THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2009年6月号

第40巻6号(通巻第469号)
編集人:福山 博、発行人:藤元 節
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替口座:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「セミフラット形式」

 高田馬場駅前ロータリーから諏訪通りへと延びるバス通りで、歩道の一部でセミフラット化が4月22日に完成した。これは「高田馬場駅周辺地区交通バリアフリー特定事業計画(平成20〜22年度)」に基づくものだ。従来の歩道の多くは、高さ15cm程度、横断歩道接続部や民地への車両乗り入れ部では車道面と縁石と歩道面が平坦ですりつけ勾配(長さ75cm)で高さ15cmまで上げていた。主たる問題点は、歩行者や車いす使用者にはすりつけ勾配が不便、視覚障害者には歩車道境界の識別が不明確。セミフラット形式の特徴は、歩道面の高さ5cm程度、歩道面より高い縁石の使用、横断歩道接続部では段差2cm以下で縁石である程度勾配を形成。交通バリアフリー法による提唱もあり、セミフラット形式の歩道が今後各地で普及するだろう。

目次

(特別インタビュー)按摩違憲判決のその後
  大韓按摩師協会イ・キュソン事務総長に聞く
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3
専攻科から大学編入 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
11
誰もが知っている歌を目指して!
  立道聡子さん「たからもの」でビクターからデビュー
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12
らくらくホンベーシックU好評発売中 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
17
夢はバリアフリーの常設映画館 第2回シティライツ映画祭レポート ・・・・・・・・・・・・
18
「目からうろこ」の5日間
  ラオスとモンゴルの能力開発プロジェクト進捗報告会(田畑美智子) ・・・・・・・・
22
ケララ便り:もうすぐ1カ月、23の夢 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
27
(特別寄稿)魂の目 ―― 私と詩
  (〓見(つるみ=つるは雨冠に金の鳥)忠良) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
30
リレーエッセイ:私たち盲ろう者の夢、盲ろう者支援センター(藤鹿一之) ・・・・・・・・
33
外国語放浪記:課外活動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
37
あなたがいなければ:仲間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
40
感染症研究:ついに発生した新型インフルエンザの脅威(1) ・・・・・・・・・・・・・・・・・
44
知られざる偉人(最終回):シンガーソングライターのT.ケリー ・・・・・・・・・・・・・・・・
49
よりどりみどり風見鶏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
53
大相撲:復活、豊真将 ―― 悲願の三役なるか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
56
時代の風:障害者割引郵便9割減、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
59
伝言板:ロゴスの文化教室、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
62
編集ログブック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
64

(特別インタビュー)
按摩違憲判決のその後
―― 大韓按摩師協会イ・キュソン事務総長に聞く ――

 2004年の総選挙で視覚障害者として韓国で初めて国会議員になったチョン・ファウォン氏、100年近い歴史を持つ国立ソウル盲学校において2人目の全盲校長である金其昌(キム・キチャン)氏、大韓按摩師協会会長のソン・クンス氏を含む大韓按摩師協会(以下、按摩師協会)9名と韓国保健福祉家族部(日本の厚生労働省に相当)の職員5名の計14名が、4月20日〜24日の日程で訪日し、日盲連や文京盲学校などを訪問して交流を深めた。
 過密日程の合間を縫って、4月21日、イ・キュソン按摩師協会事務総長に当協会にお越しいただき、按摩専業違憲判決のその後など、韓国の按摩・マッサージ事情を、按摩師協会呉泰敏(オ・テミン)氏の通訳で聞いた。(取材・構成は、本誌編集部戸塚辰永、小川百合子)

韓国按摩の受難

 昨年(2008)1月から按摩師協会で事務総長を務めているイ・キュソン氏は、1962年生まれの全盲の男性である。
 韓国には18万4,000人の視覚障害者がおり、按摩師協会は韓国に15の支部と会員数約7,400人を有する視覚障害マッサージ師の全国組織である。
 イ氏は、韓国ドラマの「冬のソナタ」のロケ地として日本でも有名な韓国北部江原道(カンウォンド)の道庁がある春川市(チュンチョンシ)(人口約25万人)で生まれ、国立ソウル盲学校を卒業し、城北(ソンブク)視覚障害者福祉会で福祉に関する業務を行い、その後按摩師協会に勤めた。
 韓国のマッサージは、1912年に日本から導入され、約100年の歴史を有する。第二次世界大戦後、米国の支配下にあった韓国でも、鍼灸マッサージは非科学的だとの理由で、日本同様に廃止の動きがあり、驚くべきことに韓国では一旦は廃止されたという。しかし関係者が国に働きかけることで、1961年に法律によって正式にマッサージのみが営業を許可された。だが、1945年以前まで行われていた按摩師による鍼灸施術は極端に制限されており、日本でいう3番鍼以下の細い鍼を用いておこなうマッサージの補助的な施術しか許されていない。しかも、マッサージ施術所では看板などで鍼という宣伝・広告が許可されていないため、極めて不利だという。そのわけは、1950年に韓国では医療法が制定され、その中で鍼灸は漢方医の業務範囲と定めたからだという。
 一方、韓国でも無資格マッサージ師が近年急増している。正確に調べたわけではないが、イ氏の推測では、その数は少なく見積もっても視覚障害マッサージ師の10倍は下らないという。
 無資格マッサージ師が増加した背景には、政府の取り締まりの緩さがあったことは日本同様である。
 無資格マッサージ師が急激に増加した時期は2回あり、第1期はソウルオリンピックが行われた1988年前後で、国民の関心はスポーツに転じたこともあって、マッサージでも特にスポーツマッサージ師が増加した。第2期は1997年7月よりタイを始めアジア各国で起こった通貨下落、いわゆる「アジア通貨危機」の時期であった。韓国は金融部門での莫大な不良債権を抱えてIMF(国際通貨基金)の管理下に入るという屈辱を味わった。韓国大財閥の現代(ヒュンダイ)グループの解体、起亜(キア)自動車などの大企業が軒並み倒産し、失業者が街に溢れて、マスコミは朝鮮戦争後、最も深刻な危機だと報じた。
 そうした大不況下にこれといった資金もなく開業できるのがマッサージで、失業者がマッサージ分野に大量に流入してきたという。当時の政府はこれら無資格マッサージ師の営業取り締まりを行うより、むしろ無資格マッサージ師の参入を、失業者の救済策の1つと考えていた節もあるとイ氏は当時を振り返った。

按摩専業違憲判決とその後の戦い

 2006年5月25日の違憲判決とその後の按摩師協会による激烈な抗議運動については、韓国国内はもとより、日本でも新聞テレビ等のマスコミで大々的に報道されたので、読者もよくご記憶のことと思う。国際的にも「ニューヨークタイムズ」やBBCなどでもセンセーショナルに報じられ、世界中で人々の関心を呼んだ大事件であった。
 ちなみに、本誌でも2006年7月号で指田忠司氏に「韓国憲法裁が視覚障害者の按摩専業違憲判決 ―― 専業の歴史と判決の波紋 ―― 」と題する論文を寄稿していただき、大きく取り上げた。
 しかし、その後の展開は、本誌も含めてほとんど報じられてこなかったので、改めてここで紹介する。
 韓国では「按摩専業」が旧保健社会部(2008年2月に保健福祉部から保健福祉家族部へと組織再編)長官が定める「規則」に定められているが、無資格マッサージ師の増加もあって、実質は、絵に描いた餅になっていた。そして、2006年の憲法裁判所による違憲判決により、“お墨付き”が与えられ、より一層無資格按摩師の急増に拍車がかかったという。無資格業者が増えたことで、彼らの力が急速に強化され、彼らは2002年から4度も憲法裁判所に訴訟を起こした。そして、2008年10月には視覚障害者の按摩専業を合憲とする憲法裁判所の判決が出たにも関わらず、すぐ翌朝また訴訟手続きを取ったという。
 2006年5月25日の韓国憲法裁判所による按摩専業違憲判決を詳しく見ると、(1)視覚障害者のみに按摩師免許を付与する現行制度は、国民の職業選択の自由を侵害するため違憲。(2)視覚障害者の按摩専業は、旧保健社会部の部令に定められている規則なので、これは法律よりも下位の拘束力しかないもので、規則で決められていること自体が違憲である、というものであった。
 韓国の法制度は、まず自治体の条例、その上に各部の長官が定めることができる規則、その上に大統領が発する大統領令、国会で定める法律がある。ところが、国民の基本権を制限する内容が法律ではない、部の長官が決めた規則によって定めていること自体がそもそもおかしなことだというのだ。
 違憲判決では、職業選択の自由と、法律ではなく規則で禁じていることを理由に違憲だと判断したのだ。その当時までは視覚障害者のみに按摩が許されていることは、保健福祉部の長官による規則で定められていた。規則は法律の下位にあたるものだから問題であると指摘されたのだ。
 違憲判決に対して、按摩師協会を先頭に視覚障害者は緊急対策委員会を結成し、3,300人が集まった抗議集会、ハンガーストライキ、ソウル市内を流れる漢江(ハンガン)のマポ大橋から飛び降りるなど抗議運動はエスカレートし、その中で3名の自殺者が出たという。そうした行動を見て視覚障害者に同情する世論が国民に形成されていった。2006年当時、韓国には障害者年金もなく、按摩以外の職業もない状況での違憲判決は、視覚障害者の生存権を脅かすものでもあったのだ。
 2006年8月29日、それまでは法律の下位の規則である保健福祉部長官の命令に過ぎなかったが、国会が医療法を改正して、視覚障害者の按摩業の独占権を認めた。こうして違憲判決の1つの理由は消滅した。
 憲法裁判所が違憲判決を出すには、9人の裁判官のうち6人(3分の2以上)の同意が必要とされる。違憲判決の内訳は、職業選択の自由に反するという理由で違憲とした裁判官が5人、按摩専業規則には法律的な問題があるので違憲だとした裁判官が2人。その時点では7人だったが、8月29日に規則から法律に昇格したため、第2の理由は消滅。結局9人のうち5人が違憲ということとなり、3分の2の6人を割ったため、違憲判決は無効となったのだ。
 ここまで述べてから、イ氏は「これは韓国のマッサージ師にとって偉大な歴史になると確信します」と改めて、顔を輝かせて胸を張った。
 しかし、こうした韓国の視覚障害者が違憲判決の無効を喜ぶ暇を与えず、晴眼無資格マッサージ師らは翌9月29日に違憲訴訟を憲法裁判所に起こして、この問題はさらに長期化した。彼らは、医療法に視覚障害者の按摩専業を盛り込んだこと自体が違憲ではないかと主張したのだ。しかし、2008年10月30日に、その法律は合憲であるという判決が下された。
 イ氏は「裁判が家をダメにする」という韓国のことわざを紹介し、憲法裁判訴訟にはこの分野に精通した弁護士に依頼した方が裁判が有利に進むので、按摩師協会としても多額の弁護士費用を工面しなければならず、それが経済的な負担となっているとため息をついた。
 「私たちは按摩専業の問題を視覚障害マッサージ師と晴眼無資格マッサージ師間の経済的な利害争いとしては考えていません。また、一般市民がそう捉えることは非常に困ります。以前、西洋では貴族が貧民を救済する必要があるという道徳哲学がありました。韓国でも、少数の弱者を保護することは、文明国家の哲学だと人々は思っています。ですから、弱者保護の観点で按摩専業の問題を捉えるべきだと考えています」と述べた。そして、昨年10月30日の合憲判決の翌日、韓国とは反対に台湾では按摩専業の違憲判決が下ったとイ氏は述べた。日本でもあはき等法19条問題で訴訟が今後予想されているが、今後も韓国や台湾の動向には目が離せないことだろう。

手を携えてきた歴史と伝統

 このインタビューの直前に一行は日盲連を訪問し、日本の鍼灸マッサージの保険適用の現状についてレクチャーを受けた。
 「ゆくゆく韓国でもマッサージの保険導入を考えていますが、今回保健福祉家族部の職員が同行したからといって2、3年後に保険を導入できるかといえば、そうたやすいわけにはいかないでしょう。今回は日本のあはき師から事情をうかがいましたが、保険適用の手続きが煩雑なこと、保険の単価が安いことを聞き、気の毒だと感じました。日本も韓国のように国に強く訴える必要があるのでは」と心配したともいう。そして、
 「無資格者が横行する現在、専業権は事実上ないものと考えています。保険導入が韓国の視覚障害マッサージ師にとって有利に働くことであれば、将来導入を検討していきたいものです」と語った。
 これまで韓国ではサウナに隣接した施術所でのマッサージが主流であったが、近年、日本のようにヘルスキーパーとして一般企業に勤務する視覚障害者も増えつつあるという。イ氏は、視覚障害マッサージ師を漢方医院に就職させていきたいともいう。しかも、これは漢方医の団体からの要望でもあり、保健福祉家族部の意向でもあるというのだ。医師や看護師とは違って按摩師は医療スタッフとして認められていないので、漢方医の元で働くことで、按摩師の地位の向上が見込まれると期待しているのである。
 現在、韓国のあはき教育は中学部卒業後、高等部で3年間行われるのみで、卒業と同時に按摩師免許が付与される。今後は、日本のように高等部卒業後専攻科で学べるようにすること、国家試験の導入を図ることにより、より医療としての専門性を図っていくことが、喫緊の課題のようである。また、教員の質の向上も急務だという。日本の筑波大学理療科教員養成施設のような理療科専門教員養成機関はなく、韓国では大学の特殊教育教員養成課程を卒業した教員が按摩を教えているのが現状だからだという。
 日本と韓国の間には、歴史的なわだかまりがあることは事実である。しかし、日韓の視覚障害者は、国家が鋭くいがみあった時期にも手を携えて来た歴史を共有している。今後もその伝統を、末永く育みたいものである。

誰もが知っている歌を目指して!
立道聡子さん「たからもの」でビクターからデビュー

 5月20日にシングルCD「たからもの」でビクターエンタテインメントからメジャーデビューした立道聡子さんは、27歳になる全盲のママさんシンガーソングライターだ。透明感のある彼女の歌声と「たからもの」の歌詞は心を和ませる。俳優の西田敏行が司会を務める日本テレビ系列の「誰も知らない泣ける歌」でも5月19日に放映されるなど、じわじわと人々の心をつかみつつある。

きっかけは赤いスイートピー

 ピアノの弾き語りを始めるようになったのは、福岡盲学校中学部の頃。「今では、インターネットで曲の番号を調べれば目が見えなくてもカラオケが歌えるようになってきましたが、私が中学生だった15年前は晴眼者の目を借りなければカラオケはできませんでした。それから、カラオケボックスは福岡の繁華街にあって、盲学校から遠かったので、手軽に楽しめる弾き語りで今井美樹や松田聖子、当時流行っていた平松愛理(えり)などのバラードタッチの歌を歌うことに夢中でした」。その当時、先生と生徒5、6人でバンドを組んで、今井美樹などのコピーを始めたのが、彼女の音楽活動の原点だった。バンドには河野先生がいた。先生は音楽ではなく社会科の先生だったが、とてもピアノが上手で、学校外の仲間ともバンドを組んでいた。彼女は先生から音楽の話を聴くのがとても楽しく、バンド活動にのめり込んでいった。福岡盲学校は15年ほど前までは生徒の数も多く、音楽好きが集まって簡単にバンドを組むことができた。中学部1年生の頃、地域で行われた音楽フェスティバルに盲学校のバンドが出場し、彼女は松田聖子の「赤いスイートピー」を大勢の観客の前で熱唱。「ものすごく緊張したけど、とても楽しい経験だった」と、その時の感動が自分に大きな影響を与えてくれたという。

大阪そして東京、たからものとの出会い

 「私の実家は福岡市内でもほぼ佐賀県に近い田舎だったから、車がないと不便でした。好きな音楽を続けていくためには、とにかく都会に出なければいけないと思ったんです。そうすれば私にも何かチャンスがあるのでは」と考えた彼女は、家族を説得して大阪府盲高等部音楽科に進学した。学校ではポップスなどを教わるわけもなく、もちろん正統派のクラシックを学んだ。「大阪では自立する力や技術が身に付きました」と当時の暮らしを振り返る。立道さんは延べ300曲以上の自作の曲を作詞作曲している。初めて曲を書いたのは中学生の頃だった。大阪に出てライブ活動を始めた彼女は、ライブハウスで人の歌を歌っていたが、「ずっと歌いたいならちゃんと自分で作詞作曲した方がいいよ」とライブハウスのスタッフに勧められ、本格的に曲を書き始めた。以来、曲作りは10年になる。
 今回ビクターエンタテインメントからリリースされた「たからもの」は、大阪から東京に出て筑波大附属盲学校の専攻科音楽科を卒業して、東京・新宿でライブ活動をしていた5年ほど前に作った曲。「『たからもの』はリクエストが多く、ライブでは必ず毎回歌っています。この歌には女の子が出てくるのですが、女の子の心の動きがパッと浮かんできて、2、30分で曲と詞が浮かんで完成しました。そういう意味でも印象に残る曲です」。立道さんは附属盲で出会った1年上の男性と結婚しているが、「たからもの」はちょうど結婚する少し前にできた曲だという。
 「この曲ができて、結婚して、子供が生まれて『たからもの』として大事にしたいものはたくさん増えています。私にとって『たからもの』自体は家族や子どもと同じように大切な場所にあるものです」と「たからもの」への思いを語る。作詞は、もうすぐ3歳になる子どもを寝かしつけ、自分も一眠りした夜中11時過ぎに始まる。紅茶を飲みながら、あたりが静かになった頃に気になったことをメモに書き留める。昼に比べて夜は想像力や集中力が高まるからだ。
 実は、「たからもの」は最初2007年にインディーズレーベルで発売されている。メジャーデビューに至る現在までずっとマネージャーとして支えてくれているのが、ストロベリーカンパニー社長の深津修さんだ。日本バリアフリー協会が2005年に開いた第2回ゴールドコンサートを報じたフジテレビの番組を見て、立道聡子の歌声に感動して、彼はすぐに彼女にメールを送ったという。ゴールドコンサートには、様々な障害者のアーティストが応募する。新聞記事を偶然見た友人の勧めで応募。審査が通り、本選に出場できたのだった。「このコンサートをフジテレビが取材していたんです」。その後も、ゴールドコンサートを報道した担当者と連絡を取っていた彼女は、結婚し、子どもができたことを報告した。すると、FNNスーパーニュースのコーナーでドキュメントを撮ることができないかと言われて、それを受け入れた。ドキュメントは2006年に放映され、大きな感動や反響を呼んだ。
 「テレビを見て連絡を取りたいと深津さんからメールが来たときは、正直言って『この人は怪しい人じゃないか』と思いました」。そして、「私たち夫婦は2人とも目が見えないんです。見えないっていうことはどういうことなのかあなたは本当に分かっていますか」と単刀直入に尋ねた。いきなり視覚障害者に近づいてきて「一緒にやっていきませんか」などと言われることは怖い感じさえしたからだ。ところが、実際に会ってみて、「この人なら大丈夫」と安心したのだった。
 深津社長は大手レコード会社へ売り込みに奔走。ビクターエンタテインメントにはメジャーデビューを目指すアーティストから数限りなくデモテープが送られてくる。同社企画制作部の稲屋剛士さんは、「まず始めに接触を持った人が社内でアーティストの音を周りに聴かせるんです。その音を聴いて、声がすごくいいなと聴いていました。『たからもの』という曲がバラードで心にしみました。こんなすごくいい声で、どんな人が歌っているの?というところから逆に入っていって立道聡子さんという全盲の人だと後から知りました。みんなが彼女の曲と声に惹かれたことからでした」と第一印象を語った。
 録音には1曲1日かけて録音する日もあれば、数曲進む日もあった。事前に立道さんが弾き語りで曲のイメージを録音し、それをアレンジャーが聴いて譜面に起こす。そしてそこに何を加えるかという話をして最終的に曲が固まる。そして、最後に歌が加わるという。1曲全てが完成するには何日もかかるという。「みんなで話し合いながら、1つの曲を完成させていくので、最初バラードで作詞作曲した曲がジャズやボサノバの曲調になることもあります。そういう曲作りの作業がとてもおもしろい」と立道さんは語る。
 「たからもの」の初回出荷分のCDには点字の歌詞カード(墨字付き)が封入されている。追加出荷分を購入した方についてはビクターエンタテインメントに連絡することで、点字歌詞カードが郵送されるという。
 幼いころからの夢をついにかなえてメジャーデビューを果たしたシンガーソングライター立道聡子の活躍が楽しみだ。
 今回、ビクターエンタテインメントでは『点字ジャーナル』の読者の皆さまに「たからもの」、「戀の花びら」、「フラワー」が入ったシングルCD「たからもの」を希望者10人にプレゼントします。希望される方は、点字ジャーナル編集部宛に「たからもの」希望と明記し、6月15日までにEメール・手紙で、氏名、住所、連絡先電話番号、立道聡子さんへのメッセージ一言をお知らせください。なお、電話での応募も受け付けます。当選者の発表は、CDの発送をもって代えさせて頂きます。(戸塚辰永)

■ 編集ログブック ■

 大韓按摩師協会イ・キュソン事務総長のインタビューで、通訳として活躍した呉泰敏(オ・テミン)さんとは久方ぶりの再会でした。旧交を温めていると、戸塚デスクとも親しく話し始め、やはり古くからの友人と聞き、「世間はせまい」とびっくりした次第です。
 驚いたといえば、今回寄稿していただいた大分県立盲学校のツル見忠良先生との出会いは衝撃的でした。2月末に、小誌読者として先生からお電話をいただき、天津の青木陽子さんや小誌に連載中の王崢さんの話をしている最中に、突然30年前読んだある詩集の一節、「目覚めると耳の回りにだけ朝が来る」を思い出したのです。
 そこで「もしかして詩人のツル見さんではありませんか」と失礼を顧みずに聞くと、「なぜ、知っているのですか? 今度第4詩集『つぶやくプリズム』(沖積舎刊、税込2,625円)を出しました」ということで、今回、特別に寄稿していただいたのでした。
 私が思い出した詩の一節は『みにくい象』という、先生の第1詩集の中にあると思うのですが、むろん30年前の記憶ですから、まったくおぼろげで、なにかの勘違いかも知れません。しかし、そのときの感動と、著者名は30年たっても鮮やかに刻印されていたのでした。(福山博)

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