米国下院が1月28日に可決した景気対策法案の中に盛り込んだ条項で、公共事業で使う鉄鋼製品を米国製にするよう定めている、とても愚かな条項である。さすがに上院では、「国際協定順守義務との整合性を考慮する」という文言が付け加えられたため、WTO協定違反は回避される見通しとなったが、愚かなことにかわりはない。
米国は大恐慌下の1933年、バイ・アメリカン法(Buy American Act)を制定し、米国政府の公共事業で使用する物資・サービスについては、米国内の製品を優先的に購入することを規定している。今回の条項は同法に沿った措置だが、保護主義の動きが世界中に蔓延し、景気悪化がさらに深刻化したことが、第二次世界大戦開戦の背景にあることを、我々は決して忘れるべきではないであろう。
少々旧聞になるが、12月13日(土)午前10時から、東京都盲人福祉協会において、東京都網膜色素変性症(色変)患者自立の会、略して「ともだちの会」が、約30名の参加者で開催された。同会は東京都心身障害者福祉センターで更生相談等を受けた「色変患者会」を母体に発足した団体である。
今回は同会会員で、「視覚障害者と出会ったら・・・」という冊子を作って無償配布している足立区在住の森川政之衛さん(70)の講演を中心に行われた。昨年『朝日新聞』朝刊に同氏が取り上げられたので、その記事の反響を含め、改めて同氏のボランティア活動を紹介してもらおうという企画だ。講演の後は、失明に至る過程での悩みや苦しみなどに関する、「ピアカウンセリング」ともいうべき活発な質疑応答があった。
森川さんは昭和13年(1938)、福井県坂井郡春江町(現・坂井市)に生まれた。地元の高校を卒業後、都内の繊維卸会社に就職し、もっぱら営業畑を歩んだ。時代は日本経済が飛躍的に成長を遂げた高度経済成長期で、多忙であったが仕事は面白くやりがいがあった。
そんな森川さんが30歳の頃、ものもらいか何かで眼科に行ったら、「網膜色素変性症なので、今後数十年かけて視力が低下し、失明する恐れがある」と突然告知され、愕然とする。両眼とも視力1.5で、車の運転にもなんら支障はなかったので、にわかには信じられなかった。しかし、医師の話を聞くうちに思い当たることもあった。子供の頃より視野狭窄と夜盲症の自覚症状があったのだ。
その後、ゆっくりと視力は低下し、視野もだんだん狭くなっていった。そして色覚も悪化して、50歳の頃から会社で扱う布の色の識別に支障が出るようになった。平成6年56歳で退職し、同年、ヘレン・ケラー学院に入学する。
当時の学院には、現在のような拡大活字の教科書はなかった。そこで、普通の墨字教科書を業者に拡大複写・製本してもらった。ところが、夏休みが明けて登校すると、その拡大文字すら読めなくなっており、途方に暮れた。
藁にもすがる思いで足立区の福祉事務所に相談すると、区の総合ボランティアセンターに「樫の実会」という朗読ボランティアグループがあることを教えてもらう。それから、放課後や土・日に教科書を読み上げてもらっては、カセットテープに録音した。教科書10ページが90分テープ1巻となり、吹き込んでもらった分だけ本を破って返してもらった。家で聞いて音だけではわからないところを、家族に書かれている漢字を聞くためである。入学した年の冬、まだ視力があるうちにヒマラヤを見てみたいと、東京ヘレン・ケラー協会主催のネパールツアーにも参加。すでに白杖をついていたが歩行にはまったく不便を感じず、ヒマラヤトレッキングも行った。
平成9年の春、ヘレン・ケラー学院を卒業。あはきの国家試験にも合格し、同年9月、59歳にして自宅で開業する。このように改めて自立できたのも、朗読ボランティアのお陰なので、自分も何かできないかと樫の実会に相談した。すると、足立区梅島にある老人福祉施設を紹介される。そこで、森川さんの治療院の休診日である木曜日に、同施設へ行ってマッサージのボランティアを行うことにし、結局5年間続けた。
「皆さん大変喜んでくれたのですが、だんだん視力が落ちて、特に雨の日などは足下がまぶしく光って歩きづらくなったので辞めることにしたのです」と森川さんは無念そうに当時を振り返る。
「ともだちの会」の前身である「色変患者会」は、難病相談事業などが都から各区の保健所に移管されることになり、患者会も区単位で組織しようということになる。実は、その後「ともだちの会」として再組織されるのだが、平成11年にひとまず患者会は解散する。そこで、森川さんは足立保健所へ相談に行く。すると色変の難病手当の受給者が、足立区内にも50人くらいいることがわかった。そこで、平成12年3月に、区の広報紙で呼びかけて、患者が体験談を語るという内容で、足立区の色変患者の会の発会式を行うことにした。ついては客寄せのために順天堂大学の眼科医にも講演してもらうことにしたのだが、当時は行政にもゆとりがあり、講師謝礼や通信費などは保健所がみてくれた。
会の名前は、網膜色素変性症患者と家族の交流会「虹の会」とした。現在19名の会員がおり、年間の活動は定例会が3回、飲み会が3回、それから秋のハイキングの計7回。過去には歩行訓練士を招いて、「見えない、見えにくいってどんなこと」というテーマで、一般市民向けの講習会も行った。そのためには、案内状の発送や会場の手伝いなどにボランティアが必要となり募集したら7人が集まり、講習会も約70人の参加で盛会だった。
ところがしばらくたつと虹の会のボランティアから、「杖なしで来る人、杖をついてくる人、ガイドヘルパーと来る人など、視覚障害者も一様ではなく、どうやって手伝ったらいいのかわからないから、手引書を作って欲しい」と頼まれた。そこで、森川さんは、A4の用紙の表裏に文字だけで説明した「視覚障害者と出会ったら・・・」を作成し、ボランティアばかりでなく、保健師や障害関係施設の職員にも渡した。するとある時、「文字だけだとわかりにくく興味を引かない。私たちは仕事上読まなきゃいけないけど、何かいい方法はないですか」と言われた。そこで、ある人が虹の会に2万円寄付してくれたことを思い出して、イラスト入りのB5判4ページの冊子を作り直すことにした。
平成17年からは足立区立の全中学校37校に冊子「視覚障害者と出会ったら・・・」を同年は全学年分1万8,000冊、それ以降は新入生約6,000人に贈っている。この冊子を配っているのは、視覚障害者支援ボランティアグループ「あしだちにじの会」で、「虹の会」とは別団体だ。最初はごっちゃだったが、すぐに活動内容がまったく違い、活動資金も桁が違うため分離し、患者の会は漢字で書く「虹の会」、冊子を配っているのは、すべてひらがなで「あしだちにじの会」とした。漢字の「足立」は「あしだち」とも読み、「あしだち」というバードウォッチンググループがあることを知り、それをヒントに命名した。
37校の中学校に6,000部を配るのは大変な仕事だ。そこで、区立中学校校長会の紹介で足立区役所の「交換便」というシステムを使って、冊子を入れたA4の封筒を大量に区役所に持ち込んで、無料で運んでもらうことにした。
冊子「視覚障害者と出会ったら・・・ 」は希望者に無料で80部提供している。ただし送料は実費着払いの自己負担。このための冊子を作るのには、1,000部で4,000円の実費がかかるので、それを捻出するために、裏表紙に寄付者の名前や会社名を載せている。ただし、「民主党」という名前は政治に関わるので、学校では配布できないと断られた。そこで、足立区社会福祉協議会、読売光と愛の事業団、栃東で有名な相撲の玉ノ井部屋などにも寄付してもらって作成している。
5月22日付『朝日新聞』の「命」という欄に森川さんが取り上げられたことにより、約30件の問い合わせがあり、各80部ずつ贈ったという。これまでの送付先は、学校関係はもちろん、たとえば葛飾区の中に「かつしか語り隊」の会というグループがあり、視覚障害者を含む観光客に、帝釈天など葛飾・柴又の歴史・文化などを説明しているので、そこにも贈った。また、上野池之端の旧岩崎邸庭園サービスセンターからも問い合わせがあり贈った。同センターでは毎週土曜日の午後1時と3時から東京芸術大学出身の演奏家や優秀な学生を中心にした30分程度のミニコンサートを開いており、視覚障害者を招待しているのだ。世田谷区の小学校のPTAからは、「子供達の前で話をして欲しい」と依頼されたが、そちらは地元である世田谷区視力障害者福祉協会の方にお願いした。
森川さんの友人で、ヘレン・ケラー学院のOBでもある川崎市在住の当津純一さんは、「私は自分のために配っています。森川さんからもらった冊子をいつも鞄のなかに入れておき、電車の中で声をかけられた時などに渡すと『これはいい』と言われます。旅館やホテルで配ったり、遠くは南アフリカのケープタウンに行ったときには、その2カ月後にWBU(世界盲人連合)の総会があるというので、日本人のガイドさんにも渡しました。日本の代表団でお陰を被った人がいるかも知れませんよ」と笑う。
冊子をご希望の方は、足立区総合ボランティアセンター電話03-3870-0061、または、あしだちにじの会〒123-0841 足立区西新井3-19-3-707、電話03-3899-6052へ。
森川さんはヘレン・ケラー学院を卒業してから、近所の小学校と高校の近くの道を平成9年から毎日散歩している。するといつも小学校の校門の前で、「おはようございます」と元気に挨拶している男性がいた。
この話をあるボランティアに話すと、「それは校長先生ですよ」と言われた。それから夏休みが終わり、小学校の校門前で挨拶をして、立ち話をするようになると、ある日「森川さん、挨拶を手伝ってくれませんか」と言われた。そこで、それから挨拶のボランティアを始め、ちょうど6年になるという。
校門前で挨拶しているのは校長先生であると教えてくれたボランティアは、保健所での集まりを通じて知り合った「双子の会」の会長さん。彼女はまだ小さな双子の女の子をつれてよく虹の会の行事を手伝ってくれた。その双子が、森川さんが挨拶ボランティアを始めた翌年の春にその小学校に入学し、それから6年がたち今春、同小を卒業する。
この間も人事異動があり、校長先生も2人変わった。校門の前で一緒に挨拶する校長もいれば、1年間出て来なかった校長もいた。それにおかまいなく森川さんは挨拶を続けていた。栃木県今市市(現・日光市)の小学校1年生の女児が誘拐・殺害され、茨城県の山中に遺棄される事件が起きた。それを契機に、くだんの校長も朝の挨拶に出てくるようになり親しくつきあうようになったという。
「大きな声で挨拶すると健康のためにもいい。なにより毎日挨拶していると、名前を名乗って挨拶するような子供も10人ほどおり、その交流がまた楽しくてやめることはできない」と森川さんは朗らかに語る。(福山博)
昨年末から高田馬場界隈は、道路工事で騒がしい。「また、公共工事かよ!」とやっかいに感じていると、通称「エスコートゾーン」(EZ)でおなじみの「視覚障害者用道路横断帯」を横断歩道に敷設する工事だという。警視庁が2008年から3年計画で東京都内21区市の395カ所にEZを敷設することを決めたが、最近急ピッチで工事が進められているのである。
エスコートゾーンの敷設は、もちろん今にはじまったことではないが、敷設箇所があまりに少ないため、これまではあまりピンと来なかった。ところが、今年に入ると交通量の激しい明治通りと早稲田通りが交わる馬場口交差点にもEZが敷設され、警視庁の意気込みが感じられる事態となった。重要度ではこの交差点に勝るとも劣らないのが、日盲連と都盲協の間にある明治通りを渡るための横断歩道だが、ここにもEZが敷設された。そして珍しいことにこの2カ所は、共に音響式信号機の押ボタンが、押せば引っ込む手応え充分の従来方式のままである。
ボタンを押さないと、「青」にならない歩行者用信号機の場合、EZが敷設されると共に、信号機も取り替えられることが多い。そして押ボタンは、従来型の「黄色い押ボタン箱」と、視覚障害者用の屋根がカマボコ型の「白い押ボタン箱」の2種類が隣接して設置される。この変更を知らないと、従来型の「黄色いボタン」を押すと、「青」になっても音がしないのでとまどうことになる。なお、屋根がカマボコ型の「白い押ボタン箱」は、「カカッ・カカッ・・・」と音がしているので、耳をすますとその場所を特定できるが、ボタンを押しても引っ込まず手応えがないのが悲しい。
ところで、協会を訪れた英語の名人が、「エスコートゾーンっていうネーミングはどうも感心しない」と言った。エスコートには、(異性を)連れて歩く、(大統領を)護衛する、はたまた(囚人を)護送するなどという意味があり、それにゾーンが付くと、「護衛地帯」とでも直訳できそうな、「誰かに連れられて歩くところみたい」というのである。実際は、視覚障害者が自力で横断歩道を安全に渡るために敷設されたのだから、もっと的確なネーミングはなかったのだろうか?
名称と手応えのない押ボタンには異議があるが、EZそのものは、特に広い道路を横断する際に有用であることは間違いない。当協会の近くには、明治通りと諏訪通りが交わる諏訪町交差点があるが、この交差点の角はカーブしているため、視覚障害者にとっては方向を取りにくく危険である。こうした変則的な横断歩道にこそEZは必要なのだが、まだ敷設されていないので警視庁に電話した。すると、「今年度の敷設を予定していたのですが、道路の補修計画があるというので延期になりました。来年度のできるだけ早い時期に実施します」とのこと。ちなみに警視庁のEZの担当は交通規制課で、音響式信号機は交通管制課であった。(編集部)
2月11日の建国記念日(旧・紀元節)に、その昔は「帝国軍人会館」と呼ばれた鉄筋コンクリート造4階建に瓦屋根を載せたいわゆる「帝冠様式」の九段会館で会合があるといえば、なにやら怪しげな団体ではないかと思われる向きがあるかも知れません。実際、最近はその数がめっきり少なくなったとはいえ、当日は靖国神社の建国記念祭に急ぐ、アナクロ軍服姿の老兵も闊歩していたようです。
しかし、これはまったくの偶然で、実際はアキレス・トラッククラブ・ジャパン主催「大島幸夫さんの第16回ヘレンケラー・サリバン賞を祝う会」が開催されたのです。参加者は大島夫妻を含めて103名プラス乳幼児数名で、視覚障害ランナーはもちろんのこと、進行性の病気で車椅子にて参加された方もおり、大島さんのこれまでの活動と人徳があふれたにぎやかで、ほのぼのとした祝賀会でした。
当協会からは藤元節理事長、石原尚樹常務理事、それに私が出席し、会の冒頭にて藤元理事長が受賞理由に触れて祝辞を述べました。大島さんは、1962年(昭和37年)5月3日21時37分頃、東京都荒川区の国鉄常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故で、九死に一生を得、それを契機にジャーナリストを志し、毎日新聞社に入社された方です。そしてその当時、毎日新聞社社会部員として事故取材の第一線にいたのが、まったくの新米であった藤元節記者であったというのですから、これは奇縁です。もっとも「サリバン賞」は、協会が委嘱した視覚障害委員により選考されるので、選考結果とはまったく無関係ですが。
奇縁といえば、今号の「スモールトーク」で取り上げた人々の人間模様は複雑です。わが国は、結局、下村博士の声を聞かず、頭を低くして米国に寄り添い、100年に一度の金融危機に遭遇したわけです。強く主張することができなかったばかりに、22年前の日本は悪くなかったのですが、いまや米国追従者として共犯になり下がったのは悲しいですね。わが国の為政者に慧眼は期待できないようです。
田畑さんの「放浪記」には豊かな米国の姿が登場しますが、これはジャパン・バッシングがはじまる前の、米国にまだ余裕のあった時代のことですね。牛肉とオレンジの自由化は、長い間のすったもんだの末、1988年に決着し、1991年4月から完全に自由化されました。その昔、「すき焼き」はご馳走で年に何度も食べられなかったことを思い出します。ところで、すき焼きには生卵がつきものですが、今月の「感染症」によると、鶏卵は生食しない方がいいようですね。タマゴかけご飯はむろんのこと、半熟タマゴもだめなのはちょっとショックです。(福山)
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