THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2008年8月号

第39巻8号(通巻第459号)
編集人:福山 博、発行人:迫 修一
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替口座:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「外交音痴」

 大阪生まれで親日派ともいわれる韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が支持率低迷で苦境に立たされているときに、わが国政府は、中学校新学習指導要領の解説書で初めて竹島問題に触れた。しかも「我が国と韓国の間に竹島をめぐって主張に相違がある」という言わずもがなのことを付け加えてである。なんというタイミングの悪さだろう。日本は他の民族に征服された歴史を持たず、鎖国状態が維持できる程度に自然と食料に恵まれていたため、外交が苦手だ。しかも、「同文同種」という思いこみから、とくに中国と韓国を相手にするときは勘違いが甚だしい。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権のときに「竹島は日本の固有の領土である」と学習指導要領にはっきり記載したほうがよほどましであっただろう。「歴史問題を提起したくない」と就任前から明言していた李大統領へのこの仕打ちはなぜだ。(福山)

目次

よく働いた「糟糠の妻」の輝かしい人生 本間麻子氏を偲んで ・・・・・・・・・・・・・・・・
3
「サポートグッズフェア2008」開催 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12
(鼎談)就職活動とコミュニケーション(小笠原さゆり、望月優、戸塚辰永) ・・・・・・・
13
リレーエッセイ:他人と過去は変えられない、
  自分と未来は変えられる(成澤俊輔) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
24
外国語放浪記:テキサスという所 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
28
あなたがいなければ:先生のはげまし ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
31
「徹子の部屋」で解説放送スタート! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
35
コラムBBエクストラ:「幻のタイ旅行」その後(上) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
37
携帯サイズのデイジープレイヤーエクストラから発売! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
40
感染症研究:どうしてセラチア菌による院内感染が起こるのか ・・・・・・・・・・・・・・・・
41
知られざる偉人:米国の俗謡保存に貢献したE.デュッセンベリー ・・・・・・・・・・・・・
46
新コラム・三点セット ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
50
大相撲:近代大関列伝その9 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
53
鳥の目:国によってここまで違う近親婚の禁止 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
56
時代の風:インフルエンザ増殖のカギ判明、認知症2035年には倍に、
  ペットボトル秋にもリユース試行、他 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
59
伝言板:「アルビン/歌うシマリス3兄弟」上映、NHKハート展、
  第2回塙保己一賞 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
62
編集ログブック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
64

よく働いた「糟糠の妻」の輝かしい人生
―― 本間麻子氏を偲んで ――

 《5月27日未明、本間麻子聖明福祉協会名誉園長が79歳で永眠された。同氏は聖明福祉協会の理事長である本間昭雄氏の夫人として、聖明福祉協会の揺籃期から夫を支え、文字通り「糟糠の妻」として活躍されたことは、関係者の誰もが知るところである。そして、特別養護老人ホーム施設長として高齢者の幸せのために、命を預かるという使命感に燃えて、その生涯を捧げた方でもある。7月31日正午からグランドヒル市ヶ谷(東京都新宿区)で行われる「お別れ会」を前に、東京都青梅市の同協会本部を訪ね、本間理事長に、妻麻子氏の思い出を語ってもらった。インタビューと構成は、本誌編集部戸塚辰永》

難病「多系統萎縮症」との闘い

 昭和4年(1929)5月14日、山梨県で生まれた本間麻子さんは、夫昭雄さんと同年である。書道が得意な彼女は、聖明園で催される行事などの掲示を一手に引き受けていた。しかし、ボールペンの文字がだんだんと小さくなってきたことに3年ほど前のある日気づき、不安になって病院で精密検査を受けた。すると、「多系統萎縮症」という耳慣れない病名を医師から告げられ愕然とする。国から特定疾患に指定されているこの難病は、体の機能が徐々に衰え、やがて運動機能や言語機能等に障害が現れるものだ。「この病気は全治しません」と医師から説明を受けた家族は、病気の進行を一日でも遅らせるために、その道の権威である水野美邦(よしくに)順天堂大学教授に最善の治療を託した。しかし、病魔は彼女の身体を確実にむしばんでいき、昨年(2007)11月からはついに車椅子での生活を余儀なくされた。
 ちょっと唐突だが、後に改めて述べるが、この頃の様子を、昨年(2007)11月3日付の『産経新聞』朝刊は、「なぜ、私が」嘆く麻子さんに昭雄さんが「働きすぎたんだよ。神さまが『少し休みなさい』って言っているんだよ」と声をかけると、目頭を押さえたと、報じている。 
 「発病以来、いわゆる老老介護で、入浴から洗面まで介助していたんですが、とても僕では無理になってしまいました。そこで、この2月から彼女自身が園長をやっていた特別養護老人ホームの富士見荘に入所して、夜間はそちらで、日中はリハビリを受けてから役員室で簡単な仕事をしていました」と闘病の様子を、つとめてたんたんと昭雄さんは語る。しかし、「糟糠の妻は堂より下さず」の言葉通り、夫婦愛にあふれた介護だったようである。
 本年4月には、身体の自由や会話もほとんどままならなくなった麻子さんだったが、「水戸にある本間家の墓参りをしたい」という望みを口にし、昭雄さんは無理を承知でそれを叶えさせることにした。
 本間家の嫁としての仕事をなし遂げた彼女は、その1週間後、食事ものどを通らなくなるほど衰弱して入院。「発病してから最後まで何一つ弱音をこぼさなかった彼女は、本当に我慢強い人でした。ただ、最後の頃には話ができなくなり、意思疎通もままならず、自由に寝返りもできず、さぞ辛かったと思います。でも、好きな花や皆に囲まれて安らかに最後を迎えられました。とても幸せな生涯だったと思います」と、しんみりと昭雄さんは語った。

自動車に乗っての家庭訪問

 2人が出会ったのは、戦後間もない昭和23年(1948)のことだった。本間家は水戸藩の藩医を代々受け継ぐ名門で、特に第7代の本間玄調は長崎でシーボルトから近代医学を学び、多くの人命を救ったことから藩主徳川斉昭から「救(すくう)」の称号を贈られ、「救・本間玄調」の名を持つ名医であった。当然、昭雄青年も家業である医師を継ぐために医科大学への進学を目指した。だが、不運なことに右手に受けた注射が原因で橈骨神経が麻痺し、国立第一病院整形外科に入院。そこに、麻子さんが看護婦として勤務していたのがなれそめであった。
 「そのころは目が見えていましたので、彼女の姿を今でもはっきりと覚えていますよ」と昭雄さんは話す。ところが、その3カ月後保健婦と助産婦の資格を取るために彼女は退職し、山梨の実家へ帰る。一方、その後昭雄さんは両眼を失明し、病院のベッドの上でもだえ苦しむ毎日を送っていた。そんな昭雄さんを心配した婦長さんが、麻子さんと連絡を取り、2人の中を取り持ってくれたのであった。
 多少話が横道に逸れるが、そもそも昭雄さんが視覚障害者福祉を志したきっかけは、永井実太郎氏という全盲の青年教師と出会ったことだった。当時、長井氏はヘレン・ケラー学院で三療を教えるかたわら、聖ルカ失明者更生協会を主催し、中途失明者の社会復帰に熱心に取り組んでいた。
 失明直後の悩み多い本間昭雄青年は、同協会を訪ね、永井氏の人柄と情熱に接し、同氏とともに視覚障害者福祉の道を志すことを決意。しかし、戦後の混乱がまだ収まらない頃、2人の計画は少し時代に早すぎたのか、すぐに頓挫してしまう。
 永井氏や中村京太郎氏、本間一夫氏など盲界の錚々たる大先達から教えを受けた昭雄青年は、昭和27年(1952)に開学した日本社会事業学校(現・日本社会事業大学)初の視覚障害学生として入学する。講義は夜間であったため、都庁に勤めていた麻子さんが手引きや板書の書き取りなどのサポートをした。
 そして、昭和28年(1953)5月、2人は結婚し、世田谷区成城で暮らし始め、翌昭和29年には長男が産まれた。昭和30年には念願の聖明福祉協会を世田谷区赤堤に創立。その後しばらくして、麻子さんは都庁での仕事を辞めて自動車教習所へ通い、運転免許証を取得する。そして、当時まだ珍しかった自動車に昭雄さんと共に乗り、2人で盲人家庭を訪問した。白い杖をついた昭雄さんを見て、「盲人が来るのは困る」と、あからさまに断る家もあったが、そんなときには彼女が中に入って事情を説明した。「夫婦2人で訪問したからこそ、訪問先もうち解けて話をしてくださったのでしょう」と昭雄さんは当時を振り返る。
 家庭訪問の目的は、外出もままならない盲人に点字・歩行・生活訓練、失明予防を行うためで、英国盲人協会(RNIB)が当時行っていた中途失明者のプログラムの1つである「ホーム・ティーチャー」にならって、家庭を訪問するという画期的なものであった。
 夫妻は、昭和34年(1959)に恵まれない盲女子のためのホームを協会本部に設け、3、4人の盲女性を自宅に引き取って面倒を見た。麻子さんは、仕事の合間をみて、彼女らに編み物や料理、掃除、洗濯のやり方までまるで母親のように教えた。昭和30年代半ばは、福祉という言葉も耳慣れない時代で、訪問相談には公的支援はなかった。そこで、本間夫妻は職員の給料を工面するために、当時各地で行われていた愛の鉛筆運動に加わり、都内の小中学校で鉛筆を販売して、事業資金の一部を工面したという。
 以来、麻子さんは昭雄さんの目となり手となり、妻であり母であり、運転手であり、秘書でもありと、一人何役もの激務を精力的にこなしてきたのであった。

盲老人ホーム設立と華麗なる親交

 「将来、子供が一人残されたときでも安心して生活できる場があれば」と心配する家族の声を、盲人家庭訪問の際にたびたび聞いていた夫妻は、盲人ホームの設立を決意し、用地を探し始めた。赤堤の本部や調布市にあった本間家の土地350坪などを処分し、東京都青梅市根ヶ布2丁目722の市有地1000坪を競売で落札。聖明福祉協会は昭和38年(1963)同地へ移転し、東京オリンピックが開催された翌昭和39年(1964)4月に、念願の軽費盲老人ホーム聖明園がオープンしたのであった。昭和37年(1962)には長女も生まれ、家族は4人となり、子育てと協会の仕事に麻子さんは多忙を極める。
 しかし、「ありがたいことに、職員が率先して子供たちの面倒をみてくれました。今は、利用者280名の大所帯ですが、そのころは50名の利用者と5、6名の職員で、それも親戚縁者ばかりだったので、とてもアットホームで皆で職員宿舎に暮らしていたのですよ」と懐かしそうに語る。
 麻子さんは、当初副園長という立場で昭雄さんを支える一方、利用者の入浴介助、掃除、洗濯などありとあらゆるホームの仕事を先頭に立って行った。看護婦の経験のある彼女は、入所者の顔色が少しでも悪いと、園内にある診療所に直ぐさま連絡し、何人もの命を助けたのであった。
 同園の敷地は小高い丘の上にあるため、雑木林などを切り開く整地は大変な作業であった。それを、米軍の兵士がボランティアとしてブルドーザーを出して協力してくれたことは、今でも聖明園では語り草となっている。また、最寄りの幹線道路までの道の整備や利用者の増加により、周辺用地の取得と新たな施設の建設が急務となった。そんなときにも、麻子さんは持ち前の行動力を発揮し、昭雄さんとともに地主の家を一軒一軒頭を下げて回った。その甲斐あって、同協会は1万坪の土地を購入、全室個室の養護盲老人ホームの曙荘、特別養護盲老人ホームの寿荘、特別養護老人ホームの富士見荘を次々と建設することができたのであった。
 協会の主な行事は年に数々あるが、その中でも特に力の入るメイン・イベントの最たるものは夏祭りである。広々とした園内には職員による模擬店が建ち並び、利用者や家族、職員や近所の方で賑わう。数年前までは、やぐらも組まれて皆で盆踊りも楽しみ、その輪の中には、いつも明るい麻子さんの姿があったという。
 富士見荘の施設長となった彼女は、東京都の老人福祉部会や全国老人福祉施設協議会での研修委員として、また東京都のあんまマッサージ部会では部会長として、特養に視覚障害者のあんま・マッサージ・指圧師の雇用をはかるよう都に要望するなど、後身の指導や視覚障害者の雇用拡大にも尽力した。
 「利用者と共に」を理念に掲げる本間夫妻は、聖明園設立以来、ほとんど毎日利用者と寝食を共にしてきた。「急に夜中に体調を崩す方もいらっしゃいますから、常に緊張して暮らしています」と、昭雄さん。
 「奥さんのご趣味は、何だったんですか?」との質問には、「書道も好きだったけど、やっぱり仕事が一番だったんじゃないかな。もう、利用者が大好き、人間が大好きでしたから、職場に行くときが一番生き生きとしていましたね」。
 年中忙しく働いていた彼女は、まだ子供たちが小さい頃、その世話を充分できないことを随分気に掛けていた。そして、ふいっと、子供たちを自動車に乗せて愛知県の蒲郡までドライブに出かけたこともあったという。まだ、高速道路も整っていないころの話で、そんな無鉄砲さも併せ持っていたのである。
 ところで、本間夫妻と皇族方、特に、故秩父宮勢津子妃殿下(1909〜1995)や美智子皇后との親交はあまり語られることはないが、とても深い。
 勢津子さまの父親である松平恒雄氏は、駐英・駐米特命全権大使であったため、彼女は英国で生まれ、米国の首都ワシントンD.C.の名門フレンド・スクールで教育を受けた才媛である。少女時代の欧米での見聞もあって、同妃殿下は福祉活動にも関心を寄せられ、青梅の協会を9度も訪問されたという。こうした同妃殿下の意志を受け継いで美智子皇后も、皇太子妃の頃、くだんの整地作業の現場に立ち寄られて、米軍兵士の手を取って激励されたのであった。以来、皇后陛下は、何かと聖明園のことを気に掛けておられ、その熱意は秋篠宮家にも引き継がれ、平成17年(2005)の聖明福祉協会設立50周年記念行事に、秋篠宮さまも訪問されている。
 麻子さんは、昨年(2007)秋、瑞宝双光章(ずいほうそうこうしょう)を受け、11月7日に皇居で催された叙勲の式典では天皇陛下に拝謁。その際、彼女の車椅子姿をご覧になられた陛下は、「十分身体を大事にされるように」と心配され、お言葉をかけられたという。
 「5月14日の彼女の誕生日に、偶然でしょうが、美智子さまからご著書が送られてきました。自分でページをめくることができませんでしたが、うんうんとうなずいてとても喜んでいました。盲人の奥さんになって苦労したと、はたから思われるかも知れませんが、彼女の人生は輝いていたと僕は思います。これは、僕自身もそうで、失明しなければ、おそらく福祉の世界にいなかったでしょう。失明したからこそ、今日があるのです」と、しみじみと語るのであった。
 この件に関して生前の麻子さんは、昨年(2007)秋の叙勲で瑞宝双光章を受けたとき、先にも紹介した『産経新聞』のインタビューに答えて「(目の不自由な高齢者の福祉に走り続けて50年)主人と知り合ったことで、このような栄誉を授かることができました」と喜びを語っている。
 本間麻子さんの葬儀は、5月30日同協会で営まれたが、密葬にもかかわらず、天皇陛下から弔意の言葉が届き、皇后陛下と秋篠宮家からは、それぞれ盛り花が届けられ、思いの外華やかに営まれたのであった。
 聖明福祉協会の広々とした園内には、本間麻子さんの優しい人柄が偲ばれる、丹誠込めて育てた花木が夏の陽光を受けてのびのびと葉を広げていた。取材を終えて、それらの花木の名を記した点字プレートを触りながら、生前の本間麻子さんを偲び、さわやかな花の香りが漂う園内をしばらく散策した。

「徹子の部屋」で解説放送スタート!

 女優・司会・タレントとして活躍する黒柳徹子さんがゲストを招き毎回話を聞く、ご存じ「徹子の部屋」は、テレビ朝日が「日本教育テレビ(NET)」と名乗っていた1976年から現在まで30年以上続く人気長寿番組である。平日の午後1時20分から35分間全国に向けて、現在ではアナログとデジタルの両放送で送信している。その「徹子の部屋」が、同局のレギュラー番組として、はじめて視覚障害者向けの解説放送を、加山雄三さんをゲストに迎えた7月7日(月)から月2回の不定期でスタートした。ちなみに、同番組では聴覚障害者向け字幕放送はすでに実施している。
 解説放送は、アナログ方式ではステレオ放送や2カ国語放送で使用する音声多重放送の副音声チャンネルを利用して、場面や登場人物の動作や表情を視覚障害者に言葉で伝える。この場合、2つのうち1つのチャンネルを副音声放送に使うので、ステレオや2カ国語での放送はできない。しかし、デジタル放送では、本編で使用しているチャンネルに加えて別のチャンネルで解説放送を送信できるため、アナログ放送のような技術的問題は起こらない。
 すでに解説放送は、他局ではNHKの連続テレビ小説や日本テレビの火曜サスペンス劇場で行われてきたが、これらの番組はストーリー展開が比較的ゆっくりだ。しかし、「マシンガントーク」で有名な黒柳徹子さんの話に解説放送を入れるのは至難の業。わずかな話の合間をはかって主音声にかぶらないように解説を入れるのだが、担当者は、「黒柳さんやゲストの豊かな表情を伝えられたら」と話している。
 過去にテレビ朝日で実施された解説放送としては、2000年の「盲導犬スペシャル 愛と信頼のハーネスU」と2007年の「武士の一分」。どちらも、視覚障害者にちなんだ番組だった。今回レギュラー番組に解説放送が導入された背景は、2007年10月に総務省「視聴覚障害者向け放送普及行政指針」において、2017年度までの達成目標が提示されたためだ。その一つに、視覚障害者向けの解説放送についての指針が新たに策定され、7〜24時の番組の10%に解説放送をつけることとされている。なお、同局では2010年度までの3年間は、テスト期間とし、年度ごとの数値目標は設けず、解説放送の増加に対応可能な設備や運用の仕組みを整えるための準備に当てるという。
 今後の解説放送の予定は、EPG(電子番組表)の「解」(解説)マーク、新聞のラジオ・テレビ欄の「多」(多重)または「副」(副音声)マークで、放送中の画面には「解説放送」という字幕で告知する。
 「徹子の部屋」への導入を手始めに、テレビ朝日では今後解説放送を拡充していく予定で、視聴者からの感想や意見をテレビ朝日視聴者センターで募集している。なお、同センターの電話番号は、03-6406-5555。(戸塚辰永)

■ 鳥の目、虫の目 ■
国によってここまで違う近親婚の禁止

 最近、「いとこと結婚するなんて人倫にもとる!」と、ある外国人からすごい形相でにらまれ、問いつめられて閉口した。
 いや、私のことではない。ある席で、まさに小説よりも奇なりというべき悲劇が話題にのぼった。それは今年の1月11日、英国の上院(貴族院)で報告された、別々の家の養子となって生き別れた双子の男女が、血のつながりを知らないまま結婚。その後、双子と分かり、裁判所から「近親結婚」にあたるとして、婚姻を無効にされたことである。
 それに関連して、私は問われるままに、「日本では三親等内(傍系血族)の婚姻はできない」と答えたのだが、それがうまく伝わらなかった。そこで窮した私は、「いとことなら結婚できる」と解説したのだが、これが物議を醸したのだ。
 日本の法律はドイツ法を基にしているので、近年はともかく、基本的にはヨーロッパでも同様だと言って防戦したのだが、どうしても理解は得られず、気味悪そうな顔をされるばかりであった。
 そこで、後日、アルベルト・アインシュタイン、ヴィクトリア女王、H.G.ウェルズ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、チャールズ・ダーウィン、エドガー・アラン・ポー、セルゲイ・ラフマニノフ、予言者ムハンマド(マホメット)などそうそうたる人物を列挙して、これらの人物はみんないとこと結婚したと、やや権威主義的に持ち出してみたが、焼け石に水であった。ちなみに日本人では、色川武大(いろかわ・たけひろ)、菅直人、岸信介(のぶすけ)、佐藤栄作、村上信夫らもいとこ婚である。
 ところでいとこ同士の婚姻に反対する理由として、生まれる子供の遺伝的な危険性をあげる声が強い。しかし、通常のリスクが3〜4%なのに対し、いとこ同士のカップルではそれに加えて1.7〜2.8%増えるにすぎない。これは高齢出産のリスクとほぼ同等であるから、必ずしもそれほどリスキーとはいえないだろう。
 しかし、このいとこ婚を、ある特定地域の人々が繰り返すと、どうなるであろうか? つまり祖父母も、両親もいとこ婚という風に続くと、実は事情は一変するのである。
 イスラム圏では、一般に血が濃い事が喜ばれ、いとこ同士の見合い婚が多い。恋愛結婚についても、まず若い男女が交際する場が極めて限られており、地域によっては女性が顔を隠しているため、恋愛対象になるのは、顔を知っているいとこに限定されてしまう。また、預言者ムハンマドの第7夫人がムハンマドのいとこである事も、いとこ婚が推奨される一因になっている。
 そのような背景もあって、英国に住むパキスタン人は、少なく見積もってもなんと55%の人々がいとこ同士で結婚し、いとこ婚が連綿と繰り返されている。このため、遺伝子障害の発生率が一般住民の13倍もあり、いとこ婚で生まれた子供の10人に1人は幼年期に死んだり、重大な障害を起こすという。英国におけるパキスタン人の人口比率は4%に満たないが、遺伝病の子供は、少なくとも総数の3分の1を占めているという。
 同じ南アジアでもヒンズー教徒の高位カーストは、近親婚を避けるために7代前までの父方の系譜を把握しておくことが、結婚の絶対条件である。しかも同じ姓の人と結婚することは、まずありえない。これは、中国・朝鮮において古来より続く「同姓不婚」の原則と同じである。こうして、父系の近親者間での婚姻が建前上禁止されていたのである。なお、韓国では1997年に憲法裁判所で民法第809条1号が無効と判断されるまで、同様の「同姓同本貫(ほんがん)の場合の結婚」が禁止されていた。「本貫」というのは、同一の氏族のルーツが住み着いた土地・本籍地を指し、同姓でも本貫が違えば別の氏族と見なされる。
 現在、中国、韓国では8親等内、フィリピンでは4親等以内の傍系親族間での結婚は禁止されている。一方、タイ、ロシア、ドイツでは叔父と姪、叔母と甥の結婚も法律上可能である。しかし、これで驚いてはいけない。
 スウェーデンではあろうことか、その婚姻法で、「父母を異にする兄弟姉妹は、政府または政府の指定する行政官庁の許可を得なければ、婚姻を行なうことができない」(第2章第3条)と記している。つまり、両親の一方とのみ血がつながっている(半血)兄弟姉妹の結婚を、事実上、容認しているのである。
 こうなると、くだんの外国人でなくとも、「人倫にもとる!」と叫びたくなるのは、私ばかりではないと思うが、いかがだろうか?(福山博)

■ 編集ログブック ■

 本間麻子さんほど「糟糠の妻」という言葉が似合う人を知りません。戸塚記者の「よく働いた『糟糠の妻』の輝かしい人生」を読んで、さらにその意を強くしました。故事成語「糟糠の妻」の由来は、『後漢書(ごかんじょ)』列伝第十六「宋弘(そうこう)伝」の「糟糠の妻は堂より下さず」で、これは「貧しいときから連れ添って苦労をともにしてきた妻を、富貴になってからも大事にして見捨てない」という意味です。やや古風な表現ですが、おしどり夫婦として関係者の間では知らぬ者のいない本間先生ご夫妻にとって、やはりぴったりではないでしょうか。本間麻子さんを偲ぶ「お別れの会」は、7月31日(木)正午から、東京都新宿区のホテルグランドヒル市ヶ谷にて開催されます。
 いつ頃から就職活動を「就活」と呼ぶようになったのでしょうか? 鼎談の3人でリアルタイムで「就活」を使っていたのは、おそらく小笠原さんだけでしょう。名前だけではなく、就職状況もある面では、様変わりしたようです。
 「外国語放浪記」で「米国には貧しい人も大勢いる」と田畑さんが書いていますが、その視覚障害者の典型例が今月の「偉人」です。指田さんが最後に触れた名曲「スカボロ・フェア」がヒットしたのは1968年で、歌詞は今もよくわからないのですが、懐かしく感じました。(福山)

投稿をお待ちしています

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