THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2008年6月号

第39巻6号(通巻第457号)
編集人:福山 博、発行人:迫 修一
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替口座:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「聖火リレー」

 国民体育大会やねんりんピック(全国健康福祉祭)において、オリンピックの聖火リレー同様のセレモニーを「炬火(きょか)リレー」という。「炬」とは「たいまつ」のことで、それに火炎土器の「火」がついても、意味は同じたいまつで、なるほどたいまつリレーなら、英語の「トーチリレー」とまったく同じ意味である。実際、戦前の新聞をみると「オリンピック炬火リレー」となっている。聖火リレーが新聞に登場するのは、戦後の昭和27年(1952)、オリンピック憲章に「ザ・セークリッド・ファイアー(聖なる火)は大会が終わるまで消されない」という英文規定が追加されて以降だ。
  前置きが長くなったが、中国ではオリンピックの聖火リレーのことを、「奥林匹克(オリンピック)火炬リレー」いう。炬火の漢字2文字を入れ替えても、意味は同じたいまつの意で、聖火台も「火炬台」だ。5月12日の四川大地震の被害拡大でその火炬リレーも縮小された。

目次

ニーハオ! 盲人卓球北京を行く 3泊4日、技術講習と
  日中親善試合の旅 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
南十字星に願いを託して 日伯交流年と日系視覚障害女性の半生 ・・・・・・・・・・・
13
加瀬三郎相談役の死を悼む(笹川吉彦) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
26
リレーエッセイ:貴方を変えるコーチング(菱沼亮) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
29
外国語放浪記:一途な中学生 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
33
あなたがいなければ:祖母の予言 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
36
感染症研究:中国で手足口病大流行の警告出される ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
40
第9回WBUAP盲人マッサージセミナーに参加して(指田忠司) ・・・・・・・・・・・・・
45
新コラム・三点セット ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
49
大相撲:近代大関列伝その7 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
52
日盲連の新拠点晴れやかにオープン! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
55
時代の風:学習支援員採用ッ待遇が課題、網膜障害、
遺伝子治療で視力改善、 ゴーヤに血糖値を下げる働き、
点滴クリニック都内に開設、月経血で心臓病治療に道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
58
伝言板:ゆいまーる発足記念講演会、第11回経絡治療学術研修会、
  塩谷靖子ソプラノ・リサイタル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
61
編集ログブック:田中先生の放送文化賞受賞を祝う ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
63

南十字星に願いを託して

本誌編集長/福山博

 「光一さんはどこですか? ご一緒じゃなかったのですか? 馬場光一さんの奥さんですよね?」。開口一番、私が矢継ぎ早に質問すると、付き添いの中年の婦人が、「なんということを言うのよ?」という風に無言で、あわてて、左右に素早く手を動かした。私はハッとしたが、もはや手遅れである。
  一呼吸おいて、上品なサングラスをかけた老婦人は、意を決したように「主人は昨年亡くなりました」とだけ、ポツリと言った。4月16日、当協会点字出版所会議室での出来事である。
  この日の午前11時頃、突然、ブラジルの馬場を名乗る女性から、今、品川プリンスホテルに滞在しているので、近々面会できないか?という趣旨の丁寧で、やや古風な日本語の電話がかかってきた。私はサンパウロ在住の馬場光一さんの奥さんに違いないと思い、「午後3時から来客がありますが、その前なら今日でもお会いできます」と述べ、午後1時半からはじめてお会いすることになったのである。
  「クラーラ」と聞こえる、そこだけポルトガル語の発音だったが、それ以外は流暢な日本語で、ゆっくり区切ってクララ・てる子・馬場と彼女は名乗った。

日伯交流年

 1995年(平成7年)4月29日〜5月6日の日程で、当協会はブラジルツアーを敢行した。その旅程には、サンパウロの伯国(ブラジル)東洋医学専門学校第1回卒業式への参加も含まれていた。同校は全盲で、当時すでに80歳を越えていた鬼木市次郎氏が、ブラジルの視覚障害者にマッサージを教えるために私財を投じて設立したものだ。ツアーは、孤軍奮闘する鬼木氏を応援するためのものでもあった。当時、私はこのツアーの企画・募集を担当していた。
  同校の卒業式には、サンパウロ州議会議員を筆頭に、大勢のブラジル在住の日系人名士が来賓として招かれており、馬場光一氏もその一人であった。そのとき私は同氏とどのような話をしたのか、今となってはおぼつかない。しかし、その時会った大勢の日系人の誰もが、いわゆる成功者であることは、言葉の端々から窺い知ることができた。
  たとえば、アマゾンを開拓して農場を開いたが、交通が不便なので、ちょっとした買い物も自家用飛行機を使う。今日もこの卒業式のために、セスナを飛ばしてきたというような、気宇壮大な話ばかりであった。しかも、そんな話に感心している私に、本当の成功者とはこんなものではないと、謙遜とばかりはいえない、さらにスケールの大きい日系人の成功談も始まり、私はすっかり毒気を抜かれてしまった。そんな中にあって、まじめ一徹、この道一筋を絵に描いたような初老の全盲鍼灸師がおり、とても親しみを覚えた。
  そのような出会いがあった翌年、新年早々、期せずしてポルトガル語の年賀状が、ブラジルから届いた。以来、私は日本語に英語を添え書きして、触って楽しめる日本情緒たっぷりの立体型グリーティングカードをサンパウロの馬場さんに送った。しかし、今年は同氏からの音沙汰が無く、気にしていたところに、てる子さんが現れたのであった。
  賀状のことがやはり気になっていたようで、「立派な年賀状をお送りいただきありがとうございました」と、気を取り直した彼女は言った。そして、この一言が訪問の目的であったかのように、すぐに連れの女性をうながして立ち去ろうとした。
  そこで、今度は「今、お茶が出ますので・・・」と、私があわてる番であった。これから何か用があるのかと聞くと、何もないという。そして、日本での用事はすべて済んだので時間をもてあましており、予定を前倒ししてブラジルに帰国しようか、今思案しているとの返事であった。
  彼女にとっては今回が20年ぶり2度目の来日で、今年が「日本ブラジル(日伯)交流年」であるため思い立ったという。これは、今年が日本人ブラジル移住100周年にあたるので、日伯両国政府が制定したのである。そして、幼い頃からのあこがれであった、漢字を勉強したいと思って来たのだ。ところが、日本とブラジルで使われているパソコンは、キーボードの配列が違っているため、ついに断念せざるをえなかったと、そこだけいかにも無念そうに語った。

逆境の18年間

 旧姓長橋てる子さんは、1928年(昭和3年)9月6日、愛媛県越智郡乃万村<ノマムラ>(現・今治市)で生まれた。父親は村長なども歴任する地元の名士であったが醤油醸造業に失敗し、てる子さんが1歳になる前に、一家6人はモンテビデオ丸にてブラジルに渡ったという。
  入植地はバストスという、ブラジル最大の都市サンパウロから北西へ570kmほど内陸に入ったところであった。現在の人口は約2万人で、日系人はそのうちの3,500人に過ぎないが、日本人が開拓した「日系コロニア」としてブラジルではつとに知られている。またここは、ブラジル一の鶏卵の産地で、世界一の生糸の生産地としても有名だ。現在は、サンパウロからバスや列車で6、7時間程度だが、当時は蒸気機関車で一昼夜もかかったという。ちなみに、24時間といえば、現在、サンパウロから成田にいたるまでの飛行時間と同じだ。
  てる子さんの目が悪くなったのは3歳の時であった。母親はポルトガル語ができなかったので、通訳を頼み、てる子さんの手を引いてサンパウロで受診させた。診断結果は緑内障で、彼女はその後、サンパウロ以外でも、何人もの眼科医に診てもらった。そして、7歳の時に、サンパウロの慈善病院で手術もしたのだが、結局、視力は回復しなかった。同病院に入院中にシスターに奨められ、仏教徒である父親の同意も得て、てる子さんはカトリックの洗礼を受けた。
  この当時から負けず嫌いの彼女は「コイタジンニヤ(可哀想に)」と言われ、同情されることが大嫌いであった。そんな彼女にとってもっとも悔しかったのは、学齢期に達しても日本語の小学校にもポルトガル語の小学校にも入学できなかったことだ。彼女は、結局、18歳になるまで、ついに学校教育を受けることはなかった。
  この間、父親は彼女を日本に送り返して教育を受けさせる機会をうかがっていたようだが、時代がそれを許さなかった。彼女が教育を受けるまでの長橋家は御難続きで、彼女の入院中に日本語学校の教師をしていた19歳違いの姉が亡くなっている。結婚して2度目のお産が原因で、子どもをひとり残しての若死であった。そして、1942年(昭和17年)の4月、てる子さんが13歳の時、父親が高血圧と心臓の病気で亡くなる。その前年の1941年(昭和16年)12月8日、大日本帝国海軍がハワイの真珠湾を攻撃したことにより、わが国は第2次世界大戦に参戦することになるが、中立国が多い南米においてブラジルは連合国側であった。このため、敵国である枢軸国側の国民は旅行禁止になり、病気治療のためとはいえ、サンパウロに行くことも難しくなり、父親の病気は急激に悪化したのだ。
  戦争は陽気な国民性のブラジルにも黒い影を落としたが、中でも最も悲劇的であったのは、実は戦争が終わってからであった。日本の敗戦を信じない「勝ち組」が、敗戦を受け入れた人々を「負け組」と呼び、最後は血を血で洗う陰惨な事件にまで発展した。
  戦争がはじまる前は苦しい生活ではあったが、まだ牧歌的な時代で、てる子さんは母親からひらがなとカタカナを習い、家事や農業の手伝いをした。そして、夜になると兄弟に童話や小説を読んでもらうのが楽しみであった。その頃、母親はよくてる子さんを、夜、外に連れ出し星を数えさせた。ポルトガル語でグルゼイロ・ド・スルという南十字星(サザンクロス)は、1等星が2つと2等星・3等星の4つの星が交差して十字を形作っていた。ただ、南十字星は全天88星座中で最も小さな星座であるため、彼女はすぐに見つけることができなくなった。しかし、南十字星とは別に、彼女の将来を導く希望の星がついに現れた。

18年間の寄宿舎生活

 学業のためサンパウロに出たすぐ上の兄が、盲学校があることを知り、てる子さんを入学させるために奮闘したのだ。彼は後に苦学して大学の工学部を卒業するのだが、その前に、てる子さんの人生を決定的に変える大きなプレゼントを贈る。彼女の長年の夢であった学校への入学がかなえられたのだ。
  この兄は奨学金を受けるため、ブラジル生まれの2世ということになった。兄がブラジル生まれなのに、妹が日本生まれだというのは、いかにも不自然なので、その時、てる子さんもブラジル国籍を取得した。方便とはいえ、長くブラジル生まれと偽らざるを得なかったのが、気が重かったのか、彼女はこの事実を「仕方がなかったのですよ」と何度も繰り返して、問わず語りで私にまで告白した。
  パードレ・シッコ(シッコ司祭)盲学校小学部1年に入学したときの彼女の年齢は18歳であった。シッコとはフランシスコの愛称であり、フランシスコ司祭は同盲学校の創立者で、亡骸は同校の教会堂の床に安置されている。
  ところで盲学校は中学部までなので、彼女はその後、盲学校の寄宿舎から普通高校、大学へと進み、その後2年間は就職浪人をする。そして、その間も含めなんと18年間も彼女は盲学校の寄宿舎に住み続けるのだ。18歳で盲学校に入学して、18年間寄宿したわけなので、彼女がサンパウロ州立公務員病院のマッサージ師の職をみつけ自活できたのは36歳のときであった。
  ずいぶん遅い人生の出発だが、彼女に悔いはなかった。逆に失明したことさえ幸いだったと胸を張る。目が見えていたら小学校には通えたかも知れないが、その後は、毎日家事と野良仕事に精を出す一生が待っていたことは、間違いなかったからだ。
  現在は男女共学だが、当時は名門女子大であったサンパウロ・カトリック大学では哲学を専攻し、彼女は哲学・心理学・歴史学の教員免許を取得した。そこで、教職を探したのだったが、卒業後2年間も粘ったかいはなかった。そして盲学校からは、後がつかえているから、もういい加減寄宿舎から出て行って欲しいと言われていた。そんなとき、公務員病院でマッサージスタ(マッサージ師)を募集していることを知った。彼女が希望する職種ではなかったが、もはや他に選択の余地はなかった。彼女は、実は盲学校でマッサージスタの資格を得ていたのだ。
  18歳で盲学校に入学したてる子さんは、その当時ポルトガル語がほとんど話せなかった。しかし、勉強したくて仕様のなかった彼女は、シスターに注意されるほど、夜、遅くまで勉強した。その点、点字はベッドの毛布の下でも読めて都合がよかった。盲学校では常に首席で、すぐに通常の教育課程だけでは物足りなくなった。そこで、盲学校が特別に実施していた職業課程の別科ともいうべき、音楽と技芸、そしてマッサージコースを次々に並行して履修した。この時のキャリアが、絶体絶命のピンチを救ったのだ。自分の望みとは違ったが、背に腹はかえられなかった。彼女はマッサージスタをしながら次の飛躍を期すことにした。そして、ちょうどその頃、物理療法士の資格が公的に認められ、一躍新職業として脚光を浴びた。
  財政基盤が貧弱な彼女が、物理療法士になるには、州立で授業料が無料のサンパウロ大学医学部物理療法学科へ進むしかなかった。しかし、前例がないということで、願書自体受け付けてもらえず、門前払いの日々が続いた。ブラジルには盲人協会がなかったので、すべての問題は個人的に解決するしかなかった。壁にぶつかりながらも驚異的な粘り腰で、彼女は闘志を燃やした。
  昼はマッサージの仕事、夜は試験勉強、特に今まであまり縁のなかった理科系の勉強を集中的に学んだ。そしてつてを頼り、休暇をとっては請願陳情を繰り返した。そして、テストケースとしてようやく受験が認められ、見事入試に合格。もちろん、視覚障害者で初の入学者であったため、その後も難関が次々と待っていた。
  教科書の点訳に難儀したのは序の口で、彼女が途方に暮れたのは解剖学の授業であった。結局、先生に頼み込み、直接死体の内蔵に手を触れて、それこそ手探りで学ぶことになった。また、器具を使う物理療法の実習では、親切な学友に頼み込んで再実習を繰り返して勉強した。大学教員も親切な人ばかりではなかったので苦労は絶えなかったが、40歳を過ぎた彼女のひたむきな姿勢が、多くの人々を動かしたのだろう。
  彼女が、苦労しながらも物理療法学科を卒業できたのは、その前に、高校・大学を通じての試練が、ちょうどよい準備期間になったのかも知れない。当時、全盲で高校へ進む者はいなかったので、点字の教科書もなく、授業の準備をすることが毎日の闘いであったのだ。大学もむろん同様であった。
  かくして、彼女は1970年(昭和45年)の年末に大学を卒業し、42歳にして念願の物理療法士の資格を得たのであった。

新生活

 この時の彼女は幸運にも恵まれていた。学業のためにやむを得ず退職した公務員病院に、物理療法科が開設されることになったのだ。しかも彼女が物理療法士の資格を取った翌1971年(昭和46年)に開設される予定だった。ただ、採用される物理療法士は3人で、その3席の採用試験には、100人近くの志望者が殺到した。まさに狭き門であったが、試験の成績だけで採用が決められるという事実に、彼女は希望を見いだしていた。勉強には自信があったのだ。そして首席とはいかなかったが、彼女は次席で採用試験に合格した。
  物理療法士は日本の理学療法士と似たような職種らしいが、ちょっと違う点は、大勢の助手を従えて施術することだ。てる子さんを含めて物理療法士は3人だが、助手は40人近くいた。彼女は超音波療法の専門家として活躍したが、その他にも牽引療法やマッサージ、運動療法により、毎日20人程度の患者を受け持った。とにかく助手が大勢いたので、仕事上困ることは一切なく、まさに天職であった。
  ブラジルでは一般に大学の卒業式は12月に行われる。話はちょっとさかのぼるが、サンパウロ大学物理療法科の卒業を目前に控えて、てる子さんにはもう一つ嬉しいことがあった。全盲の鍼灸師馬場光一さんとの結婚がそれで、新婦41歳、新郎45歳であった。
  ご主人もパードレ・シッコ盲学校の同窓生だが、学年も違うためてる子さんと直接の接点はなかった。なにしろ寄宿生だけでも600人もいた大きな盲学校なのである。光一さんは学歴はないが、とても勉強熱心な人で、戦前、旧制中学の講義録を祖母に読んでもらって暗記して学んだという。彼は第2次世界大戦の最中にサンパウロで開業していた鍼灸マッサージ師の門をたたき、弟子入りして一家をなしていたのだ。
  結婚にいたるそもそものきっかけは、日本語の点字を教えてもらうために、光一さんの鍼灸治療院を訪れたことだという。
  てる子さんは先に述べたように、18歳までもっぱら日本語で生活してきた。戦後バストスは急激に開発され、近在の市や町からブラジル人が大量に移住してきた。しかし、戦前は、商店街の看板もほぼすべてが日本語で書かれており、住民もほとんどが日本人で、ブラジル人はといえば、そのような日本人の農園で下働きをしている者がわずかにいた程度であった。このため、日本語の日常会話にはまったく困らなかったが、点字であれ、日本語の文書は読んだことがなかったのだ。
  結婚した光一さんの夢は、1年だけでも鍼灸マッサージの研究のために日本に留学することであった。その契機になる出来事が1974年(昭和49年)に起きた。同年サンパウロで開催された世界盲人福祉協議会(WCWB・現在の世界盲人連合の前身の一つ)総会参加のために訪れた岩橋英行日本ライトハウス理事長に出会ったのだ。切々たる光一さんの願いに快く応じた岩橋氏は、帰国するとすぐに、当時の国立東京視力障害センターで1年間研修できるように手配した。
  こうして1975年(昭和50年)の4月から1年間の留学のために夫を送り出したてる子さんは、すぐに大いに後悔することになる。急にひとり暮らしになり、その寂しさに耐えられず忍び泣きする日々が訪れたのだ。そこで、寂しさを紛らわすために彼女が考えたことは、日本語で教育する夜間高校である「日語学校」に入って、日本語を勉強することであった。彼女はそれまでに、光一さんの手ほどきで、日本語点字を勉強し、その後も、個人教授を受けたり、日本文化協会で日本語を学んでいたが、それを本格的に極めようというのだ。
  ところが、この学校でもこれまでに視覚障害者を受け入れたことがなく、当初は聴講生という身分でやっと受け入れてもらったという。そして、第1回目の試験を、半ば強引に受けさせてもらった。そして、かなタイプで書いた答案の成績がよかったので、正規の学生にしてもらったという。この夜間高校へは、光一さんがブラジルに帰国した後も通学し、3年間で無事に卒業した。

その後の伯国東洋医学専門学校

 ブラジルは貧富の差が激しい国で、サンパウロもその例に漏れない。その中で、日系人は少数の金持ちはいるものの、その他は中流の暮らしである。馬場さん夫妻も共稼ぎということもあり、まずは中の上の生活ぶりであったようだ。結局、てる子さんは公務員病院にマッサージスタのキャリアも含めて30年間勤め、夫の遺産もあり、現在は悠々自適の年金生活である。この間、生活が落ち着くと週に1回、病院就業後の午後4時から8時半まで「いのちの電話」のボランティアも続けた。また、夫は仏教徒であったが、てる子さんは日曜毎に教会のミサに行くことを習慣にしている。
  1908年(明治41年)4月28日、第1回日本人移住者781人(この他に自由渡航者10人)を乗せた笠戸丸が神戸港を出航した。同船は約2カ月後の6月18日にブラジルのサントス港に入港。ここに日本人のブラジル移住が始まった。以来、現在では140万人を擁するとも言われる世界最大の日系社会を築き、日系人はブラジル国内でも高い評価を得るまでになった。その間、馬場てる子さんの半生に見られるような、多くの苦闘の歴史が、ブラジルだけでなく、南米のいたるところであったことはいうまでもない。
  サンパウロに東洋医学専門学校を設立した鬼木市次郎氏の両親はペルー移民で、目が悪かったため、同氏は日本にあずけられたのであった。その原体験があり、ブラジルに視覚障害者のための学校を設立したのであった。ペルーでなかったのは、治安の問題と背景となる日系人の人口があまりに違ったからである。
  同氏が校長を退かれた後の同校は、視覚障害学生の入学は次第に少なくなり、現在はほとんど途絶えているという。「寄宿舎を作らなければ、盲人は通えなくなると主人は事あるごとにいっていました。残念ながらそれが現実のものになったのです」と、てる子さんはため息をついた。
  同校は2年課程でこれまでに221人のマッサージ師を世に送り出してきたが、そのうちの87人は視覚障害者である。創立者の鬼木氏は2007年(平成19年)3月26日、療養先の福岡県柳川市で逝去、享年94であった。

加瀬三郎相談役の死を悼む

日本盲人会連合会長/笹川吉彦

 去る4月11日、加瀬三郎日盲連相談役が腎不全のため、81歳で亡くなりました。加瀬さんは、大正15年(1926)4月15日、東京・墨田生まれの下町育ちです。私が加瀬さんに初めて会ったのは、昭和35年(1960)に都盲協の会員となったときでした。当時、青年部長の彼は、いつも自分のことを「手前ども」といっておられ、昭和33年(1958)に九州から上京してきた私は、東京の人たちは標準語でどこか気取っていると思っていたので、その小気味よい下町言葉に圧倒されました。
  加瀬さんは小学6年生のときに眼病に罹り、以来ほとんど全盲でしたが、ものすごい行動力の持ち主で、どこへでも白杖一本で出かけました。そんな姿に感心するとともに、その行動力に触発されて、私は一人歩きをするようになりました。
  加瀬さんは、困った人がいれば、直ぐにその人の元へ駆けつけ面倒を見る人でした。その優しさは、戦争体験からにじみ出ていたのではないかと思います。なぜならば、彼は一夜にして10万人以上とも言われる犠牲者を出した昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の猛火の中を、奇跡的に生き延びた一人だからです。「周囲を火に囲まれて逃げ場が全くなく、無我夢中で逃げまどっていたところ、たまたま総武線のガード下にスペースがあって、そこへ飛び込むと、風向きが変わったらしく、火がそこで留まったため、命拾いした」と当時の様子を語ってくれました。
  私もそうですが、戦争体験者にとって、その悲惨さは生涯記憶から消えるものではなく、彼の平和への思いは人一倍強いものでした。後年、折り紙作家としてニューヨークの国連本部へも行き、華々しく活躍しますが、むしろ加瀬さんの生き甲斐は、途上国を訪問し、親を失った子供たちや障害児などに折り紙の楽しさを伝えることでした。リュックいっぱいに折り紙を背負って、渡航された国や地域は実に49にものぼります。
  何があっても動じない加瀬さんですが、アフリカの草原で仲間と野営し、寝込みを象に襲われたときは、さすがに度肝を抜かれたそうです。その原因は、彼が食べずに持っていた一本のバナナで、どうやら象は、その甘い匂いを嗅ぎつけてやってきたようなのです。興奮した象にテントは踏みつぶされ、命からがら逃げ出したのですが、その時の様子が、ユーモアたっぷりで、我々はその光景を思い浮かべながら爆笑したものでした。
  生涯独身で過ごされましたが人徳で、常に周りに誰かしら協力者がおりました。その一人は、報道写真家の田島栄次さんで、2人で「折り紙外交の会」を1977年に立ち上げて、ベトナム難民の子供たちに折り紙を教えたことが、折り紙大使としての活動の切っ掛けでした。ちなみに、同会の活動記録は『折り紙の詩 盲目の天才折り紙作家・加瀬三郎心の旅』(田島栄次著、集英社、1997年)で紹介されています。
  酒はからっきしだめでしたが、墨田で生まれ育ち、治療を通じて相撲部屋とつき合いがあったので、宴席でよく相撲甚句を朗々と歌い、呼び出し行司まで全部一人で演じて周囲を楽しませる芸達者でした。
  加瀬さんは昭和40年代から平成12年まで都盲協と日盲連の役員を、その後も両会の相談役として、また地元墨田区では視覚障害者福祉協会と墨田区障害者団体連合会の会長として亡くなるまで三療業や障害者福祉の向上に尽力されました。また、同区内には杉山検校を祭った江島杉山神社があり、財団法人杉山検校遺徳顕彰会の会長も長年なさっておられました。これらの功績で平成18年(2006)第2回村谷昌弘福祉賞を受賞されました。
  引退などとても考えられない元気な加瀬さんでしたが、2年ほど前に階段から落ちて大腿骨頚部骨折により、以来車椅子での生活でした。私たち親しい仲間は、彼が昨年10月1日に名誉都民の称号を受けたので、そのお祝いを11月に開きました。名誉都民は、学術、文化、芸術、スポーツなどの分野で多大な功績を残した都民を表するもので、折り紙作家としての加瀬三郎さんの活動が高く評価されたのです。なお、名誉都民には昭和28年(1953)以来昨年までに84名のみがその栄誉に預かっておりますが、視覚障害者としては加瀬さんが最初です。ご冥福をお祈り致します。

日盲連の新拠点晴れやかにオープン!

 日本盲人会連合(日盲連)の新たな拠点となる本部ビルディング・新「日本盲人福祉センター」の竣工式が、5月15日午前11時から同センターにて、神事・定礎除幕式・テープカット等のセレモニーを交えて厳かに催された。なお、同センターのお披露目は同日だけではなく16・19日にも行われ、都合約150名の関係者が集い盛大に祝った。

センターの概要

 昭和46年(1971)に建設された旧センターは老朽化と共に、事業の拡大により手狭になっており、新センターへの移転・新築は、日盲連笹川執行部の悲願となっていた。
  竣工式の5月15日は、前日までの雨がウソのような清々しい五月晴れで、挨拶にたった笹川吉彦日盲連会長は、「ここのところ天気が不順だったのですが、今日は素晴らしい天気に恵まれ、まさにセンターの将来を祝福しているようです。これから全国40万人の視覚障害者のセンターとして全力を挙げて福祉サービスに努めてまいります」と、満面の笑みと共に喜びを語った。
新宿区西早稲田2−18−2に新築なった同センターは、旧センターから北東方向に300mほど移動した位置にある。敷地面積は、旧センターの約2倍に相当する818.84㎡で、そこに建築面積474.78㎡、延べ床面積は旧センターの1.5倍に相当する1309.95㎡の鉄筋コンクリート造り地上3階建ての白亜の近代的なビル。
  北側には樹齢80年の鬱蒼とした立木に囲まれた、豪壮なインド大使官邸が隣接する、ここは閑静な住宅街である。今はまだ交通至便とはいえないが、一月もたたず東京メトロ副都心線が開業するので、そうなれば最寄駅の「西早稲田駅」までは約100m、徒歩約3分となる。そして、地下鉄に乗ると都心のターミナル駅である「池袋駅」までは約4分、「渋谷駅」までは約12分で行くことができる。

施設ガイド

 日本盲人福祉センターの1階は、駐車場を確保するため、2、3階より一段奥に引っ込んだ特異な構造になっている。このため点字ブロックに沿って道路に面した南側の玄関を入ると、二重の自動ドアがあり玄関ホールに出るが、ここはほぼ建物の中心となる。その右手(東側)は受付カウンターがある総務課で、反対側(西側)には点字案内板がある。そのまま少し進むと右手は用具購買所のカウンター。さらに、玄関ホールを進むと拡大読書器の展示スペースが行く手をふさぐ。そこで左折すると、すぐに南側から北に向かって廊下が延び、南側から階段、エレベータ、給湯室、男女トイレが並び、廊下をはさんで右側は用具購買所の事務所で、廊下の突き当たり(北側)は点字出版所だ。2、3階も含め、各部屋の出入り口は、すべて衝突防止のため軽くスライドする引き戸となっている。
  エレベータで2階に上がり、出て右折すると南側に団体事務局・情報部・日マ会が入る大きな事務室がある。そこから、北に向かって引き返すとすぐ右手に日盲委があり、ロビーホールがある。このホールの右手奥(東側)には、会長室と会計課が並んでいる。さらに北に進むと右側には3部屋に仕切って使うこともできる約100名収容の会議・研修室があり、廊下をはさんだ西側には男女トイレと車いす用トイレがあり、その奥(北側)には倉庫、女子更衣室、(コンピュータ)サーバ室がある。
  3階は、廊下の西側は1階と同様で男女トイレ、給湯室等があり、南側は点字図書館、北側は録音製作所。点字図書館には、点訳・音訳ボランティア室。録音製作所には編集事務室、ダビング室のほか、調整室がついた録音ブースが3室ある。そして、その奥(北側)は点字校正室である。
  屋上へは外階段で昇り、治外法権のインド大使官邸のある北側は、電気配電設備や空調機器がならび、そこは立ち入り禁止。大使官邸の樹木は、3階建ての屋上より高く緑の壁を作っている。南側の約120㎡には、周回用に点字ブロックも敷設され、歩行訓練もできるようになっている。
  同センターは、随所に最先端のテクノロジーを駆使しており、床構造は将来の模様替えにも即応できるOAフロアーだ。また、階段や廊下の照明は通常は薄暗いが、人の出入りがあるとセンサーが感知し、照明が明るく照らす省エネ型で、環境にも充分配慮した近代的設計となっていた。(編集部)

■ 編集ログブック ■

田中先生の放送文化賞受賞を祝う

 日本点字図書館田中徹二理事長が、第59回NHK放送文化賞を受賞されたので、そのお祝いの会が、4月28日(月)午後6時からホテルグランドヒル市ヶ谷において、参加者160人を集め、盛大に開催されました。
  NHK放送文化賞は、NHK開局25周年を記念して昭和24年(1949)に制定された放送文化の発展・放送事業の向上に功績があった人に贈られる賞で、正式名称は「日本放送協会放送文化賞」。第1回(昭和24年度)の受賞者は、徳川夢声、宮城道雄、山田耕筰というビッグネームで、視覚障害者(全盲)の受賞者は宮城以来58年ぶり。
  第2回目以降の受賞者も誰もが知る錚々たる顔ぶれで、聞いたことがない名前だなと思っていると、我々が無知なだけで人間国宝(重要無形文化財の保持者)であったりします。もっとも、この間、何人もの視覚障害演奏家が人間国宝になっているので、人間国宝になるよりも難しいのかと、その権威に驚嘆しました。 このことを知っているためか、「一番驚いているのは本人です」と、田中さんも笑顔で挨拶しておられました。
  今回の受賞は、田中さんが昭和39年(1964)4月にNHKラジオ第2放送で「盲人の時間」がスタートして以来、「視覚障害者のみなさんへ」と番組タイトルが変わっても一貫して、局外協力者として今にいたるまで尽力されたことが、高く評価されてのことでした。
  なお、『点字ジャーナル』についても、昭和45年(1970)6月号(発行は5月21日)の創刊以来、平成3年(1991)に日本点字図書館館長に就任されるまで絶大なご協力をいただきました。この場を借りて、お祝いと御礼を申し上げます。(編集部)

編集長より

 「盲人卓球北京を行く」、「加瀬相談役の死を悼む」、「日盲福祉センター竣工式」、そして「マッサージセミナー」と、今号は期せずして、ちょっとした日盲連特集号になりました。
  ブラジルには盲人協会がないので、進学や就職の機会を得るためにも「すべての問題は個人的に解決するしかなかった」と、「南十字星に願いを託して」で、その苦労を馬場・クララ・てる子さんは、しっかりした日本語で証言しておられます。もちろん、日本のような障害者年金なんて望むべくもなく、その苦闘は想像に絶するものがあります。しかし、それ故に、積極果敢に闘うしかなく、厳しく鍛えられたということも、あるのかも知れません。今月号の「知られざる偉人」は休載しますが、馬場さんもまた「知られざる偉人」のお1人ではなかったかと、つくづく思った次第でした。(福山博)

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