《日本の視覚障害者がネパールに行ったらネパール盲人福祉協会(NAWB)が、ネパールの視覚障害者が日本に来たら私たちがサポートするという暗黙の了解がある。その一環として、個人的に宿を提供したり、入学願書から査証の申請や手引きなどを手伝ったネパールからの留学生カマル・ラミチャネ氏(28歳)がこのたび東京大学から学術博士号を授与された。ネパールでは、障害者全体を含めてはじめての博士の誕生である。同氏に、研究内容と共に来し方行く末を、2月12日(金)16時半から18時、当協会点字出版所会議室にて聞いた。取材・構成は本誌編集長・福山博》
福山:ラミチャネ博士(笑い)、このたびは本当におめでとうございます。でも、呼びにくいので、これからも「カマル」と呼びますね(笑い)。日本で博士号を授与される視覚障害留学生は、1番目が東大のチョンさん(韓国)で、2番目が名古屋大のニキータさん(ロシア)、そしてカマルさんは3番目ですね。今、大変忙しいようですが、米国へはいつ行くんですか?
カマル:2月23日に出発して、ニューヨーク州のシラキューズ大学へ行きます。客員研究員として2週間くらい講義をしたり、自分のやっている研究を向こうの研究者とディスカッションしたり、途上国の障害者に私たちはどのような貢献ができるか話し合いたいと思っています。そして、3月14日に日本に帰ってきます。
福山:客員研究員は「フェロー」とは違うのですか?
カマル:同じです。私の場合は「イン・レジデンス・フェロー」と正式には言います。
福山:とても名誉な価値のあるポジションですね。NAWBを創設された故プラサド先生もイギリスの医科大学のフェローでした。
カマル:はい、そうですね。
福山:今、ニューヨークはひどく寒いでしょう。こんな時期でないといけなかったのですか?
カマル:今は春休みですから、こちらから行きますと言ったんです。
福山:カナダのケベック州の大学からも招待されていませんでしたか?
カマル:そうなんですが、少なくとも3カ月、できれば1年間は来て欲しいと言われたので、時間の都合がつかないんです。
福山:いいねえ、いろんな国に行けて。ところで、あなたの出身はどこでしたか?
カマル:ネパールのチトワン郡デュッパニ村です。
福山:有名な国立公園があり、観光客がよく行く、ネパールでは比較的開けたところですね。カトマンズからどのくらいかかりますか?
カマル:今でも車で4時間以上かかりますね。チトワンは広く山も平野もあり、便利なところとそうでないところがあります。10歳の時にカトマンズに出てきたのですが、その時は自宅からバス停まで1時間くらい歩き、生まれて初めてバスに乗って8時間もかかりました。父に連れられて学校に行き、置き去りにされたようなものでしたから、最初は寂しくて泣いてばかりでしたが、その1、2年後に、兄がカトマンズの大学で勉強を始めました。
福山:その頃は、まだネパールでは視覚障害児教育はあまり知られていませんでしたね。
カマル:今40代で、もの凄い田舎の出身にもかかわらず、教育を受けている視覚障害者もいるので、家庭や地域によると思います。兄や姉は学校でヘレン・ケラーのことも教科書で知っていたはずなのに、弟が学校で学ぶことを思いつかなかったんです。そういう意味では、私の家には知識の貧困があったかもしれません。私が学校に行くきっかけは、母と喧嘩したことでした。母の手引きで私は歩いていたのですが、何か生意気なことを言ったようで、そこで母が「おまえをどこかしばらくあずける場所があればいいのに、目が見えないからどこの学校も受け入れてくれない」と嘆いたのです。それを聞いた人が、カトマンズにはそういう学校があると教えてくれました。それで、父が田んぼを売り、私を連れてNAWBを訪ねて行き、カトマンズのバクタプールの学校に入学し、結局その周辺で大学まで過ごすことになりました。
福山:あなたには2003年の5月、NAWBで初めて会いましたが、その前に日本に来たことがあったんですよね。
カマル:はい、2002年10月のアジア太平洋の障害者の十年で、発表したのが最初でした。実はその直前まで、私は黄疸病の疑いでカトマンズの病院に入院していたのですが、医師に「大丈夫だから自己責任で日本へ行く」と言って退院して、大阪に来たのです。そして、リハ協(日本障害者リハビリテーション協会)の人たちからダスキンのプログラムを聞いて、2003年8月から10カ月間、日本で研修を受けました。その間に附属盲の青松利明先生と知り合い、鳥山由子先生を紹介され、筑波大への進学を志しました。
福山:受験勉強が大変でしたね。
カマル:ダスキンの研修が終わって3カ月間ネパールに帰って、そして日本に来て福山さんの自宅に1カ月間居候しながら、日赤奉仕団のボランティアや筑波大の学生に手伝ってもらって受験勉強をしたのですが、これが私の人生のターニングポイントでした。そして、なんとか筑波大の大学院に合格して、青松さんを保証人にたてて福山さんから入学金を借りて、2年間学生寮で過ごしました。その節はお世話になりました(笑い)。
福山:いえ、その後奨学金を得て、全額現金できれいに返してもらいましたから。ところで、文科省の奨学金はいつからもらったのですか?
カマル:修士課程2年の時からで、博士課程修了まで給付されます。
福山:修士論文のアンケート調査には僕も関係したのでしたが、テーマは何でしたか?
カマル:「ネパールの視覚障害児教育の現状と課題」で、視覚障害児教育に携わっているリソースティーチャーのいるすべての統合教育校73校に調査用紙を送付して、52校から回答があり、それを元にまとめました。71.23%という非常に高い回収率でした。ネパールでは、障害者の調査自体がほとんどありませんし、このような視覚障害児教育に関する調査は皆無で、NAWBには大変お世話になりました。
福山:その後東大に変わるのですが、なぜ筑波大の博士課程には行かなかったんですか?
カマル:私の研究テーマが教育学のみならず、さらに広い障害学に移行したからです。そこで、福島智先生と自分が何をやりたいか、東大では何ができるのかを何度も話し合って受験を決めました。
福山:博士課程を3年で修了できて良かったですね。今回認められた博士論文のタイトルは何ですか?
カマル:本当に良かったです。「障害と教育・雇用の連関に関するネパールにおける実証研究」で、障害者の社会経済的なステイタスを計量経済学の視点から分析するばかりか、開発学や社会学の方法を用いて、障害学の観点から分析した研究です。教育はどのように障害者の経済的な自立や社会的統合に役立っているかについて詳しく分析しました。
福山:結論はどうでしたか? 教育は関係していましたか?
カマル:先行研究では、障害のない人にとっての教育収益率は約10%です。わかりやすく簡単にいえば、教育収益率とは1年間教育を受けてどれだけ賃金が上がるかということです。私たちのやった研究では、障害者の場合は19〜30%上がることがわかりました。障害者は教育がなければ、就職できないということもあって、障害者の教育収益率は非常に高いということが、わかりやすくいえる結論です。
福山:カマルさんも教育を受けていなければ、自活することは極めて厳しい。
カマル:これまでそう言われていましたが、エビデンス(根拠)がなかったのです。今回の研究で、障害者には教育の必要性が最もあるということを実証的なエビデンスで証明しました。
福山:障害種別による比較をしましたか?
カマル:今回はしませんでしたが、ネパールでは聴覚障害者が、一番教育を受ける機会が少なく、次は視覚障害者です。仕事は聴覚障害者はホワイトカラーの人は少なくレストランで働く人が多く、肢体不自由者は教育を受けても仕事がなくNGOで働いている人が多く、視覚障害者は教員が多いということが今回の研究でわかりました。これからは、今までやってきた研究の延長上に、都会ではなく田舎で、また、具体的には決まっていませんが他の国とも比較したいと思っています。
福山:この4月から日本学術振興会の研究員として、さらに2年間東大で研究生活をおくるそうですが、こちらの方がステイタスも高く、待遇も良くなりますね。
カマル:本当に誇りに思います。ただ、自由度が大きい分これからの方がさらに、きちんと研究をしていかなければなりません。予備調査とか研究について、現地の人たちと相談しなければなりませんので、8月頃、暑いのですがネパールに帰るつもりです。
福山:ネパールの盲ろう者のことはどうなりましたか? 去年の今頃盲ろう者のシンポジウムを福島先生とやり、大成功でしたね。
カマル:はい、そうでした。ただ、その後のことは具体的な動きがありません。次の課題ですね。研究と共に、ネパールのヘレン・ケラーもいっぱい育てたいですね。そのためにも、ネパールに新しい大学を作ることも一つの夢です。既存の大学に障害学のコースを作っても結局駄目だと思います。障害児教育の質の良いプログラムがなく、指導している人自体もやる気だけで、基本となるシステムが整っていないからです。日本や米国のような大学があれば、教員も育てることができます。統合教育で視覚障害者も学校に行けるようになりましたが、課題も多く、私たちの知識も貧困でした。視覚障害児がいれば教科書さえ渡せばいいのではなくて、教育の方法論とかシステム、教員を育てることを考える必要があります。何もないところで努力して、教科書しかない。そこで障害のない人と同じ勉強をするのです。私も日本に来て、基礎教育に問題があって、とても苦労しました。みんな耳学問ですから浅い話しか言えないのです。
福山:特に理数系が遅れていますね。
カマル:合格のためにはとにかく暗記するのですが、暗記できないこともあり、SLC(中等学校修了試験)に合格できない人もいます。その人達のニーズをしっかりくみ取ることができないことに問題があるのです。それに最大の問題は学校に行けない視覚障害児が多いことです。1989年の調査では、2万8,000人の就学適齢期の視覚障害児がいて、そのうち学校に行っている人は1,000人いません。最初の教育が肝心なのに、ネパールでは学校に入れたらそれでお終い。サポートがないので小学校での統合教育が難しく、小学校くらいは盲学校のようなものがあってもいいと最近は思います。
福山:それは時代に逆行していますが、先進国とネパールとは違いますからね。日本では特に地方の学校では盲学校は生徒不足が深刻ですが、ネパールでは盲学校を作ったらたくさん来るでしょうね。ただ、ネパールの公立校の先生のレベルは低いでしょう。
カマル:それも学校によりますね。最近は私立校の給料も低くなり、身分も安定しないので、公立校が見直されてきているんですよ。
福山:最後にこの6年間、日本で暮らして苦労したことが何かありませんでしたか?
カマル:幸いなことに特に苦労したことはありません。お箸があまり使えませんが、フォークがあるので、比較的食べ物の問題も少なかったですね。もっとも来日当初は、日本語ができなかったので、毎日カレーばかり食べていました(笑い)。焼き鳥は塩が好きで、こんな美味しいものがあるなんて、最初の頃は知りませんでした。
福山:ヤギ肉だけど、ネパールのシェクワに似ているからかな。それでは、これから博士誕生のお祝いにシェクワでも食べに行きますか(笑い)。