THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2009年1月号

第40巻1号(通巻第464号)
編集人:福山 博、発行人:迫 修一
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替口座:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「一陽来復」

 当協会から早稲田方向に10分ほど歩くと、康平(こうへい)5年(1062年)源義家が奥州からの凱旋の途中、兜と太刀を納めて八幡大菩薩を祀ったといういわれの「穴八幡神社(穴八幡宮)」がある。ここは冬至から節分までの期間中、「一陽来復」の御守りをもらいに参詣する善男善女で賑わう。江戸・元禄年間から行われた穴八幡宮だけに伝来する長い伝統の催しだ。いにしえ人は、冬至を境に日が長くなることから、冬至に太陽の力が復活すると考え、冬が去り春が来ること。転じて、悪いことが続いたあと、物事がよい方に向かうことを「一陽来復」と呼び尊んだ。隣接して明治維新後の神仏分離により分かれた旧別当の放生寺(ほうしょうじ)があるが、こちらの御守りは4文字熟語の最後の1文字を復活の「復」ではなく、福祉の「福」にして競っている。

目次

(新春特集)2009年に活躍が期待される視覚障害者
  第1部外国人編(マリアン・ダイアモンド、ブン・マオ、
  モハメド・オマル・アブディン)
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3
カフェパウゼ:バリ島での不注意と親切な電話(山口和彦) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
14
ヘレン・ケラー記念音楽コンクール ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15
(新春特集)2009年に活躍が期待される視覚障害者
  第2部日本人編(指田忠司、福島智、石井宏幸)
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17
スモールトーク:灯台もと暗し ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
28
リレーエッセイ:ピア・カウンセリングと私(伊藤薫) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
30
外国語放浪記:選挙と大統領 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
34
あなたがいなければ:青島市盲学校高等部の設立 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
37
福田案山子の川柳教室 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
41
感染症研究:ヒトパピローマウイルスによる子宮頸がんの予防に新ワクチン ・・・・・
44
知られざる偉人:点字触読の普及に貢献したS.マンゴールド女史 ・・・・・・・・・・・・
49
よりどりみどり風見鶏 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
53
大相撲:雑草魂を持ったエリート力士 ―― 嘉風雅継 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
56
時代の風:SPコード付郵便物が無料に、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
59
伝言板:IAVI新年交流会、視覚障害者教養講座、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
62
編集ログブック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
64

(新春特集)
2009年に活躍が期待される視覚障害者
第1部 外国人編

マリアン・ダイアモンドWBU会長

 コロコロと少女のような笑い声が良く響いた。マリアンさんは、会う前の想像とはまったく違う、明るくてチャーミングな女性であった。実は彼女の経歴を側聞して、パワフルな猛女を勝手にイメージしていたのである。
  オーストラリアでも、4人の子供を持つ全盲の女性が、WBU(世界盲人連合)の会長に選出されたことは驚きであったようで、新聞等でも大きく報道され、現在も取材依頼が引きも切らないという。
  1956年、マリアンさんはオーストラリア東部のクイーンズランド州の州都ブリスベン近郊で生まれた。5人兄弟の上から2人目で、家族の中で視覚障害者は彼女1人であった。その後、家族がオーストラリア第2の都市メルボルンに転居したので、彼女は幼稚部から8年生まで、当地のセントポール盲学校の寄宿舎で生活する。その後、普通高校からオーストラリアの名門8大学の1つモナッシュ大学に進んで数理統計学を学ぶ。
  時代は全世界でコンピュータの大ブームが起きた頃で、IT技術者が足りないため政府はその養成に奨励金を出すほどであった。そこで、就職に有利と、彼女は数理統計学を修了した後、改めてITも学び直し、卒業後は政府機関に就職してIT技術者となる。そして、大学で一緒に数学を学んだ同級生と結婚して、4人の子宝に恵まれる。ただ、第1子の長男が視覚障害を持って生まれたため、それまでは疎遠であった視覚障害者団体との関係を、急速に深めていく。
  一方、子育てに追われながらも、彼女はパートタイムながらITの仕事を継続する。「日進月歩の世界なので、一度中断するとこの仕事には二度と戻れないと思いました。そこで子育てや家事が大変でしたが、夫がよく手伝ってくれましたので、なんとかできたのです」と屈託のない笑顔をみせる。しかも、大学教員のご主人は1年ずつ2回、米国のウィスコンシン大学に派遣される。そして、1回目は子供3人を連れて、2回目は末っ子も生まれていたので家族6人全員で、5大湖の一つミシガン湖の西岸に位置するマディソン市に移り住む。
  この間も彼女がもっとも気をもんだのは、長男の教育問題であった。盲学校の教育であれば彼女にも見当がついたが、統合教育は勝手が違い、いろいろと不満があった。そこで、視覚障害児の親の会の活動に足を踏み入れる。それが高じて、1998年にはオーストラリア盲人協会(BCA)に職を求め、2000年には役職員に任命される。その後、オーストラリア障害者連合のCEO(最高経営責任者)等でも次々とキャリアを形成して行く。現在、彼女は「ビジョン・オーストラリア」の国際事業部長でもあるが、この組織は2004年に、それまであった視覚障害者へのサービスを行う4団体が合併してできたもので有給職員はなんと1,100人を数える。その合併にもRVIBという団体の理事として、またBCAの受益者代表としても深く関与し、合併にあたっては創立理事会のメンバーとなる。
  平行してWBUでも、2000年に女性委員会議長に就任し、2004年には第1副会長も務めている。現在、長男が22歳であるから、その下に3人の子供がいるのである。子育てと仕事をどのように両立したのか? そのエネルギー溢れる活躍ぶりには舌を巻く。
  WBUの会長としては、総会で採択された30の決議に基づいて事業を行い、現在4年間の行動計画を作成中であると断りながらも、個人的には雇用・リーダーシップ・教育の重要性を認識しておりそれを強く推進する。また、エデュケーション・フォー・オール(万人のための教育)を推進するユネスコ等の国際機関との連携を強め、とくに国際レベルでの著作権問題の解決、ネット上での世界図書館など独自の構想なども語った。
  オーストラリア政府は、4年間のWBU会長としての活動資金として35万オーストラリアドル(約2,500万円)をマリアンさんに提供したが、政府の力強い支援も彼女のこれまでの活動が大きく評価されたたまものであろう。

ブン・マオカンボジア盲人協会会長

 11月17日、東京都港区のANAインターコンチネンタルホテル東京にて、常陸宮・同妃ご臨席の下、社会貢献者表彰式典が開催された。同表彰は、日本財団の支援を受けて社会貢献支援財団(日下公人会長)が行うもので、自治体などからの推薦をもとに、人命救助に当たった人や劣悪な環境で福祉に貢献した人など計50件(45人、13団体)を表彰した。そのうちの1人、カンボジア盲人協会会長(Executive Director)ブン・マオ(Boun Mao)さん38 歳は、強盗に襲われ失明した後、逆境を乗り越えて、カンボジア王国初の視覚障害者の自助団体を組織し、生活技能訓練や職業訓練を提供する活動を続けており、今回それが高く評価された。
  11月18日に日本財団の千葉寿夫(ひさお)さんの通訳で、同財団の会議室でマオ会長にインタビューした。2度にわたる悲劇に見舞われ、それを語るとき、憤怒も、悲歎も、大げさな身振りも、形容詞もなく、ただ淡々と語るマオ会長の顔には、硫酸でケロイドになった顔を、つぎはぎした皮膚で整形した後が生々しい。私は質問を躊躇することもあり、そのたびにマオさんを良く知る千葉さんに相談すると、「大丈夫ですよ。聞いてみましょう」と励ましてくれた。重なる悲劇を克服した人間のしなやかな強靱さに驚き、感動しながらの取材となった。
  カンボジアの人口は約1,460万人で、その1.125%にあたる約14万6,250人が視覚障害者と推定される。日本は1億2,790万人の人口に対して30万人であるから、その多さに驚く。これは不衛生な環境と劣悪な医療、貧困な食事とくにビタミンA不足、それに激しい内戦に巻き込まれたり、地雷での失明が追い打ちをかけたためである。
  マオさんは1970年に、男5人、女3人の8人兄弟の末っ子として、首都プノンペン郊外の農家に生まれた。幸せに暮らしていた一家の生活が暗転したのは、1975年にいわゆるポルポト派とよばれるクメール・ルージュが政権を掌握してからである。文化大革命に沸く当時の中国の支援を受けたポルポト派は、都市住民を農村に強制移住させ、学校、病院、銀行を閉鎖し、貨幣の廃止、宗教の禁止、一切の私財の没収という原始共産制社会を理想とする極端な重農政策を強行した。子供は親から引き離して集団生活をさせたため、5歳のマオさんも他の兄弟とも引き裂かれ、首都から274kmの北西にある同国第2の都市バッタンバン近郊の農村に送られた。15歳くらいまでの子供達ばかりの集団で、十分な食料もなく、農作業をしながらの悲惨な暮らしが続いた。
  1979年のベトナム軍による解放の後、9歳になっていた彼は多くの仲間と共に、生き抜くために首都プノンペンを目指す。そこで彼は16歳の少女の養子となる。内戦中に両親は殺され、兄弟達は生死不明であった。電化製品も一切ない生活の中では、食事を作るだけでも大変な労力を要するので、誰もが単身で生活するのはほぼ不可能に近い。そこで壊れかけた倉庫に住みながら、2人で餅米でお菓子を作って市場で売り歩いて日々の糧を得た。そして10歳になると小学校に入学するが、放課後はお菓子を売る生活だ。その後中学・高校では自転車タクシーの運転手、建設作業員、ウェイターなどのアルバイトに精を出して、1990年に高校を卒業。1991年に王立農業大学の森林学部に入学し、生活費はバイクタクシーの運転手とウェイターのアルバイトで賄った。
  1993年4月25日の午前5時、彼がバイクタクシーに乗せた客は突然強盗に変わり、車載用バッテリーの電解液である希硫酸を浴びせかけて、バイクを奪った。一瞬のうちに顔、首、腕は焼けただれ、彼は地面に倒れてのたうち回った。しばらく後に、仲間のバイクタクシーに発見され、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)病院に運ばれ、ドイツ人医師の治療を受ける。入院は半年間続き、医師は「もはやけっして視力が回復することはない」と断言した。
  とても落胆し、自殺さえ考えた彼が、それを思いとどまったのは当時つきあっていた恋人の献身的な支えがあったればこそであった。彼女の父親は警察の高官で、裕福な家庭でもあり、退院した彼を温かく自宅に向かえ入れてくれた。
  退院するとすぐに、医師に聞いたドイツのNGOの代表が彼を訪ねてきて、恋人に歩行訓練と日常生活動作訓練のやり方を教えてくれた。こうしてマオさんは彼女から訓練を受けた。そして翌1994年から1996年まではリハビリテーションセンターで、本格的な歩行訓練、英語とクメール語の点字、タイピング、家庭菜園、解剖学などマッサージのための医学、それに按摩と指圧の臨床研修を受ける。マッサージが日本式であったのは、カンボジア人の先生が日本で勉強したためだ。先生はその後カナダで働いたため、ポルポトの迫害を避けることができたのだ。また、この訓練期間にマオさんは日本の医師グループの手によって2回の整形手術を受け、口と鼻が復元できた。しかし、一方では悲しい出来事もあった。恋人が父親の死をきっかけに、家族の説得を受け入れて、彼の元から離れていったのである。彼にとっては残念なことであったが、やむを得ないことであるとも思った。それより、最も苦しい時に、「献身的に尽くしてくれた彼女と彼女の家族には、今でも深く感謝している」と述べ、このときばかりは恥ずかしげな笑みを浮かべた。
  訓練終了後の1997年、彼は4人の視覚障害の仲間と共にマッサージ治療院を開設する。
  1999年、日本財団とオーバーブルック盲学校の共同支援によるプログラム「ON-NET」で、タイに留学してパソコンとリーダーシップの訓練を受ける。そこで、彼はタイ、ベトナム、マレーシアという国と自国の視覚障害者の生活の違いに大きな衝撃を受ける。そこで、帰国後ON-NETのディレクターであるラリー・キャンベルさんの助言を得て、少しずつパソコンの訓練をはじめ、次いで盲人協会を組織していく。彼はカンボジア盲人協会(ABC)を組織し、2000年10月25日、約120人の仲間と設立総会を開催する。
  その後日本財団等の支援を受けて、点字図書館、眼科診療所やマッサージ訓練所を備えた自前の立派な3階建てのビルを持ちABCの事業は大きく発展。カンボジア20州のうち9州で地域を基盤にしたリハビリテーションを展開し、現在の会員は1万3,169人にのぼる。
  ただ、課題もある。現在約100人の視覚障害者がマッサージ師として働いているが、晴眼者との競争が年々激しくなっており、短期講習による限界が見えてきたこと。また視覚障害者の教育を担う人材が不足していることである。カンボジアでは1994年から盲学校ができ、現在全国に4校あり、300人の視覚障害児・生徒が学んでいる。現在、ようやく高校を卒業し、4人が大学への進学を果たしたばかりだという。
  カンボジアではポルポト時代に、教師、医師、エンジニアといった知識人が根絶やしにされたので、極度の人材不足に陥っており、まだ、その傷は癒えていないのである。

「人間力大賞」を受賞したアブディンさん

 モハメド・オマル・アブディンさんが、前回、本誌に登場したのは、2006年10〜12月号における座談会でのことであった。そこで彼は、「筑波大学の障害者スポーツを支援している団体や青松利明(附属盲教諭)が代表のスキー協会スキー・フォー・ライト・ジャパンの支援を受けて、点字器300枚をスーダンの政府機関に贈呈した」と述べている。その後、この活動は大きく成長し、現在アブディンさんを理事長にNPO法人スーダン障害者教育支援の会(CAPEDS・キャペッツ)として発展し、活動を継続している。そして、この間の活動が高く評価され、日本青年会議所が様々な分野で活躍する若手を表彰する、2008年度「人間力大賞・地球市民財団奨励賞」を、アブディンさんは2008年の7月に受賞している。
  それではここで、彼がここにいたるまでの経歴を簡単になぞってみよう。
  アブディンさんは、1978年スーダンの首都ハルツームで生まれる。彼は盲学校で学んだことはなく、網膜色素変性症により12歳で文字の読み書きが出来なくなってからも、普通校に留まる。当時は盲学校の存在自体を家族の誰もが知らなかったのだ。公的には何の支援もないまま彼は耳学問で高校を卒業し、1996年に名門ハルツーム大学の法学部に入学する。しかし、大学での勉強はすぐに壁にぶつかり、その頃、日本であはきを習得する道があることを偶然知る。しかしその時は、「目が見えないひとが本当に鍼灸をやっていいのだろうか?」と、にわかには信じられなかったという。
  1998年に国際視覚障害者援護協会の招聘で来日し、福井県立盲学校で鍼灸マッサージを学び、2001年にあはきの国家資格を取得。同年4月に筑波技術短期大学情報処理学科に入学。2003年に同大を中退し、同年4月から東京外国語大学に入学。現在は同大学大学院で平和構築・紛争予防を研究している。
  彼は日本に来て本格的に点字を学び、読書の喜びを知る。その後パソコンも習得し現在はアラビア語や英語はもちろん、日本語も漢字仮名交じり文で、自在に読み書きすることができる。そして、スーダンで弁護士をしている兄と、ハルツーム大学で経済を学ぶ弟も視覚障害者だが、その後彼らもアラビア語のスクリーンリーダーを搭載したパソコン操作を習得し、毎日使っている。しかし、このような恵まれた環境にいる視覚障害者は本当に一握りだ。
  そこで、キャペッツは、障害を持つ卒業生の会をパートナーに、ハルツーム大学内にアラビア語のスクリーンリーダーを搭載したパソコンを5台設置した視覚障害者支援室を2008年8月29日に開設した。
  点字器からパソコンに変更したのは、先に贈呈した点字器は1年間も役所内に放置された苦い経験を通してのことであった。その点パソコンは、視覚障害者が毎日大事に使うはずであり、他の学生がその姿を見て、視覚障害者に対する認識を改めてくれることを期待してのことである。ハルツーム大学はスーダンのエリート養成校であり、彼らが高級官僚となったときを見据えてのことである。そうでもしなければ、「障害者に教育は必要無い」と考える教育関係者や障害当事者の親が少なくない現状を変えることはできない。
  アブディンさんは、高校までは耳学問でなんとかできたが、大学ではそれではどうにもならず、絶望的な気分になったという。また、彼の弟は、大学に入学してから失明したので、その落ち込み方は甚だしかったが、パソコン操作の習得で明るさを取り戻したという。
  アラビア語のスクリーンリーダーは、非常に高価で、4年の分割払いで年間500米ドルもする。5台あるので合計2,500米ドル(約25万円)を毎年捻出するのが、キャペッツの目下の課題で、このときばかりはアブディンさんの顔も曇る。
  ところで彼は、ブラインドサッカー日本一のたまハッサーズの有力メンバーでもある。彼はまだ目が見える子供の頃、サッカーに夢中になっていた。そして、再び日本でフィールドに立つことができて感激した覚えがある。そこで、鈴入りのサッカーボールをスーダンに持ち込み、とりあえずブラインドサッカーチームを1チーム作った。それを伝え聞いた視覚障害者が自分たちでチームを結成。結局、現在2チームが活動している。
  茨の道ではあろうが、将来ブラインドサッカーの世界選手権にスーダン代表として出場するのが彼の夢である。そして、あわよくば、2012年の夏にロンドンで開催されるパラリンピックへの出場を狙っており、ことブラインドサッカーに関しては見果てぬ夢はつきない。(福山博)

(新春特集)
2009年に活躍が期待される視覚障害者
第2部 日本人編

指田忠司WBUAP会長

 「『ウォーターボーイズ』っていう映画があったでしょう。あの映画のモデルになったのは私の後輩・・・」と言って、指田忠司さんは愉快そうに笑った。2001年日本アカデミー賞優秀作品賞を受賞したこの映画は、「男のシンクロ」というユニークな題材をもとに、高校3年男子たちの切なくもオカシイ夏休みを描いた、さわやかな青春映画である。そのモデルとなったのが、埼玉県立川越高校の水泳部だ。
  指田忠司さん(55歳)は、1953年埼玉県入間郡入間村(現・狭山市)で生まれた。幼少時から右目は見えなかったが、小・中学校共に普通校で、高校は埼玉県を代表する進学校の1つである川越高校に進んだ。部活では中学時代にやっていた剣道を続けようと思ったが、当時の同校剣道部は県下でも屈指の強豪校で、片目の弱視という視力では限界があると感じた。そこで水泳部に入るが、さっそく5月から1日3,000mも泳ぐ猛特訓がはじまった。
  悲劇は高校1年の6月12日、体育の授業中に起こった。腕立て前方回転の補助をしていた指田さんの左目を、走ってきた同級生の手が直撃したのだ。この事故で網膜剥離を起こした彼の目は、一度は手術で見えるようになったが、うれしさのあまり新聞を読んだためか、再び症状が悪化。彼は1年半の入院生活を国立東京第一病院(現・国立国際医療センター)で送るが、結局失明する。この間、看護学院の学生から点字の読み書きを習ったり、テープレコーダーを買って日点の録音図書を聴いたりして、勉強を続けた。
  しかし当時の状況では、普通学校に復学することはまったく考えられなかったため、盲学校への転校を決めた。そして退院直前に、東京教育大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の入学試験を口頭試問で受験し、高等部普通科に入学する。附属盲での一番の思い出は、1972年(高校3年時)の雑司ヶ谷闘争だという。当時の生徒会長は笹田三郎さん(現・JICAシニアボランティアとしてマレーシア滞在中)で、専攻科には大学で全共闘運動を経験した生徒が他にも何人かいた。その年11月上旬に起こった雑司ヶ谷闘争では、専攻科生中心の全共闘が、学校側に要求を突き付けて、高等部が使っていた校舎をロックアウトするまでに過激化した。それに反発して、指田さんたち高校生は、集団登校作戦でスト破りを決行し、学年ごとに何日も自主討論を行ったという。
  もうひとつの思い出は、先輩の大橋由昌さん(現・朝日新聞社ヘルスキーパー)の勧めで、受験テキスト点訳同好会を作ったこと。これは、当時東京にあったSL(学生図書館)と連携して行った事業で、ボランティア学生が点訳した旺文社のラジオ講座のテキスト(英語)を、附属盲の高校生が製版・印刷して全国の希望者に送る活動だ。
  こうして社会に目覚めてくると、学校事故で被害を受けたのに何の補償もなかったことに対して、社会正義に反するのではないかという思いが募ってきた。そして大学で勉強するなら、社会科学だと思うようになった。当時、首都圏で視覚障害者を受け入れてくれそうな社会科学系の学部は、東京大学の他、明治学院大学と早稲田大学法学部のみであった。
  指田さんが一浪して早稲田大学法学部に入ったのは、1974年。学生時代には、日本盲大学生会の活動に加わり、文部大臣や、衆議院に対して門戸開放や勉学環境の改善を訴えた。当初は司法試験に挑戦しようとは思わなかったが、視覚障害者では関東で初の法学徒であったことからまわりの期待をひしひしと感じたこともあり、4年から受験開始。司法試験は短問試験(選択式試験)にパスしてかなりいいところまで行ったが、結局、最終合格には至らなかった。ただ、当時文京盲の教諭であった直居鐵先生などの力添えもあり、司法試験の時間延長について当局への陳情を行う等、先駆的に活動していたことは間違いなく、パイオニアとしての矜持は今も持っている。
  指田さんが海外との情報交換を始めたのは1977年、その成果は、本誌をはじめ、文月会の雑誌『視覚障害』などにも掲載されている。その後1990年にトヨタ財団の研究助成をうけて、欧米における視覚障害者の職場での支援システムについて研究し、1992年障害者職業総合センターの研究職に就く。
  彼が国際的な盲人運動に本格的にデビューするのは、2002年10月の大阪フォーラムの直前に行われたブラインドサミットを通じてであろう。翌2003年6月には、組織されたばかりの日盲連国際委員会の事務局長に就任し、2004年のWBUケープタウン総会でWBU執行委員に選出される。そして、2008年のジュネーブ総会においてWBUAPの会長に選ばれたのはご存じの通りである。
  WBUはこの12月にロンドンで本部役員会を開き、4年間の行動計画を決める。これを踏まえてWBUAPは、4〜5月に理事会・評議員会に相当する政策委員会を開いて、4年間の行動計画を確定する予定だ。このような事情で、指田さんの発言はおのずと慎重にならざるを得ない。ただ、去る11月には東京で第1回政策委員会を開催し、8月に決まった役員の他に、WBUAP内の3地区議長を確定し、マッサージ、女性の2委員会の他に、技術委員会、経済自立就業委員会、財源開発委員会などの新設を決め、新しい陣容で活動基盤を整備することが決まった。
  2010年には韓国でマッサージセミナーが開かれるが、今回の政策委員会では、WBUAPの中期総会を2010年に日本で開催することが決まった。参加者は海外からの50人を含めて200人くらいを予定しており、会場は、首都圏を想定。総会を開くとなれば、相当額の資金が必要となり、啓発活動と共に、国内での資金的基盤を確立するのが急務である。
  また、前述のように、新しい委員会を設置することになったが、WBUAP独自の財源がないので、残念ながらすぐに動けないのが現状。いろいろと課題は多いが、メールや、スカイプを使った電話会議で連携を密にしながら、なんとか軌道に乗せたいと思っているという。いずれにしても、今後、国内外の財政基盤をどのように強化するかが鍵になるだろう。(福山博)

福島智東京大学教授

 福島智さんは、1962年12月25日兵庫県神戸市生まれの46歳。9歳で視力を失い、18歳で聴力を失って全盲ろうとなる。母親が考えた指点字で周りの人に情報提供してもらって3カ月のブランクを経て復学し、1982年3月、筑波大学附属盲学校高等部を卒業。1983年4月に東京都立大学(現・首都大学東京)人文学部に入学し、同大大学院を経て、同大助手。1996年に金沢大学教育学部助教授に就任。2001年から東京大学先端科学技術研究センター(先端研)助教授として障害学、バリアフリー論を担当。2008年5月、東京大学から博士号を授与され、10月1日付で先端研バリアフリー分野准教授から同教授に就任。現在ますます脂がのった仕事盛りである。この間、1995年には手話通訳士の光成沢美さんと結婚している。
  本誌2004年1月号の「研究室から」のコーナーに「全共闘の末裔か、町工場の親父か」で昼飯のおにぎり片手にメールを読んで、返事を考えるほど忙しいと書いている。
  「今はほんの少し楽になったかな。おにぎりがサンドイッチに変わりましたが」と笑う。この間、福島さんは鬱病の一種の適応障害にかかり、一時大学を休職したこともあった。
  全国盲ろう者協会理事であり、世界盲ろう者連盟アジア地域の代表でもある福島さんに今年の抱負を訪ねると、全国盲ろう者協会の事業として、アジア地域の盲ろう者の支援を行っており、2007年の韓国に引き続いて2009年3月にはネパールへ行き、盲ろう者の実態調査、現地の視覚障害者協会や聴覚障害者協会との交流を図る予定だという。そのために、取材時の11月には、福島研究室に所属する東大大学院博士課程の全盲のネパール人留学生、カマル・ラミチャネさんが現地で自らの研究のための調査と共に、福島さんたちの訪問に備えての下準備をしていると聞いた。
  国内の盲ろう者関係の課題では、「かねてから米ニューヨークのヘレンケラー・ナショナルセンターのような盲ろう者のリハビリテーションセンターが日本でもできないかと考えていました。まずは東京限定ですが、同センターのミニチュア版のようなものが実現に向けて具体化するかもしれません」と、彼は喜ぶ。
  大学では現在、実験的に「バリアフリー論」についての講義を持っているが、バリアフリー論を東大の学部から大学院博士課程までの学生が履修可能なカリキュラムを正式に取り入れるように、現在、教養学部や教育学部などに働きかけている。そして、先端研にバリアフリーのコースが2010年からスタートするので、2009年はいよいよ入学者を募集する。なお、先端研は博士課程のみなので、ゆくゆくは修士課程や学部まで含めた学際的なバリアフリーを学ぶことが可能なコースを作りたい。東大は教員が4,000人、学生が3万人いる大組織なのでバリアフリーといってもそのイメージは人それぞれ。それでも、福島さんの構想に他学部の教員の反応もおおむね良好だという。
  これまで大学で障害について学ぶには、障害児教育科、社会福祉科、あるいはリハビリ工学科くらいで、障害を真正面から取り扱い、そこから他の分野に広がっていくようなカリキュラムが存在しなかった。そういう意味では新しい試みとして文科省も注目しているという。
  「僕の役割は人と人を結ぶ結節点であり、広告塔なんです」と愉快そうに笑う。「盲ろうのことをやり、大学のことをやり、ちょっとしんどいですが、でも自分が選んだ道なので、まあ死なない程度にぼちぼちやるかな」と話す。
  個人的には、原稿用紙にして1,200枚にもおよぶ博士論文を出版することや、1995年に素朴社から出版されたエッセイ集『渡辺荘の宇宙人 ―― 指点字で交信する日々』が絶版になっているので、その後に記したものを新たに加えた続編を出版できればという。また、福島さんの母・令子さんも、エッセイの草稿を書き終えて、春には上梓できそうだという。
  「この頃は、好きなビールを飲む時間がなかなか取れないんです。今日も朝の4時までパソコンにへばりついて、ピンディスプレーの文字を読みながら、メールの返事を書いていました。毎日100通以上のそれもほとんど仕事がらみのメールが届いて、多い日には50通以上かなり長いのも含めて返事を書いています。コンピュータは便利なものですが、僕はコンピュータの奴隷になってしまったのではないかと、ときどき思うんですよ」と苦笑いする。
  福島さんは、新年もサンドイッチ片手に忙しい日々が続きそうである。(戸塚辰永)

石井宏幸JBFA副理事長

 石井宏幸さんは、1972年神奈川県生まれの36歳。自らプレーするばかりか、ワールドカップの応援にフランスまで出かけるなどサッカーなしには考えられない人生を送ってきた。そんな彼が失意のどん底に突き落とされ、緑内障で失明したのは2000年。おりしも、サッカー日韓ワールドカップの気運が高まってきた頃で、リハビリを受けていた石井さんは、インターネットで「視覚障害者サッカー」を知る。まさかと半信半疑で主催者に電話すると、「神戸で良ければ練習を見に来て下さい」という返事をもらった。ひとり歩きもままならなかった2001年1月、姉の手を借りて神戸の練習会場へ向かった。目が見えなくなってもピッチに立ち、ボールを力一杯蹴れる喜びを身体に感じ、石井さんの第2の人生がキックオフされた。
  ブラインドサッカーは、浮き球のパスを多用するのではなく、声を掛け合って地をはうグランダーのパスを多用し、フィールドプレーヤーが4人、キーパーが1人、ゴールの位置を教えるコーラーが1人、それに監督で闘う。ピッチ上のプレーヤーはフィールドプレーヤーとゴールキーパーの5人。敵味方8人のフィールドプレーヤーはアイマスクをし、40m×20mのフットサルと同じ広さのピッチで縦横無尽に疾走する。
  「相手とぶつかってちょっとケガをすることもありますが、何ものにも束縛されず走り回れることが魅力です」と日本代表としてプレーしたこともある石井さんはブラインドサッカーの醍醐味を熱く語る。プレーヤー同士で声を掛け合うことが何よりも重要で、そうしないとボールを取りに行って仲間とぶつかってケガをしてしまうこともある。代表クラスになると練習は週末以外にも平日の夜に仕事を終えた後でも行う。
  設立当初しばらくは、日本視覚障害者サッカー協会(JBFA)は遠征費等の捻出にかなり苦労した。とくに、2006年のブラインドサッカー世界選手権アルゼンチン大会へは参加が決まったものの、選手の中には中学生もおり、高額な遠征費を個人負担できるのか悩んだ。そこで、選手が全力でプレーに専念できるように、スポンサー企業や個人からの募金、Tシャツ販売の収益を当てて、ほとんど自己負担無しの遠征を実現できた。
  石井さんは、メキシコオリンピック銅メダリストの日本サッカー協会釜本邦茂名誉副会長の姉の釜本美佐子理事長の下、JBFAが発足した2002年10月から理事として、2004年からは副理事長として会の運営に携わってきた。これまでは、仕事をしながら週末に自宅のパソコンで会の活動を支えてきた。しかし、ボランティアには限界があるので、勤務している(株)日立コンサルティングの上司や社長に思い切って「視覚障害サッカーは、2009年にはアジア選手権もあって資金的にも大変なので、なにかサポートしてもらえませんか?」と申し出た。
  すると、瓢箪から駒で、同社の社会貢献の一環として2008年7月から東京・大久保の雑居ビルの1室に事務所を構えるJBFAに出向することが許された。「ですから、会社にも社会にも最大限なにかリターンしたいんです」と、石井さんは感謝と決意を口にする。
  ブラインドサッカーが、あまり盲学校に普及していないことは予想していたが、その原因は意外にもボールやゴールがないからというものだった。そこで、まず全校にボールを寄贈して、希望する学校にはゴールを送ることとし、2008年の9月から希望を募った。すると多くの学校から反応があり、以来、JBFA事務局はゴール寄贈と共に全国各地で行う講習会の準備に追われている。また、ブラインドサッカーアジア選手権大会が2009年の秋に東京都内で開催予定であり、JBFAはそちらの準備も忙しい。
  「今は、経済が大変難しい状況ですが、だからこそ、ブラインドサッカーを通じて元気を発信していきたいのです」と石井さんは大会への思いを語る。
  障害者スポーツに分類されているため、ブラインドサッカーはサッカーくじで潤う日本サッカー協会(JFA)からの支援はほとんどない。これはJFAは文科省、JBFAは厚労省という縦割り行政の弊害でもある。
  「今後、JFAと協議をしていく上でも、JBFAをはじめとする障害者のサッカー団体は協力し合うと共に、それぞれの組織を強化する必要があります。そして、将来はJFAとも関係を構築していきたいですね。今はステップアップの時期だと位置づけています」と、彼は前向きである。
  他の障害者スポーツ同様、ブラインドサッカーもこれまでリハビリテーションの一環としてみられがちだったが、それだけではなく競技性を追求するスポーツでもあることをより多くの人に知ってもらいたいという。そのために、公式ファンクラブも立ち上がり、支援の輪が個人や企業に徐々に広がりつつある。
  2010年ロンドンで開催される世界選手権出場のためにも、新年はブラインドサッカー日本代表のアジア選手権大会での活躍を期待したいものである。(戸塚辰永)

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 新年号はできるだけ景気のいい、希望の持てる話をバランス良く掲載したいので、今号の「新春特集・第2部日本人編」にも、女性1人は載せたいところです。しかし紙幅がつき、今回は見送らざるを得ませんでした。その代わりというわけではないのですが、次号の2月号には今後の活躍が期待される元気な若い女性に登場していただく予定です。ご期待ください。
  かねて病気療養中であった北海点字図書館館長の後藤市郎氏(全視情協参与)が12月13日に逝去されました。享年76。昭和46年から館長として父・寅市(とらいち)氏が創設した同図書館を守り育ててこられました。謹んでご冥福をお祈り致します。
  2008年は金融危機もあり、なにやら冴えない年末となりましたが、「一陽来復」、これから陽の気がどんどん増え、皆様にとっても明るい年が来るよう祈念いたします。(福山)

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