点は、歴史の記録を通してサービスの原点を確認し、さらなる情報の近代化とサービスの飛躍に向けて羽ばたく決意ですが課題山積です。サピエ図書館の充実と「視覚障害者その他視覚による表現の認識に障害のあるもの」へのサービスが情報提供のあり方を大きく変えていくだけに関係団体との連携を一層密にしなければなりません。読書環境の改革は果てしなく続きますが皆様のご支援を宜しくお願い致します。
本誌6月号(通巻第481号)の「ヤンゴンでマッサージを教える ―― 塩崎さんの米国からミャンマーへの軌跡」で紹介しました塩崎真也先生と、2009年3月に平塚盲学校を卒業し、先生のティーチングアシスタントを務めるダンクン・チャンさんが9月25日にヤンゴンで結婚されました。お2人の末永いお幸せを心よりお祈り致します。
今月号の「リレーエッセイ」は、新年1月23日(日)に、第一生命ホールで開催される当協会主催の「ハッピー60thコンサート」にも出演していただく、綱川泰典さんに書いていただきました。同コンサートのチケットはすでにペア券が売り切れており、2階席の30席程度を残すだけになっております。お求めはお早めにチケットぴあにてお願い致します。
田中先生の「水谷さんに物申す」については、次号の「よりどりみどり風見鶏」において釈明していただきます。良きにつけ悪しきにつけ、水谷さんの問題提起により、今月号の誌面は、俄然賑やかなものになりました。(福山)
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