東京では珍しい路面電車の一つ、東急世田谷線の山下駅からほど近い、閑静な住宅街にNPO法人世田谷区視力障害者福祉協会(以下、世視協)はある。同会の理事長である出田敦子(イデタ・アツコ)さんは、新年を同会の会館でことのほか、すがすがしい気分で迎えることだろう。というのも、長年の懸案であった老朽化した会館を、昨年(2007)10月末に新築し、10月29・30日の内覧会には100人余りの関係者が訪れ、盛大に落成を祝ったからだ。
取材の日、新築の玄関に、出田理事長自ら出迎え、木の香に満ちた会館内を案内してくれた。「当初は2階まで靴を履いたまま上がれるように考えていましたが、内覧会にいらっしゃった方々が、『木の床が汚れるのはもったいない』と口々におっしゃるので、スリッパに履き替えてもらうことにしたんですよ」とにこやかに語る。
同会館は事務所と鍼灸マッサージ治療室を兼ねており、延建坪32坪の洋風2階建て。壁には漆喰を、床や階段には木材をふんだんに使っており、温かみを感じさせる。間取りは1階が施術用ベッド2台を備えた治療室、事務所、休憩室、そして2階には木製の扉で部屋を2つに仕切ることができる会議室とベランダがあり、それぞれの階にはキッチンとトイレも完備されている。また、ゆるやかなアーチを描いた2階の天井には天窓があり、階段が暗くならないよう工夫され、階段下は靴箱や物入れにしてあった。
「使いやすい建物ができたのも、本当にいい建築士さんと知り合えたからです」と出田さん。「視覚障害者でも楽しめる庭造り」という世田谷区主催の連続講座に参加した彼女は、講座終了後に何人かの有志とともに「なずな」という庭造りのグループを結成し、時々作品を発表していた。そこへくだんの建築士がひょっこり訪れ話をした。その後、建築士は晴眼者ながら世視協に入会し、活動にも積極的だった。
一昨年の2006年に会館の立て替えを決議し、昨年5月の総会で建物の取り壊しと新会館の予算が決まった。早速、以前大工をしていた会員や治療院経営者などが集まって建設委員会を立ち上げた。そして、週に1回会議を開き、知恵をしぼって視覚障害者が使いやすいように設計段階からじっくり話し合った。そして、そのつど「建築士さんが視覚障害者が建物をイメージしやすいよう、触図や模型を作って、丁寧に説明してくださったのです」と出田さんは満足そうに語る。ちなみに、この完成模型は1階の休憩室に今も大事に飾られている。
建設には旧事務所の取り壊し経費も含めて3,000万円余りの費用がかかった。その費用は、以前盲老人ホームを建設する計画があり、古くからの会員たちがチャリティーなどにより集めた積立金と現会員から募った寄付金を使った。また、建てかえにあたっては、「三療業は競争が厳しいから治療室は止めようか」という意見も出たが、パソコンを使ったテープ起こしとは違って、やはり三療は特殊技能で、とりわけ中途視覚障害者の職業自立に欠かせないと考え、存続させることに決めたという。「現在、治療室では5人の会員が毎日交代で施術しており、中でも卒業2年目の方が、先輩の技術指導を受けながら働いています。私は三療の免許を持っていませんが、その方が、技術を習得して本当に社会復帰してくれればいいなあと思っています」と彼女は気に掛ける。
出田さんは、太平洋戦争開戦間もない1942年(昭和17)4月6日、東京・巣鴨で生まれた。そして、生後2カ月で世田谷に移り住んで以来、ずっとこの地で暮らしている。私のぶしつけな質問に対しても、彼女は柔らかな口調で、感じよく答える。それもそのはずで、地元の高校を卒業した彼女は、1961年(昭和36)に最高裁判所の司法研修所に事務官として採用され、主に司法修習生からの問い合わせや相談を担当してきた。右目の異変に気づいたのは、仕事をばりばりとこなしていた40歳のころ、蛍光灯が滲んで見えたのがきっかけだった。そこで彼女は、近所の眼科を受診すると、虹彩炎と診断され、症状は一旦良くなったかにみえたが、翌年ぶり返し、大学病院ではぶどう膜炎と診断された。点眼薬などで治療を試みたが、炎症は悪化と緩解を繰り返し、ついには両目に現れ、その上、白内障や緑内障まで続発。視力をほとんど失った出田さんは、休職し、自宅療養に入った。「目が見えないということよりも、目が痛むのがとても辛かったですね。ベッドから起きあがって食事をとっていると、痛みが増して冷や汗が出てくるのです」と闘病の苦しみを語った。そして、1985年(昭和60)司法研修所を退職したのであった。
もともと読書家であった彼女は、「点字の本を1日でも早く読めるようになりたい」と意気込んで日本点字図書館に電話。教材を取り寄せて、点字を独習し始めた。「二十歳過ぎで失明した人は、点字を指で読むのは無理」と冷たく言う専門家もいたが、1日最低4時間は点字を触っていようと決め、毎日続けた。「当時、甥が小学生で点字の勉強を手伝ってくれたのですが、よく読むのが遅いと叱られたものです。しかし、そんなことも励みになりました」としみじみと当時を振り返る。
体調が良くなって来ると、出田さんは点字を基礎からきちんと習いたいと思い、東京ヘレン・ケラー協会の点字講習会に通い、千葉一郎先生から分かち書きなど、点字のイロハを教えてもらった。「だから、私にとって千葉先生は恩人。世視協に入ったのも、この点字講習会の仲間が会員で、その方から誘われたから」という。点字板や触知式腕時計が支給されるといった福祉制度は以前から知っていたので「こうした制度が実現したのも先輩たちのおかげ」と思って、世視協に入会した。このため「最初は、名前だけの会員で行事にもほとんど参加しませんでした」と笑う。ところが、会員でもある治療院の先生から「点字を教えてみませんか」と言われて、1回だけならと世田谷区の点字講習会の講師を引き受けた。それがきっかけとなり、当時、世視協の会長であった笹川吉彦氏(現・日盲連会長)から、福祉専門学校での仕事を紹介してもらい、その後9年間いくつかの学校で点字を教えたという。
点字講師の仕事をやりながら、世視協の理事でもあった出田さんは、「これも本当に名前だけの理事だったんです」と謙遜する。しかし、任意団体からNPOとして法人化された平成15年には副理事長に、翌年からは理事長に就任し、法人化や新築といった大仕事を粛々と成し遂げてきたのである。
ただ、NPOになって区との交渉がやりやすくなった反面、事務作業が繁雑になったという。このため、パートタイマーで事務員を一人雇用し、出田さんもそれを手伝う。また、相談業務やテープのダビング等を行う同区内若林にある視覚障害者支援センターにも通うのでとても忙しい。
「視覚障害者協会では女性の会長は、珍しいのでは?」という筆者の問いに、「そうでもないですよ。一昨年、都盲協で6カ所の支部長が交代しましたが、その内の5カ所は女性支部長です。ここ数年で、都盲協もずいぶん変わりましたね」と明るく答えた。
インタビューの終わりに2008年の抱負を尋ねると、「とにかく、治療室を軌道に乗せることと、若い会員が入りやすい魅力ある会になるよう努力したい」と、凛とした姿勢で語るのが印象的だった。(戸塚辰永)