THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2010年7月号

第41巻7号(通巻第482号)
―― 毎月25日発行 ――
定価:一部700円
編集人:福山 博、発行人:三浦拓也
発行所:社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会点字出版所
(〒169-0072 東京都新宿区大久保3−14−4)
電話:03-3200-1310 E-mail:tj@thka.jp URL:http://www.thka.jp/
振替口座:00190-5-173877

目次

巻頭コラム:投票日狂想曲 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
当協会の理事長が交代しました 当面は藤元前理事長が学院長職に ・・・・・・・・・・
4
大学の門はいかに開かれたか(上) 元附属盲教諭尾関育三先生に聞く ・・・・・・・・
7
杉山和一生誕400年記念式典盛大に開かれる(岩屋芳夫) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
19
点字・拡大教科書の課題を問う 教点連セミナー開催 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
23
拡大教科書の現状と教科書バリアフリーに関する今後の展望(宇野和博) ・・・・・・
27
鳥の目、虫の目 ズボン吊りの常識と非常識 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
33
自分が変わること:信じる人にひかれて その3 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
リレーエッセイ:南カリフォルニアでの生活そしてこの地で得た夢(岩本光弘) ・・・・
43
外国語放浪記:人前なんて怖くない? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
48
あなたがいなければ:視覚障害者理事 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
52
よりどりみどり風見鶏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
57
大相撲:名古屋場所展望 ―― 白鵬の連勝はどこまで伸びる? ・・・・・・・・・・・・・・
61
時代の風:感知センサー付き電子白杖開発、骨折を早く治すたんぱく質、他 ・・・・・
65
伝言板:音コン出場者募集、澤田理絵ソプラノ・リサイタル、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・
67
編集ログ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
70

巻頭コラム
投票日狂想曲

 投票日がいつになるか気をもんだ。結局、7月11日に決まったが、仮に2週間遅れたら、点字選挙公報の発行と本誌の編集作業が完全に重なり、大変なことになるところであった。国民新党が郵政改革法案の今国会成立を強く求め、一時は政府も会期延長で調整に入ったと新聞等で報じられたため、6月8日に本誌編集部では緊急対策会議を開いた。そして翌朝、連載執筆者に前倒しでの出稿をお願いする文案を起草していたら、「7月11日投票で調整」との『讀賣新聞』のスクープを知り脱力した。
 結果オーライであったが、地方のいくつかの選挙管理委員会は、7月11日投票でポスターを印刷したり、広報誌に掲載して、フライングと責められた。
 鳩山首相も「国会は延長しない」と明言していたのであるから、責められるべきは、選管ではなく、政策の継続性を軽視する執政者だ。鳩山政権も本を正せばそれが命取りになったのではなかったか?(福山)

当協会の理事長が交代しました
―― 当面は藤元前理事長が学院長職に ――

 社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会は、6月12日に開催した平成22年度第2回理事会・評議員会において、5年間在任しました藤元節理事長(70歳)の退任と三浦拓也理事(65歳)の新理事長就任を承認しました。
 また、退任を申し出ていた町田英一評議員に代わり、宮川宗雄氏(元社会福祉法人響会理事長)が新しく評議員に就任しました。
 三浦氏は現在、財団法人毎日新聞東京社会事業団(理事長・朝比奈豊毎日新聞社社長)の常務理事の職にあり、同事業団の懸案業務にめどがつく8月までは、当協会では非常勤として、そして9月から常勤となります。
 なお、藤元理事は、引き続きヘレン・ケラー学院長を2学期が終了する12月まで務め、その後三浦理事長に引き継ぐ予定です。

あくなき「協調と挑戦」を
   ―― 理事長退任にあたって

前理事長/藤元節

 視覚障害者の自立支援が命題の法人の責任者として、「あるべき姿」を求めて歩んだ5年間は、想像を超えるスピードで過ぎました。この間、長年固守していた独自路線から「協調と挑戦」に、大きく舵を切りました。いま、点字出版所は日盲委選挙プロジェクトの一員として、また点字図書館は全視情協が推進する視覚障害者情報総合ネットワーク(サピエ)のパイロット館として、懸命の努力を重ねています。使命感に燃える職員、そして応援してくださる利用者の皆様があってこそ、ここまでたどりつくことができたと、感謝する次第です。
 この春、JKAの助成を得て、36年ぶりに新点字印刷システムを導入し、『点字ジャーナル』も装いを一新しました。なお山積する問題を解決するため、後事をバイタリティーあふれるボードに託しました。愛読者の皆様のご愛顧とご叱正を、今後ともお願い申し上げます。

「変革」の推進に微力を尽くします

理事長/三浦拓也

 この度、図らずも藤元節前理事長の後を引き継ぎ、東京ヘレン・ケラー協会の理事長に就任いたしました。毎日新聞東京社会事業団の常務理事になったのが縁で、協会の理事を務めてきましたが、それ以前はカメラを担いで事件現場を駆けずり回っていました。そんな私が、社会福祉の実践現場の舵取りを担うことができるのだろうかと、ことの成り行きに戸惑いを覚えております。
 いま、社会福祉を取り巻く状況は決して明るくありません。当協会も例外ではありませんが、36年間働いた印刷機から新しい点字印刷システムにチェンジして、より読みやすい誌面にするため、装いを一新しました。前理事長が職員とともに進めてきた変革が徐々に形になってきています。この変革の種を大事に育て、実りあるものにするのが、私の任務だと思います。
 読者の皆様に、より一層可愛がっていただけますよう、微力を尽くします。今後ともご愛読をお願い申し上げます。

大学の門はいかに開かれたか(上)
元附属盲教諭尾関育三先生に聞く

 《今年(2010)は、明治43年(1910)の盲唖教育分離、すなわち官立東京盲学校(東盲、現筑波大学附属視覚特別支援学校)への改組から100年目の年に当たる。そこで、筑波大学附属盲学校同窓会と後援会は、盲唖教育分離後100年史作成委員会(大橋由昌委員長)を立ち上げ、記念行事の一環として「盲唖教育分離後100年史」の編纂に共同で取り組んでいる。同記念誌は、寮生活やクラブ活動のエピソードなどこれまでクローズアップされてこなかった出来事にも焦点を当てるため、出版の暁には当事者による附属盲学校史になると各方面から期待されている。
 同作成委員会は5月22日に、元附属盲数学教師で、在職中は同校高等部進路指導部で大学への点字受験交渉や入試点訳に辣腕をふるい、定年退職後も本年3月まで20年の長きにわたって全国高等学校長協会入試点訳事業部専務理事として第一線で活躍された尾関育三先生(80歳)を招いて、附属盲卒業生の大橋由昌氏(朝日新聞社)、指田忠司氏(障害者職業総合センター)、長岡英司氏(筑波技術大学)、土居由知(よしとも)氏(静岡県視覚障害支援センター)、戸塚辰永(東京ヘレン・ケラー協会)が、点字受験交渉や入試点訳の変遷について尾関先生から話を聞く会を開いた。そこで関係者のご協力を得て、ここにまとめた。取材・構成は本誌編集部戸塚辰永》

日本初の全盲国立大学生

 尾関育三先生は東盲最後の入学生で、在学中に同校が組織改編されたため、昭和25年3月に東京教育大学附属盲学校高等部3年を卒業、同校専攻科で1年間学び、昭和26年に東京教育大学教育学部特殊教育学科の入学試験を受験する。当時としては珍しく全問点訳されており、難関を突破して同4月に特殊教育学科の第1期生として入学する。特殊教育学科には盲・聾・精神薄弱の3専攻があり、第1期生は20人であった。
 「この4月に特殊教育学科の同窓会をやりましたが、盲教育専攻から法務省に就職した人もいました。特殊教育には少年院での教育も含まれますからね。その人が社会的には一番出世したかな」と尾関先生は笑う。
 入学試験が全問点訳されていたのは、同学科が東盲師範部と東聾師範部が廃止・統合されて組織改編してできた学科だったため、「視覚障害者の受験を認めないとは言えない経緯があったんです。それで、附属盲の澤田慶治(さわだ・けいじ)先生が問題を点訳してくれました」と尾関先生は解説する。同学科の入試問題は少なく、しかも一般試験の後の4月に別途行われたため、点訳対応が可能だったのだ。
 同学科にはその後、津野幸治(つの・こうじ)氏、加藤康昭(やすあき)氏等が点字受験で合格した。しかしその後、同大大学院で入試問題の漏洩事件が起き、そのとばっちりで、特殊教育学科独自に行っていた点字受験は一時中断を余儀なくされ、その間受験生は口頭で出題される問題を筆記し、点字で解答した。
 「高等部普通科が不人気な時代に数学で食べて行こうと思ったのは何故ですか」と土居氏が尋ねると、「僕は数学で飯を食おうなんて思わなかったんだよ。大学に入って教員免許を取るときに、数学が一番好きだったからそうしただけ。ただ、英語で取っても役に立たなかっただろうね」と愉快そうに笑う。先生は、一般教養で取った数学の成績が他の学生より良く、数学科に転科しようと数学科の教授に相談した。だが、教授からは「数学を専攻するよりも特殊教育を専攻し特殊教育の教員免許を取った方がいい」と説得され、尾関青年は転科を断念した。
 「数学専門に進んでいたら、たぶん勉強についていけなかっただろうね。それで僕は良かったと思いますよ」と尾関先生は当時を振り返る。
 その後東京教育大学大学院教育学研究科数学教育専攻に進学すると、ちょうどタイミング良く数学の文部省著作教科書を作成していた和田義信(よしのぶ)教授が同専攻に就任。尾関先生は同教授の下で、数学の点字教科書作成に追われたが、それは、ちょうど盲学校で学ぶ生徒に教科書をという「全点教運動」が燎原の火のように広がる直前のことであった。
 そのかたわら尾関青年は、ティーチング・アシスタントのような仕事もしたようである。
 「当時の学部生は今の学生に比べて気楽でしたね。先生が黒板に問題を書いて、その後僕のところへ来て問題を読み上げて、僕が点字でメモして、点字で解答を書き、試験の後で先生の前で答えを読み上げる。そして、答えを聞いて、先生はその場で成績を付けていましたね。ただし、数学の試験だけは厳密でしたけど」と語る。
 昭和20年代の大学では、講座が開講していても教授が来ないこともよくあったという。また、講義で必要な教科書の点訳は間に合わず、対面朗読のボランティアに読んでもらって必要な箇所だけ点字にした。ちょうど昭和25年辺りから主婦がボランティアとして朗読を始めるようになったのであった。

普通科再開と大学受験

 尾関先生は、昭和33年に附属盲に数学の非常勤教員として採用され、同36年に正式に採用された。
 昭和20年代から30年代初めの附属盲高等部普通科は、高等部本科理療科に進学できなかった生徒が学ぶコースだと見られており、在籍生もごく僅かで、1人の応募者もないという年が何年も続き事実上の閉鎖状態であった。昭和36年に、後日大学入試センター教授として活躍する藤芳衛(ふじよし・まもる)氏や視覚障害者のコンピュータ・プログラマーの草分けとして活躍した浜田靖子(のぶこ)氏等が入学し、1クラス数名ながらも普通科が再開した。
 昭和41年に高等部に進学した長岡氏は、この年、はじめて附属盲中学部から普通科に進学する生徒が理療科に進学する生徒を数の上で逆転したと証言する。そしてこれは尾関先生が中学部1年の時に担任を受け持ち、普通科へ進んで大学へ進学するという意識が生徒の中に広まったからではないかと考えている。
 当時はまだ視覚障害者に門戸を開放している在京の大学は数少なく、明治学院大学、青山学院大学、早稲田大学第二文学部くらいであった。しかし、これらの大学においても、入学試験を点字で受験できず、口頭で出題される問題を点字で筆記して、点字で解答する方式だった。
 昭和40年代半ばになると桜美林大学や和光大学に進学する視覚障害者が増加。桜美林大学についての事情は分からないが、「和光大学の梅根悟(うめね・さとる)初代学長は、以前東京教育大学の教授や学部長を務めており、障害者の受け入れにも積極的だったからでしょう」と尾関先生は言う。当時、和光大学の教員には点字と手話のできる小島純郎(こじま・すみろう)先生や篠原睦治(しのはら・むつはる)先生がおられ、障害者の受け入れに積極的に取り組んだという事情もあるだろう。
 理数系の受験交渉は、東京女子大学文理学部数理学科に浜田靖子氏が希望を出したことから始まる。斎藤百合や粟津キヨといった盲人史に記録される女性が学んだ大学だけに、もちろん断ることはなかった。ただ、教授陣は視覚障害者にどのように数学を教えていいのかとても心配した。
 そこで受験交渉に出席すると、東京教育大学で尾関青年と机を並べて学んだ教授がおり心配は氷解した。また、どれだけ数学の図やグラフをイメージできるのか、実際に受験生の浜田氏を大学に呼んで、教授陣は彼女に簡単な数学の問題を出してみた。すると、彼女はスラスラと問題を解き、指でグラフを描いて見せた。その結果、点字受験が認められ、附属盲の教員が入試問題を点訳し、解答の墨訳を東京視力障害センターに依頼したという。
 その後、理数系では長岡氏が立教大学理学部数学科に入学。東京教育大学から筑波大学に移行する時代で、大規模な学園紛争で筑波大学に反対する教授陣が東京教育大学から立教大学にごっそり移っていった頃で、尾関先生を知る教授陣の下で長岡氏は学んだのであった。
 昭和50年前後、東京学生盲人問題協議会という学生団体があり、大学への門戸開放運動を行っていた。浪人生だった指田氏も同会メンバーに連れられて一橋大学へ行き、都留重人学長と面会し、「来年受験したいので、点字受験を認めてください」と陳情した。しかし、点字受験を断る旨の回答が届き、一橋大学への受験は叶わなかった。指田氏は、昭和49年4月に早稲田大学法学部に合格し、入学後視覚障害学生の学習環境の改善を求めて当時の永井道雄文部大臣に面会・陳情した。その訴えはすぐに認められ、昭和50年度から日本私学振興財団による障害学生の在学する私立大学への助成と、同50年度後期から障害者の在学する国立大学への助成がスタートしたのだった。
 また、当時は門戸開放運動の盛んな頃であり、点字受験を拒否する大学の門前で座り込みやびら撒きといった抗議行動もたびたび行われた。
 「盲学校も門戸開放運動に呼応して、受験希望者が出るとすぐに大学へ交渉に出かけましたよ」と尾関先生は言う。長岡氏が埼玉大学理学部数学科を受験しようと、附属盲進路指導部を通じて同大と交渉した。同大数学教室の大方の教員は受験を認める考えであったが、海軍出のある教授が頑固に反対したため、結局受験できなかった。また、長岡氏は東京都立大学の受験も希望したが、福祉を掲げる美濃部都政下の都立大学からは点字受験お断りの回答が届いた。それが、10年余りの後に盲ろうの福島智氏を受け入れたことは、その間、都立大学関係者の努力がいかに大きかったか、と長岡氏は感慨深げであった。
 東京大学に対しても点字受験を要望して、後は受験生が現れるのを待つのみであった。そこで、附属盲進路指導部は、石田透氏(国立職業リハビリテーションセンター)に白刃の矢を立てた。「本人は東海大の数学科に合格しており、東大の文科に行く気は、さらさらなかったのですが、点字受験の実績を作るために無理にお願いしました」と尾関先生は裏話を語る。その甲斐あって、昭和52年に石川准氏等が、すんなり受験できたのであった。
 昭和54年から共通一次試験が始まり、受験希望大学と進路指導部は事前協議をする必要があった。「当初大学から点字受験拒否回答ばかりがきたのです。だから、大学入試センターや大学とがんがんやり合い、拒否回答が出る度に、新聞に取り上げてもらい、それで10年くらいすると、たぶん文部省が大学に断るのはまずいとでも言ったのでしょう? 拒否回答はめっきり減りました」と当時を尾関先生は振り返る。
 そして昭和56年(1981)の国際障害者年を機に社会状況は一変し、門戸を閉ざしても仕方がないといった姿勢は改められ、大学の社会的責任が問われるようになった。
 その後、共通一次試験は平成2年からセンター試験に変更され、センター試験では、点字受験に関して事前協議をする必要はなく、出願の数週間前に点字受験の申し出をすれば良いことになった。ただ、とかく悪く言われがちな事前協議は、大学と進路指導部が唯一公式に話し合える場でもあった。そうした場がなくなることで、出願直前に大学から点字受験を断られてもどうしようもできないのではと心配し、附属盲進路指導部は文部省に事前協議の復活を要望した。
 現在では門戸開放や点字受験交渉は過去の出来事のように思われているが、今でも稀にはあり、中には、聴覚障害の学生の対応に追われて、「視覚障害者の受験は勘弁してください」と断るあきれた大学もあるという。
 受験を断る大学をどのように説得したか尋ねると、
 「あくまでも機会均等という筋を押し通すのみです」と尾関先生は、当時を振り返って毅然と言い放った。

鳥の目、虫の目
ズボン吊りの常識と非常識

 「この男はなぜこのようなつまらない話を、さも得意げにすることができるのだろう?」とその時、私は考えていた。「サスペンダー(ズボン吊り)とベルトを一緒にしたらいかにおかしいか」という話を、知り合いの男がお説教よろしくとうとうと語り始めたのである。私は不本意ながら黙り込むしかなかった。いかに見当違いであろうと、本人が正論と信じ込んでおり、まったく聞く耳を持たなかったからである。
 齢を重ねると人はどうしてもそれまでの経験や常識にとらわれて柔軟な思考ができなくなる。このため、もっともらしい論理にすぐ飛びついてしまいがちである。その反対に、一見してそれまでの経験や常識から逸脱していそうだと判断すれば、つい思考停止になることもある。
 これからする話は、落ち着いて人の話をなかなか聞くことができなくなった自らへの戒めをこめたいわゆる他山の石である。

サスペンダーの利点

 インターネットの知識検索サービスに、次のような質問をした婦人がいた。
 Q:主人が最近サスペンダーを購入したんですが、正しい付け方がイマイチ分からないようです。サスペンダーはオシャレの為に買ったので、ベルトをしないとズボンが緩いらしいのです。ベルトと両方したらおかしいですか?
 それに対するベストアンサーの回答は、
 A:ベルトはいりません。おかしいです。そもそもベルトの代わりにズボンが落ちないようにするものですから、緩くてもそのままサスペンダーで吊っておれば大丈夫です。
 Q:ありがとうございます! 早速主人に教えます!
 質問者自身、サスペンダーとベルトの両方をするご主人の姿を疑問に思っていたようなので、歯切れよく返事している。しかし、そうであろうか? これでご主人は本当に納得したのだろうか? 質問がモーニングコートやタキシードなど礼服を着る際であれば、これは大正解である。もっともその場合はベルト通し自体がないが。
 ところで、ズボンにはサスペンダー用とベルト用があってデザインが異なっている。ベルト用のズボンはヒップからウエストにかけて緩やかな曲線で徐々に絞られて細くなっていき、ウエストでズボンが留まるように作られている。一方、サスペンダー用のズボンは、ヒップからウエストにかけては同じだが、ウエストバンドの下の部分で一番絞れ、ウエストバンドの上にいくにしたがってやや広がっており、このため股上が深くなっている。
 質問者のご主人は、ベルト用のズボンにサスペンダーを使いたいのである。ゆるいと感じたらベルトをすればいいだけの話だ。サスペンダーは単にベルトの代わりではなくベルトにないメリットがあるが、それは、ズボンをきちんと適正な高さに保つことと、ズボンの折り目(クリース・ライン)がきれいに見えることだ。したがって、足が長くスマートに見える。「オシャレの為に買った」というのは、こういう意味である。

個人的体験

 一昔前にサスペンダーを買ったとき、店員から「サスペンダーで吊したズボンにベルトをしてもけっしておかしくありません。ズボンが緩いようでしたらむしろそうすべきです」と言われたことがあった。そのときは私も「サスペンダーはベルトの代わり」くらいの認識だったので、「そんなばかな!」と内心思った口であった。
 ところが、実際にサスペンダーを使ってみると、ズボンが緩いととても落ち着かない感じがする。サスペンダーは多少ズボンが上下に動く余地を残してゆるく締めないと、肩が凝ってしかたないばかりか、クリップで固定するタイプだと、ズボンからたびたびはずれることになる。ズボンが緩いと、歩くたびに前後左右にゆれて不安定になるのである。
 そこで、ある日店員のアドバイスどおり、サスペンダーで吊したズボンにベルトをしてみると、なるほど具合がいい。
 ところが、それを見とがめた知り合いが、先のベストアンサーの回答よろしく、嵩に懸かって、これをくさしたのである。私が自分の体験や、店員のアドバイスを話しても、彼はまったく聞く耳を持たぬという態度で、ねちねちと「エチケット違反」と責め立てた。
 私にしてみれば、「サスペンダーで吊したズボンにベルトをしても個人の勝手でしょう」程度のことであったが、それ以来、洋画などを見ていてもサスペンダーをしている男が気になるようになった。すると、実際にサスペンダーで吊したズボンにベルトの男を、時たま見かけるのである。

ベルトが不可欠なサスペンダー

 「サスペンダー」はアメリカ英語で、英国では「ブレイシス」というので、これは米国での言い方だが、「危険を避けるためにどんな事でもする男性」、「慎重な男」という意味で、「ベルト・アンド・サスペンダーズ・マン」という言い方が米・俗語辞典に載っている。しかも、これは揶揄ではないらしいので、言葉があるところには実態もあるのではないだろうか?
 そう思っていたら、最近ベルトに引っ掛けて使う「ペリー・サスペンダー」というものがあることを知った。これはもちろんベルトが不可欠なサスペンダーで、サスペンダーをする人が、ベルトも併用していることが少なくないことに着目して、米国人のペリー氏が発明し、特許を取ったのだという。
 さっそくインターネット通販で申し込むと税込4,830円で購入できた。従来のサスペンダーのように、クリップで挟んだり、ボタンを6箇所もズボンに取り付けて固定するタイプに比べ、簡単、確実で、しっかり固定できる。ペリー・サスペンダーはY型のサスペンダーで、腰背部で一本になって腰の部分に引っ掛けるバックルは、中央にあるベルト通しをまたぐようにデザインされている。ベルトを通じて力が分散されるため着用も楽である。なにより、「サスペンダーとベルト両方したらおかしい」などと非難されても、明確に反論できる点がうれしい。(福山)

編集ログ

 本誌は5月号から印刷方式を変更したので、たくさんの読者から電話やEメール、それに点字の手紙でご意見をいただきました。共通する内容も多いので、以下にまとめてみました。
 まず、お叱りから。
 1.『点字毎日』と間違えてしまい、びっくりしました。いつ、仕様変更を予告したのですか? 以前は、「ああ、点字ジャーナルが届いた」と思っていたので、ちょっと残念です。―― 本年1月号の巻頭で、固型式点字印刷から、A4判エンボス式点字印刷に仕様を変更することを予告しました。3月号でもちょっと触れたのですが、もう少し目立つように、折込広告などで徹底すればよかったようですね。
 2.判型が小さくなって少し内容が減ったのではないですか? ―― はい、実は2割減になりました。判型を小さくしても1頁あたりの印刷コストはあまり変わらないので、このようなことになり、申し訳ありません。
 3.図書館から借りて読んでいるので、『点字毎日』のように表紙には点字がない方が汚れなくていいです。―― 主に郵送中に汚れるので、購読していただくと、ほとんど気にならないと思います(笑い)。
 次にお褒めの言葉です。
 1.点字が高からず、低からず、とてもクリアーで読みやすくなりました。
 2.判型が小さくなって読む場所を選ばず、また持ち運びにも便利です。
 3.6月号で経穴概論の教科書に、誤字・脱字が多いと指摘されていましたが、理療科教員としては、知っていても口外できないことなので、今後もこのような問題を取りあげてください。
 4.「自分が変わること」は、すごい人がいるなあと、引き込まれてしまいます。「鳥の目、虫の目」、「スモールトーク」は切れ味が良くて、「そうだ」、「うんうん」とあいづちをいれながら読みます。「あなたがいなければ」は、王崢さんの優しさと頑張り屋ぶりがいっぱい出ていて、毎月何を書かれるのか楽しみにしています。「時代の風」、「編集ログ」も面白く読ませてもらっています。視覚障害者関連の記事もたくさんあって、ベトナムにいても日本の盲界のことがよく分かって嬉しいです。(ホーチミン市在住/佐々木憲作)
 最後は励ましとその他。
 1.点字印刷のものが売れなくなって、色々苦労されていると思いますが、頑張って続けてください。(埼玉県立盲学校/岡)
 2.以前、貴協会で発行していた『週刊ニュースプラス』に、テレビ番組を紹介するコーナーがありましたが、貴誌でも掲載していただけませんか。―― 残念ながら、月刊ではとても掲載できません。文京区立真砂中央図書館が隔週で「テレビぴあ」をカセットテープ(C90)1巻に収録して貸し出していますので、こちらの方がより実用的だと思います。ご希望の方は、最寄りの点字図書館、あるいは東京ヘレン・ケラー協会点字図書館(03-3200-0987)へご連絡ください。
 以上、ご意見ありがとうございました。(福山)

投稿をお待ちしています

 日頃お感じになっていること、記事に関するご意見などを点字800字以内にまとめ、本誌編集部(tj@thka.jp)宛お送りください。

Copyright 2004 Tokyo Helen Keller Association. All Rights Reserved.

THKA