何を今さらというなかれ、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』では、「こうみょうりょう」とルビが振られ、なんと厚生労働省のモバイルサイトにおいて国立光明寮を説明するページのURL(http://mobile.mhlw.go.jp/info/shisetsu/komyoryo.html)も、ご覧の通り「こうみょうりょう」と読めるのだ(2008年4月15日現在)。「こうめいりょうと聞いていたけどなあ」とおっさんたちは言うが、それで若い校正者を説得できるものではない。そこで、所管の厚生労働省障害福祉課に問い合わせると、「人事院や財務省にもこうめいりょうと説明しており、各光明寮の所歌でもそう歌われております」とのこと。そしてくだんのURLは、「障害福祉課に問い合わせしないで、担当者が勝手に表記したに違いない」とのことであった。今月号の「『理療教育部』の存続を訴える」に紹介されたための一騒動であった。
去る2月上旬、「国リハ組織等の見直し(案)」(組織改革案)なるものを、ふとしたきっかけで入手した。これまでも障害者自立支援法(支援法)実施に伴う機構改革があるという話は聞いていたが、それは国リハ(国立身体障害者リハビリテーションセンター)の呼称から「身体」の2文字が削除され、これまでの視覚障害・肢体不自由・聴覚言語障害に、精神と知的障害が加わるものだとばかり思っていた。ところが、なぜか「理療教育部」や「理療指導室」が組織名として削除され、「理療」の文字がどこにも無いのである。そして、高次脳機能障害や発達障害にまで、業務対象を拡大しようとしている。それだけではない。介護保険のグループホームやケアハウスを設置する内部改装さえ計画されているようなのだ。むろん、あはき師養成は現状のまま継続されるというのだが、近い将来、視覚障害者対象のあはき師養成は、うっかりするとはじき飛ばされかねず不気味である。そこで、なんとも無神経で、乱暴極まりないこの改革を座視することは到底出来ないと考え、各方面の理解と支援を求めるために、この一文を書くことにした。
国リハは1979年に国家的プロジェクトとして、埼玉県所沢市の米軍飛行場跡地に、東京都内にあった3つの障害者施設を統合し、移転・設置された。その一つで、それまで杉並区にあった東京視力障害センターは、終戦後の戦争失明者を念頭において中途失明者にあはき師免許を取得させる目的で1948年に国立光明寮としてスタート。移転の前には、すでに福岡・神戸・塩原・函館にも、それぞれの地名を冠した視力障害センターが開設されていた。いわゆる「国立5センター」である。
戦後日本の復興期にあって、盲学校には年齢制限があり入学できなかった中途失明者が、全寮制の専門学校であるこれらのセンターに、あはき業に生きる光明を見出して多数参集してきた。その意味において東京視力障害センターをはじめとする5センターは、重要な役割を果たしており、数万人におよぶであろうあはき師を世に輩出してきたその功績は、決して小さくは無い。
東京視力障害センターが国リハに移転するに至った経緯は、今日の支援法に基づく国リハ改革とはいくつかの点で大きく趣を異にする。まず移転の直前まで、同じあはき師を養成する機関でありながら、盲学校との遊離が指摘されてはいたが、まだ、厚生省と文部省による免許取得のための教育体制に大きな問題は無いように思われていた。しかし、国リハに東京視力障害センターが移転する時になって、改めてこの点が持ち出された。初代の国リハ理療教育部長であった三平勇(みひら・いさむ)先生は、その辺の事情を次のように回顧している。
「国に対して、この際だから、盲学校との整合性を図るためにも、理療教育部としてあはき師養成をするよう主張した。しかし、なかなか理解してもらえず様々な角度から話し合いをした結果、ようやく理療教育部が設置されたのである。もし、そうでもしなければ、国リハ全体の規模からして、その一割にも満たない視覚障害あはき師養成が他の部署に埋没してしまったに違いない」。
こうして明確な位置づけをすることにより、呼称も定まり、それによって肢体不自由者や聴覚言語障害者に行うリハビリテーションとは、明らかな位置づけ上の違いが出来たのである。さらにいえば、他の4センターとの一体性も「理療教育部」とすることによって、かろうじて保たれたのである。むろん、こうして盲学校理療科との整合性が図られたことは言うまでもない。
さて、冒頭に触れた国リハ改革だが、支援法の指定施設として大幅な組織改革を行うことは、国リハにしてみれば設置当初に次ぐ、第2次の国家的プロジェクトといえるかもしれない。しかし、ことはそうたやすく机上の計画どおり運ばないだろう。29年前に東京都から3障害施設が移転してきたのだが、この際のいわば第1次プロジェクトの手法がまったく活かされていないのだから。
肢体不自由者や聴覚言語障害者にあっては在所期間が短く、目指す自立の手段が共通ではなかったのに対し、視覚障害者の場合は3年または5年を費やして、あはきという免許資格を共通して目指すという状況があった。この違いを行政当局はことを進めるにあたり十分に留意する必要があるだろう。さらにいえば、視覚障害者の場合は、ほとんどが社会人としての見識を積んできた者ばかりであるから、特にその意思も十分に尊重されなければならない。
国を挙げてイベントを繰りひろげることになる1981年の国際障害者年を間近に控えて、当時の厚生省が総力を挙げての事業として旗揚げした背景もあって、東京視力障害センターの移転計画は早くから当事者に「相談」という形で告知された。それを受けて入所者自治会は、国と粘り強い話し合いを開始し、国も誠実にこれに対応した。所沢への移転で最大の問題となったのは、あはき師にとって最も重要な臨床実習患者の確保であった。当局はその不安を解消するため、一定期間、杉並の臨床実習室を存続させ、国リハのバスで送迎してでも、臨床実習を続けられるようにすると約束。他の不安な点も含めて、国と自治会の間で「合意書」が取り交わされた結果、移転が実現したのである。
今回の国リハ改革がこうした事情を知らない担当者によって進められたことは、極めて遺憾であり、その独善的なやり方に、私達は怒りを抑えきれないでいることを、ここに明らかにしておきたい。
国リハは今年10月から支援法指定施設として、大幅な改革を実施するための組織改革案を今年1月にまとめた。名称から「身体」の2文字を削除し、あらゆる障害者を対象にした施設へと衣替えをする。その一環として「理療教育部」も「就労支援部」に吸収され、国リハの組織から「理療」の2文字が消えることは前述したとおりである。
国リハの現在の組織機能は大きく5つに分かれている。障害者に関わる更生訓練所の他に、病院・研究所・学院、そして管理部である。視覚障害者や聴覚言語障害者や肢体不自由者はこの更生訓練所の管轄下にある。そして、訓練所は現在指導部・職能部および理療教育部の3部になっているが、組織改革案ではこれをがらりと変えて、総合相談支援部・自立訓練部および就労支援部の3部制になっている。理療教育部はこの就労支援部に吸収され、理療教官とあはき師養成課程入所者は「教務統括官」の下におかれることになる。これも実にわかりにくい組織改革だが、「就労支援部」では先に述べたあらゆる障害者の就労を支援することになるとみられる。それは従来と異なり、障害種別を示したり理療のように養成内容を示す部署名が消えたからである。ただ、「自動車訓練室」だけがそのままで存続するのはどうにも理解しがたい。すでに運転免許を取得した人が何らかの事情で障害者になった時、ハンディを補完する機能を備えた車で再び運転業務が出来るように訓練するのがこの部署であるが、なぜ、この部分だけを特化して存続させたのか疑問なのだ。
「教務統括官」という役職名を冠した部署は実は3年前からあったが、5センターの理療教育課長の中で国リハの場合だけ呼称を変更しただけと早とちりをしていた。というのも、他の4センターの課長よりも国リハでは格が上になるのだと理解させるような説明がされていたからだ。このため支援費制度のどさくさの中で、いつの間にか理療教官にケースワーカー業務までやらせていたことと考え合わせると、今回の国リハ改革は、実に遠大な構想の下で進行しているのだと見る向きもある。それは国リハという一つの限られた器の中に、新たな他障害を受け入れるために、既存の障害者サービスを格下げ、または縮小をせざるを得ない事情が背景にあるからだ。今回改革の姑息な手法に、それを窺い知ることが出来るので、これは決してうがった見方ではないだろう。
例えば、「教務統括官」がそれで、この呼称をみて一体誰があはき師養成部門だと思うだろうか。当局は私達に対し、あはき師養成はこれまで通りしっかりやると言葉を重ねているが、もし、それが真実なら、なぜ「理療統括官」とできないのか? いかようにも理解できる看板を掲げるのは、この部署にあはき師養成以外の他の障害者に対する訓練も担わせようとしているからではないのか? そして、この改革を「安易である」と私達が批判するのは、例えば筑波大学附属視覚特別支援学校のように、「鍼灸手技療法科」というような名称を参考にすることさえしていないからである。そして「名は体を表す」という極めて一般的な社会常識にも思いを致していないのである。
国リハが、あらゆる障害者に手を差し伸べる施設になることについては、もとより反対するものではないが、既存の規模と陣容でそれを実施しようとすることには危惧を抱かざるを得ない。そうなれば、どこかが割を食うことになるのは理の当然だからだ。国リハにとって、いわば第2次の国家的プロジェクトとして、今回の改革が行われようとしている時、もっとも弱いとみられる部分をターゲットにした改革を危惧しているのである。中途失明者が減少傾向にある現実に着目して、こうした改革が進められるとしたら、当事者である私達は決して黙っておられない。支援法が俎上に上った時、理念の説明と共に、「従来のサービスを低下させるものではない」と言われた。しかしそれを方便と断定しても弁解の余地のない事実がここにある。「例え看板は書き換えてもこれまで通り理療教育は続ける」との説明に終始しているが、国リハに約30名の教官と、約100名のあはき師養成対象の視覚障害者がいるという事実を考えれば、今更そんな説明をすること自体に、何か隠していることがあるのではないかと疑念を持つ。
国リハの同窓会である「東光会」と国リハあはきの会が連名で、平成20年3月12日付で、舛添要一厚労大臣に提出した「国リハ理療教育部の存続と充実に関する要望書」の要旨は、詰まるところ、国家資格であるあはき師の養成は、他の障害者に対する技能訓練とは本質的に異なるので、文科省の盲学校との整合性を図るためにも「理療教育部」を独立の部署として今後も国リハに設置すること。そして、臨床実技等を含めた理療教育の一層の充実を要望するということである。そこで、私たちは、「理療教育部」の名称を過去の経緯から見ても、当然存続させるべきと考えて、今積極的に関係方面に働きかけているのだ。
最初に述べたように、私達は去る2月上旬に国リハの組織改革案を入手したのだが、その内容は、まったく寝耳に水という他はなかった。そればかりか、理療教育に限っては実に乱暴かつ無神経な組織改革案であると評価せざるを得なかった。
そこで、2月20日に、これに対する反対声明を取りまとめて、厚生労働省に出向いて国リハ当局者と国の担当責任者に手渡した。その際、彼らは「先ず皆さんに謝罪しなければならない」と明言した。しかし、なぜ謝罪するのかについては聞かなかった。釈明を聞いただけでは「こんなことになって申し訳ない」という意味なのか、それとも事前に相談しなかったことを指しているのかも聞かなかった。なぜなら、今となっては「理療教育部を従前どおり存続させる」ことだけが重要であり、例えば支援法を下にした事情説明はあまりにも複雑で私達の理解できるところではないからだ。
その後、3月12日には国リハあはきの会の役員など24人で国リハに出かけ、ともかく「存続」を要望した。むろん、納得できる回答は得られなかったが、参加者はその後国リハの説明で生じた様々な疑問を「質問書」として、3月19日付で国リハに提出し、国と相談の上、可及的速やかに文書で回答するよう求めた。
3月末になって回答が届いたが、「ほとんどいいわけにすぎない」と日盲連の笹川会長が断じる程度の内容でしかなかった。特に、「理療教育部を現状のまま存続させると支援法実施上にどんな支障があるのか」との質問には、次のようにピントはずれの回答を得た。
「なお、名称を変更しなかった場合に支援法上の問題が生ずるかどうかのお尋ねについては、法的には問題が生ずることはないと考えています。しかしながら、実際の話として、国リハのPR(パンフレット等)や利用者募集等を行う場合は、自立支援法上のサービス体系(就労移行支援、自立訓練等)ごとに事業内容を紹介し、利用対象者を限定して行っており、利用希望者等からみれば、行う業務と組織名称が乖離することは、不自然に感じるのではないかと考えます」。
そして、笹川会長はこの問題で次のようなコメントをしておられる。
「ことは国リハだけの問題ではなく日本の視覚障害者全体にかかわる問題であり、私としても理療教育部という名称を残すために動いていきたい」。そして実際に3月22日の日盲連全国理事会に国の担当者を呼んで事情説明をさせている。その他、関係機関に私達も働きかけているが、この原稿をまとめる時点では将来の見通しがどうなるかについて、全く予測がつかないのが正直なところである。
よく考えてみると、支援法自体が乱暴な法律に思える。施策の一元化のスローガンの下に、声の小さい部分を切り捨てたり、蹴散らしたりしてでも、法自体の目的を達成しようとしている感すら漂う。視覚障害者に対するあはき師養成を念頭においていなかったのではないかと言う人もいるくらいで、私もその意見に首肯せざるを得ない。
例えば、「就労支援の資格取得型」と国リハを位置づけたのは、専門学校として、所定のコースを修了後、国家試験を受けて合格すると専門士の称号を付与される理療教育部の卒業生と、その他の様々な資格を同列において位置づけざるを得なかったことに、その点が垣間見える。さらにいえば盲学校理療科との整合性を検討した形跡さえもない。ましてや、国立5センターと盲学校の間に生じているあはき師養成における格差の是正には、全く何の配慮もされていない。この問題は、単に文教予算と福祉予算の違いとだけ、説明することではすまされない、本質的な問題である。
今日、盲学校の特別支援教育のあり方も視野に入れて、あはき師養成のグランドデザインが必要な事態に立ち至っていると痛感する。
国リハ改革の問題を契機に、2つの省で同一の国家資格者養成をしていることの是非が改めて問い直されなければならない。あはきが、今日においても視覚障害者のもっとも有効な生業だからである。
本誌3月号にて先にお知らせしました、日本と韓国の障害者と障害のないアーティストが共に音楽を通して交流するチャリティコンサート「ビューティフル・フレンズ・コンサート」が、4月9日の夜、東京都千代田区の紀尾井ホールで開かれました。
このコンサートは、韓国の国際文化交流団体であるビューティフル・マインド・チャリティ(以下、BMC)が企画し、韓国の大手製鉄会社ポスコが新日鉄の協力を得て開催したものです。このようなコンサートを、BMCはこれまでも米国、韓国、香港、ベトナムで開催してきており、2008年が日韓両国政府が定めた「日韓観光交流年」であることから、両国の文化交流促進の一環として、今回、特に東京で開催したものです。
当協会には昨年の秋、BMCより、東京でコンサートを開きたいので若手視覚障害音楽家を紹介して欲しいとの依頼がありました。そこで、1995年7歳で全日本盲学生音楽コンクール器楽部門ピアノの部で第1位となり、その後2005年にはワルシャワで行われた第15回ショパン国際ピアノコンクールにて 「批評家賞」を受賞した辻井伸行さんを紹介しました。
その後、コンサートが具体化する中で、当日会場にて集められた寄付金が当協会にも贈られることになり、実際にコンサート終了後、ホール2階のホワイエ(ロビー)で贈呈式があり、多額のご寄付をいただきました。
コンサートは女優でタレントのユン・ソナさんの美しく伸びやかな日本語の司会で、私的なエピソードも含めて和やかに進められ、韓国伝統の琴「カヤグム」のアンサンブルによる、伝統音楽と「冬のソナタ」のサウンドトラック「マイ・メモリー」の演奏により開幕。次は、いきなり第1部のクライマックスとなる辻井伸行さんによる、ラヴェル「水の戯れ」とショパン「英雄ポロネーズ」のダイナミックな演奏。演奏後のユン・ソナさんによるインタビューでは、「東京ヘレン・ケラー協会主催の音楽コンクールで1位になり、目は見えなくてもピアノはやれるのだと自信を持つことができました。それが音楽家の道を志す良い契機となりました」と明るく話し、「僕はこれまでアメリカ、ロシア、チェコ、ポーランド、台湾などで演奏してきましたが、韓国ではまだありません。今後、韓国でも演奏したいと思っています」と述べ、大きな拍手に包まれました。
その後、韓国出身でニューヨークに移住して活躍する女性ヴァイオリニストのチーユンさんによるサラサーテ「チゴイネルワイゼン」などの演奏があり、第1部が終了。
20分の休憩をはさんで第2部は、18人の団員のうち10人が視覚障害者のオーケストラ「ハートハート・チェンバー・オーケストラ」による、ブラームス「ハンガリー舞曲第5番」などの合奏。同オーケストラは指揮者がおらず、譜面もありませんが、息のぴったりあった演奏を披露しました。続いて、ソプラノのキム・インヘさん、テノールの樋口達哉さんによる独唱と、ヴェルディ「乾杯の歌」(オペラ「椿姫」より)が、デュエットで歌われました。
コンサートのトリを務めたのは、先天性四肢奇形のため両手の指がそれぞれ2本しかなく、しかも膝下の足もないため身長1mで、「四本指のピアニスト」として有名なイ・ヒアさんによる「アリラン」、ショパン「幻想即興曲」、「赤とんぼ」の熱演。その障害をやや過剰に演出する傾向も見られましたが、彼女はそれを気に留めず、明るく元気に演奏し、「ヘレン・ケラー様を尊敬し、小さい頃から心の支え、目標にしています」と舞台で語ってくれました。
BMCの都合で、当初予定されていた当協会への招待券が、40枚から23枚に減らされ、関係者が青ざめる場面もありました。しかし、そのうちの22枚が『点字ジャーナル』に割り当てられたため、なんとか8名の視覚障害者を付き添いとのペアで、3名の視覚障害者を単独で招待することができ、それに編集部から3名がアテンダントにつき、混乱は協会内で収めることができました。
そんなハプニングが舞台裏ではありましたが、招待客は「とても感動しました。障害を乗り越えたすばらしい演奏を聴くことができ、やはり音楽に国境はありませんね」と目を潤ませながら異口同音に語っていました。これは、出演者も同様だったようで、司会者のユン・ソナさんは、「この話をいただいたときに、ぜひとも出演したいと思いました。そして、実際にとても感動しました。現在、妊娠4カ月で、子どもと一緒に聞けてとても嬉しかったです」と述べて万雷の拍手を浴びました。(編集部)
米大手金融サービス機関プルデンシャルグループの日本法人であるプルデンシャル生命保険(株)と、ジブラルタ生命保険(株)の本社は、ともに東京・赤坂見附にある地上38階・地下3階の超高層ビル「プルデンシャル・タワー」内にある。ここは都立の名門・日比谷高校と、徳川家康が江戸城の鎮守とした山王日枝神社に隣接しており、国会議事堂や首相官邸もほど近い都心の超一等地だ。
3月19日、同タワーの敷地内にある坂口陽史(きよふみ)メモリアルガーデン内に、視覚障害者もひとりで香りと手触りを楽しめる新たなコンセプトで造園された「タッチ・アンド・スメル・ガーデン」がオープン。同日午前10時半より同ガーデンで、両社の役職員に加え、日本盲人会連合、日本点字図書館、全国盲ろう者協会、アイ・メイト協会等からの来賓を含めた150余人が集い、華やかにオープニングセレモニーが挙行された。
まず、プルデンシャル・インターナショナル・インシュアランスのティモシー・E・ファイギー共同社長が、「ワイフと末の息子がボランティアをしている関係で、インドのMSスワミナタン研究財団が提唱する視覚障害者も触覚と嗅覚で自然の喜びを体験できる庭園『タッチ・アンド・スメル・ガーデン』というコンセプトを知りました」と、社会貢献の一環として同ガーデンを造園するまでの経緯を説明。その上で、「庭園に関する案内板には、日本語・英語・点字のラミネート加工されたシールが貼られており、初めて訪れる視覚障害者の方にも利用しやすいように工夫されています。試験的にスタートするこのガーデンは、今後、多くの障害者に喜んでいただくために利用者の声を反映しながら、少しずつ改良を加え、完成させていきます」と挨拶した。
次いで、同ガーデン開発にあたってアドバイスを求められた全国盲ろう者協会塩谷治事務局長が来賓挨拶に立ち、長く盲学校の教員をしていた経験を元にしながら、国木田独歩を引き合いに出して格調高く、視覚障害者が1人で楽しめるガーデンの意義を強調。「今後も障害当事者の意見を広く聞いて欲しい」と注文して、挨拶を締めくくった。
最後に両社の首脳3人に加え、日本盲人会連合笹川吉彦会長がテープカットを行い、同ガーデンのオープンを祝った。
「メモリアルガーデン」に名を残した坂口陽史氏は、終戦直前に熊本県の天草で生まれ、長崎県の佐世保で育ち、高校卒業と同時に片道切符で渡米。苦学しながら大学・大学院と進み、米国のアクチュアリー資格(注)を日本人ではじめて取得し、いくつかの生命保険会社で働いた後、独立してコンサルタントを行いキャリアを確立。その後、米国プルデンシャルにスカウトされ、日本法人のプルデンシャル生命保険を創設し、2002年に58歳で逝去した立志伝中の人物である。
同ガーデンは同氏をしのんで2004年に造られ、本社ビルの敷地内にある総面積約3422㎡の庭園には、約64種類の樹木と花が植えられ、周りにはウッド・ベンチが設置され、憩いのオアシスとなっている。
今回、完成した「タッチ・アンド・スメル・ガーデン」には、「高さのある花壇」という意味の「レイズドベッド」と呼ばれる花壇に、パイナップルミント、フレンチラベンダー、ローズマリー、ローマンカモマイルなどの11種類のハーブが植えられ、視覚障害者がかがみ込まずに気軽に植物に触れ、手にとって香りや手触りを体験できるように工夫されている。
交通アクセスは地下鉄銀座線・丸ノ内線「赤坂見附駅」より徒歩1分で、プルデンシャルタワーに到着。タッチ・アンド・スメルガーデンは、同タワーの裏側にあり、1階がレストランでその屋上にあたる「イーストテラス」がそのまま庭園となっている。そこへは、長い上り坂、階段のほか、エレベータも利用できる。ただし、同ガーデンには24時間自由に立ち入ることができるが、エレベータは深夜0時から午前7時半までは使うことができない。(福山博)
(注)アクチュアリーとは、生命保険会社や損害保険会社で、保険料の算定や年金の掛け金の算定業務を行なう人のこと。具体的には、保険に関わるリスクや収益性を検証し、死亡率や損害率、金利状況等の条件を使って、保険料などを算出し、その収益性を検証するのが主な仕事。
今月号から田畑美智子さんと王崢さんの連載が始まりました。お2人ともアキレス・トラック・クラブの走友で、奇しくも今月号の「偉人」であるパターソン氏は、同クラブの役員という因縁であります。日中才媛の玉稿にご期待ください。
4月9日の日韓コンサートの舞台裏は、てんやわんやの大騒ぎ。というのも韓国人は自分の感情に素直で、人の考えにも大いに干渉する一方、上司や目上には絶対服従。このため準備は、現場を掌握していないソウルのいうがままの朝令暮改。しかも担当者が、おおざっぱでいい加減な韓国人気質、「ケンチャナヨ精神」を大いに発揮するので、久しぶりに見事に振り回されました。ちなみにケンチャナヨとは「大丈夫、問題ない」という意味。
ネパールの今回の選挙結果には愕然としました。暫定政権に参加したとはいえ、マオイストはついこの間までゲリラ戦を展開していたツワモノで、彼らの人民解放軍はまだ温存されています。王様か、マオイストかの二者択一だったのでしょうが? この間まで怖がっていたマオイストに、やすやすと政権を委ねるその気持ちがわかりません。ケンチャナヨならぬ、「ノー・プロブレム(問題ない)」が口癖のお国柄とはゆえです。(福山)
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