THKA

社会福祉法人 東京ヘレン・ケラー協会

点字ジャーナル 2008年1月号

第39巻1号(通巻第452号)
編集人:福山 博、発行人:迫 修一
発行所:(社福)東京ヘレン・ケラー協会(〒169-0072 東京都新宿区大久保3-14-4
電話:03-3200-1310 振替口座:00190-5-173877) 定価:一部700円
編集課 E-mail:tj@thka.jp

はじめに言葉ありき「巻頭ミセラニー」
「新年快楽(シンニェン・クァイルー)」

 2008年8月8日から8月24日までの17日間、中華人民共和国の首都・北京で夏季オリンピックが開催される。それにちなみ今回は特に新年を中国語で言祝いでみよう。日本語の「快楽」には、本来の意味に加えて、官能的なニュアンスがあるので、新年の祝辞には差し障りがあるだろう。しかし、中国語ではよこしまな意味は毫もないので、新年快楽とは「新しい年が心地よく楽しくありますように」という純粋な意味だけだ。しかも、「新年快楽」は、新年が明ける前の「良いお年を」にも、新年が明けた後の「明けましておめでとう」にも使えてとても便利。もっとも、中国は旧暦で祝うため、本当の年越しである春節(旧正月)は、2008年は2月8日であるが。いずれにせよ、皆様にとっても「新しい年が心地よく楽しくありますように」、万事如意! 百事快楽!

目次

(新春鼎談)アジアにおける視覚障害者の職業自立
  アミンへの期待と今後の課題(藤井亮輔、山口和彦、指田忠司) ・・・・・・・・・・・
3
(新春インタビュー)会館を新築した「世視協」理事長出田敦子さん ・・・・・・・・・・・・
19
リレーエッセイ:私が将来を決める上で最も大切にしていること(小林千恵) ・・・・・・
24
7年越しの願い結実 セブン銀行はATMに音声ガイダンスを導入 ・・・・・・・・・・・・・
28
(特別寄稿)十七弦箏でバッハを日本初演(長尾榮一) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
30
コラムBB:ひげづらになったのはッッ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
32
感染症研究:上手に手洗いが出来ていますか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
35
福田案山子の川柳教室 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
40
知られざる偉人:法学研究と途上国の国家建設に尽力するH. ショラー博士 ・・・・
42
新コラム・三点セット(水谷昌史) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
46
大相撲:近代大関列伝その2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
49
ブレーメン:かくして僕は豚になった ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
52
ヘレン・ケラー記念音楽コンクール ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
55
読書人のおしゃべり:選定図書になった『教壇に立つ視覚障害者たち』 ・・・・・・・・・
56
時代の風:障害者扶養年金制度を都単独から全国運用へ、他 ・・・・・・・・・・・・・・・
58
伝言板:第1回シティライツ映画祭、ソーシャル・ファームに関する国際セミナー ・・・
61
編集ログブック:案山子先生の災難 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
63

(新春インタビュー)
会館を新築した「世視協」理事長出田敦子さん

 東京では珍しい路面電車の一つ、東急世田谷線の山下駅からほど近い、閑静な住宅街にNPO法人世田谷区視力障害者福祉協会(以下、世視協)はある。同会の理事長である出田敦子(イデタ・アツコ)さんは、新年を同会の会館でことのほか、すがすがしい気分で迎えることだろう。というのも、長年の懸案であった老朽化した会館を、昨年(2007)10月末に新築し、10月29・30日の内覧会には100人余りの関係者が訪れ、盛大に落成を祝ったからだ。
  取材の日、新築の玄関に、出田理事長自ら出迎え、木の香に満ちた会館内を案内してくれた。「当初は2階まで靴を履いたまま上がれるように考えていましたが、内覧会にいらっしゃった方々が、『木の床が汚れるのはもったいない』と口々におっしゃるので、スリッパに履き替えてもらうことにしたんですよ」とにこやかに語る。
  同会館は事務所と鍼灸マッサージ治療室を兼ねており、延建坪32坪の洋風2階建て。壁には漆喰を、床や階段には木材をふんだんに使っており、温かみを感じさせる。間取りは1階が施術用ベッド2台を備えた治療室、事務所、休憩室、そして2階には木製の扉で部屋を2つに仕切ることができる会議室とベランダがあり、それぞれの階にはキッチンとトイレも完備されている。また、ゆるやかなアーチを描いた2階の天井には天窓があり、階段が暗くならないよう工夫され、階段下は靴箱や物入れにしてあった。
  「使いやすい建物ができたのも、本当にいい建築士さんと知り合えたからです」と出田さん。「視覚障害者でも楽しめる庭造り」という世田谷区主催の連続講座に参加した彼女は、講座終了後に何人かの有志とともに「なずな」という庭造りのグループを結成し、時々作品を発表していた。そこへくだんの建築士がひょっこり訪れ話をした。その後、建築士は晴眼者ながら世視協に入会し、活動にも積極的だった。
  一昨年の2006年に会館の立て替えを決議し、昨年5月の総会で建物の取り壊しと新会館の予算が決まった。早速、以前大工をしていた会員や治療院経営者などが集まって建設委員会を立ち上げた。そして、週に1回会議を開き、知恵をしぼって視覚障害者が使いやすいように設計段階からじっくり話し合った。そして、そのつど「建築士さんが視覚障害者が建物をイメージしやすいよう、触図や模型を作って、丁寧に説明してくださったのです」と出田さんは満足そうに語る。ちなみに、この完成模型は1階の休憩室に今も大事に飾られている。
  建設には旧事務所の取り壊し経費も含めて3,000万円余りの費用がかかった。その費用は、以前盲老人ホームを建設する計画があり、古くからの会員たちがチャリティーなどにより集めた積立金と現会員から募った寄付金を使った。また、建てかえにあたっては、「三療業は競争が厳しいから治療室は止めようか」という意見も出たが、パソコンを使ったテープ起こしとは違って、やはり三療は特殊技能で、とりわけ中途視覚障害者の職業自立に欠かせないと考え、存続させることに決めたという。「現在、治療室では5人の会員が毎日交代で施術しており、中でも卒業2年目の方が、先輩の技術指導を受けながら働いています。私は三療の免許を持っていませんが、その方が、技術を習得して本当に社会復帰してくれればいいなあと思っています」と彼女は気に掛ける。
  出田さんは、太平洋戦争開戦間もない1942年(昭和17)4月6日、東京・巣鴨で生まれた。そして、生後2カ月で世田谷に移り住んで以来、ずっとこの地で暮らしている。私のぶしつけな質問に対しても、彼女は柔らかな口調で、感じよく答える。それもそのはずで、地元の高校を卒業した彼女は、1961年(昭和36)に最高裁判所の司法研修所に事務官として採用され、主に司法修習生からの問い合わせや相談を担当してきた。右目の異変に気づいたのは、仕事をばりばりとこなしていた40歳のころ、蛍光灯が滲んで見えたのがきっかけだった。そこで彼女は、近所の眼科を受診すると、虹彩炎と診断され、症状は一旦良くなったかにみえたが、翌年ぶり返し、大学病院ではぶどう膜炎と診断された。点眼薬などで治療を試みたが、炎症は悪化と緩解を繰り返し、ついには両目に現れ、その上、白内障や緑内障まで続発。視力をほとんど失った出田さんは、休職し、自宅療養に入った。「目が見えないということよりも、目が痛むのがとても辛かったですね。ベッドから起きあがって食事をとっていると、痛みが増して冷や汗が出てくるのです」と闘病の苦しみを語った。そして、1985年(昭和60)司法研修所を退職したのであった。
  もともと読書家であった彼女は、「点字の本を1日でも早く読めるようになりたい」と意気込んで日本点字図書館に電話。教材を取り寄せて、点字を独習し始めた。「二十歳過ぎで失明した人は、点字を指で読むのは無理」と冷たく言う専門家もいたが、1日最低4時間は点字を触っていようと決め、毎日続けた。「当時、甥が小学生で点字の勉強を手伝ってくれたのですが、よく読むのが遅いと叱られたものです。しかし、そんなことも励みになりました」としみじみと当時を振り返る。
  体調が良くなって来ると、出田さんは点字を基礎からきちんと習いたいと思い、東京ヘレン・ケラー協会の点字講習会に通い、千葉一郎先生から分かち書きなど、点字のイロハを教えてもらった。「だから、私にとって千葉先生は恩人。世視協に入ったのも、この点字講習会の仲間が会員で、その方から誘われたから」という。点字板や触知式腕時計が支給されるといった福祉制度は以前から知っていたので「こうした制度が実現したのも先輩たちのおかげ」と思って、世視協に入会した。このため「最初は、名前だけの会員で行事にもほとんど参加しませんでした」と笑う。ところが、会員でもある治療院の先生から「点字を教えてみませんか」と言われて、1回だけならと世田谷区の点字講習会の講師を引き受けた。それがきっかけとなり、当時、世視協の会長であった笹川吉彦氏(現・日盲連会長)から、福祉専門学校での仕事を紹介してもらい、その後9年間いくつかの学校で点字を教えたという。
  点字講師の仕事をやりながら、世視協の理事でもあった出田さんは、「これも本当に名前だけの理事だったんです」と謙遜する。しかし、任意団体からNPOとして法人化された平成15年には副理事長に、翌年からは理事長に就任し、法人化や新築といった大仕事を粛々と成し遂げてきたのである。
  ただ、NPOになって区との交渉がやりやすくなった反面、事務作業が繁雑になったという。このため、パートタイマーで事務員を一人雇用し、出田さんもそれを手伝う。また、相談業務やテープのダビング等を行う同区内若林にある視覚障害者支援センターにも通うのでとても忙しい。
  「視覚障害者協会では女性の会長は、珍しいのでは?」という筆者の問いに、「そうでもないですよ。一昨年、都盲協で6カ所の支部長が交代しましたが、その内の5カ所は女性支部長です。ここ数年で、都盲協もずいぶん変わりましたね」と明るく答えた。
  インタビューの終わりに2008年の抱負を尋ねると、「とにかく、治療室を軌道に乗せることと、若い会員が入りやすい魅力ある会になるよう努力したい」と、凛とした姿勢で語るのが印象的だった。(戸塚辰永)

■ 読書人のおしゃべり ■
選定図書になった『教壇に立つ視覚障害者たち』

 2007年10月25日付で発行された標記の全国視覚障害教師の会(JVT)著作の本が、このほど日本図書館協会の選定図書に選ばれた。この選定図書とは、日本図書館協会より任命された各専門分野の選定委員約 50 名が、現物1冊1冊に必ず目を通して、公共図書館に適している本として選ばれるもので、年間6万点以上の新刊本のなかから平均16%の書籍が、その栄に浴する。
  『教壇に立つ視覚障害者たち』(日本出版制作センター刊、税込み1,200円)は、1980年代に発行された『こころが見えてくる』、1990年代に発行された『目が見えなくても教師はできる』に続く、JVT3冊目の著書で、「序」や「編集後記」も含めて都合22人の会員が寄稿した短文で構成されている。
  ご存じのように、わが国には盲学校等で教鞭を執る約750人の視覚障害を持つ理療科教員がいる。この職種は100年余の伝統があり、視覚障害者の有力な職種として確立されている。一方、英語や社会科といった理療科以外の教育職に関しては、事情が一変し、極めて困難な環境と立場を乗り越えて、教職に就いている例が多く、その数もいまだ少ない。なにしろ、JVTの会員は、現役の教職員に教職志望者を含めても約80人しかいないのだ。しかし、少ないとはいえ、視力の程度、教科の違い、同僚や校長や教育委員会の理解度、つまり本人の立場と職場環境は千差万別であり、同書に寄稿した先生方の体験記には、それぞれに切歯扼腕する当事者の人間ドラマが秘められている。
  視覚障害者が普通科の教員を目指す場合と、教員が中途視覚障害者となって復職する場合には明らかな違いがある。また、盲学校の普通科教師から一般校に転勤することを目指す人もいれば、一般校からなんとか盲学校にもぐり込もうとする人もいる。念願のサポートをしてくれる講師と共に授業をすすめるチームティーチングがかなって張り切る人もいる反面、チームティーチングのくびきから逃れ、単独授業ができるようになり、小躍りして教室に向かう人もいるなど、その人間模様もまた様々である。
  本書は、JVTの歴史・授業実践・クラブ活動・障害の受容とリハビリテーション・職場復帰・子ども観・教育観・安全教育・教師と教師集団の生き方を記すことにより、障害者と教育に携わる人々を対象に企画したものである。しかし、教育に直接関わりがなくとも、読み物としても十分感動できる1冊である。
  現在、ボランティアグループにより、デイジー版の収録が急ピッチで行われており、この春にも日本点字図書館よりリリースされる予定。(福山博)

■ 編集ログブック ■

案山子先生の災難

 転落の瞬間、1992年に自宅の階段から転げ落ち、本人は「なんでもない」といっていたが、数時間後に容態が急変、まもなく逝去した歌手の松尾和子(享年57)のことが、福田さんの脳裏をよぎったという。
  11月26日、本誌「川柳教室」の福田案山子(本名・守夫)先生は、自宅の2階への階段14段のうち、10段目あたりから、真っ逆さまに転落し、古い日本家屋の土壁に激突した。大きな衝撃音に気づいた奥さんが、すぐに救急車を呼んで、武蔵野総合病院(埼玉県川越市)に搬送された。集中治療室での診断の結果は、頭蓋骨のくも膜下血腫、肋骨の骨折、左橈骨の骨折、胸膜腔内の内出血で、すぐに酸素吸入を受け、点滴が施された。そして、「頭が痛くないか?」「吐き気はしないか?」と脳外科でしつこく聞かれた。それから12月9日までの2週間は、体を動かすと激痛が走るので、食事も看護婦さんのお世話になった。そして、2度目のCTスキャンで、血腫は見事なまでに消えたという。それまで知らされていなかったが、危うく頭蓋骨を開く手術を覚悟しなくてはならないところだったのだ。しかし、意外に早く頭蓋骨の中の血腫が吸収されたことで、福田さんの病状は劇的に改善したことは、不幸中の幸いであった。そして、車いすにも乗れるようになり、ナースセンターに行って、自分で食事もできるようになったという。
  12月10日(月)、出勤するとご家族からの連絡で事故の顛末を知り、その日の夕刻に私(福山)はお見舞いにうかがうことにした。
  病院の受付では、何者なのか、アポイントはとってあるのかなどの査問を受け、ようやく病室へと向かった。するとそこには車いすに座り、上半身と腕などが包帯でぐるぐる巻きにされた、痛々しい福田さんの姿があった。しかし、お話をうかがうと、想像以上にお元気で、いつも通りの80歳を過ぎているとはとても思えない、矍鑠たる話しぶりであった。しかも、事故の顛末を非常に客観的に語ってもらった。そして、我ながらやや鬼のような所行だとは思いながらも、その場で、私が川柳教室の投稿を読み上げ、原稿を口述してもらったのであった。

編集長より

 以上のような事情により、通常3ページの川柳教室が、今回は2ページになってしまいましたこと、お詫び申し上げますと共に、ご了解くださいますようお願いいたします。
  暮れも押し詰まってくると、なにかと気ぜわしくなり、割付の緊急変更に加え、予定していた原稿も思うように集まらずやきもきしました。それに長年愛用したパソコンは壊れるし、2007年は万事多難な、あまり良い年とは思えません。しかし、ここに来て「セブン銀行は全ATMに音声ガイダンスを導入」という、明るい話題も転がり込みました。何とかお正月を迎えることができそうです。
  皆様にとっても、きたる年が明るく平安でありますよう祈念いたします。(福山博)

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