第40巻4号(通巻第467号)
編集人:福山 博、発行人:迫 修一
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替口座:00190-5-173877) 定価:一部700円
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はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「国策捜査」
自民党も火の粉を浴びそうな雲行きなのでちょっと違うようだが、民主党の小沢一郎代表の資金管理団体をめぐる違法献金事件をめぐって、民主党が国策捜査だと批判している。
国策捜査とは政治的意図や世論の動向に沿って、検察が「訴追ありき」であたかも国策であるかのように捜査を進めることをいう。元々は検察が使用していた用語であったものが、今は逆に検察を批判する文脈で一般に使用されることが多いのはなんという皮肉であろうか。
新聞を検索して出てくる最も古い記事は、1996年5月30日付『産経新聞』朝刊の「隠された“住専マネー” ―― 桃源社社長逮捕」なので、意外と新しい言葉である。2005年に鈴木宗男事件で逮捕・起訴された外交官の佐藤優による手記『国家の罠』がベストセラーとなり、一般に広く知られるようになった言葉である。
「ネパール・日本盲ろう国際セミナー」に参加して 門川紳一郎氏に聞く ・・・・・・・・・ |
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インドのケララ州で1年間 IISE研修生募集中! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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(投稿)「暴露話」を読まされたのは残念! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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(ご質問へのお答え)問題発言を、なぜあえて掲載したのか! ・・・・・・・・・・・・・・・ |
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「プラットホームの安全」を考えよう! 青山茂氏のユニークな社会貢献 ・・・・・・・・ |
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変なことをいう先生といわれて 「最優秀教員」に神崎さん ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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全重協と中同協がセミナー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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(特別寄稿)北京五輪後の中国ッ漢川市の視覚障害者事情(山口和彦) ・・・・・・・ |
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リレーエッセイ:点字クラブ・ブルースカイの仲間と共に(吉田沙矢香) ・・・・・・・・・・ |
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外国語放浪記:もう少し学校のこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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あなたがいなければ:大学に行く道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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感染症研究:エイズウイルス感染拡大と免疫耐性ウイルス出現の危機 ・・・・・・・・ |
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知られざる偉人:盲ろう者の自立に貢献したR.J.スミスダス ・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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よりどりみどり風見鶏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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大相撲:日本人力士期待の星 ―― 豪栄道豪太郎 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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時代の風:がん転移時の免疫抑制の仕組み解明、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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伝言板:オンキヨー点字作文コンクール ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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編集ログブック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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「ネパール・日本盲ろう国際セミナー」に参加して
―― 全国盲ろう者協会評議員・門川紳一郎氏に聞く ――
全国盲ろう者協会(阪田雅裕《さかた・まさひろ》理事長)は、ネパール盲人福祉協会(NAWB)と共同で、3月5、6の両日、ネパールの首都・カトマンズ一のショッピングモールが入るユナイテッド・ワールド・トレード・センターというガラス張りの近代的な建物内のカンファレンスホールにて、112人の参加者を集めて標記のセミナーを開催した。
日本からは、準備のために先発したネパール人留学生のカマル・ラミチャネ氏(全盲)を含めて11人が参加し、カマル氏以外は全員日本人だった。そのうち障害者は4人で、盲ろう者が福島智(東大教授)、門川紳一郎(NPO法人視聴覚二重障害者福祉センターすまいる理事長・43歳)両氏、他に指点字通訳者として弱視者が2人いた。
この記事は、3月11日に門川氏が大阪から別件で東京に出張された折りに、当協会にお越し頂き、インタビューした内容をまとめたものである。(取材・構成は、福山博、戸塚辰永、小川百合子)
テレビで報道されて
盲ろう者協会が、今回カトマンズでセミナーを開催することになった理由は2つある。1つは福島教授が指導するカマル氏(東大大学院博士課程)が、盲ろう者のことに強い関心を持ったこと。2つめは、それに先立ち2001年に世界盲ろう者連盟が発足して、アジア地域代表に福島教授が就任し、アジア地域の盲ろう者のネットワークを起ち上げようとしていた背景がある。そして、盲ろう者国際協力推進事業という厚生労働省の依託事業を盲ろう者協会が受けることになり、昨年、とんとん拍子に話がまとまったのだ。
セミナーには3名の言語通訳者が用意されていたが、結局、盲ろう者関連の専門用語などもあり、通訳が難しく、司会進行の他に、カマル氏が日本語、英語、ネパール語の全通訳を行うと共に、報道陣の対応も行ったので、彼は昼食も摂れない忙しさであったという。
開会式は、NAWBクマール・タパ常務理事(トリブバン大学講師・全盲)の歓迎の挨拶に続き、福島教授が今回のセミナー開催の経緯を、前述したように説明したうえで、その意義を、(1)盲ろう者を知ってもらうための社会啓発、(2)コミュニケーションの重要性を分かち合う、(3)友好関係の絆を深めるの3点にまとめた。続いて水野達夫駐ネパール日本国大使が挨拶を行った。
次いで主賓であるパラマーナンダ・ジャーネパール副大統領が演説を行い、最後にラジェッシュ・プラサドNAWB会長が、盲ろう者のリハビリテーションを行う意志も能力もNAWBにあることを強調して開会式は終わった。
この間、ワールド・トレード・センターは警官隊が取り囲み、セミナー会場には軍服の兵士が終始副大統領に寄り添って演壇に仁王立ちしていたため、緊迫した空気が流れた。
本セミナーの前日、日本からの一行は、トヨタのTの文字が欠けているので「オヨタ」と読める専用バスでカトマンズ市内の聾学校、社会福祉省、日本大使館、ギリジャ・コイララ前首相の長女・スジャータ・コイララ女史の自宅を訪問。福島教授が中心になって、主にネパール訪問の目的や盲ろう者福祉の充実などを訴えた。ギリジャ前首相の長兄は、王政復古後初の首相で、次兄はネパール初の議会で選ばれた首相という、3人兄弟が首相経験者という稀有な名門だ。スジャータ女史も前下院議員で大臣も歴任している政界の実力者だが、ことのほか指点字に関心を持ったようで、様々な角度からの質問があったという。
セミナーの1日目は昼食後、本題に入り、国立特別支援教育総合研究所の中澤惠江(なかざわ・めぐえ)上席総括研究員の発表「日本における盲ろう児と教育」の他、後述する「盲ろうユニット」のコーディネーター・スガム・バッタライ氏の「教師からみたネパールにおける盲ろう児のリハビリテーション」、クマール・タパ氏の「NAWBと盲ろう者」、門川氏の「日本における盲ろう者の日常生活」が報告された。閉会後、一行はNAWBを訪問し、点字印刷やデイジー作成の様子を視察。東京ヘレン・ケラー協会にはとても感謝をしているとの声を折々に聞いたという。
2日目は、盲ろう者親の会のミーナ・シャヒ会長による「ネパールにおける盲ろう児の現状」、福島教授とカマル氏による「コミュニケーションと盲ろう者」、全国ろう・難聴者連盟のクル・バッタライ氏(ろう者)による「コミュニケーション問題」、ネパール全国障害者連盟(NFDN)ビレンドラ・ポクーレル会長の「盲ろう促進活動におけるNFDNの役割」の発表があった。
最後にネパールで今後どのように支援をしていったらよいか2つのグループに分けてディスカッションがあり、全体で報告して、福島教授がコメントして締めくくり、ホーム・ナット・アルヤールNAWB事務局長が閉会を宣言し、午後1時前に終了した。
セミナーはこうして大成功であったが、課題も残った。たとえば、ネパールは現在、王制から共和制に移行したため暫定憲法なのだが、新しい憲法には盲ろうのことをぜひ加えて欲しいという意見が盲ろう者親の会から出た。「僕にはなんのことか意味が良く分かりませんでした。障害者基本法に盲ろう者のことを入れろというのなら話は分かるんですが、憲法に入れて欲しいというのです」と、門川氏はいぶかしがる。
セミナーの初日には、聾学校で会った盲ろうの子供達7人全員が顔を見せ、門川氏はこれがもっとも嬉しかったことだという。聾学校には、デンマークの支援による「盲ろうユニット」という盲ろう児のためのプログラムがあり、そこで学んでいるのだ。ただデンマークの支援プログラムはこの3月で終了するので、「われわれも、ぜひ、継続してくださいとお願いすると共に、日本としても何かお手伝いすることはありませんか?と言いました」と門川氏は心配する。
セミナーの2日目には、NAWBが訪問支援をしている視覚障害で補聴器をかけた成人の兄弟が2人来た。「ただ、時間がなくて、詳しいことは聞けませんでしたが、連絡先の交換をしてきましたので、これから情報交換したいと思います。彼らに対してNAWBは、補聴器をかけて聞こえるのだから、盲ろう者ではなく単なる視覚障害者だと認識していました。しかし、そうではなくて盲ろう者のプログラムが最適なのです。実は日本でも昔はそうだったんですが、そこから変えていく必要があります。また、とにかく、ネパールにおける盲ろう者の情報は非常に少ないと感じました」と門川氏は言う。たとえば、聴覚障害者の3〜6%に見出されるアッシャー症候群という難病があるが、この疾病は、網膜色素変性症を併発するので視覚障害を伴うため、盲ろう者の約半数を占める疾患だ。ところが、ネパールではこの病気がまったく知られておらず、2005年にできた親の会もこの難病を知らなかったという。いずれにしろ、ネパールの盲ろう者と児童に参加してもらって、触れあえたのは大変意義の深い最初の一歩であったらしい。
最も2日目の午後は、本当はセミナー参加者ともっと交流したかったようだが、ラム・バラン・ヤダブ大統領を表敬訪問することになっていたので、後ろ髪を引かれる思いでワールド・トレード・センターを後にした。
「なかなか大統領にお会いすることはできないことですから、われわれとしてはすごいことができたと思います。ネパールでは盲ろう者という存在がまだ知られていないんです。日本でもおよそ20年前に全国盲ろう者協会が創設されて情報が広がってきましたが、ネパールは20年以上前の日本と同じです。今回われわれが訪問したことで、徐々に知られるようになると思います。そうしたことも含めて、セミナー開催は意味があったと思います。国を挙げてのイベントでしたから、テレビでも放映されて社会啓発できたと思いますよ。あれはカマルさんの力が大変大きかったと思います。すごいよね。大統領にも会ったんですよ」と彼は目を輝かせた。なんと、大統領府では昼食も用意されており、大歓迎を受けたらしいのだ。
動物園で象に乗る
全国盲ろう者協会派遣のセミナー参加者一行は、関西空港出発組が門川氏を含めて2人、成田空港出発組が8人で3月3日の朝、それぞれ出発し、同日の午後、香港空港で合流。同日現地時間の午後7時に香港を出発して、カトマンズ空港に夜10時に到着した。帰国は3月8日午後11時にカトマンズを出発し、翌9日の早朝5時に香港に到着。関空組と成田組に別れ、9日の午後2時過ぎにそれぞれ関空と成田に帰着した。
カトマンズではファイブスターのホテルに宿泊したので、無線LANでインターネットに接続できたし、部屋には無料のペットボトルの飲料水もあり快適だった。また、毎朝いわゆるバイキング形式の朝食を摂ったのだが、お粥のコーナーには「オカヨ」とアルファベットで書いてあったので、おもわず笑ってしまったという。
スパイスの利いた食べ物が苦手な人は大変だったらしいが、門川氏は大好きなので、食事には不自由しなかったという。なかでも、シューマイの形をしたネパールの餃子「モモ」は、みんなに好評で、「ほとんどの従業員が聾者というレストランにも2カ所行き、やはりモモを食べました。しかも大量に注文して、特に福島さんがたくさん食べていましたね」と言って愉快そうに笑った。門川氏は聴覚障害の店員にアメリカ手話と日本手話で挨拶したそうだが、手話が全然違うようで、まったく伝わらなかったといって残念がっていた。
ネパール滞在は実質5日間だったが、そのうちセミナーと視察には3日間しか割り当てられなかった。後は、土日で、日曜日は帰国する日であったが、午後はろう者協会を訪問した。
実は土曜日を利用して、チトワン国立公園のジャングルに行って象に乗りたかったそうなのだが、民族紛争があってその地域への立ち入りが禁止されたので、代わりにカトマンズの動物園に行く。「僕は馬に乗ったことはありましたが、象にはすべり台の上から乗るんですね。わずか10分ほどでしたが大きく揺れて、ちょっと気持ち悪くなりましたが、でもいい経験ができましたよ」と愉快そうに笑った。
最後に門川氏は、「今後とも、ネパールで第2回、3回とセミナーができればいいなと思いますが、これはカマルさん次第ですね。福島さんも行く先々で、日本に何か要望があったらできるだけ支援したいと言っていたので、ネパール側も大変期待しているようでしたね」と言って締めくくった。
「プラットホームの安全」を考えよう!
―― 青山茂氏のユニークな社会貢献活動 ――
1970年前後に東京のベッドタウンとして急速に開発が進み、今や中核市、業務核都市にも指定されている人口40万人の千葉県柏市に、「駅にホーム柵を!日本会議」(http://anzensaku.org/)という、役員12名、会員60名というこぢんまりとしたボランティア組織がある。全国の鉄道駅のプラットホームにホーム柵の設置を実現することを目的に設立され、これまでに国交省との意見交換、JRを始めとする関東の11の鉄道会社を訪ねてのアンケート調査、駅の安全性、誘導表示などの現地調査、啓発のためのイベント開催など多彩な活動を続けている。去る2月7日には、本誌先月号で既報のとおり、東京・新宿で「ライブコンサート付のシンポジウム」を開催。さらには、5月の国会に向けて請願署名活動を展開する計画も持っており、「小粒でもピリリと辛い」ユニークな活動を展開中である。
この団体を2005年9月に立ち上げて、以来会長を務めているのは、柏市在住の青山茂さん(59歳)である。1950年1月10日に柏市に生まれた彼は、ふるさとで水道設備会社を経営していた。しかし、網膜色素変性症で年々視力が低下し、大きな文字も読めなくなった39歳の頃、会社を他人にゆずる決断をする。そして、1993年4月に国立塩原視力障害センターに入所し、あはきを学び、1996年3月に同センターを卒業。あはきの国家試験にも合格し、同年6月に柏駅前で鍼灸院を開業。そのかたわら柏市視覚障害者協会会長、手賀沼と松ケ崎城の歴史を考える会(http://www.matsugasakijo.net/)会長なども歴任する。
最初のボランティア活動
青山さんが最初にボランティア活動らしきものに手を染めたのは、28歳の頃ふるさとにある手賀沼の源流の池を守る運動で、まだ「環境問題」という言葉さえない時代のことであった。
手賀沼は千葉県北西部、利根川下流右岸にある湖沼で、東西方向に細長く、江戸時代以来たびたび干拓されて縮小したが、それでも周囲38km、面積約650haもある。1955年頃まではうなぎなどの漁獲もある澄み切った沼だったが、周辺の都市化に伴い生活排水や産業排水により、沼の水質は急激に悪化し、1974年からは27年間全国湖沼汚染度ワースト1となる。その後市民の活動が奏功し、湖沼水質保全特別措置法の対象となり、2001年になってようやくワースト1の汚名を返上して、現在はワースト5にも入っていない。一帯は県立印旛手賀自然公園に指定され、マコモやヨシが茂り、コイ、フナも多く、釣りやボート遊び、散策に多くの人々が訪れている。
その後、青山さんは2000年5月にはモンゴルへ行き、柏市で「馬頭琴を聞く夕べ」というチャリティコンサートを開いて集めた3,000米ドルを大寒波被害を受けた遊牧民に手渡す。彼がモンゴルに興味を持ったのは、親友であるプロカメラマンに連れられて、その前年(1999)の夏モンゴルを訪れたことによる。そしてその半年後の冬、モンゴルを30年ぶりの大寒波が襲い、110万4,000頭の家畜が死ぬという大災害が起こる。青山さんは、特に奥地には援助の手がまったく届いていないことを知り、ウランバートルから南西600kmの5カ村のゲルをまわり、60家族に1カ月の生活費に相当する緊急支援を行ったのである。
翌2001年には「四季・遊牧 ―― ツェルゲルの人々」というドキュメンタリー映画のチャリティ映画会も柏市で行っている。1989年に始まった日本・モンゴル共同のゴビ・プロジェクト調査隊は、1992年夏の第三次調査を終え、基礎調査の最終段階をむかえていた。5名からなる日本の越冬チームは、引き続きモンゴル・ゴビ・アルタイ山中のツェルゲル村に残り、調査の総仕上げにとりかかった。この作品は、越冬を含むこの最後の一年間の記録映像をもとに、ツェルゲルの四季折々の自然とそこに生きる人々の生活を描いたものだ。この映画の上映時間はなんと7時間40分もあるため、「昼と夕食用のお弁当を持参してください」と呼びかけての上映会だったという。
長岡高校体育館にて
青山さんがボランティアとして新潟県立長岡高校体育館に赴いたのは、2004年10月23日の新潟県中越地震が起きてから10日ほどたった頃であった。被災者には、自律神経の失調による体調不良や神経症、狭い避難所での肺塞栓症、いわゆるエコノミークラス症候群などもみられたという。青山さんは鍼とマッサージ等の手技施術を行い、特に山古志村から避難してきていたお年寄りに大歓迎を受けたという。
彼は長岡市のボランティアセンターから布団1組を借り受け、被災者と一緒に寝泊まりし、自衛隊の炊き出しを食べながら2週間の治療活動を行う。このとき長岡市社会福祉協議会(社協)の職員から、1年後の支援体制が心配と言われ、青山さんは1年後に戻ることを約束する。
そして、約束通り2005年10月24日に長岡市陽光台の旧・山古志村の仮設住宅を訪れ、治療活動を再開する。以降、毎月1回10日間単位で1年にわたり訪れ、延べ約1,100人を治療。その後、長岡市社協から感謝状が贈られたと2006年12月28日付の「毎日新聞」は報じている。
大動脈解離を乗り越えて
「駅にホーム柵を!日本会議」を青山さんが結成したきっかけは、中越地震の直後に長岡高校体育館で聞いた田中眞紀子衆議院議員の演説によってであった。
地元であるため彼女は毎週来ていて、ある日新大久保駅乗客転落事故の話をした。2001年1月26日(金)の19時14分頃、JR山手線新大久保駅で泥酔した男性がプラットホームから線路に転落し、その男性を救助しようとして線路に飛び降りたカメラマン関根史郎さんと韓国人留学生李秀賢(イ・スヒョン)さんが、折から進入してきた電車にはねられ、結局、3人とも死亡した事件である。
「この日、馬鹿息子の帰りが遅いと心配していたら、このような悲惨な事故があり、電車が大幅に遅れた」ということからはじまって眞紀子節が炸裂。「今回の地震で小泉純一郎首相(当時)が、いつ視察するのか?と思っていたら、1、2時間程度の視察でどのくらい把握できるのか? 外交も大切だが、自国民の痛みを自分のものとし、一刻も早く対応してほしい」と言い放ったのであった。
後段はさておき、転落事故の話には胸が痛み、青山さんも他人事とは思えなかった。彼自身、以前、上野駅で転落しており、九死に一生を得ている。以来、明治時代から鉄道輸送量は急増したのに、安全は旧態依然として、2の次、3の次になっていることに日頃から深い矛盾を感じていた。
2005年1月26日の3人の命日に、青山さんは思い立って新大久保駅を訪ねて献花をする。そして犠牲者のひとりである李さんのご両親に会うこともできた。
これがきっかけになって、視覚障害者のためだけではなく、大量輸送という名の下に安全がなおざりになっており、李さんたちの貴い命が犠牲になったこと、プラットホームの安全を確保するためには、ホーム柵を整備する以外に方法がないことなどを確信して、地元柏市を中心に運動を開始することにした。
2005年9月の発足以来、国交省に行って意見交換をしたり、JRを始め京王、京急、小田急、東急、東武、京成、都営、東京メトロ、横浜市交通局、相鉄という関東の11の鉄道会社を訪ねてアンケートを実施した。調査の趣旨は、ホーム柵をつけているか、つける予定はあるか、それはいつか、つけないとしたらその理由はなぜか?など。
結局、7社が回答してくれ、「ホーム柵はつけるべき」と、すべての会社が回答した。だが、新線で作る場合は比較的安くできるが、既存のホームに設置すると高額になり、設置は難しいという回答が多かった。
実はホーム柵をつけると、列車とホームのドアの位置を正確に合わせるための自動列車運転装置 (ATO) や定位置停止装置 (TASC) による高度な停車位置制御が必要となる。また、車両とプラットホームの物理的な問題。電車はそれぞれ車体寸法が違うばかりか、2ドア、3ドア、4ドア、6ドアと分かれており、微妙にずれている。このためホーム柵設置は最短でも5年、長くて20年かかるというのだ。
ホーム柵も国交省のガイドラインがあり、おいそれと設置できない。柱・壁その他の問題があって、ホーム柵を設置すると、実際に人が通行できる最低スペースを作れなくなってしまう場合があるのだ。このため、1927年に日本で最初に営業を開始した地下鉄である銀座線は無理だろうといわれている。しかし、壁を削ったり柱を動かして、横浜市営地下鉄は新線の開線と共に既存線のすべてにホーム柵を導入している。やればできるのである。そのためには、まず国とJRを動かすことである。
ところで京王電鉄は今大変混雑しているので混雑に対応できないからホーム柵はつけられないという。「ドアの同期」や確認が必要なために停車時間が延びることから、ラッシュ時の高密度運転が難しくなるというのだ。それでは乗降客が減ったときにはつけるのかと問えば、その場合も予算がなければつけられないと京王電鉄はのらりくらりとした回答を述べる。
青山さんは2年ほど前大動脈解離に罹患し、結局鍼灸院を閉鎖する。この病気は、3層構造を作っている大動脈のうち真ん中の中膜に血液が入り込んでしまい、層構造が別々に剥がれていく大変危険な疾病である。昨年の6月には、心臓を止めて大動脈を人工血管に交換する大手術をおこない療養生活を送っている。そんな中でもホーム柵のことは忘れなかった。
医師より許しが出て、ようやく外出できるようになると、さっそく、「スーパーベルズと考えよう 鉄道とぷらっとほーむの安全」という、イベント開催に邁進。2月7日(土)に新宿文化センター小ホールで無事に成功させる。
「21世紀は、障害者が普通に税金を払い、社会貢献できる世紀にならないといけない。そのためにも、職場、生活を結ぶ公共交通機関の安全はなにより保証されなければならない」というのが、青山さんの信念で、それはますます深まったというのである。(福山博)
東京都練馬区のSさんから「エスコートゾーンの記事に感謝」というEメールが、本誌編集部に届きましたので、ここにご紹介します。
読者より
「さて、件名にも書きましたが、私は信号機のボタンの違いについて、全くわかっていませんでした。たいへんに重要なことを教えていただきまして、ありがとうございました。『点字ジャーナル』を読んでいて、ほんとうによかった!!と思いました。
これからも高田馬場界隈の道路状況などみなさんが通勤時に困ったりしたことを記事にして教えていただけますと、時々訪れる身としては心構えができて助かることも多いだろうと思います。
こうも道路工事が多いと、ほんとうに恐いです、オリンピックに向かってますます増えるんでしょうかねえ!! 憂鬱ではありますが、跳ね返して歩いていかなければ。それでは」。
編集長より
Sさん、ご連絡いただきどうもありがとうございました。「エスコートゾーン」に関する話題は、すでにニュース価値はないので、今さらとは思ったのですが、意外に知っていない人がいるかもしれないと思って、思い切って掲載したものでした。お役に立てて幸いです。
本号の「『暴露話』を読まされたのは残念!」の筆者である「読者A」は、むろん匿名です。本誌は「原則として、匿名での投稿は掲載しない」方針なのですが、内容が「本誌への注文、あるいは批判」を含んでおり、掲載する意義が大いにあると判断しました。また、あわせて回答も、誌上で行った方がよいとも考えたので、あえて掲載に踏み切った次第です。「A」としたのは、アルファベットの最初の文字であり、あえていうなら、フランス語や英語で匿名者や無名氏のことを「アノニム」といいますので、その頭文字をとってのことです。
「『ネパール・日本盲ろう国際セミナー』に参加して」に出てくるネパール全国障害者連盟(NFDN)ビレンドラ・ポクーレル会長は、小誌が2003年3月号で「カトマンズの中途失明者―― 研修中のポカレルさんに聞く」で紹介した、当時、JICA東京国際センターで研修中のビレンドラ・ポカレルネパール盲人協会(NAB)カトマンズ支部長として紹介した人と同一人物です。ファーストネームの「ビレンドラ」は、2001年に王宮で殺された王様と同名なので、日本語に訳する時に今も昔も迷うことはなかったのですが、Pokharelは6年間の間に「ポカレル」から「ポクーレル」に変わってしまいました。これじゃ同一人物だとは思えませんよね。大変失礼致しました。なお、インタビューさせていただいた門川紳一郎さんと、今月号の「知られざる偉人」でちょっと触れられている門川さんも同一人物なのですが、なんという奇遇でしょうか。(福山)
投稿をお待ちしています
日頃お感じになっていること、本誌の記事に関するご意見やご感想を点字1,000字以内にまとめ、本誌編集部宛お送りください。
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