THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2008年4月号

第39巻4号(通巻第455号)
編集人:福山 博、発行人:迫 修一
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替口座:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「杉(Japanese cedar)」

 今年もまた「杉花粉症」の季節が来た。その最大の原因となるのは、いわずと知れた杉の花粉である。ところでこの「杉」、学名を「クリプトメリア・ジャポニカ」、英語では「ジャパニーズ・シーダー」と呼ぶように日本特産の代表的な樹種で、青森から南は屋久島まで生育し、人工植栽は北海道南部にまでおよぶ。このため、沖縄や北海道では、ほとんど杉花粉症は発症しないので、最近は目ざとい旅行会社が、花粉が最も多く飛散する春先に、スギの木の生息しない北海道と沖縄エリアに避難(疎開)して、森林浴や温泉を楽しむ「花粉症疎開ツアー」を企画している。
  常用漢字の「杉」は、日本ではスギのことを指すが、中国ではコウヨウザン(広葉杉)のことを指し、中国では日本の杉の仲間をリュウザン(柳杉)と呼ぶ。木偏に日を重ねた「椙」という漢字は、わが国で作られた国字である。

目次

来る50年(ネクスト50)の「盲教育」のために
  退職をひかえた皆川先生に聞く
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
社会起業家の挑戦 オフィスマッサージで
  障害者の職業自立をめざす田辺大さん
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19
リレーエッセイ:ボランティアされるアホウにするアホウ、
  同じアホなら ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
30
APDFダッカ総会 未来への新たな一歩(田畑美智子) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
34
第2回就労支援講座 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
37
コラムBB(最終回):同窓会シンドローム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
38
感染症研究:新興感染症の起源がなぜ動物由来なのか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
41
知られざる偉人:タイ王国上院議員に選ばれたM.ブンタン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
46
新コラム・三点セット ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
50
大相撲:近代大関列伝その5 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
53
ブレーメン(最終回):ベルント・ラーストへのレクイエム(鎮魂歌) ・・・・・・・・・・・・・・
56
時代の風:幼少期のヘレン・ケラーの写真を発見、鳥インフルエンザの万能
  ワクチン開発、プール後に目を洗うべからず、ニセ硬貨を音で探す、他 ・・・・・・
59
伝言板:ガイドDVD操作講習会、日本ライトハウスチャリティコンサート、
  ひとり演劇コンクール参加者募集、オンキヨー点字作文コンクール ・・・・・・・・・
62
編集ログブック ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
64

来る50年(ネクスト50)の「盲教育」のために
―― 退職をひかえた皆川先生に聞く ――

 《この3月末で、皆川春雄筑波大附属視覚特別支援学校(附属盲)校長・筑波大教授(63歳)が、定年退職される。先生が委員長の筑波大附属特別支援学校構想検討委員会は、去る12月、『支援を必要とする子どもたちのために ―― 特別支援教育筑波モデル(Next 50) ―― 筑波大学附属特別支援学校新生プラン』(以下、「ネクスト50」)の最終報告書を発行した。そこで、本誌では、定年にあたっての感慨と共に、「ネクスト50」発行の背景と、とりわけその最終報告書の意義、そして視覚障害児教育の今後について、筑波大東京キャンパスの皆川研究室を訪れてインタビューした。取材と構成は、本誌編集長福山博》

  本誌:昨年の12月に出された「ネクスト50」の最終報告書を中心にお話をお聞きしたいと思っております。その前に、『視覚障害教育ブックレット』(以下、「ブックレット」)が創刊されたとき、先生に「発刊に際して」と題して本誌(2006年6月号・通巻433号)に書いていただきました。その「ブックレット」の編集後記に、先生が盲学校教員として採用された初年度、大学に進学した女の子に「先生の授業はおもしろいのだけど、資料も多いし話す言葉も早いしで半分くらいしかわからないよ」と言われ、ショックでその晩一睡もできなかったと書いてありました(笑い)。それから36年たったわけですが、その当時はこのような盲教育の大改革が起こるなんて考えもしなかったのではないですか?
  皆川:定年にあたってこのような場を与えていただき、ありがとうございます。これは私が教師になった年の7月頃のことで、今でもはっきりと覚えております。というのも私にとって視覚障害を持ったやる気のある子たちへの対応やこの教育に関して、根本的な課題を突きつけられ、その後の教師生活を決定づける事件だったからです。その日、一晩寝られなかったのは、最初は恥ずかしいという思いだけでした。しかし、落ち着いてくると自分が勝手に想像し、一生懸命考えたことが、何も視覚障害教育の本質に迫っていなかったんだと思えてきました。その頃は大量の教材を持ってしかも相当の早口で世界史の授業を行っていました。しかし、視覚障害教育の核心の1つ目は「その単元の本質に位置する内容を、時間をかけて丁寧に説明すること」、2つ目は、「新しい教材を次々に教えることではなく、教材の数を1つあるいは2つに厳選して内容を十分に理解させること」、3つ目が50分の授業の中で「何を、どう学ぶかという見通しを生徒に与えること」です。私は自分だけが授業計画をもっていて、これを生徒と共有していませんでした。そして次から次に教科書を元にしゃべりまくっていました。色々脱線するので、何について話しているのか、生徒にはよくわからなかったのです。しゃべる熱心さとか、脇道の面白さとかには感じるところがあったかも知れませんが、話の内容はわかりにくかった。これを契機に反省して、教師生活の中では、節目ごとにこのときの経験を思い出しておりました。
  本誌:先生最後の大仕事となったこの最終報告書ですが、まず、この冊子はなぜ出ることになったのですか?
  皆川:特別支援教育が、平成19年度から始まりました。それに向かって、日本の障害児教育の中で、筑波大ができることを発信するためです。この前に、中間まとめ、第1次報告を出して、この最終まとめで3冊目です。2年にわたって検討してきたのですが、基本には次の3つがあります。1つ目は、障害の重い生徒に何ができるか? 筑波大は世界で唯一、すべての障害に対応する附属学校(5校)を持っており、ご存じのように多くの教育者や研究者を輩出してきました。そういう人材と施設を動員すれば、障害の重い子に対しても何かできるはずです。2つ目は重複障害児教育とはいっても、それは一つ一つの障害に対応する専門性があるだけで、「目が見えなくて知的障害がある」というような重複障害に対する専門性があるわけではありません。このためそれぞれの障害の専門性をさらに確立します。3つ目は附属5校を抱える筑波大のセンター機能は何か?で、これは地域の公立学校が必要としていることに応えるセンター機能を持つということです。以上の3つの目標から今後の50年を見据えて、附属障害5校をあらためて考え直し、3目標に向かって発信できるものを作ろうとしたのがこの報告書です。結果的に視覚・聴覚・肢体の学校はそのまま継続し、知的に障害のある子どもに関しては、「統合キャンパス」としてまとめ、そこに研究者や学生たちも含めて投入します。そして、教科教育を中心とした3校とくくりつけて、大学の研究者や現場の教師の融合を図るのです。
  本誌:附属盲の小学部は、現在10学級ありますね。学年別に6学級あって、それに加えて弱視学級が2、特別学級が2クラスあります。ところで、この特別学級について編集部の附属盲OBたちに聞いたのですが、誰も知りませんでした(笑い)。
  皆川:知的障害のある視覚障害児を受け入れて実践的、実験的、先進的な教育を行ってその成果を全国、あるいは全世界に発信するという役割を持った学級です。もう、10数年前からあります。
  本誌:これが、統合キャンパスに移行するのですね。
  皆川:そうです。それに加えて幼稚部にも重複障害児がおりますので、そこも移行します。しかし、だからといって附属盲は今後一切関係ないではなくて、ある年次、ある学期などに限って、受け入れて交流することはあります。それによって社会性を高め、ダイナミックな学級編成を行うことができるのです。
  本誌:この最終報告書を読むと、視覚障害単独の子どもたちにアカデミックな教育を絶対に保障するのだという強い意志を感じ、とても心強く感じました。
  皆川:しかし、逆に他の研究者からは、それが50年後の視覚・聴覚・肢体単独障害のあり方なのか?と問われることがあります。われわれは教科教育をちゃんとやれる生徒を育てるためには、1人ではだめで、どうしても同級生という仲間が必要である。それができるのは附属の各特別支援校であると思い定めたのです。これが筑波大が、文科省や数多い知的障害研究者や学校に対するメッセージの1つなのです。これだけは絶対に譲れないと考えてのことです。
  本誌:全国の盲学校を平均すると重複が46.5%、その内の70.5%が知的障害を併せ持つ生徒です。そこで、地方の盲学校の小学部や中学部はすでに崩壊状態です。つい先頃、鳥取盲学校が教員免許を持たない実習助手に教科を担任させていたということで問題になりましたので、同校のホームページをのぞいて見ました。すると中学部は0人で、小学部は1年0、2年1、3年1、4年0、5年1、6年4の合計7人で、その内の3人は重複障害児でした。これではどんなに優秀な先生方ががんばっても、きちんとした教育は無理です。しかし、最近は首都圏の盲学校もかなり危うくなってきているようで、これはある新人の盲学校教師から最近聞いたのですが。大学で盲学校に赴任したら、ああやろう、こうやろうと夢をふくらませていた。ところが実際には赴任と同時に、夢は一瞬にして吹き飛び、現実は重複障害児をどうするのかというのが、唯一最大の課題になったというのです。そういう意味では、附属盲が最後の砦という気がします。また地方ではインクルーシブ教育というのでしょうか。いわゆる「統合教育」を行わないと優秀な人材は育たないようにも思います。附属盲は全国の盲学校のセンター的な機能も併せ持つわけですから、これは歴史的にもそうだと思います。先生は附属盲の前に八王子盲、その前に文京盲の校長を歴任されています。そこで、公立盲学校との関係はどうなるのかお聞かせ下さい。
  皆川:私は、今福山さんがおっしゃった意味よりもわが校の存在意義を、もっと大きくとらえたい。ある部分に関しては、世界の視覚障害教育のセンターの1つとしての役割があると思っております。これは鳥山先生(鳥山由子筑波大特任教授)等のおかげで、例えばこの3月末から4月初旬にかけて、タイのバンコクでアジア地域の視覚障害教育の研究会に依頼されて、本校の全盲の数学教諭である高村明良先生、理科の浜田志津子先生そして鳥山先生の3人でワークショップをやります。そうした役割、つまり視覚障害児の教科教育をきちんと教えられる力を持った先生を育てることやその方法論等の発信ということに関しては、世界の中で本校が1つの役割を持っており、そのことに関してためらう必要はないと考えています。世界の現状は、インクルーシブ教育に向かっていますが、それはいわば権利と人権の広がりと共に中心的な願いとしてあります。ですが、障害を持つ子どもたちの教育というのは、とくに開発途上国では普及しておらず、「エデュケーション・フォー・オール(教育をすべての人に)」というスローガンが叫ばれています。しかし、その「すべての人に」とは、障害者ばかりでなく、貧しくて教育を受けられない人も含まれるわけです。それから先進国では、外国から流入してくる人たちの言語教育も含まれます。そして同時に障害を持つ子どもたちの教育もというふうに、実態はごちゃ混ぜです。このため途上国では、障害を持つ子どもたちのための教育がきちんと行われていません。また、先進国の中でもインクルーシブ教育を行う中で、視覚障害教育の教科教育がどんどんレベルダウンしている実態もあります。そこに教科教育をきちんとやり続けている本校の立場があります。世界に対してと同じように、本校以外の68校の公立盲学校、あるいは地域にある普通校に少しずつ視覚障害児が通学しているのですが、その子どもたちの教育を支援するためのセンターとしての役割も昔よりは格段に大きくなってきています。さっき言われたように、子どもたちがいなくては、教科教育の力をふるいたくても、ふるいようがありません。そういう意味では、一定の子どもたちの集団が確保できている本校が、全国に向かって教科教育に関しても、視覚障害教育に関する課題に関しても発信していく、あるいは研修の場を提供していく、そういう役割があるのです。本校には、私が校長として赴任してから先生方と散々議論して、最初に福山さんからご紹介いただいた「ブックレット」を創刊いたしました。そして、1学期に1号ずつ発行してきて、現在通巻6号で、この4月には第7号が出ます。創刊する前に散々、「年に3回冊子を発行することはそう簡単なことではない」と言われました。はたして先生方は書き続けることができるか?という話です。でも、私は附属盲学校に赴任して先生方と話をしてきて1つの確信がありました。先生方の中にちゃんとセンターとしての意識があり、教科教育は自分たちが担っていくのだという覚悟がある。しかも、先生方の中に書きためた資源、あるいは書きたいという欲求もある。このため、5年ぐらいは本校の先生方だけでも何とかなるだろうと思っておりました。元々これは、教科のネットワークをめざして創刊されましたから、やり続けることによって、全国の研究者や盲学校の先生方の研究報告や原稿を集めながら、誌上討論し、提案していくこともできる。そこで、まずは自分たちができるところからやっていき、だんだんと附属盲から外部の先生たちに増やしていくという編集のやり方を考えたのです。そして実際に、内容が充実しながら継続できているのは、ありがたいことです。そのことが附属盲の役割と、今後の見通しを端的に表しています。研究者や研修を必要としている先生方あるいは地域にいる一般教育の先生方、そうした人たちとのネットワークを組んでいく。そうしたつながりの輪をつなぐ役割も本校の仕事です。先ほど申し上げました「ネクスト50」の将来構想、私どもは視覚障害教育に関しては、教科教育がきちんとされている学校が必要だということを、今後50年を見据え、教育界がどう変わっても、あるいはインクルーシブ教育が進んだとしても、盲学校教育は必要だということを訴えたつもりです。
  本誌:たしかに附属盲は世界のセンターの1つですね。鳥山先生はインドでも研修会を開催されていますね。
  皆川:はい。それにタイ、韓国、英国でもなさっています。
  本誌:ところで、特別支援教育になって教員免許も変わりました。附属盲は問題ないわけですが、公立の盲学校では特殊教育の教員免許を持っていない先生方がたくさんいて、それで点字を知らないで授業を行っているという現実が昔からあります。これは特別支援教育になっても、実態は変わっていませんし、子どもがいないという現実もあります。そうすると盲学校の必要性はわかるとしても、インクルーシブ教育に移行せざるを得ないという側面もあります。これに関しては、どう考えるべきなのでしょうか。
  皆川:私は盲学校長会の会長が7年と長かったので、これに関しては言いにくいところです。ただ、盲学校で「盲免(盲学校教員免許)」を持たないで、教えている教員がたくさんいたのは、国の施策の問題ですね。もう一つは視覚障害教育についていえば、実は「盲免」があることよりも、教科の力がなければ、視覚障害教育はどんどんレベルが下がっていくのです。「盲免」に類する問題に関しては、現場の実践によって力をつけていくということが大事です。ここにきて特別支援教育免許状というのは、いわば社会の要請ということになります。今はまだ必須ではありませんが、今後は教科の免許状と、特別支援教育免許状の2つを持つ必要があります。視覚障害教育の部分に関しても、たとえば英国などでは、ほとんど大学院で視覚障害教育の専修免許を取ることになっております。今後はそうならざるを得ないでしょう。もう一つは、私は盲学校をいくつも歩いてきましたが、専門性に関する研修はやろうと思えばできるんです。私が葛飾盲学校で教務主任をやっていたとき、校長は小林一弘先生でした。初任者や他の障害から転任してきた先生に対して、今の初任者研修は校内研修300時間ですが、私はその前から校内研修を500時間やっていました。その中で、亡くなられましたが竹村久子先生等に指導をお願いして、点字は5月の連休が終わって、1学期の中間テストをやるときには、とりあえず自分で問題を作れるぐらいの点字の力を身につけさせました。特別な時間は無くても、工夫して視覚障害に必要な研修というのは、もっと内容を充実させていくべきなのです。他の障害からきた先生方は、視覚障害教育の魅力になかなかたどり着かないのですが、しかしこの校内研修を継続していくと、だんだん魅力に気づきます。また、本校の場合はできるだけ大学院に行きなさいとか、学会にできるだけ全員が出るように勧めております。
  本誌:一方この「ネクスト50」の最終報告書を読みますと、附属盲のスリム化についても触れられております。先ほど話題になりました特別学級2クラスが統合キャンパスに移行し、鍼灸手技療法科が6学級から3学級になり、音楽科が2学級から複式1学級になり、理学療法科は「筑波技術大への移行には賛成しないが、余儀ない場合は、生徒定員の確保を提案」となっています。巷では、鍼灸手技療法科も筑波技術大に統合していいのではないかという声も聞きます。職業教育の部分については、今後どうなるのでしょうか?
  皆川:全国の盲学校のセンターとしての本校の役割の中に、職業教育の部分もあります。公立の盲学校ではできにくいことに関して、発信していくという役割があるのです。筑波技術大が、短大から4年制の大学になった段階で、附属盲と理療科教員養成施設と筑波技術大の3者は、同じ国立大学法人として、やはりお互いの良さを生かすような方向性を探らなければいけない時期にきました。筑波技術大もそうですが、本校も職業課程は定員割れです。そうすると3者がそれぞれ並立して、将来の見通しを描けるかというと、「描けない」というのが結論なのです。そして、職業教育に関する教員養成をする部分については、大学・大学院レベルで教員養成を行うべきで、これは3者で協力して、筑波技術大をわれわれも支える必要があるのです。ただその移行は、徐々に行う必要があります。本校の理療科も全国の盲学校に大事なものを発信してきて、現に存在するわけです。例えば、教員養成の課程で教育実習をする場を提供する、この分野に関して先導的な実験研究を行い発信する等、本校の鍼灸手技療法科も1クラスは残したのです。その点、理学療法科はその構想が描けませんでした。ただ、これはまだ計画段階なので、実際に動き始めたら紆余曲折があるかも知れません。筑波大、筑波技術大、附属盲が連携、あるいは部分的には融合していかないと、視覚障害教育そのものがだめになってしまいます。筑波大には障害科学系(旧心身障害学系)という障害に関する研究部門があり、たくさんの研究者がおりますが、視覚障害に関する研究者は相対的にとても少ないのです。今度、河内先生(河内清彦教授)が学系長になられました。その障害科学系とも連携して、また職業教育に関しては、筑波技術大と連携して視覚障害教育に関する部分は、ますます集約化しないとレベルの高いところで、将来を展望することはできなくなります。気がついたらレベルが下がって自己崩壊するようなことは、絶対避けなければなりません。この時代に、この仕事に携わる教育者なり研究者は、その責任があります。この「ネクスト50」は、基本の考え方を示したプランなのですが、具体化できるように学校の中でも盛んに議論し、アクションプランに持って行く必要があります。現在、統合キャンパスのところだけアクションプランを、佐島毅(サシマ・ツヨシ)先生等准教授の先生方を中心にした推進委員会で、練っていただいているところです。それと同時に、今後各附属学校の将来構想について、より具体的な検討を進める必要があります。
  本誌:附属盲にはいろいろな教科の研究会がありますね。理科の研究会とか社会科の研究会とか?
  皆川:ありがたいですね。これは皆さんに広く知っていただきたいし、ご協力いただきたいし、ご指導いただきたいことです。先ほど福山さんはアカデミックな教育ということを言われました。もはや1つの学校だけで視覚障害教育が完結する時代ではなくなっています。日本中の盲学校が役割分担して進めていかなければならない。そのために「ブックレット」は「教科の連携ネットワークのために」を、キャッチフレーズにはじめました。それと同時に、そこに投稿されたり、提案されたものも含めて編集します。理科は日本視覚障害理科教育研究会として、もう30年からの歴史があります。
  本誌:実は理科教育研究会については、もう一昔以上も前のことですが、鳥山先生に誘われて、私も参加したことがあります。
  皆川:そうでしたか。理科の研究会はこの2月に、2日間の講座を終えたばかりです。それで、参加された先生方の「ここに視覚障害者の理科教育の本質に迫る実践があった」という感想をたくさんいただききました。この素晴らしい実践を他の教科でもということで、日本視覚障害算数・数学教育研究会、事務局長は本校の高村先生、同様に社会科は岩崎洋二先生や青松利明先生がやってくれている日本視覚障害社会科教育研究会。今、30数年変わることのなかった点字地図帳を新しくしたいと研究を続けております。範囲と基準を地図に示した画期的なものになる予定です。これに点字教育研究会があるのですが、これとは別に、「国語教育研究会」に発展すればいいなと思っております。また、来年度は、英語教育の研究会が組織できたらいいなと考えているところです。以上が教科についてですが、領域に関しては自立活動の研究会と、これは特総研(国立特別支援教育総合研究所)にありますが、日本弱視教育研究会もあります。そことのタイアップも、今後重要になってくるでしょう。特に弱視教育に関しましては、地域にもっともっと発信していく必要性があります。それと今、拡大教科書が課題になっていますね。本校の先生方も何人か関係しておられます。このように各教科と領域に関しまして、それぞれ研究会を立ち上げながら、今後の日本の視覚障害教育の中で役割を果たしていきたいと考えているところです。
  本誌:これも「ブックレット」を創刊された先生のお力があってのことだったのですね。
  皆川:いやいや、いつも私が学校の中で口を開けば同じことを言って騒いでいるので、「しょうがないから、やるか」と先生方がやっているのが実情です(笑い)。
  本誌:去年の今頃でしょうか? 特別支援教育に変わると視覚障害教育に関しては、暗黒時代が来るような印象があったのですが、お話を伺っていて、少しは明るい兆しが見えてきたのかなと思いました。
  皆川:この最終まとめは、国内外に対する筑波大の特別支援教育に対する回答でもあるのです。私たちはそれも込めたつもりです。特殊教育には特殊教育の限界がありましたが、特別支援教育にも、これもまた十分ではない部分があるのです。それではインクルーシブ教育であればそれでいいのかというと、理念としては正しいのですが、視覚障害を持つ子が、健やかに育っていくにはやはり仲間が必要であり、視覚障害教育の専門性を持つ教科教育、領域の力が必要です。それらと同時に他の障害、あるいは障害のない人たちとの交流による経験というものを積み重ねながら、障害があるものとして、なおかつ、その障害を活かしながら、自分の生涯を切り開いていくような力を育てていかなければなりません。視覚障害教育は特別支援教育の中でもマイナーですから、われわれの側から歯止めをかけておかなければ、どこかで雪崩現象が起きます。そこで視覚障害教育の研究者たちは、この1月5日に鳥山先生を代表に「『視覚障害に対応する教育を専ら行う特別支援学校(盲学校)』の必要性に関する緊急アピール」というものを出しました。ご存じでしたか?
  本誌:いいえ、知りませんでした。以前の附属盲のホームページに皆川先生が「盲学校の必要性に関する緊急アピールが訴えるもの」と題して書いておられましたが、あれとは違うのですか?
  皆川:あれは平成17年1月に、これからの視覚障害教育を考える懇談会が出したものですが、あれに重ねたものです。今年度から特別支援教育が始まったことで見えてきたことに危機感を持った研究者たちが、さらに緊急アピールを出したのです。鳥山先生が日本特殊教育学会の理事をなさっているので、先生に代表になっていただきました。
  本誌:学校長のお立場で緊急アピールを出すことに困難は感じませんでしたか?
  皆川:公立校の校長をしていたときは、それはできませんでした。しかし大学法人ですので比較的自由に発言できるのです。他のことはともかく、こと視覚障害教育に関しては、この立場を活用して積極的に発言すべきだと思っております。
  本誌:本日は長時間ありがとうございました。3月11日の先生の退職記念講演を拝聴に伺いますので、楽しみにしています。
  皆川:何で知っているの、内緒にしていたのに(笑い)。
  福山:筑波大のホームページに大きく出ていますよ(笑い)。
  皆川:いや、気が重くてね。辞退したいといったら、「次の人が困りますから」と言われて断り切れなかったんですよ。
  福山:また、本日はおいしいコーヒーをいただききまして、ありがとうございました。

社会起業家の挑戦
オフィスマッサージで障害者の職業自立をめざす田辺大さん

 《最近、新聞、雑誌、テレビなどで社会起業家の特集が良く取り上げられる。田辺大(ユタカ)フォレスト・プラクティス代表は、現在日本で注目されているそんな社会起業家の1人だ。盲ろう者や視覚障害者のマッサージ師が定期的に企業を訪問して施術するオフィスマッサージの「手がたり」(注)を、東京都内で展開している。2月27日午後、「手がたり」が事務所を置く、東京都文京区の共同オフィスの一角で田辺さんから話を伺った。取材・構成は本誌編集部戸塚辰永》

きっかけは震災ボランティアから

 田辺大さんは、1970年(昭和45)生まれの37歳で健常者。いわゆるどこにでもいるような子どもとして、さいたま市で育った彼は、大学に進学すると、夏はテニス、冬はスキー、夜は居酒屋でのバイトに明け暮れた。そんな平凡な日々が様変わりしたのは1993年(平成5)7月の北海道南西沖地震を契機としてであった。震源地に近い奥尻島では地震と津波による死者・行方不明者が230人、加えて直後の火災でおよそ400棟が消失し、島は一瞬にして焼け野原とがれきの山と化した。当時大学4年生だった田辺さんは、知り合いのつてを頼ってすぐさま現地入りし、5カ月間ボランティアとして住み込みで被災者を支援した。
  その当時のことを彼は、「それまで普通の大学生でしたが、1夜にして難民に変わってしまうという人間のもろさを、まざまざと現場で見聞し、色々考えることがありました」とこれがどうやら「手がたり」の原点となったようだ。当時はNPOなどという言葉すらなく、ボランティア活動で生活できるはずもなく、田辺さんは大学卒業後、日野自動車に就職した。
  奥尻島での体験を心の奥に抱えつつ働いていた1995年1月17日未明、兵庫県南部地震が発生。この未曾有の大規模災害は、その後、政府により「阪神・淡路大震災」と命名されることになる。週末に現地に駆けつけた田辺さんは、被災地で必要なものはトラックだと直感した。そこで帰るやいなやアポなしで社長室に押しかけ「社長!日野のトラックを被災地に送ってください。今こそ会社が社会に貢献するチャンスです。日野のロゴの入ったトラックが走れば、企業のイメージアップにもつながります」と直訴した。残念ながら彼の熱意は社長には届かなかったが、その行動力は瞬く間に社内で話題になった。彼は当時を振り返り、「入社間もない社員が、社長を捕まえて説教するなんて組織としてはとても使いにくい社員だったでしょうね」と苦笑いした。
  日野自動車で5年、外資系のケミカルメーカーに1年勤めた田辺さんは、「30代はエキサイティングな仕事に挑戦したい」と考え、そのためには「外資系のコンサルティング会社が能力を引き延ばしてくれるはず」と思って転職。そこでの業務は、大手企業を相手に経営の合理化・効率化を提示し、企業利益の最大化を追求するもの。「今は就職口を増やす仕事なので、当時とは対極に位置しますね」と笑う。
  コンサルティング会社ではマレーシアでのプロジェクトにも参加、発展途上国に関わる仕事に携わり、ある程度エキサイティングな仕事も出来た。しかし、睡眠時間は1日2、3時間。激務を続けた彼は、とうとう2002年の夏に肩や頭の激痛で夜中に目が覚めるようになった。「普通コンサルタントは先々の見通しをつけて、次の行動を起こす人が多いのですが、とにかく一旦仕事を辞めて中長期的なことを考えよう」ときっぱりと退職。そして、彼は知り合いの紹介で南米・エクアドルのコーヒー農園を訪問するエコツアーに参加したり、米国・ボストンの英会話学校でビジネス英語を学ぶなど、4カ月間にわたる自分探しの旅に出た。
  英会話学校の近くには、ハーバード・ビジネス・スクールやケネディ・スクールといったハーバード大学の大学院があり、そこでは世界中のエリート留学生が学んでいた。文化、宗教も異なる学生たちの刺激的な会話の中で、彼は「ソーシャル・アントレプレナー(社会起業家)」という耳慣れない言葉に出会い、それが社会の課題をビジネスで解決する人たちのことだと知った。「これまでは、政府が税金を使って問題を解決しようというスタンスをとってきましたが、どの国の政府もお金がありません。そうすると、商人の知恵と活力に期待しようという訳なんですね。つまり、福祉だとか、環境問題だとか、子どもの教育だとか、過疎化の問題だとか、そうした社会の課題をお役所ではなくて、ビジネスの手法を用いて解決しましょうということです。それが社会起業家の役割なんです」と解説する。
  2002年当時、日本にも社会起業家はすでに存在していたが、その大部分は市民運動あがりであったため経営には無関心か、距離を置く人ばかりで、食べていけないで苦労していた。一方、田辺さんはコンサルティングの経験や知識を、経営改善に活かせるのではないかと考え、2003年1月に社会起業家を対象としたコンサルティング会社のフォレスト・プラクティスを日本ではじめて起業した。
  彼が最初に手がけた仕事は、フェアトレード。これは、発展途上国の生産者にあらかじめ対価を保証して物を仕入れ、貿易をする形態をいう。田辺さんは、フェアトレードで仕入れたコーヒーを焙煎・販売する会社の経営コンサルティングを手がけた。その会社は、NPOで活動してきた20代半ばの青年2人でやっており、経営はずぶの素人。しかし、事業の将来性に希望を感じたので2005年まで経営をアドバイスした。すると、業績も倍増し給与はなんと5倍になった。「これで社会起業家では飯が食えないことはないと実感しました。実際、去年その会社の代表がついに結婚して、家庭を持てるようになりました」と嬉しそうに語る。田辺さんは、いくつかのNPOの事業経営のコンサルティングをし、そのノウハウを身につけたのだ。

妹の結婚と「手がたり」の始まり

 田辺さんには弟と妹がいる。妹は福祉の仕事をしながら、盲ろう者友の会で通訳・介助ボランティアをしており、2001年の4月、「友の会で知り合った盲ろう者と結婚したい」といきなり切り出され、びっくりしたという。それまで田辺さんは、障害者に接したことはなく、盲ろう者という言葉自体そのときはじめて知った。当然、結婚にあたって家族の中で嵐が吹いた。しかし、彼らに子どもが授かると共に、家族も丸く収まった。そういう経緯で、それまで縁の無かった盲ろう者と話し合う機会が出来た。
  フォレスト・プラクティスを起業した2003年、田辺さんは盲ろう者とお茶を飲みながら話していたら、「ほとんど仕事がない」という切実な声を当事者から聞いた。なぜかと尋ねると、盲ろう者の場合は目と耳に障害があるので、通訳・介助者が必須だと、就職活動時に話すと、企業の人事部は、それならコストが2倍になるので、1人で勤務できる人を雇用しましょうという話になるのだ。田辺さんは、こうして改めて盲ろう者の社会参加の厳しさを知った。
  現在、妹には2人子どもがおり、盲ろう者の問題は、田辺さんにとっても家族の問題となった。盲ろう者自身も自治体などに、雇用に取り組むよう働きかけているが、なかなかすぐに雇用には結びつかない。そこで、田辺さんは、それだったら盲ろう者が働ける場を作ろうと思い立つ。「社会の課題を解決するのは社会起業であり、今こそ出番だ」と考えたのだ。
  田辺さんは、盲ろうの義理の弟である渡井秀匡(ワタイ・ヒデタダ)さんと同じく盲ろうである藤鹿一之(フジシカ・カズユキ)さんの3人で、2004年1月に事業に関する話し合いをはじめた。そこで、盲ろう者は健常者に比べて指先の感覚が繊細であり、その特色を生かした仕事のマッサージが出来ないかという話になり、フェアトレードのコーヒーを出すカフェとマッサージを提供する店舗を思いつく。そして、ある団体からも助成金をもらうことも出来、JR中央線西荻窪駅近くに物件が見つかり、開店準備に取りかかった。そんな矢先の2005年5月、融資交渉をしてきた金融機関から、突然「前例がない」と通告され、カフェ計画は頓挫してしまった。
  「やっとこれで風穴が開くんじゃないかと夢を賭けてくれていた盲ろう者や通訳・介助者たちに解散せざるを得ないことを伝えたときは、本当につらかった」と彼は言う。そして、開店スタッフを予定していた盲ろう者の星野厚志さんから、「これで盲ろう者が働けなくなるのか」と言われ、彼は「元手がかからない訪問のマッサージにはまだ可能性がある」と応じた。すると「手弁当でもいいからそれに賭けてみたい」という、切実な声が聞こえた。星野さんの熱意に突き動かされた田辺さんは、2人で社会貢献に熱心な企業なら訪問マッサージを受け入れてくれるかも知れないと、企業巡りをはじめた。社会貢献のセミナーにも出向いて訪問マッサージをアピールしたものの、必ず通訳・介助者がつくと、コストが2倍になることが指摘された。
  「まず、会ってくれませんでしたね。また、会ってもらった場合も話は厳しかったのです」と言う。ひたすら地べたをはいずり回るような、苦しい状況が約1年間続いたある日、心配した知り合いが「企業は敷居が高すぎるし、新しいことに取り組むのには時間がかかるから、個人をターゲットに、月1、2回のマッサージイベントをしては」と提案してくれた。そこで、2006年1月、現在のオフィスを月に1回借りてマッサージイベントを何回か開催。しかし、こうした試行錯誤の結果、景気のいい頃とは違って個人消費は落ち込んでいるので、待っていても客はこない。ましてやマッサージ業界は値崩れが起こり、これでは盲ろう者が妥当な給料をもらうような状況にはないと田辺さんは判断。企業を相手にする方が、まだビジネスチャンスがあると、またもや軌道修正。
  そして、2006年5月、カネボウ化粧品の子会社の(株)エキップの担当者と面談し、これが契機になった。「前例がないということであれば、やってみよう」という話になったのだ。早速、翌朝には採用決定を知らせるメールが届き、翌月から月2回のオフィスマッサージが始まった。当初のマッサージは1人10分で、21枠分の予約はすぐに埋まった。その日、仕事を終えたスタッフ全員が、「盲ろう者が働けないというのは嘘だった」と実感した。そして、マッサージを受けた感想を聞いたところ、「はじめて社内に癒しの風が吹いた」とか、「社内にいながらにして会議室でマッサージが受けられるのは本当に助かる」などと、大好評だった。
  手応えを感じた田辺さんたちは、他社にも早速アタック。しかし、「その会社がちょっと変わっているんじゃない」、「就業時間中にマッサージなんて、とんでもない」と断る企業ばかりで苦戦した。そんなとき「手がたり」に関心を示してくれたのが新聞やテレビ。社会貢献にもなるし、従業員の病気予防にもつながるものとして紹介してくれ、流れが変わった。
  オフィスマッサージは、従業員数20人から約200人の中小企業を、月に数日訪問し、マッサージ施術を行うという形態をとる。「中小企業は、大手企業のようにマッサージ専用の部屋を作って、ヘルスキーパーを常勤雇用できません。けれども、従業員は疲れています。会社が成長するためには、人に投資しなければ成長は期待できません」というのが殺し文句。そして、新聞やテレビを見て関心を持った中小のIT企業などから問い合わせが相次ぐ。こうして、「手がたり」をはじめた当初は、従業員の給与は1、2万円しか出せなかったが、昨年(2007)夏には6万円。導入する企業が10社を超えた今では15万円を超えた。
  さらに事業を軌道に乗せ、一段と飛躍するきっかけは、2007年1月に名古屋で開かれた日本産業ストレス学会に参加し、産業医や心療内科医など心の健康についての専門家と出会ったことだった。それまで、田辺さんたちは、社会貢献を切り口に営業を行っていたが、学会後からメンタルヘルスの面からオフィスマッサージをアピールすることに営業方針を転換した。
  現在の「手がたり」事業は、法人や団体を訪問し、施術するオフィスマッサージ事業と、最近取り組みはじめたヘルスキーパー事業の2つ。オフィスマッサージは、前日に組み立て式のマッサージベッド等を宅配便で企業に送り、翌日会議室に設置する。設置準備は20分で済み、10時から18時まで施術、そして機材を解体・発送する。
  「手がたり」では施術者の他に、コンダクターと呼ぶ健常者を1名同行させる。コンダクターの役割は、マッサージ師の移動・介助の他、盲ろう者には指点字通訳、マッサージ室の設営・予約管理、接客。普通、障害者を雇用すると、他の社員にある程度の負担が生じる。その点、「手がたり」ではコンダクターが、その分の負担を代行する。田辺さんと共に外資系のコンサルティング会社で働き、昨年8月から「手がたり」事業の現場を統括する菊池健(タケシ)さんは、「手がたり」では施術者とコンダクター2人で接客する形をとることが特徴だと話す。
  現在「手がたり」で働くマッサージ師は、正社員が1名(視覚障害者)、アルバイトが3名(盲ろう者2名、視覚障害者1名)。コンダクターは専任が1名で、登録アルバイトが約10名。会社としては障害者と同時に、健常者の職域開拓も進めているという。
  ヘルスキーパー事業をはじめるようになったのは、オフィスマッサージを通じて企業との関係が構築されると、ある程度の規模の企業から「お宅のマッサージ師を雇用したい」という要望を受けるようになった。その背景に障害者雇用促進法の雇用率達成のためにヘルスキーパーを雇いたいという理由がある。
  しかし、「ヘルスキーパーは全国で約1,000人、関東地区だけでも約400人おり、求人は増加していますが、ヘルスキーパーに対する認識はまだまだ低い」と菊池さんは言う。先進事例等を分析した菊池さんは、「同じ三療でも、治療院、サウナ、病院、特養などそれぞれスキルが異なる。同様に、オフィスでマッサージをすることは、内容や技術も全く違います。しかし、企業の人事部は、そういう違いがわかりません。また、三療業の人たちもオフィスマッサージのイメージにとまどいもあるので、ノウハウを持った我々が橋渡しをしています」と説明する。
  「手がたり」では、東京・中目黒の障害者の人材紹介会社と提携して、ヘルスキーパー事業を展開しはじめた。また、視覚障害者へのIT機器販売を手がけるアットイーズの稲垣吉彦社長にも依頼。失明前銀行員としてのキャリアを持つ稲垣社長は、企業、視覚障害者双方の気持ちがわかり、提案が出来る。「手がたり」では企業での定着化支援やヘルスキーパーへの技術向上のための勉強会なども計画してサポートする予定だ。「手がたり」としてのヘルスキーパー第1号の契約に向けて、現在大詰めを迎えている。
  「手がたり」は田辺さんと星野さんでスタートした事業だったが、昨年4月から社員を増やし、組織化を進めている。「1つの企業なので、提供する技術やサービスの質の均一化が必要だと訴え、それを理解してもらうのに苦労しました」と菊池さん。また、コンダクターの意識を改革するのにも大変だったという。菊池さんは、立場上マッサージ師に注意しなければならない。当初、コンダクターから「かわいそう」という言葉が良く出た。しかし、会社なので、社会人として勉強して欲しいところ、技術面で不足しているところは厳しく指摘する。菊池さんは、あくまでもビジネスパートナーとして接するようコンダクターに要望しており、「自分自身の意識も変えなければならず、人間としても成長させてもらった」と語る。
  オフィスマッサージを導入した企業の反応は、「会社もいいことをやってくれる」という社員の評判があがり、会社への帰属意識の向上につながっているという。また、中には、一生懸命働いている障害者と話して感動したという感想などもあるという。
  障害者が「手がたり」に参加して、より仕事に前向きに取り組むようになったという。ある場面では、予約表を見た星野さんが10分のマッサージよりも30分のマッサージを予約する人が増えたことに気づき、「これではマッサージを受けられない人が出てくるから社長に直接話してみたい」と言い、無事交渉に成功。施術日数も月2日から4日に増やしてもらった。それを聞き、「これこそ社会起業家の精神が身に付いてきた証拠」と田辺さんは喜んだ。
  取材の最後に、田辺さんは、「なかなか社会に出るチャンスが無くてもがいている人も少なくありません。壁に阻まれてさいなまれている人もいます。しかし、その壁をドアと見ると、新たな展開が生まれるはずです。『手かたり』は、障害者由来の全く新しく生まれてきた事業です。これまでの福祉とは違って、健常者が場作りをしてくれるものではなく、自らがやっていくものです。興味を抱いた方はぜひ連絡してください」と述べた。フォレスト・プラクティスの連絡先は、電話03-3815-6667。
  (注)手がたりとは、指点字や触手話といった盲ろう者のコミュニケーション手段の総称で、事業名の「手がたり」はそこから命名された。

第2回就労支援講座

 視覚障害者就労生涯学習支援センター(井上英子代表)は、第2回視覚障害者雇用・就労支援連続講座を3月5日〜7日、東京都世田谷区の北沢タウンホールにて企業の人事担当者等を対象に開催した。今回のテーマは、業務開発・環境整備、新規採用事例、長期就労事例で、初日の模様を報告する。
  冒頭挨拶に立った井上代表は、同センターでは20歳代から50歳代の視覚障害者がパソコン操作技能やビジネスマナーを身につけ、2006年の開所からこれまでに30人近い受講生が企業に就職できたと成果を語った。続いて、ハローワーク飯田橋の遠藤和弘雇用指導官が障害者雇用促進法に関する基礎をレクチャー。次に視覚障害当事者として資生堂(株)人事部人権啓発グループの小笠原さゆり氏、ラックホールディングス(株)人材開発部の石山朋史(トモフミ)氏、(株)アメディア社長の望月優氏が登壇。小笠原氏は、できることと、できないことをはっきり認識し、できないことを相手に的確に伝えるのが肝心で、仕事ではちょっとした進歩を楽しむのが大事だと述べた。石山氏は採用業務を行っており、「視覚障害者は計画立案といった頭で考える仕事が向いている」とアドバイス。望月氏は、採用では、スキルよりもその人物が周囲と上手くコミュニケーションできるかを特に観るため、企業での視覚障害者の職場実習の導入を提案した。(戸塚辰永)

■ 編集ログブック ■

 皆川春雄附属盲校長・筑波大教授の最終講義「出会いに生かされる」が、3月11日午後4時から筑波大東京キャンパスで開催されました。敬虔なクリスチャンらしく、含蓄のある話が続いたのですが、圧巻は教員になる前に東京芝浦電気(現・東芝)に勤めていた頃の話。皆川青年は、新幹線など電車の設計技師をしており、そこに社長として乗り込んできたのは、後の経団連会長や臨時行政改革推進審議会の会長を務め、国鉄分割民営化などの立役者となった土光敏夫氏。「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」。わずか1年で経営難に陥っていた「東芝」を立て直した土光氏の謦咳に接した悩み多き皆川青年は、ある日裏高尾に行き、たまたま知り合った農家の手伝いをしながら1週間寄宿。そして、会社を辞める決意をして、その後教員の道を歩むことになったのです。この話を、目を潤ませながら先生は、あるときはしみじみと、はたまたある時は熱っぽく語られたのでした。
  今号をもちまして「ブレーメン」と「コラムBB」は最終回となりましたので、次号から新連載2本を開始します。ご期待ください。(福山)

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