THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2010年10月号

第41巻10号(通巻第485号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
3つの電子辞書を搭載 ―― らくらくホン7発売中! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
4
3年後に向けて北の大地に集う! ―― 第20回全国盲ろう者大会より ・・・・・・・・・
5
日本でWBUAP総会開催の年にサリバン賞に岩橋明子さん ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15
阿蘇で自然と科学技術の体験サマーキャンプ開催(丹治達義) ・・・・・・・・・・・・・・・
22
(短期集中連載)H(ホース)クラブ36年の
  栄えある歴史にピリオド(3)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
28
スモールトーク:「新聞泥棒」との闘い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
33
2010年アジア太平洋盲人福祉会議(2010WBUAP中期総会)締め切り迫る! ・・・・
36
自分が変わること:信じる人にひかれて その6 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
リレーエッセイ:ウィーンで感じたこと、
  考えたこと、思いを新たにしたこと(南谷和範) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
43
外国語放浪記:少し真面目に第2外国語 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
48
あなたがいなければ:友達の離婚から感じたこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
52
よりどりみどり風見鶏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
57
大相撲:土俵の鬼・初代若乃花逝く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
61
時代の風:視覚障害女性裁判員に、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
65
伝言板:ロゴス・チャリティ映画会、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
69
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
72

巻頭コラム
ネパールが最も平安な季節

 10月22日〜11月2日の日程でネパールに出張します。このため、本誌が長年お世話になっている指田忠司さんや田畑美智子さんの晴れ舞台である10月29日〜11月1日のアジア太平洋盲人福祉会議(WBUAP中期総会)には出席できず、とても残念です。
 この期間にネパールに行くのは、ちょうど「ダサイン」と「ティハール」という大きなヒンズー教のお祭りの中休みにあたるからです。この間は、大学生やカトマンズで働く労働者は、1カ月余の休みを取って帰省し、さしものテロリストや過激な政治扇動家たちもふる里に帰って憩います。このため、この時期は、誘拐も暴動も、交通妨害もゼネストもない、無政府状態の国であってもとても安全に過ごせます。
 ただ、たまらないのは我々が訪問する学校の校長先生です。実際は平日なのですが、「こんな忙しい時になんで来た!」と怒ります。そこで我々は、命をかけるよりもまだましと首をすくめるしかありません。(福山)

3年後に向けて北の大地に集う!
―― 第20回全国盲ろう者大会より

 8月20日(金)から23日(月)までの4日間、(福)全国盲ろう者協会と全国盲ろう者団体連絡協議会(以下、協議会)は、札幌市中央区の札幌プリンスホテルを主会場に第20回全国盲ろう者大会を開催した。1991年に栃木県宇都宮市での第1回大会から、「北海道・東北ブロック」での大会は初で、これでやっと全国6ブロックを一巡した。
 「これも、厚生労働省の格別のご理解、多くの企業や善意の個々人のご支援があったればこそ」と全国盲ろう者協会阪田雅裕(さかた・まさひろ)理事長は、開会式で感謝の言葉を述べた。
 今回の大会の参加者は、約650人(うち盲ろう者190人、通訳・介助者、スタッフ等460人)で、大会では、福島智氏の講演、分科会、全体会、小樽観光などを行い交流と親睦を深めた。

3年後に向けて

 3年後の2013年には、4年に1度行われる盲ろう者の祭典である第10回ヘレン・ケラー世界会議と第4回世界盲ろう者連盟総会が日本で開催される。
 20日午後の開会式に続いて、札幌プリンスホテル国際館パミールで開かれたスペシャル企画では、世界盲ろう者連盟(WFDb)アジア地域代表の福島智氏(東京大学教授)が、全国盲ろう者協会評議員の門川紳一郎氏(視聴覚二重障害者福祉センターすまいる理事長)の司会進行で、両氏が参加したヘレン・ケラー世界会議の様子や雰囲気を語り合った。
 福島氏は、1989年に初めて参加したスウェーデン・ストックホルムでの第4回ヘレン・ケラー世界会議で、すでに盲ろう者の文化について話題にのぼっていたことが印象的だったと話し始めた。見えない、聞こえないという障害の盲ろう者には、独自の文化がある。それは、触れあうことでコミュニケーションをするということ、コミュニケーションすることが生活の中でもっとも大きな意味を持つというものであった。この時「盲ろう者文化」と聞いて衝撃を受けた。盲ろう者として単に不便や困難だと受け止めるのではなく、盲ろう者独自の文化ととらえる発想に刺激を受けたのである。そして、こうした議論とは別にくだけた話し合いの場では、「日本にもゾウがいるの?」とストックホルムの盲ろう者から真顔で質問されて面食らった。福島氏は「スウェーデンで暮らしている盲ろう者にとっては、ゾウと日本が結びつくほど、日本は遙か彼方の遠い国なんだと感じた」とこのエピソードで締めくくった。
 昨年(2009)アフリカのウガンダで開かれた第9回ヘレン・ケラー世界会議に参加した門川氏は、「観光でビクトリア湖の遊覧船に乗ったが、湖が大阪の道頓堀川みたいに臭かったのにはがっかりした。けれども、アトラクションでアフリカのお祭りの踊りを参加者全員で踊ったことがとても楽しく思い出される」と、笑いを誘いながら説明した。
 福島・門川両氏の話を受けて会場からは、「よさこいソーランをパーティで踊っては?」「日本文化を紹介するために和服の着つけを行って、お茶会を行っては?」「佐渡島を拠点に活動する創作和太鼓グループ『鼓童(こどう)』を紹介して、参加者にも太鼓を叩いてもらいたい」「普段練習しているフラダンスを発表し、参加者と踊ってみたい」等の積極的な意見が次々と出された。
 第10回ヘレン・ケラー世界会議と第4回世界盲ろう者連盟総会は、2013年5月下旬〜6月上旬の1週間、千葉市の幕張で開催される。そのため、全国盲ろう者協会は世界会議の準備に集中するため、来年(2011)静岡県浜松市で行われる全国大会を開くが、それ以降は、しばらく全国大会を中断することが発表され、了承された。

分科会報告

 21日と22日午前に行われた分科会は、(1)盲ろう者の就労と老後、(2)毎年行う厚生労働省への要望項目のための意見交換、(3)盲ろう者大会の運営方法、(4)日常生活での工夫、(5)盲ろう者が使いやすい施設などのテーマで話し合いが行われた。
 ここでは、21日午前に行われた第2分科会の「就労と老後」と同日の第1分科会「全国の盲ろう者の生の声を聞く」(午後の部)の模様を紹介する。
 第2分科会は、山形県盲ろう者友の会の相蘇健太郎氏の司会で行われた。前半は就労がテーマであったが、盲ろうといっても盲からろうになった人、ろうから盲になった人、また盲ろうになった時期、現在の年齢により就労形態も異なる。そのため、全体で問題を討議するのではなく、それぞれの仕事の状況や仕事で困っていることなどが発表された。
 盲からろうになった人では、盲学校でマッサージを学び、按摩・マッサージ・指圧師免許を取得しており、自宅や老人ホームで働いているという人が数人いた。相蘇氏は、家族の通勤介助、パソコンの活用、職場の理解もあって老人ホームの機能訓練指導員として6年以上働いている。
 ろうから盲になった人では、ろうから成人後に徐々に視力が衰えてきた人が一般企業で就労している他は、作業所で仕事をしている人が多く見られた。同僚が手話を自主的に覚えて対応しているというケースもあったが、一般企業で働いている人はコミュニケーションや通勤などの移動で苦労しているとの話が相次いだ。作業所で働いている人からは、工賃の安さや、雪道での通所の問題が話題にのぼった。
 続いて、老後について、65歳以上の盲ろう者数名が、個々の現状を報告。盲ろう者友の会に今年から加わった女性は、「1人での外出もできず、コミュニケーションも難しいのに、家事や家の中での移動ができるから『自立している』と判断された。これまで認定してもらえなかったが、市と交渉してようやく週2時間だけ介護保険が認められた」と話した。これに対して、盲ろう者には通訳・介助者派遣事業があるのだから、そちらを活用すべきだとの意見が出た。これは、盲ろう者間の情報格差だが、やる気のある自治体とそうでない自治体のサービス格差の問題ともいえよう。
 21日の午後には、厚生労働省へ要望する内容を検討するために「全国の盲ろう者の生の声を聞く」が、愛媛盲ろう者友の会高橋信行氏の司会進行で行われた。
 冒頭、盲難聴の女性は、地元自治体主催の講演会に音声通訳者と参加したが、市関係者から「私語は止めなさい」とのメモが回り、音声通訳を断念せざるをえなかったと訴えた。その講演会では、手話や要約筆記が行われていたにもかかわらず、盲ろう者への認識が低かったのだ。後日、市と話し合い、女性が盲ろう者や盲難聴者について説明してやっと理解してもらえたという。その上で、個人の力は限られているため、団体として、自治体などに啓発する効果的な手段はないかと問いかけた。
 マッサージ免許を持つ男性は、「これまで通訳・介助をするアシスタントと共に企業に出向いてマッサージを行い、アシスタントを含めて2人分の費用をもらっていたが、リーマン・ショック以降仕事がまったくない。盲ろう者はいくら努力しても、移動やコミュニケーションで通訳・介助者が必要だ。企業が盲ろう者と通訳・介助者の2人を雇用するのは現実には無理なので、企業が盲ろう者本人を雇用し、国が通訳・介助者に報酬や交通費等を補償するような、盲ろう者を対象にした就業支援制度を早急に設立してほしい」と切実に訴えた。
 日常生活では、駅への介助要請や商品の問い合わせなどでファックスを利用する弱視ろうの男性は、介助要請のファックスを送った先が無人駅で困ったことや、ある大手コンビニではファックスでの問い合わせを止めて電子メールでの問い合わせに一本化していることを取り上げ、協議会として各社に改善を要望するように求めた。
 また、盲ろうの男性は、「音声ガイド付きATM(現金自動預け払い機)が、視覚障害者団体の陳情活動によって金融機関に普及しているが、盲ろう者は点字によるガイドがなければ使えない。ATMの設置についても、協議会は点字ディスプレイ付きのATMを設置するよう国などに積極的にアピールすべきだ」と訴えた。
 弱視ろうの男性は、スリット式の階段の恐怖を訴えた。男性によると、これは段と段の間に隙間を設けてあり、段差の隙間に足を入れてけがをする危険があるというのだ。そうした階段が、デザイン性を重視するショッピングモールなどで最近増えてきているので、協議会として国へ注意を喚起するように要望した。
 都道府県単位で行われている盲ろう者への通訳・介助者派遣事業についても、「たまには温泉でのんびりしたい」という願いが、年配の盲ろう女性から出され議論が白熱した。司会からコメントを求められた福島氏は、「盲ろう者が温泉でのんびりしたいということには2つの問題がある。1つは、1日当たりのヘルパーの利用時間の制限、もう1つは内容の問題で、温泉へ行くことが認められるか、ということだ」と要点を整理。
 盲ろう者の通訳・介助者派遣は、視覚障害者のガイドヘルパー派遣とも、聴覚障害者の手話通訳者制度とも違う独自のサービスであることを強調。制限時間については、「例えば1日1時間しかなければ、盲ろう者は1日1時間しか自由がないことになる。大阪府と東京都の派遣時間数が長いが、それでも月60時間にすぎない。1カ月20時間は、問題外に少ない」とコメントした。また、内容については、「通訳・介助者がいなければ、盲ろう者は外にも出かけられないし、コミュニケーションも取れない。人生全体が派遣制度に左右されている。役所や病院へ行く以外はだめだというのは、ナンセンスだ」と福島氏は述べ、時間制限や派遣内容の制限撤廃に各地で取り組むよう呼びかけた。そして、「せっかくある派遣事業のサービスは、しっかり利用してください。そうしないと、使っていなければ、予算が減らされてしまうのです」とアドバイスした。
 この他、盲ろう者用杖の研究など様々な意見や要望が出された。協議会はこれらを吟味し、国への要望としてまとめ、全国盲ろう者協会と共に陳情する計画だ。
 22日の午後には、全体会が行われ、各分科会の報告、社会見学で訪れた白い恋人パークでの菓子作り、ボウリング大会などのイベントの報告が行われ、3日間にわたる札幌での盲ろう者大会を締めくくった。
 最終日の、8月23日には全国盲ろう者団体連絡協議会総会が、場所を変えて札幌市内で行われた。(戸塚辰永)

日本でWBUAP総会開催の年にサリバン賞に岩橋明子さん

 本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」受賞者は、盲界の国際交流分野におけるパイオニアで、わが国でただ一人、世界盲人連合(WBU)終身名誉会員である社会福祉法人日本ライトハウス会長岩橋明子さん(兵庫県西宮市・81歳)に決定した。
  第18回を迎える本賞は、「視覚障害者は、何らかの形で晴眼者からのサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害を持つ委員によって選考される。
  贈賞式は、10月1日(金)に当協会で行われ、本賞(賞状)と副賞として、ヘレン・ケラー女史の直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。

悲劇を乗り越えて

 「あそこの会長さん、何度も乗ってもろてます。上品で、綺麗な方ですからね。神戸美人。ご主人は、エッ、たしか自殺されはった・・・」。
 JR西日本放出(はなてん)駅を降りてタクシーに乗り、「日本ライトハウス本部」と行き先を告げると、初老の運転手が、「東京からですか?」と聞き、問わず語りに心臓が止まるようなことまで語った。
 四半世紀以上も前のことが、今でもタクシードライバーの口の端にのぼるのは、昭和56年(1981)の国際障害者年を皮切りに、その後、障害者への理解が全国的に深まる中での衝撃的な事件だったからだろう。
 日本ライトハウス(以下、ライトハウス)現会長の岩橋明子さんのご主人、当時ライトハウスの理事長であった岩橋英行さんが、非業の死を遂げたのは昭和59年(1984)1月16日。58歳の働き盛りであった。  同年春の4月9日から3日間、世界盲人福祉協議会(WCWB)と国際盲人連盟(IFB)合同のアジア会議を日本で開催する予定であった。しかし、年が明けても肝心の日本側各団体の足並みが揃わず、心労が重なっていたと当時の新聞は報じている。
 この悲劇を乗り越えて、同年11月、WCWBとIFBは統合されWBUが成立するので、彼はそのための人柱であったともいえる。
 本年、岩橋英行さんが開催を熱望したWCWBとIFBの合同アジア会議に相当する、WBUAPの中期総会が日本で開催される。この年に岩橋明子さんにヘレンケラー・サリバン賞を贈ることができるのは、まったくの偶然だが、奇縁を感じざるを得ない。
 大阪市生まれの英行さんは、昭和25年(1950)関西学院大学文学部哲学科を卒業し、ライトハウスに入職。そして、昭和29年(1954)、父武夫さんの死後、理事長を引き継ぐ。昭和38年(1963)には、日本で初めてコンサイス英和辞典を点訳出版。翌昭和39年(1964)にはWCWBの副会長に就任。その後、視覚障害者を対象にした日本初のリハビリテーション事業を実施するために「職業・生活訓練センター」を開設。43歳の時自らも網膜色素変成症で失明するが、より一層、盲人福祉に取り組み、昭和48年(1973)にはアジア眼科医療協力会を結成し、理事長に就任する。
 以上のような英行さんの国内外での大車輪の活躍から昭和44年(1969)に点字毎日文化賞、昭和56年(1981)に内閣総理大臣賞、昭和57年(1982)に藍綬褒章が贈られる。
 彼のこの活躍の影には明子夫人の姿があった。とくに国際会議には常に付き添い、介助のほか通訳や翻訳、報告書の作成なども一手に引き受けた。しかし、逆の見方もまた可能であろう。英行さんの存在無くして、彼女のその後の活躍もまたなかったと。

兄の先見の明

 岩橋明子さんは、昭和4年(1929)に兵庫県豊岡市に生まれるが、1年ちょっとで一家は神戸に出る。そして、小学校の入学こそ神戸であったが、父親の転勤で実質的には小学校から女学校まで大阪で学ぶ。戦時中に女学校に入学した明子嬢に対して10歳も年上の長兄が、「これからは英語が重要になるからしっかり勉強しなさい」と、その後の彼女の人生を決定づけるようなアドバイスをする。
 「大人と子供ですからね。それはやかましく言われました。そして、最初はさほどでもなかったのですが、だんだん英語が好きになったのです」と微笑む。
 ところが、女学校2年の途中からは、授業そっちのけの勤労奉仕である。高島屋百貨店の5、6階が「高島屋金属工場」という軍用機の無線機組立工場に化けており、彼女も毎日半田ごてを手に、電気配線を行う。
 「お陰様でちょっとしたことは、自分でできるようになりました。本当に貴重な体験でしたね」と彼女は言うが、次第に空襲が激しくなり、終戦間際になると、空襲警報とともに地下2階まで駆け下りて、避難する時間の方が多かった。そのような時も、ひとり英語や国語を勉強した。
 終戦の翌年、彼女は旧制の神戸女学院専門学校英語科に入学する。同級生の1割は、いわゆる帰国子女で英語が堪能であった。しかも、授業はすべて英語で行われたため、入学した当時は、まったく授業についていけず「本当にしんどかったですね」と言っては笑う。
 そんな中で、彼女にとっての救いは、英文で書いた日記を毎日添削してくれた夫婦で来日していた米国人宣教師の親切であった。この日記は、ついに1日も欠けることなく、神戸女学院を卒業して、英語教師になってからもさらに1年続く。
 昭和24年(1949)、彼女は岩橋武夫ライトハウス理事長が、そのかたわら学院長も務める私立燈影女学院(昭和26年に府立阿倍野高校に合併吸収)に奉職する。そして昭和27年(1952)に学院長の子息である英行さんと結婚。その後の二人三脚によるとくに国際交流を通じて盲人福祉の向上に貢献する姿は先に述べたとおりである。
 岩橋明子さんの業績は、すでに忘れ去られようとしているがライトハウスにおける1970年第1回歩行訓練士講習会において、米国から講師を招き、講義の通訳からテキストの翻訳など、いわゆる視覚障害生活訓練専門職員の先駆けとなる専門家の養成に多大なる貢献をしたことである。米国からの派遣は数年に及ぶが、この事実は日本の視覚障害者リハビリテーションの「黎明」として特筆大書されるべきであろう。
 ライトハウス3代目理事長就任後、彼女は「職業・生活訓練センター」を拡張・再編し、糖尿病性網膜症をはじめ全身病や他の障害を伴う重複障害者に対する生活訓練体制を整え、総合的なサービス提供を目指す視覚障害リハビリテーションセンターを設立した。しかし、それにも増して評価されるべきは、彼女の国際舞台での活躍であろう。
 彼女の真の業績は、WBUの役員を務めたわけでもないのに、国際的な友人知己の声に押され、WBU終身名誉会員にわが国でただ一人推戴されたことに尽きるように思われる。
 10月29日から開催される千葉市におけるWBUAP総会でも、彼女の凛とした姿を捜す国際人は多いはずである。総会が岩橋明子さんにとっても感慨深い、素晴らしい国際会議になることを祈念せずにはおれない。(福山)

編集ログ

 第10回(2002年)ヘレンケラー・サリバン賞の受賞者で、財団法人アイメイト協会理事長の塩屋賢一さんが9月12日、肺炎と呼吸不全のため東京都武蔵野市の病院で逝去されました。享年88。
 塩屋さんは、戦後すぐ勤め先が倒産。愛犬が訓練競技会で優勝したことから知己を得た、日本シェパード犬協会相馬安雄会長(新宿・中村屋社長)の勧めで、愛犬学校を設立し、繁盛します。しかし、愛玩犬の訓練のみでは飽き足らず、肺結核と闘いながら盲導犬の訓練を志します。そして、昭和31年に、河合洌(カワイ・キヨシ)さんから託されたシェパードを自宅近くの路上を一緒に歩いて訓練。1年後に国産盲導犬第1号の「チャンピイ」を誕生させます。その後、財政上の苦労をしながら盲導犬育成に専念し、昭和46年に東京盲導犬協会(のちにアイメイト協会と改称)を設立。生涯に884頭もの盲導犬を育てました。「盲導犬の父」のご冥福をお祈りします。(福山)

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