日本語で感謝の意を表すときの言葉は「ありがとう」に決まっているが、実際に、感謝の意を表するとき、この言葉を使うことは意外に少ない。それよりも、「申し訳ありません」とか「すみません」という言葉を頻繁に聞く。私はそのことがおかしいとか、けしからんというつもりはない。日本語としてはそれで正しいのである。
しかし、なぜ、お礼のことばに謝罪の言葉を使うのか愚考すると、おそらく相手の立場を慮ってのことだろう。「ごちそうさま」という言葉も似たような例だ。「馳走」とは、「馬を走らせること」なので、転じて「その準備のために走りまわる」ことを意味する。これもやはり相手の立場を慮った感謝の言葉だ。
日本は島国で、歴史上植民地になったことのない希有な例だ。このため、自己主張文化が育たず、相手を慮る文化が育った。
「いや、頑固者っていますよ」という声もあるだろうが、頑固と自己主張は似て非なるものだ。「頑固に言い張る」というのは、自分の意見や持論を他に認めさせようとはしていないので、ほとんど何も言っていないのと同じことだ。
聖徳太子のいにしえから「和を持って貴しと為す」というポリシーで1400年間やってきのだから、そう簡単にこの文化を変えることはできない。しかし、政治家や外交官が、それをよしとしておっとりかまえていては大変なことになる。むろん、国益を重視して戦略的に外交を行うのが彼らの責だ。
この相手を慮る文化は、「水に流す文化」でもある。日本では、いつまでも怨念や遺恨を残すことはよしとされず、ある一定の条件を満たせば「水に流す」事が美徳とされる。どんな悪人でも死んだ途端に、その悪業は水に流されるのだ。しかし、この文化も万国共通のものではない。たとえば、パレスチナ問題の本質を探るなら紀元70年にまでさかのぼれる根の深さである。墓を暴き死者にむち打つ文化だってある。相手を慮って、謝罪したから水に流すという文化こそ、特異なのである。
日本政府が8月10日に発表した「日韓併合100年」に際しての菅直人首相の談話を読み、以上のようなことを考えた。(福山)
7月24日(土)、東京・新宿の戸山サンライズにおいて、日本盲人職能開発センター主催の「全国ロービジョン(低視覚)セミナー」が開催され、視覚障害当事者や施設関係者など約220名が参加した。今回のテーマは「多面的に考える、緑内障の現状と就労」。日本における視覚障害原因の1位である緑内障と、就労について特に支援機器を中心に考察した。
午前の基調講演では、初めに岐阜大学医学部眼科の川瀬和秀准教授が緑内障について解説。緑内障は視神経の障害により視野異常をきたす進行性の病気で、かつては眼圧の高いことが原因とされてきたが、現在は正常な眼圧でも緑内障を発症することが分かっている。正常眼圧の場合初期は自覚症状も少なく、潜在患者が多い。今も視野を回復する治療法はなく、そのためロービジョンケアが重要となる。しかし、その導入には難しい面がある。患者は、少なくなった視野に慣れてしまったり、ロービジョンケアの有効性を知らないケースが多いのだ。また病院側も、緑内障を専門としていても積極的に行う施設は少ないという。川瀬准教授は「ロービジョンケアの重要性を強く啓発していく必要がある」と訴え、講演を締めくくった。
次に、障害者職業総合センターの岡田伸一氏が、画面拡大ツールの歴史を振り返った。1980年頃発売されたWPD-1はパソコンのモニターを拡大読書器に映す仕組みだったが、その8年後にはPC-WIDEが登場し、パソコンのモニターを利用するようになった。1995年には画面拡大ソフトZoomTextが日本でも発売。バージョンアップを重ね、十分すぎるほど高性能・多機能なソフトに成長した。この30年で画面拡大ツールは飛躍的な進化を遂げたが、岡田氏は今後の課題として画面拡大ソフトと画面読み上げソフトの連携、拡大読書器と画面拡大ソフトの連携の2点を挙げる。「これらが解決されれば、重度のロービジョン者の職業能力向上に役立つ。これまでのユーザーや関係者の思いを汲んで、発展させてほしい」と後進に期待を寄せた。
午後は、支援機器の活用と仕事の工夫をテーマにパネルディスカッションが行われた。司会の筑波技術大学長岡英司教授の下、東芝ITコントロールシステム株式会社の丸山央氏、三菱東京UFJ銀行の田畑美智子氏、出光オイルアンドガス開発株式会社の成瀬真吾氏の3名が発表した。
3氏は見え方も業種も勤続年数も異なるが、共通して問題となったのはソフトの習得だ。画面拡大ソフトや画面読み上げソフトは、OSが更新されるたびに、バージョンアップされる。また仕事の関係で、新しいソフトを覚えなければならない場面も出てくる。ソフト開発に携わる丸山氏は、独力で解決しているというが、田畑氏と成瀬氏は、知人など個人的なネットワークを使って覚えているという。成瀬氏は「会社に勤めながら講習を受けられる体制の整備が必要」と述べた。これについてフロアーのタートルの会からは「委託訓練は昨年から現役就労者も対象になり、会社訪問する方向にシフトしているのでぜひ活用を。広報不足やジョブコーチの増員といった課題はあるが、今後解決していきたい」との情報提供が行われた。
また仕事上について、いずれも専属のアシスタントはおらず、介助が必要なときは上司や同僚のサポートを受けているという。円滑に仕事を進める上でも、あらかじめ視力の状態や必要な介助を伝えておくこと、日頃からのコミュニケーションを大事にすることなどが、それぞれ体験を交えて紹介された。
最後に就職を目指す人に向けて、丸山氏は「仕事は初めのうちハードルが高いと思うかもしれない。しかし次第に慣れるので、自分のペースでこなすといい」とアドバイス。田畑氏は「視力が低いと諦めず、できるという気持ちを持つことが大切。中には理解のない人もいるが、それが普通と思い、前を向いて進んでほしい」とエールを送った。
今回のセミナーで支援機器の進歩により、仕事内容が幅広くなってきていることが改めて分かった。今後はスキルアップやキャリア形成をも視野に支援体制の整備が求められる。(小川百合子)
7月20日、猛暑の中、筑波大学附属視覚特別支援学校(附属盲)資料室を訪ねた。資料室を案内してくれたのは、同校社会科の岩崎洋二教諭(63歳)。現在、先生は「東京盲唖学校発祥の地・日本点字制定の地」の記念碑を東京都中央区築地の区立公園に建立する計画が大詰めを迎えているため、同記念碑建立事業実行委員会事務局長として、寄付金集めにも忙しい。
2教室分の貴重な資料が眠っている資料室は、展示品に日が当たらないように窓には遮光カーテンが掛けられ、室温も一定に管理されている。陳列ケースには官立東京盲唖学校鍼按科で使われていた突文字教科書や古代九鍼のレプリカなどが並んでおり、まさに宝の山である。
昨年はルイ・ブライユ生誕200年、石川倉次生誕150年の企画を行って好評を博したが、今年は杉山和一生誕400年で、『視覚障害者の鍼灸教育史』展を12月17日まで開催している。見学を希望する方は、同校(03-3943-5421)資料室の岩崎先生に申し込むと、金曜日の午後に資料室を見学することができる。
歴史的にも価値の高い第一級の資料を収集する資料室には、全国各地から問い合わせがある。例えばその1つは、青森県立盲学校(青森盲)のルーツを探すものであった。青森盲の創設者は若くして亡くなった西蓮寺幸三郎だが、彼に関する資料はむろん青森盲にもある。彼は茨城県出身で水戸盲学校を経て、東京盲学校師範部鍼按科を大正13年(1924)に卒業し、旭川盲学校に赴任。ところが、師範部の同級生であった青森出身の奈良孝治と共に青森に盲学校を設立することを志し、旭川盲学校を1年で辞め、青森へと向かった。が、奈良はすでに病気で他界しており、同志を失った西蓮寺はそれでもくじけず、たった1人で青森盲の前身を創設する。
この逸話に出てくる奈良の名は、青森盲の資料にも登場するが、どんな人物だったのかそのひととなりが全く分からなかった。そこで、青森盲の関係者が奈良に関する資料収集のため附属盲を訪ねてきた。
資料室には、東京盲唖学校盲生会によって明治36年(1903)6月に創刊され、昭和18年(1943)5月に中断した点字月刊誌『むつぼしのひかり』が保管されている。現在、附属盲卒業生有志等が『むつぼしのひかり』を復刻する作業を行っており、順次出版する予定だ。その復刻作業の過程で、奈良の和歌が3首掲載されていることが分かり、彼の人物像がつまびらかになった。
また、昨年はロシア出身の全盲のエスペランティストであるエロシェンコの生誕120年にあたることから、ウクライナのエロシェンコ研究者から問い合わせもきた。そして、『むつぼしのひかり』を調べる中で、彼に関する新事実もいくつか発見された。
現在、岩崎先生は再雇用制度で勤務しており、来年度末をもって同校を去る。そこで、その後の資料室の管理は、附属盲同窓会にお願いできないかと彼は密かに考えている。というのも東京盲唖学校から100年前に分かれた筑波大学附属聴覚特別支援学校にも資料室があるが、こちらはすでに同窓会が管理しているという前例があるのだ。
附属盲卒業生の有志は、毎月第3土曜日に『むつぼしのひかり』を読む会を同校で行っているが、「明治・大正・昭和初期の視覚障害者がどんなことを考えていたのか、そういったこともよく分かるので、興味のある方はぜひとも参加してください」と岩崎先生は呼びかけている。そして、例えば「そもそもエロシェンコとは何者なのかということから、みんなで研究して発表ができるような、視覚障害者の歴史を研究する会を起ち上げたい」と夢を語る。
実は、聴覚障害者の間では、当事者によって聾者自身の歴史を再構築する聾史研究会が全国各地に発足し、毎年研究大会を開いて実績をあげているのだ。(戸塚辰永)
残暑お見舞い申し上げます。今年の夏はとにかく暑いですね。熱中症で病院へ搬送される人が例年以上に多く、実は当点字出版所の若い女性職員も、大事にはいたらなかったのですが、救急車のお世話になり点滴を受けました。
「こんなに暑いとあまり堅い話をしてもしょうがないよ」ということで、田中先生にもグッと砕けた納涼企画風に「キューバ訪問記」をまとめていただきました。
「Hクラブ36年」の竹村さんの名調子に、私はすっかり毒気を抜かれてしまいました。「Hクラブのご利益」って、いったい何なんでしょうね。その昔、点字競馬雑誌を、当点字出版所から出させようという謀議があって、逃げ回ったことがありますが、あのことでしょうか? いずれにしろ、栄えあるクラブを大まじめに36年間も継続したことは、驚くべきエネルギーです。良くも悪しくもそのような強力なパワーが、わが国盲界に再び蘇ることはないのでしょうね。そういう意味において、「Hクラブ36年」は、ある時代の終焉に対するレクイエムといえそうです。(福山)