角界の大麻汚染で若ノ鵬は逮捕された(後に起訴猶予で釈放)が、露鵬と白露山はのうのうとしている。芸能人では尿検査をして、陽性反応が出たので逮捕はよくあることだ。ロシア人の兄弟はなぜ逮捕されないのか、腑に落ちない?と思っていたら、これは大いなる勘違いで法律が違うのだという。大麻取締法は、大麻の輸入・輸出・栽培・譲渡し・譲受け・所持等を処罰対象とし、使用については規定がないのである。ここが「覚せい剤取締法」や「麻薬及び向精神薬取締法」と大きく違うところだ。大麻草の栽培者は多くが農業従事者なので、麻薬取締法の対象たる医師、薬剤師等とは、職業の分野が違っており、取締の完璧を期すために、別個な法律を昭和23年に制定したのだという。もっとも「大麻取締法」施行以前は、大麻も麻薬として取締っていたのだが?
本年度の「ヘレンケラー・サリバン賞」受賞者は、視覚障害ランナー伴走の長年にわたる実践的リーダーであり、ニューヨークに本部を置く障害者のランニング・クラブ「アキレス・トラック・クラブ」の日本支部創設者として、またNPO法人東京夢舞いマラソン実行委員会の理事長として走り続ける大島幸夫さん(東京都大田区在住)に決定した。
第16回を迎える本賞は、「視覚障害者は、何らかの形で晴眼者からのサポートを受けて生活している。それに対して視覚障害者の立場から感謝の意を表したい」との趣旨で、当協会が委嘱した視覚障害を持つ委員によって選考される。
贈賞式は、10月1日(水)に当協会で行われ、本賞(賞状)と副賞として、ヘレン・ケラー女史の直筆のサインを刻印したクリスタル・トロフィーが贈られる。
8月19日、大島幸夫さんは、両手の指に包帯を巻いて当協会点字出版所に現れた。当方が驚いていると、「学生時代から憧れていたヨーロッパ・アルプスの名峰マッターホルン(4,478m)の登頂に先だって成功したのですが、その際、指を凍傷にやられました。8月12日に帰国し、病院に行ったところ、即入院ですよ。昨日退院したのですが、今日も治療のための点滴を受けてきたところです」との返事。とても71歳には見えない、計り知れないパワーが漲っているかのようであった。
1937年6月9日、東京の下町・南千住に生まれた大島さんは、国民学校2年で終戦を迎え、戦後の復興期を赤バットの川上哲治と青バットの大下弘に憧れる野球少年として過ごした。その後、早稲田大学に進学し、「海外移住研究会」に所属し、とにかく狭い日本から脱出して、農業移民としてではない新しい形態の南米移住を模索した。
一方、当時は60年安保闘争の嵐が吹き荒れており、大島青年も連日国会議事堂前に押しかけていた。そんなある日、大学の先輩でもある浅沼稲次郎社会党委員長を訪ね、世界1周自転車冒険旅行の夢を語った。すると、同委員長は「後輩にこんなおもしろい男がいるのか」と大喜びであったが、それから日を置かずに浅沼氏は、立会演説会の壇上で右翼少年に刺殺された。自転車旅行の計画は頓挫したが、それでも海外への夢は忘れなかった。
就職は、南氷洋で捕鯨を展開し、南米に中継基地を置いていた大洋漁業(現・マルハニチロ水産)に決めた。当時の捕鯨は花形産業で、海外勤務を夢見て働いていた大島青年は、入社2年目の1962年5月3日、旧国鉄常磐線三河島駅近くでの列車脱線3重衝突事故、いわゆる三河島事故に遭遇する。死者160人、負傷者296人を出す大惨事の中、彼は生死の境をさまよう重傷を負いながらも奇跡的に命を取り留める。多くの新聞記者が病室に話を聞きにやってきた。その仕事ぶりをつぶさに見た彼は、自らも記者になろうと毎日新聞社を受験。「事故で死んだつもりで第2の人生をジャーナリストにかけてみたい」と面接官に情熱を伝えて入社する。
こうして大島さんの記者人生が、長野支局を振り出しにスタート。同支局では、山岳遭難、警察回り、県庁、農業担当など記者としてのイロハを学んだ。その後、東京本社へ移り、整理本部、社会部、『毎日グラフ』、『サンデー毎日』デスク、運動部編集委員、特集版編集部長とキャリアを重ねていった。
『サンデー毎日』デスク時代、何気なく外を見ると、皇居周回道路をマイペースで走る人々が目に飛び込んできた。ちょうどジョギングブームが日本に到来した時期である。後輩記者に誘われて、皇居1周5kmを走ってみたが、タイムは30分以上もかかり愕然とした。学生時代は山岳部に一時所属し、体力には自信があったのだが、記者生活での不摂生が祟って42歳の身体はすっかり体力が落ちていたのだ。
以来、日常的に走るようになった大島さんは、ハーフ・マラソン、フルマラソンへと距離を伸ばし、49歳で市民ランナーの勲章とされるフルマラソンで3時間を切って完走する「サブスリー(subthree)」を達成。ひとまず目標の記録をクリアして、大島さんは考える。「サブスリーを達成する過程で多くのことを教えられたマラソンに、今度は恩返しをする番だ」。そんな矢先、あるマラソン大会で視覚障害ランナーの草分けであった清水政直さんと出会った。
視覚障害者が海外のマラソンを走るのがまだ珍しい頃だったが、大島さんは清水さんを誘ってグァム島のマラソン大会を完走し、その伴走体験を記事にした。その反響は大きく、視覚障害者と伴走者のマラソン風景が多くのメディアで紹介されるようになった。大島さん自身は、日本盲人マラソン協会の設立者で当時の会長であった杉本博敬氏からの要望により、同協会の理事も引き受けることとなり、伴走ボランティアの活動にいよいよのめり込んで行く。
そうしたある日、ランニングの専門誌『ランナーズ』に、「伴走の達人」として大島さんが紹介される。その記事を読んだニューヨーク駐在の日本人銀行マンから、「アキレス・トラック・クラブの日本支部をぜひとも作ってください」と国際電話がかかってきた。
同クラブの創設者、ディック・トラウム氏は、交通事故で片足を失った義足の下肢障害者で、ニューヨーク・シティ・マラソンを松葉杖で初めて完走して話題になったランナーである。アキレス・トラック・クラブの理念は、障害の種別や障害者・健常者といった枠組みを取り払って、ウォーキングも含めたランニングを愛する全ての人々が集い、理解を深め合うこと。
その理念に賛同した大島さんは、周囲の視覚障害、肢体障害、知的障害など各種の障害者ランナーや伴走晴眼者ランナーに呼びかけて、1995年8月、アキレス・トラック・クラブ・ジャパンを創設した。当初は数人の集まりに過ぎなかったが、アキレス本部訪問を兼ねて、毎年、ニューヨーク・シティ・マラソンに参加する障害者ランナーと伴走者の自主ツアーを組んだり、アジア各国の視覚障害者ランナーと交流するなど独自にクラブ活動の場を広げ、設立14年目を迎えた今では、毎月第2・4日曜日に代々木公園で行われる練習会に、毎回数十人が参加する盛況ぶりである。大島さんのこのような活動が高く評価され、市民ランニングの普及、発展に貢献した人に贈られる第12回ランナーズ賞を1999年に受賞している。
ボストン、ニューヨークはもとよりロンドン、ベルリン、パリ、ローマなど海外のマラソンを21回も走ってきた大島さんは、日本では陸連が主催するエリート・ランナーのマラソンが開催される一方で、いわゆる市民マラソンが差別化され、欧米で行われているようなエリート・ランナーと障害者を含む数万人の市民が、分け隔てなく、目抜き通りを思い思いのペースで走る大都市マラソンがないことに気づいた。
「だったら、自分たち市民の活力で出来るところから出来ることを始めてしまおう」と、東京夢舞いマラソンを2001年元旦に開催し、今年(2008)10月12日には、新宿区立四谷中学校をスタートとフィニッシュにして、その第9回大会が行われる。
大島さんは、「走ることは基本的人権の一つ」と主張し、誰もが参加できるマラソン・イベントの普及を、『市民マラソンの輝き』(2006年・岩波書店)などの著作や講演などを通じて呼びかけている。
ちなみに、「ゆめまい」とは、ユニバーサル・デザインの「ゆ」、目抜き通りの「め」、祭りの「ま」、粋の「い」の頭文字を取って、大島さんが語呂合わせした、自由であるべきマラソン大会のコンセプト。参加ランナーは、順々に時間差のウエーブスタートをし、東京の目抜き通りの歩道を信号を守りながら楽しくマイペースで走る。
「昨年から行われている東京マラソンの発案、きっかけも、本来は東京夢舞いマラソンなのです」と言う大島さんは、事実、何度となく都に足を運び「ニューヨーク・シティ・マラソンのように市民が主役で障害者ランナーにも優しいマラソン大会の実施を」と大会の青写真を提示し続けたという。
「ところが、主催も運営も市民であるべきところが、都と陸連が主催する図式にすり替わって実現した東京マラソンは、東京夢舞いマラソンが展望した大会とは似て非なる結果となっている。都知事の政治権力と役人の主導で運営されている東京マラソンの官製大会に、『市民による市民のための市民マラソン』というスポーツ文化、都市文化の広がりはありません」。
市民不在の石原マラソンを、舌鋒鋭く批判する大島さん。そこには、常に夢と理想に向かって走る永遠の青年の姿があった。(戸塚辰永)
8月22〜25日東京都新宿区の戸山サンライズにて開催された「科学へジャンプ・サマーキャンプ2008」において、視覚障害を持つ中高生18名が、化学実験やゲームを通じて理科や数学の楽しさを体験した。
同キャンプは、鈴木昌和九州大学大学院教授を実行委員長に、視覚障害に関わる理数系の教員等が企画・準備し、アメディア、エクストラ、KGS、マイクロソフト、筑波技術大学、国立特別支援教育総合研究所、日本点字図書館、日本ライトハウス、京都ライトハウス、視覚障害者支援総合センター、ボランティア団体などの協力を受けた国内初の大々的な試みだ。本年4月に参加者定員15名、同行者15名で募集したところ、予想以上の希望者が集まり、前評判も上々であった。本誌では、8月23日のアラカルト授業の一部を紹介する。
キャンプの目的は、聴覚と触覚をフルに活用して科学技術のおもしろさを知ること、科学技術分野に必要な支援機器の操作方法を習得すること、同分野を志望する視覚障害学生の交流を図ることであった。
近年、学生の理数系離れが問題になっているが、視覚障害者への理数教育では、それとは別の問題が浮上している。それは、視覚障害者用実験器を生産してきた企業が倒産したこともあって、十分な教材の確保が難しいからだ。そうしたこともあってか、理数系への進学を希望する学生も少ないという。そこで、日本大学や筑波大学附属視覚特別支援学校の教員、視覚障害者の研究者や技術者等が講師になり、モーター作り、化学実験、リナックスを使ったパソコン操作、ルービックキューブの解き方、宇宙の仕組みなどを触覚や聴覚で分かる教材を使って少人数のグループに分かれた参加者に懇切丁寧に教えた。
物作り体験では、日本大学短期大学部の川根深(かわね・ふかし)専任講師とスタッフが、竹串やセロファンテープの芯などの身の回りにある材料を使って手作りモーターを3時間かけて4名の参加者とともに作った。電気と磁気の性質やモーターの原理について1時間学んだ参加者は、早速モーター作りに取りかかった。最初の作業は、エナメル銅線の束を解き、それを芯に巻き付けてコイルを作る。この作業のポイントは、銅線が重ならないように巻くことだ。しかし、なかなか思うように線を巻けずに苦闘する人もいれば、指先を上手に使って難なく巻く人もいた。川根講師は、上手に巻く子供の指先の動きを観察し、そのやり方を手を取って丁寧に教える。モーター作りは細かな作業が多く、黙々と作業が続く。そして、3時間後、コイルに電流を流すと、次々とモーターが勢い良く回り始め、4台全てのモーターが回ると思わず歓声が上がった。
愛知県の中学校3年の参加者は、「モーターについて授業で聴いてはいましたが、実際に自分の手でモーターを作ってみて、詳しい仕組みが良く分かりました」と感激。参加者全員が、完成した手作りモーターを前にとても喜んでいた。
授業を終えた川根さんは、「視覚障害を持つ子供たちを教えるのは、今日が初めてで少しとまどいました。電池と磁石を繋いで、モーターが実際に動くかどうかが心配でした。でも、みんながんばってくれて最終的には4人ともモーターが動いてくれたので、ほっとしました。コイルの巻き方で最初は苦労していましたが、だんだん上手になっていきました。そういった手順などを今後の指導の参考にしていきたいと思います」とうれしそうに感想と抱負を話してくれた。
午後からは、筑波大学附属視覚特別支援学校による「理科の出前授業」が行われた。筆者も飛び入り参加させてもらい、20数年ぶりに理科の授業を受けた。
まずは、浜田志津子教諭による化学の授業。1時間半の間に、空気の膨張、塩酸にマグネシウム・リボンを入れて発生させた水素にマッチで火を付ける実験、亜鉛と銅の金属のイオンの違いを利用した自作の「電池」で電子メロディーを鳴らす実験、感光器を用いて光の性質を知る実験が行われた。空気の膨張の実験は、空の試験管を用意し、試験管の口にラップをかけて、口に近い場所を輪ゴムでしっかり止める。次に、氷水と熱湯を入れたビーカーを一つずつ用意する。そして先程の試験管をビーカーの中につけると、熱湯では空気が膨張し、ラップが膨らみ、氷水では空気が収縮してラップがしぼむ様子が触覚を通じて観察できた。水素に火を付ける実験では、最初に正しいマッチの持ち方や火の付け方を習い、正しい方法でやれば、安全にできることを学んだ参加者は、各人に準備された実験器具を落ち着いて操作し、試験管に貯めた水素に火を付けて、ポッという燃焼音を確認した。
続いて、武井洋子教諭による生物の授業に参加。参加者は、動物の頭蓋骨の標本を触って、肉食動物、草食動物、雑食動物の特徴を観察した。その結果、草食動物は肉食動物よりも眼球が離れていることや、牙の形や大きさを触って、その動物が何であるか、生前どんな生活をしていたのかなどを参加者と武井教諭が話し合いながら、授業が進められた。
最後に、キャンプに参加した2名の感想を紹介しよう。長野市立若穂中学校3年の山岸蒼太さんは、「本当は、理数系よりも社会科が好きなのですが、『このキャンプではいろんなことが体験できる』と母から聞いて参加しました。普段、視覚障害者同士で話すチャンスがあまりないので、交流ができていいです。また、こういった機会があったら参加してみたいです」とまんざらでもなさそう。また、鳥取盲学校中学部2年の島津朋子さんは、「理数系が大好きです。ルービックキューブの授業は少し難しかったけど、解き方が分かって良かったです。明日(24日)の『手でふれて楽しむ宇宙のすがた』が楽しみです」と声を弾ませていた。(戸塚辰永)
東京・赤坂の日本財団ビルで行われたデイジー普及国際会議のために来日していたラオス盲人協会のコンケオ会長に、8月1日、会議の最中に出会った。6月末に首都ビエンチャンの盲人協会で会って以来、まったくの奇遇であった。彼女は現在47歳だが、タイで教育を受け、帰国後ラオスの点字を考案したことでも知られている。盲人協会も彼女が東奔西走し、資金集めから実際の活動までタイ人のビジネスマンである夫のサポートを受けて行っている。まさに八面六臂の活躍だが、それだけ人材不足でもあるということだ。
ラオスでは、視覚障害教育だけでなく、一般の教育も立ち遅れているが、その最大の理由は、植民地支配下で宗主国のフランスが行った「愚民政策」によるためだ。彼らはベトナム人を使ってラオスを支配する方法をとったので、ラオス国内に教育制度を確立せず、高等教育はもっぱらベトナムで行った。しかも、植民地の人民が官吏になるためには仏語と共にベトナム語が必修であったため、ラオス人には大きなハンディとなった。さらに独立後も長く内戦が続き、社会主義体制となってからは、旧ソ連の高等教育機関に依存してきたので、その後も教育制度がほとんど整備されなかった。ラオスには、現在、国立大学が1校ある。学生数1万8,000人で、教職員4,000人弱のその名もラオス国立大学である。この大学は、それまであった9つの国立学校を統合再編したものだが、それはなんと1995年、つまり13年前のことである。このような経緯から教育に対する国民一般の意識も低く、学校の教材も教員の教育技術も不十分で、おまけに教員給与は安い上に遅配続きだという。
そんな絶望的な土壌のなかで、視覚障害教育は細々と実施されてきた。なにしろラオスに盲学校が創立されたのは、今から19年前の1989年に国立リハビリテーションセンター(NRC)に視覚障害学級ができたことによる。教師は現在の盲人協会のコンケオ会長で、第一期生は、インペンさんやこの春平塚盲学校に入学したメウンボラボン・センスリヤンさんら5名で、まさにラオスの視覚障害教育は、緒に就いたばかりである。しかも、ラオスは社会主義体制であるから、民間団体の活動にも自ずと限界がある。しかし、そんな困難な状況にもかかわらず果敢に挑戦している姿があった。
ラオスの障害者運動は、歴史的にポリオなどの肢体不自由者が中心となって担ってきた。その点、伝統的に視覚障害者が優遇され、綺羅星のような先達に恵まれてきた日本からは想像もつかない厳しい状況がここにはある。視覚障害を持つリーダーが極めて少なく、後身を育てる状況にはまだない。そういう意味では、肢体不自由者が障害種別を超えて、視覚障害者を引き上げる「クロス・ディスアビリティ」による活動が、今後も継続的に実施される必要がある。
アジアの障害者活動を支援する会(ADDP)が支援しているシンサイ・ローさんのワークショップは、その代表例だ。足に軽度の障害を持つ彼は、大学でコンピュータを学び、JICAの平成18年度「職業リハビリテーションと障害者の就労」という研修プログラムを東京で受けた。そして、活発に活動する日本の視覚障害者の姿に感銘を受け、帰国後、苦労しながらも視覚障害者にITを教えているのである。ビエンチャン郊外にある、トイレと物置がついた一部屋だけの1戸建てが、彼がワークショップを実施している借家だ。彼の指導で、ここからすでに2名の視覚障害者が巣立ち、他の視覚障害者にコンピュータを教えるまでに成長している。シンサイさんは、有料で健常者にITを教え、その上がりでワークショップを維持し、障害者に無料でコンピュータを教えようとしている。しかし、実際はなかなか厳しいようで、ADDPからマイクロファイナンスの融資を受けて、なんとか運営しているのが実情のようだ。そのような厳しい状況で活動する彼の姿を知った田中徹二理事長のはからいで、日本点字図書館の委託を受けて、シンサイさんはラオス語の点字教科書も作成した。視覚障害者を対象にしたIT講習会もむろん重要な事業である。しかし、ラオスではそれ以上に、基礎的な教育を普及する事業。とりわけ点字教科書を生徒1人に1冊届けることが、喫緊の課題である。今後、官民問わず点字教科書の作成と配布が、より組織的に実施されることを願うばかりである。
「人はパンのみにて生くるにあらず」とはいえ、日々の糧もまた重要だ。ラオスで視覚障害者が自立するためには、なによりマッサージがてっとりばやく、確実なため、盲人協会でも附属の施術所にてマッサージ師養成を行っていた。また、NRCから徒歩10分ほどの所には、施術者が視覚障害者のみのマッサージ治療院が、隣り合わせに2カ所あった。実はNRCでITを教えているインペンさんの本業もマッサージ師で、ここが生活の拠点である。日を置いて、私は両方の治療院で施術を受けたが、施術者によってその技量が随分違っていた。また、治療室といっても、コンクリート打ちっ放しの大部屋に、せんべい布団を並べただけで、男女別の間仕切りもなかった。そして、これが最大の問題だが、この治療環境に施術者が何ら違和感をもたないばかりか、満足しているように思われたことだ。治療院の環境整備には、それなりの資金も必要であるため簡単にはいかないが、治療技術の支援だけでなく、理療経営等も含めた総合的な環境整備を行わないと、せっかく根づきだした視覚障害者の職域が、あやうくなるのではないだろうかと心配になった。
ところでなにかと障害者の拠り所となるNRCだが、ここの体育館は、ADDPが音頭をとり日本とラオスの両国政府に働きかけ、わが国外務省の支援を受けて建設したものだ。平成19年1月16日には、落成を記念して車椅子バスケットボールの国際交流試合を行い、同1月18日には国際視覚障害者援護協会と光友会が協力してフロア・バレー、サウンド・テーブル・テニスの親善試合も行った。一方、同年1月22日、23日の両日は、ラオス労働社会福祉省の講堂にてシンサイさんの視覚障害者ITセミナーを実施。セミナーの講師は日本から国際視覚障害者援護協会の山口和彦事務局長(当時)と日本点字図書館の田中徹二理事長が出向いた。同3月には日本点字図書館がシンサイさんのワークショップでICTセミナーを開き、その後、先に述べた点字教科書の製作も行っている。また、国際視覚障害者援護協会の協力を得て、2007年3月9日から14日の日程で、AMINがはじめてあん摩・マッサージ講習会を開催。このようにこの1、2年、矢継ぎ早にビエンチャンにて視覚障害者関連のイベントが行われ、ラオスの視覚障害者の世界は一変しつつある。これは、日本の援助団体がネットワークを組み、一体となって協力しあった結果である。しかし、アジアの中でも飛び抜けて遅れているラオスの視覚障害者を取り巻く環境、なかでも基礎教育と、職業教育を含めた人材育成は、まだまだ不十分で、これからも支援の輪が強く求められているのが現状である。(福山博)
WBUAPの会長に、本誌でもおなじみの指田忠司氏が選ばれました。ちょうどこの選挙時に私はネパールの片田舎におり、9月3日の早朝に帰国してこの朗報に接しました。2週間前に東京を発つ前から、ほぼ、当選確実との情報がありましたので、福田首相辞任のような驚きはありませんでした。それよりも、火中の栗を拾うようなことにならないか?研究生活との両立は可能か?との懸念の方が先でした。わが国盲界は、昭和59年(1984)に岩橋英行氏の非業の死を経験しております。もはや二度とあのような不幸を繰り返してならないのはいうまでもありません。しかし、そのためのバックアップ体制は確立されているのでしょうか? これを機に、アジア・太平洋各国がわが国に国力に相応しい国際貢献を求めて来るのは必定です。盲界挙げての強力なサポートが求められています。
サイトワールドの2日目、11月3日(月・文化の日)10時から、指田忠司WBUAP会長を司会に、マリアン・ダイアモンドWBU会長らによるパネルディスカッションが開催されます。これを挟んで、11月2日と4日はWBUAPの理事会・政策協議会が東京で開催されます。総選挙も噂され、なんともあわただしい晩秋になりそうです。(福山博)
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