昨年(2007)11月30日(金)東京教育大学附属盲学校(当時。以下「附属盲」)の恩師である有宗義輝先生が、64歳の若さで逝去された。彼は附属盲同窓会の副会長で、僕も理事として末席を汚していたことから、1年ほど前からお体の具合は側聞していた。その後、前立腺ガンに加えて喉頭ガンもあり、しかもあちこち転移して極めて深刻な病状であることも聞いていた。見舞いに行かれた附属盲の教師から、声が出ないのでコミュニケーションは難しい、と報告を受けていたので、見舞いを自粛せざるをえなかった。このため、訃報を聞いたときは、ついにくるべきものがきた、さらに、早く役員で見舞いに行っておけばよかった、と思ったのが、正直な実感であった。しかも、先生に教わり、共に運動に熱中したわれわれの青春の一時代が、一瞬鮮やかによみがえった一方、「戦友の死」と共に活動を振り返る相手が、またひとり失われたことをつくづく思い知ったのであった。
有宗さんの存在を強く意識したのは、僕が中学生のときに行われた附属盲の寮祭で、学生の彼が「目黒のサンマ」という落語をもじって、「目白のアンマ」という、とても愉快な寸劇の脚本を書き、かつまた、演じていたことであった。その後1970年の春に、僕は附属盲の専攻科に入学し、彼は僕の恩師となった。先生は1943年11月24日の生まれであるから、当時は26歳のばりばりの青年教師だ。病気のため2年遅れていたので、僕は当時すでに20歳。年もそれほど隔ててはおらず、そして先生も教師風を吹かせるより、先輩、あるいは「良きアニキ」としてわれわれに接してくれた。
理療科の教員としての有宗先生は、率直にいって、臨床に熱心な研究者タイプではなかったと思う。当時から酒とたばこが大好きで、そのためばかりではないだろうが、割れ鍋のようながらがら声であった。しかし、教え方は資格試験の合格を想定した、とてもツボにはまった実践的なもので、生徒にはわかりやすく人気があった。先生は、僕が代表を務めていた社会問題研究会が、当時頻発した目白駅からの転落事故を取り上げて「駅長交渉」を行った際には、自発的に参加して安全確保の要望もしてくれた。また、先生がはじめて担任を持たれたのは、僕の学年の一つ下であったが、このクラスは先生が病に伏されるまで、継続して同窓会を行っており、先生共々にぎやかに騒いでいた。
そんな友好関係が緊張したのは、1972年に起こった附属盲での学園闘争だ。先生は折悪しく生徒会の顧問で、生徒会行事のトラブルがその発端となったため、全校集会でわれわれにつるし上げられたのである。当時は「70年安保闘争」に象徴される政治の季節で、「先進的な」盲学校もそれとは無縁ではなかった。前年に起きた、京都府盲の闘争もしかりだ。まして、当時附属盲には、中途失明者で、大学で全共闘運動を身近に見てきた生徒が数人いたこともあってか、学園紛争は留年者まで出すような激しいものであった。
一方、有宗先生は教員のかたわら、日本大学の通信教育で法学を履修・卒業。生来の理屈屋ぶりにさらに磨きをかけた。おおざっぱな性格だったので、事務方には向いていなかったが、天性のアジテーターで、しゃべらせるとかっこよかった。大学を卒業後、授業や運動の合間を縫って、司法試験にも数度挑戦されている。時代がもっと下って生まれたのであれば、おそらく先生は理療科教師の道ではなく、別の道を歩まれたのではないかと僕は思う。
有宗先生は1996年1月1日から2001年7月31日まで、日本理療科教員連盟(理教連)の会長を務められているが、その前には事務局長、法制部長などを歴任。著作は2作あるが、その一つは『新あはき法解説』で、これもなるほどなあと首肯できる。ちなみに版元は東京ヘレン・ケラー協会である。
僕が、有宗先生と共に本格的に運動に関わったのは、筑波技術短期大学(技短)設立反対闘争を通じてであった。結局、同短大は1987年10月に3年制の国立大学として設立されるのだが、われわれが反対の烽火をあげたのは、それから9年もさかのぼる1978年のことであった。同年に「身体障害者のための高等教育機関」を作るための「調査会」が設置され、技短の設置構想が寝耳に水で明らかになった。僕は専攻科卒業後に、京都の大学に進み、そして、卒業と共に上京して間もない、1979年の10月に、筑波短大問題研究会を立ち上げた。理教連の「創立30周年祝賀会」を、中止に追い込んだのも、附属盲組合との共闘があったからだ。先生は、そのブリッジ役を担ったのである。
この技短設置反対闘争は、現在も語り継がれ、そして、その時の名残が今も完全に払拭されてはいない大闘争であった、といえるのではあるまいか。
その闘争がちょうど山場を迎えようという1982年には、青天の霹靂というべき別の大問題がもちあがった。早稲田鍼灸専門学校にあはき課程を設置するという問題だ。いわゆる「早稲田鍼灸問題」である。これに対してもわれわれは共闘した。僕は在野であったが、先生は組合や理教連を舞台に、誰にも止められない猪突猛進ぶりを遺憾なく発揮。なにしろ当時「盲界の四天王」の一角であり、「業界の天皇」ともいわれ、畏怖されていた芹沢勝助・筑波大名誉教授に楯突いたわけであるから、大変な軋轢が生じたのは想像に難くない。
先生はいわゆる理論家肌で、併せて正論を切れ味良くずばっと言う信念の強さを持ち合わせていた。このため、その意味では敵もあり、毀誉褒貶に晒されることも多かったのは残念なことであった。交渉の時など大声で理屈が得意な人だったから、一般には親分肌で強心臓と思われていたかも知れない。が、実際に身近に接して感じたのは、極めて繊細な心の持ち主で、気配りの細やかな人だったというのが僕の印象である。
先生は揺りかごから墓場までとはいかなかったが、それに近い幼稚部から附属盲専攻科の教員を退官するまでの、人生の大半を現在の筑波大学雑司ヶ谷キャンパスで過ごした稀有な数人の一人である。このため、附属盲には人一倍思い入れが強かったのではないかと推測する。その思いの強さ、母校愛、同胞愛が、時として大いに誤解されることがあったのも事実だろう。ともあれ、またひとり巨星墜つ。合掌!